嘘の多い異邦人と面倒見の良い諦観者たち

村川

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神森竜義

京都の夏 (終)

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「こんなに暑いと思ってなかった」
 上等な旅館の客室で、畳の上に座り込んだ氷川はうんざりと髪を掻き上げた。じっとりと湿っている気がする。その疲れ切った様子に、神森が苦笑いする。
「盆地の夏は蒸し暑いものと決まっていますからね、京都は地獄のように暑い夏と、地獄のように寒い冬の厳しい二つの季節に挟まれているからこそ、春や秋が賞賛されるのでしょう」
「正論だけど、正論じゃ快適にはならないよ……」
 慣れもあるのかさして疲れた様子もない神森に、見当違いの恨み言をぶつけてしまう。部屋は空調が効いていて快適だが、身体の中にまだ熱気が残っているような気がした。
 氷川も好きで夏の盛りの京都に来たわけではない。いくら神森が本家で修行しているからと言って、暑さで体調を崩す氷川はそうそう夏場には動けない。それでも京都に来たのは、目当ての大学のオープンキャンバスがこの時期に開催されるためだ。
 進学先を京都に在所する大学にしたいと申し出た時、氷川の両親はとても驚き、抵抗を示した。両親としては在学中から事務所を手伝わせ、仕事を覚えさせたいと考えていただろうし、氷川自身も元々はそのつもりでいた。だが、氷川の怪我の医療費や、それ以前の問題の示談交渉などで関わりのあった神森のたっての願いであること、神森が京都の会計事務所を紹介できると請け負ってくれたことが幸いして、京都の大学を受験できる運びとなった。これで神森の実家の料亭や、その界隈にも顔が売れるという思惑もあっただろう。
 新年度を迎え、神森は氷川と同じB組に昇級した。本当に叶うとはと神森は仰天していたが、彼の努力とその成果を考えれば不思議はない。生徒会執行部の組織は後輩に受け渡され、神森は引継後は監査委員会に属している。氷川も誘われたので、折角だからと参加している。所詮は生徒会と部活動の会計監査で、さして難しいものでもなかったのが幸いだ。
 ぼんやりと思い返していると、神森が氷川の隣に移動してきた。畳に懐いた氷川の額に、乾いた手が触れる。
「熱いですね」
「ん、でも熱とか、熱中症とかじゃないと思う。お風呂入ったらすっきりするんじゃないかな」
「食事の前にお風呂をいただきましょうか」
 障子の外はまだ白っぽく明るいが、夕食の時間まではあまり時間がないはずだ。
「いいよ、後で。気持ち悪くもないし、大丈夫」
「そうですか……無理はしないでくださいね」
 閉じた瞼を、神森の指先が撫でる。それがするりと頬へ滑り、耳殻をくすぐる。ふわりと影が落ち、近づきかけた気配が、慌てたように離れた。直後、襖の向こうから声が掛かる。
「失礼いたします。夕餉をお持ちいたしました」
 聞き覚えのある声に、氷川は慌てて身体を起こした。乱れた髪を手櫛で直してから、口を開く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
 滑るように襖が開き、正座した男性が丁寧に頭を下げた。そして慣れた所作で二人分の食事を配してくれる。山海の幸を贅沢に用いた、上等な膳だ。
「陽介さん、ありがとうございます」
「お世話になってます。泊まらせていただいてありがとうございました」
 揃って頭を下げた氷川と神森に、陽介が仕事用ではない笑顔を見せた。
「まあ、こう暑い上に盆ともずれると、お客さんも多くないしね、グレードの高い部屋じゃなくてごめんね」
「充分だよ、これ以上いい部屋だったら逆に落ち着かないし、っていうか今の時点で落ち着いてないし」
 先程までだらだらと転がっていたことを棚に上げて手を振ると、陽介が安堵した風に表情を和らげた。
「そう言って貰えると助かるよ。如水なんていい学校に通ってる氷川くんだから、貧相な部屋に通されたって怒られるかもって、少しは考えたからね」
「正規料金払ってないのにそんな我儘言うようなダメ人間になった覚えないよ、ね、神森くん」
「そうですね、存分にくつろいでおいででしたが、不平は聞いていませんね」
 同意を求めた神森にばっさりと切り捨てられて、氷川はがくりと肩を落とした。
「裏切り者……と、陽介さんまだ仕事中だよね、無駄口叩いててごめん」
 謝って座布団に座り直す。神森も姿勢を正した。
「大丈夫、気にしてくれてありがとうね。あ、仕事といえば、竜義」
「何かありましたか?」
「食べ終わったら、膳下げる時でも後でもいいけど、厨房に顔出してくれるか。味の感想聞きたいし、仕込みの手伝いもして欲しいって、板長からの伝言」
「僕にですか? 陽介さんも入っているでしょう」
「あんたに一日でも仕事させたいんだよ、あの人、竜義のこと買ってるから」
 陽介の発言に、神森が目を見開いた。
「僕を? まさか」
「嘘ついてどうするよ。センスいいし真面目だから、早くちゃんと色々教えたいってよく言ってる。僕も竜義がいないといまいち張り合いないし。もういっそ、こっちの夏期講習受けろって言いたくなるくらい」
 何も含むものなどなさそうな陽介の言葉に、神森が口元を手で覆った。照れて、同時に困惑しているのが分かる。狼狽えて視線を余所へ逃がし、居心地悪そうに身じろぐ。
「その、恐縮です」
 絞り出すような返答に、陽介が失笑した。いかにも可笑しそうな笑みを唇の端に刻み、道化めいた所作で首を傾げる。
「どういたしまして? まあ、そういうことでよろしく。食事前に話し込んでごめんね、氷川くん。それじゃ、ごゆっくり」
 丁寧に礼をした陽介が、静かに襖を閉めて場を辞する。膳に向き直った氷川は、神森が動こうとしていないことに気付いた。
「よかったね、神森くん」
「え、ええ……はい」
 驚いているのか、信じられずにいるのか、神森の反応が妙に鈍い。無理もない、仕事の現場は往々にして厳しい指導が飛び交う。それが目を掛けられているが故だと解釈するには、自己肯定感が必要だ。神森はおそらく、叱られる度に自分は駄目だと、そう落ち込んできたのだろう。
「期待されてるって、認められてるってことだよ、すごいね」
「そう、だったんでしょうか」
「俺はここの厨房の人たちのこと知らないから、父の事務所の話になっちゃうけど、本当に使えない人は叱らないよ。仕事させないで、適当に出てってもらうように誘導する。指導されるってことは、見込みがあるってことだと思う。叱られるのはつらいけど、叱るのだって労力使うんだし」
 厳しいようだが、それが現実だ。誰しも最初は叱られながら技能を身につけていくものだし、どうしようもない人物には教育の手間を掛けない。教育した新人がいつまでも自社の戦力でいてくれるならまだしも、苦労して育て上げたところで出て行ってしまうこともあるのだから尚更だ。そう考えれば、この旅館に勤めることのない神森が厨房に呼ばれることは、とても目を掛けられている証左だと言える。
 だが、神森はどこか納得しかねるように首を捻っている。
「どうかした?」
「いえ……陽介さんのことは、やはり名前で呼んでおいでなのだと思いまして」
 予想外の返答に、氷川は目をまたたいた。気にしていたのはそちらだったのか、氷川の説明に納得したためにその疑問が残ったのか、どちらにせよ、思いがけない話題だった。思考の切り替えにてこずり、ええと、と意味のない声で場を繋いだ。
「ああ、うん、同じ名字だし、神森くんがそう呼んでたし。変かな」
 言われてみれば、他に名前で呼ぶ友人はいない。遠隔地住まいで、手紙のやりとりしかない陽介だけをファーストネームで呼ぶのは少々奇妙かもしれない。かといって、二人とも居る場で双方共に名字で呼べば混乱必至だ。首を捻って悩み――そしてはたと思いついた。神森が言いたいことに気付いてしまった。
 自然と口角が上がる。おそらく緩んだ表情をしているだろう氷川から、神森が視線を外した。頬が色づいているのは、暑さの名残のせいではないはずだ。
「いえ、その……」
「竜義くん」
 しどろもどろに弁明しようとするのを遮って、名前を呼ぶ。彼はびくりと肩を跳ねさせた。その動揺した様子に、胸の内側がじわりと熱くなった。太陽に焼かれた温度ではなく、わき上がるような歓喜が身体を満たす。
「竜義くん、って、呼んでいい?」
 重ねた呼びかけと問いに、神森は唇を震わせた。大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出してから、小さく頷く。夜の闇のような澄んだ目が、柔らかく細められた。
「よろしくお願いします」



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