高校生とピアニスト

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3.荷物

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インターホンが鳴った。

千秋には一瞬、それが何の音かが判断できなかった。


かつて千秋がこの家に住む「子供」だった頃、この家はつねに誰かのピアノの音が響くピアノ教室だった。
玄関には「小岩井音楽教室」と書かれた小さな看板もあった気がする。

バイエルやブルグミュラーを抱えた子供だけではなく、音大生やプロのピアニストも1日に何人も出入りしていたので、一言で「町のピアノ教室」としてしまうと講師だった母のプライドが許さないかもしれないが、それ以外に言い表す言葉は思いつかない。

完璧思考の母は、母としてだけではなく講師としても優秀だった。
そんな母が牛耳っていたこの家は、「家庭」である前にまず「ピアノ教室」であり、そのためにちょっと変わった習慣がいくつかあった。

そんな習慣の一つが「鳴らせないインターホン」である。

インターホンは、生徒が紡ぐ大切な音を突然来訪者の都合で不躾に遮る。
母はそれを極端に拒んでいた。
それゆえに当時玄関には、「インターホンは鳴らさずにお入りください」と一角一角をぞっとするほど丁寧に、極端に細いペン字で書かれた母直筆のメモ用紙が、がっちりと貼り付けられていたのだ。
おかげでこの家でこの電子音を聞くことはほとんどなかった。


千秋は、聞きなれない音がしたのと同時に、玄関モニターのインジケーターが緑色に点滅していることに気づいて、初めてそれがインターホンであることを知った。

ああ、そうか。

こんな、何かを祝福するような鐘の音だったのか。

もしかしたら、実家の設備だというのに初めて触れるかもしれない「玄関モニター」という画期的なシステムに少しだけ緊張しながら画面に目をやれば、そこには制服姿の男と配送業者のロゴが映っていた。

「すいません、荷物、手違いで一部しか持ってこれなかったのですが、ハンコいただけますかー」
インターホンのスピーカー越しに、セリフと顔は申し訳なさそうなのに、それが彼にとって他人事であることがはっきりと伝わる調子で伝えられる。

出鼻をくじかれた気分になるが、海外ではそんなこと日常茶飯事だった。
ハイハイ、と玄関の真鍮の取手のついた引き出しをあけ、変わらない場所にまだしまわていた白いケースの印鑑を取って玄関を出る。

門扉の前には配送業者のトラックが止まり、社名入りの帽子を被った制服姿の男が立っていた。

中世ヨーロッパのお城を模したようなデザインの、漆黒の鋳鉄でできた門扉を開き、制服の男が持つ受取表に印を押すと「ありがとうございました」と男はさっさと車を走らせていってしまった。

門扉の前に2段に分けて積まれた段ボール箱5つを残して。

「……」

しばらく段ボール箱と見つめ合う千秋。

5つの箱のサイドにはどれも見慣れた自分の字で「楽譜」と書かれている。
…いや、正確には、3つ目の箱に「楽譜」と書き込んだ後、途端に(え、楽譜の譜ってこんな字だったかな…?)と不安になって残り二つは「score」と書いた。

…どうでもいいか。


そんなことより、最初に届いた私物が楽譜って。
え、服とか雑貨とかもなかった?

戸惑いつつも、こんなところでいつまでも箱と見つめ合っていても仕方がないので、一応手を添え、室内に運び込むため持ち上げようとしてみる。

箱にぎっしり詰まった紙類は鉛のように重く、軽く手を添えた程度では微動だにしなかった。

……え

これ、運べるだろうか。

自分のことをたくましい、とか、男らしい、だなんて思ったことは一度もないが、かといって別にひ弱で可憐なわけでもない。

うん、このくらいなら、持てるような気はする。

指をかけるような場所はどこにも見当たらない段ボール箱の、できるだけ底あたりを持って浮かしてみる。
箱の中身が左に偏っているのか、一瞬でぐらりと左にバランスを崩した。慌てて箱をまた元あった場所に戻す。右側だけが異様に軽い。

そういえば楽譜を詰めて余った右側の隙間にメトロノームだのペンたてだの筆箱だの、ピアノの周辺にあったものを適当に詰めたような気がする。

多分、軽いものばかり。


 いい加減にしろよ小岩井千秋。


自分を1番困らせてくるのは、いつだって過去の自分だった。
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