嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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神森竜義

相談は専門家に 2

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「進学する学校や将来の職業の強制……確かに、大半の生徒が該当しそうですね」
「ええ。それが虐待だと批判しても仕方がない状況なんです。彼らの多くは、なんとか折り合いを付けて自分の人生を受け入れ、その道を歩んでいます」
「分かります。俺も父から仕事を受け継ぐつもりですし……他の選択肢はありませんでしたが、やろうと決めたのも本当ですから。でも、それも虐待に分類されるものだったんですね」
 父から省みられなかった自覚はある。けれど、敷かれたレールを虐待だと感じたことはなかった。俯いてしまった氷川の肩に、松野が手を置いた。温かな体温が、制服の厚い生地を通してじわりと伝わってくる。穏やかな声が優しく鼓膜をくすぐった。
「必ずしも全てが虐待とは断定できません。良い人生を送って欲しいという思いが、過剰なアドバイスになることもよくあります。ただ、子供の意志を蔑ろにした時、それが虐待になりえる、ということです。氷川くんが虐待されていたとは言い切れません」
 松野が宥めるように肩を撫でる。言い含める言葉は慰めだろうか。氷川は三度、深呼吸をした。酸素を入れ替えると少し頭が冷える。嫌な動悸には、収まってから気付いた。気分は少し悪いが、気分が悪いと認識できるくらいには落ち着いた。
「分かります、お気遣いありがとうございます。ただ……なんというか……自分が親から受けてきた扱いが実は虐待かもしれない、というご指摘はとてもショッキングで、センセーショナルですね。彼に言わないほうがいい理由があらためて実感できました」
「嫌な思いをさせてしまってすみませんでした。コーヒー、カフェオレにしましょうか」
 氷川の前にあるマグを見て、松野が提案する。氷川は迷いなく頷いた。
「お願いします。こちらには電子レンジも電気ポットも冷蔵庫もあるんですね」
「相談者さんに快適な空間を作ったら、僕にとっても快適な空間になってしまったんですよねえ」
 苦笑して、松野が冷蔵庫から牛乳を取り出した。冷めたコーヒーにミルクを追加して、電子レンジで温める。
「昔のドラマか漫画みたいに、素行の悪い生徒のたまり場になったりはしないんですね」
「しませんねえ、そもそも素行の悪い生徒さんってこの学校いませんし」
「教室に行きづらい、とか」
 そう訊ねてみたものの、氷川は前に通っていた学校のカウンセリングルームを利用したことはない。そういうものがあること、週に三日程度はカウンセラーがいることは知っていたが、頼ろうとは思えなかった。大人が助けになるなど、あり得ないと考えていた。
 温まったマグを氷川の前に置き、松野が砂糖壺とティースプーンを出してくれた。ありがたく少し砂糖を足して、カフェオレをかき混ぜる。砂糖と牛乳の甘い香りがふわりと広がった。
「あまりないことですが、そういう生徒さんはそもそも学校まで来ることが難しいんです。寮の養護室や個室に伺うことはたまにありますよ、年に年回か、かな」
「でもこのくらいの学校になると、いじめとかはないですよね? 人間関係のトラブルならまた別でしょうけど」
「ええ、お友達と揉めたり、行き違ったり……あとはやはり、過度な期待と競争で疲れてしまうこともありますね」
 松野が少し悲しそうに言う。氷川は相槌も打てず、ただ頷いた。そうした状況は知っているつもりだ。それでも、倒れてしまえば転落しかないのだから、摩耗していく心と疲れ切った身体に鞭を打って、足並みを揃えて走るしかない。この部屋で泣き言をこぼせるのは、まだいいほうだ。
 本当にひどい状況の人間は、声を上げることもできない。助けを求める気力が残っていないか、その選択肢すらないか。助けを求めるべき状況だと知らないこともあれば、助けを求める相手を見つけられないこともある。けれど世界は、孤独に耐える者に手を差し伸べるほど優しくはない。誰にも見出されずに見捨てられていく者たちの全てを助けることは不可能だ。だが、それが個人ならば話は変わる。友人が声を上げず、手を伸ばすこともなく苦しんでいる時、見過ごすような人間ではいたくない。
 氷川はカフェオレを飲み干して、松野に視線を定めた。
「話を戻しますけど、虐待の可能性に触れるのは避けるとして、他に気をつけることはありますか? 他人との比較評価は避けたほうがいいかとは思いますが」
 この学院の生徒のメンタルヘルスの現状も、氷川自身の成り立ちも、神森の虐待の真実ですら、最重要の項目ではない。氷川が一番に必要な情報は、鮮明な背景ではなく、今現在のやり過ごし方だ。指摘してようやく本題から逸れていたと気付いたらしく、松野は少しばかり気まずそうに氷川を見返した。
「失礼しました。そうですね、それもですが、何よりも大切なのは氷川くん自身です」
「俺、ですか?」
 予想外の指摘に、氷川は首を捻る。松野は感情を込めて頷いた。
「ええ、大人を頼ってください。信用しづらいかもしれませんが、この学院の先生方は難しい生徒さんと接する経験を多くしてきていますし、きちんと勉強して、講習も受けている方ばかりです。もちろん僕も、微力ながら協力は惜しみません。ですので、大人を頼ってください。決して、あなた一人で全てを受け止めようとしないこと、自分の限界を見極めることが、何よりも大切です。とはいえ」
 言い止して、松野が薄く微笑む。
「氷川くんはこうして、ここに来てくれているので、大丈夫だとは思いますが」
「過去にそういう事例が?」
 含みのある言い方は、注意喚起、あるいは警告だと、言われずとも理解できた。誘導されるままに問いかければ、松野はあっさり頷く。
「相手への思い入れが深いほど、自分に自信があるほど、悪い方向へ行ってしまうこともあるんです。いつも冷静に、少しだけ距離を置いた視点を持つことを心がけてください。お友達が大切なら大切なほど、一緒に落ちてしまい易くなる、それを忘れないでください」
 はい、と圧されたように答える。神妙さは足りなかっただろうが特に追及することなく、松野は話を進めた。
「それ以外はあまり腫れ物に触るようにせず、普段通り、いつも通りで構いません。ただたとえば、何か打ち明けられるようなことがあったら、共感を示してあげてください。できれば心からの共感を」
「共感ですか……努力はしてみます」
 改めて言われると、共感とはどういうことなのか考えてしまう。氷川の迷いを読み取ったのか、松野が苦笑した。
「共感は、受容と肯定です。要するに、それは悲しかったねとか、つらかったねとか、嫌な思いをしたんだねとか、そういう反応が共感を示すものです。氷川くん自身が同じように苦しんだり、怒ったりする必要はありませんし、彼が受けた仕打ちの意図を推測したりもしないほうがいいでしょう」
「噛み砕いた説明をありがとうございます。意識してみます」
「お願いします」
「はい。いい時間ですし、そろそろ失礼しますね。コーヒー、ごちそうさまでした」
 聞くべきことは聞けたと、音も無く針を回す壁掛け時計を一瞥し、いとまを告げる。随分と話し込んでいたようで、そろそろ教室に人が集まり出す頃合いだ。窓の外は相変わらず薄暗いが、太陽も徐々に昇ってきているはずだった。同じように時刻を確かめた松野が、送り出す表情になった。
「お粗末様でした。それから、氷川くん自身の相談もいつでも受け付けていますから、気が向いたらどうぞ」
「……検討してみます。失礼します」
 礼をしてから席を立つ。業務的な雰囲気を感じさせない所作で松野も椅子を離れ、戸口まで送ってくれた。
「またおいでね」
「ありがとうございます」
 もう一度頭を下げて、廊下に出る。程よく暖かかったカウンセリングルームとは異なり、廊下はひどく寒い。これでも全館暖房が入っており、外よりは随分と過ごしやすい気温のはずだが、自然と肩が寄ってしまう。縮こまった身体をほぐすように大きく呼吸をしながら、氷川はゆっくりと教室棟へ向かった。
 自分のことを相談するつもりはないし、松野がそれに気付かないはずがない。敢えて見逃された敗北感に、舌にコーヒーの苦みが甦った。

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