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第一章 ヨミ、失恋中の大学生に出会う

(八)

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 きっと千田の中で考えをまとめているのだろうから、ヨミは待った。カルボナーラを食べながら。めちゃくちゃ美味しい、うまい。

「幸せかあ」

 水でいっぱいいっぱいのグラスに、千田の指が伸びる。縁に触れると、コップから水があふれた。その様子を見つめる千田の瞳に、ぷくりと涙が浮かんだ。と思ったら、洪水のようにあふれた。

 ぎょっとした。

「ち、千田くん、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない、ですね」
「ええ、どうしましょう」

 困った。泣かせるつもりではなかった。むしろ笑ってほしかったのに。千田は小刻みに肩を震わた。

「あの、泣いちゃ駄目ですか。もうなんか、感情が爆発してます」
「そうでしょうね、訊く前からもう泣いてるし」
「すみません」
「いいえ。わかりました。思う存分泣いてください。胸を貸すのはさすがに問題ある気がするのでしませんが、心でもたれかかってきてください」

 千田はちょっと笑った。それから声を殺しながら、それでも思いきり泣いた。やっぱり子どもみたいだった。それだけ泣けるのはうらやましいなあ、と思う。ヨミはこんな風に泣けない。

 泣くことはストレス発散になるとかならないとか。だったら思い切り泣かせてあげよう。多少周りの目が刺さっても我慢する。ヨミの小さな羞恥心で、千田の心が救われるなら、それでいい。なんといっても、年下に甘いヨミだから。姉属性なのである。

 別れたことが悲しいからか、彼女の気持ちを理解できないことが悔しいからか。その涙の理由は、ヨミにはわからない。でもここは、どんと構えて彼のことを受け止めよう。

 彼女は幸せだった。そう思えば、いい。真実がどうであれ、きっとその方が、千田にとっては楽だろうから。

*****

 女性店員がデザートのミニケーキを持ってきた。千田がチーズ、ヨミがチョコレート。

「はい千田くん。あげる」

 ヨミはフォークで一口分をとって、千田に差し出した。もうお腹いっぱいだったから。すっかり泣き終わっていた千田は一度目を瞬いたが、親鳥から餌をもらう小鳥のようにぱくっと食べた。

「おいしいです」
「それはよかった」

 千田は懐かしそうに目を細める。

「彼女、笑うとね、ほわわーってかわいかったんですよ。ちょっと自分に自信がなくておろおろしているところも、小動物みたいで」

 うんうんとなにも知らないながらうなずいて、どうぞとケーキの皿を差し出す。

「お姉さん、ちょっとだけ彼女に似てる気がします」
「そうですか?」

 自分には小動物みたいなかわいさはないし、ほわわーとも笑わないけれど。それでも千田は微笑んだ。

「うん、似てます。雰囲気とか。あと、思慮深いって言うんですかね。そんな感じ」
「なるほど。私はただ面倒なくらいに物事を考えすぎる性格なだけですけどね。そんなかっこいい言葉は似合いませんよ」

 千田は水がいっぱい入ったグラスをおそるおそる持ち上げた。ちょっとこぼれて指が濡れてしまって、「わわわ」と慌てる。それでもなんとか水を飲んだ。一気飲みして、ふうと息をつく。

「千田くん。このお店、いいですね。気に入りました」
「でしょ」

 チョコレートケーキのひとかけらを食べて、千田は笑った。満腹で苦しそうなヨミに食べられるよりも、笑っている千田に食べてもらえた方が、ケーキも嬉しいだろう。

 千田は泣いてすっきりしたのかもしれない。もしくはお腹いっぱいになって満足したのか、デザートも食べ終わって店を出るころには、すっかり雨も飛ばしそうな笑顔になっていた。

「フラれちゃったもんは、仕方ないですもんね。彼女がこれから幸せになってくれることを祈ります! ほんとは俺が幸せにしたかったんだけどー!」

 きらきらして優しくて、寂しそうな言葉を、すこしだけ肩の荷がおりたような表情で言った。

 彼の目の下のクマがすぐに消えるかと言われたら、そんなこともないと思うけれど、それでもいつかは消えるだろう。そうしたら彼の爽やかオーラは今の比ではないのだろうなあ。いやはや、恐ろしい。

 でも早くそうなってくれればいいなと思う。
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