3 / 10
3、形見のブローチ
しおりを挟む
季節は初夏へと移った。アディエルソン家の領地は広く、大半がなだらかな丘だ。蒼石を溶かしたような澄んだ青空の下、風が草の原を渡るのが見える。
あざやかな緑の草が左右に分かれ、爽やかな風が森へと向かう。
森の多い土地なので、この国はどこか息が詰まる感じがする。
「いっそわたしも、家を出られたら自由になれるのに」
今日のエレオノーラの仕事は買い出しだった。今朝、ダニエラに命じられたのだ。
――ドレスについているリボンが気に入らないのよ。お姉さまなら、きれいに刺繍を施してくださるわね。
ダニエラの気まぐれはいつものこと。
――そうねぇ。同色の糸で、こまかく刺繍してちょうだい。花模様がいいわね。ついでにビーズも一緒に刺すのよ。そうだ。裾にもビーズの刺繍をしてよ。わたしが踊ると、ドレスの裾が煌めくでしょ。
買い物なら自分が行くと、家政婦長のヨンナは申し出てくれたけど。エレオノーラの負担が減ることを、ダニエラが認めるはずがない。
「本当にもう、どこかに行ってしまいたい」
エレオノーラは、右手に持ったブローチをぎゅっと握りしめた。
ぽとり、と涙がこぼれた。金の縁取りの中央にはめられた宝石はスフェーン。光の加減で蜂蜜色にも、森の色にも見える。少し角度を変えれば、赤やオレンジ色が揺らいでいる。
大事な母の形見だ。母の生家である公爵家の娘が代々受け継ぐブローチは、たいそう美しい。
けれど、今ではブローチの留め金がゆがんでしまっている。
ダニエラに踏みつけられたのだ。
――お姉さまのブローチをつけて、夜会に出たいわ。そうよ。希少な宝石をつければわたしの美しさも際立つし。素敵な出会いがあるはずよ。なんたって、王家が主催するパーティですもの。
義母のイルヴァも賛同した。
――そうね。こんな高価で美麗な宝石は、ダニエラにこそ相応しいわ。エレオノーラ、ブローチを渡しなさい。
いやです、と反論してもダニエラが納得するはずがない。
エレオノーラは父を見やった。母に対して愛情がなくとも、公爵家の宝を愛娘に譲れと命じるほど、愚かではないだろうと期待して。
――伯爵家を継ぐ婿が見つかるのだから、ブローチくらい貸してやりなさい。王族の夜会に招かれるのはお前ではない、妹だ。ケチなことを言うものではない。
父はそれだけを言うと、部屋を出ていった。エレオノーラと目を合わせることもなく。
姉ならば、妹に優しくして当たり前。姉ならば、妹のために我慢して当たり前。
ダニエラの我がままを聞き入れない姉が、狭量で悪いのだ。
父はどこまでもイルヴァとダニエラの味方だった。
どうしてもエレオノーラが譲らないと分かると、ダニエラはブローチを取り上げて床に叩きつけた。
――やめて。おねがい、ダニエラ。やめて。
エレオノーラの懇願は、叫びだった。
パキンと儚い音がした。
ブローチの留め具が壊れ、周囲の金がゆがんでしまった。
スフェーンの硬度は高くないのに。宝石が割れなかったのは、不幸中の幸いだった。傷もつかなかったようで、床でまばゆく煌めいている。
今朝のことを思いだすと、涙があふれて止まらない。
(どうしてここまで惨めな扱いを受けないといけないの)
家を出るには、働かなくてはならない。疎遠になっている母の実家に頼るわけにもいかない。
「わたしにできることなんて、針仕事と掃除だけだわ」
働く場所が、アディエルソン家かそれ以外かというだけのこと。
子どもの頃は母や侍女と共に、馬車で出かけていたのに。今では町へ行くにもエレオノーラはひとり、そして徒歩だ。乗合馬車ですら使用できない。
街についたエレオノーラは、布や糸を扱う店に立ち寄った。
店内の棚には、引き出しごとにサイズも素材も様々なボタンが入っている。布も豊富で、糸はまるで絵の具のように色鮮やかだ。
「いい匂い」
エレオノーラは不思議と子どもの頃から、新しい布や糸の匂いが好きだった。母がよく刺繍をしているのを、そばで見ていたからかもしれない。
子どもの頃、母が刺繍してくれたリボンをエレオノーラは持っていた。スミレとスズランの模様のリボンはお気に入りで。髪に結ぶと自分では見えないから、手首によく巻いていた。
あんなに大事にしていたのに。いつの間にか無くしてしまった。
「いつまでも悔いていてもしょうがないわ」
ダニエラのドレスについたリボンは鮮やかなスカーレット。ならば刺繍の糸は同じ赤の系統がいい。
「でも、布も糸もスカーレットなら、きっとダニエラは目立たないって怒るわね」
かといって色を外しすぎると、垢抜けないと文句を言うに違いない。
「いっそのことビーズを無色透明にすれば、澄んだ輝きだけを放つかもしれないわ」
まずはビーズを確認しようと場所を移動する。
その時。とん、とエレオノーラの腰に何かがぶつかった。
母の形見のブローチが、床に落ちた。
あざやかな緑の草が左右に分かれ、爽やかな風が森へと向かう。
森の多い土地なので、この国はどこか息が詰まる感じがする。
「いっそわたしも、家を出られたら自由になれるのに」
今日のエレオノーラの仕事は買い出しだった。今朝、ダニエラに命じられたのだ。
――ドレスについているリボンが気に入らないのよ。お姉さまなら、きれいに刺繍を施してくださるわね。
ダニエラの気まぐれはいつものこと。
――そうねぇ。同色の糸で、こまかく刺繍してちょうだい。花模様がいいわね。ついでにビーズも一緒に刺すのよ。そうだ。裾にもビーズの刺繍をしてよ。わたしが踊ると、ドレスの裾が煌めくでしょ。
買い物なら自分が行くと、家政婦長のヨンナは申し出てくれたけど。エレオノーラの負担が減ることを、ダニエラが認めるはずがない。
「本当にもう、どこかに行ってしまいたい」
エレオノーラは、右手に持ったブローチをぎゅっと握りしめた。
ぽとり、と涙がこぼれた。金の縁取りの中央にはめられた宝石はスフェーン。光の加減で蜂蜜色にも、森の色にも見える。少し角度を変えれば、赤やオレンジ色が揺らいでいる。
大事な母の形見だ。母の生家である公爵家の娘が代々受け継ぐブローチは、たいそう美しい。
けれど、今ではブローチの留め金がゆがんでしまっている。
ダニエラに踏みつけられたのだ。
――お姉さまのブローチをつけて、夜会に出たいわ。そうよ。希少な宝石をつければわたしの美しさも際立つし。素敵な出会いがあるはずよ。なんたって、王家が主催するパーティですもの。
義母のイルヴァも賛同した。
――そうね。こんな高価で美麗な宝石は、ダニエラにこそ相応しいわ。エレオノーラ、ブローチを渡しなさい。
いやです、と反論してもダニエラが納得するはずがない。
エレオノーラは父を見やった。母に対して愛情がなくとも、公爵家の宝を愛娘に譲れと命じるほど、愚かではないだろうと期待して。
――伯爵家を継ぐ婿が見つかるのだから、ブローチくらい貸してやりなさい。王族の夜会に招かれるのはお前ではない、妹だ。ケチなことを言うものではない。
父はそれだけを言うと、部屋を出ていった。エレオノーラと目を合わせることもなく。
姉ならば、妹に優しくして当たり前。姉ならば、妹のために我慢して当たり前。
ダニエラの我がままを聞き入れない姉が、狭量で悪いのだ。
父はどこまでもイルヴァとダニエラの味方だった。
どうしてもエレオノーラが譲らないと分かると、ダニエラはブローチを取り上げて床に叩きつけた。
――やめて。おねがい、ダニエラ。やめて。
エレオノーラの懇願は、叫びだった。
パキンと儚い音がした。
ブローチの留め具が壊れ、周囲の金がゆがんでしまった。
スフェーンの硬度は高くないのに。宝石が割れなかったのは、不幸中の幸いだった。傷もつかなかったようで、床でまばゆく煌めいている。
今朝のことを思いだすと、涙があふれて止まらない。
(どうしてここまで惨めな扱いを受けないといけないの)
家を出るには、働かなくてはならない。疎遠になっている母の実家に頼るわけにもいかない。
「わたしにできることなんて、針仕事と掃除だけだわ」
働く場所が、アディエルソン家かそれ以外かというだけのこと。
子どもの頃は母や侍女と共に、馬車で出かけていたのに。今では町へ行くにもエレオノーラはひとり、そして徒歩だ。乗合馬車ですら使用できない。
街についたエレオノーラは、布や糸を扱う店に立ち寄った。
店内の棚には、引き出しごとにサイズも素材も様々なボタンが入っている。布も豊富で、糸はまるで絵の具のように色鮮やかだ。
「いい匂い」
エレオノーラは不思議と子どもの頃から、新しい布や糸の匂いが好きだった。母がよく刺繍をしているのを、そばで見ていたからかもしれない。
子どもの頃、母が刺繍してくれたリボンをエレオノーラは持っていた。スミレとスズランの模様のリボンはお気に入りで。髪に結ぶと自分では見えないから、手首によく巻いていた。
あんなに大事にしていたのに。いつの間にか無くしてしまった。
「いつまでも悔いていてもしょうがないわ」
ダニエラのドレスについたリボンは鮮やかなスカーレット。ならば刺繍の糸は同じ赤の系統がいい。
「でも、布も糸もスカーレットなら、きっとダニエラは目立たないって怒るわね」
かといって色を外しすぎると、垢抜けないと文句を言うに違いない。
「いっそのことビーズを無色透明にすれば、澄んだ輝きだけを放つかもしれないわ」
まずはビーズを確認しようと場所を移動する。
その時。とん、とエレオノーラの腰に何かがぶつかった。
母の形見のブローチが、床に落ちた。
1
あなたにおすすめの小説
「妹より醜い」と言われていた私、今から龍の神様と結婚します。〜ウズメの末裔令嬢の結婚〜
麻麻(あさあさ)
恋愛
妹より醜いと呼ばれていた双子の姉私、深子(みこ)と美しい妹の舞華(まいか)2人は天鈿女命の末裔だったが舞の踊り手は妹だった。
蔑まれる中、雷龍(らいりゅう)と言う雷を操る龍が言い伝え通りに生贄同然で結婚の話を聞かされる。
「だったらお姉様がお嫁にいけばいいじゃない」
と言われる中、雷龍がいる場所に生贄のつもりで行くが彼は優しく深子に接してくる。
今作はカクヨムに載せていたものを改題した作品です。
善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です
しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。
【完結】義妹に全て奪われた私。だけど公爵様と幸せを掴みます!
朝日みらい
恋愛
リリアナは美貌の義妹イザベラにすべてを奪われて育ち、公爵アルノーとの婚約さえも破棄される。
役立たずとされて嫁がされたのは、冷徹と噂される公爵アルノー。
アルノーは没落した家を立て直し、成功を収めた強者。
新しい生活で孤立を感じたリリアナだが、アルノーの態度に振り回されつつも、少しずつ彼の支えを感じ始め――
何も決めなかった王国は、静かに席を失う』
ふわふわ
恋愛
王太子の婚約者として、
表には立たず、裏で国を支えてきた公爵令嬢ネフェリア。
だが――
彼女が追い出されたのは、嫉妬でも陰謀でもなかった。
ただ一つ、「決める役割」を、国が彼女一人に押しつけていたからだ。
婚約破棄の後、ネフェリアを失った王国は変わろうとする。
制度を整え、会議を重ね、慎重に、正しく――
けれどその“正しさ”は、何一つ決断を生まなかった。
一方、帝国は違った。
完璧ではなくとも、期限内に返事をする。
責任を分け、判断を止めない。
その差は、やがて「呼ばれない会議」「残らない席」「知らされない決定」となって現れる。
王国は滅びない。
だが、何も決めない国は、静かに舞台の外へ追いやられていく。
――そして迎える、最後の選択。
これは、
剣も魔法も振るわない“静かなざまぁ”。
何も決めなかった過去に、国そのものが向き合う物語。
お姉様のお誕生日を祝うのが、なぜ我儘なの?
月白ヤトヒコ
ファンタジー
健康で、元気なお姉様が羨ましかったの。
物心付いたときから、いつも体調が悪かった。いつもどこかが苦しかった。
お母様が側にいてくれて、ずっと看病してくれた。お父様は、わたしのお医者様の費用やお薬代を稼ぐのが大変なんだってお母様が言ってた。
わたし、知らなかったの。
自分が苦しかったから。お姉様のことを気にする余裕なんてなかったの。
今年こそは、お姉様のお誕生日をお祝いしたかった……んだけど、なぁ。
お姉様のお誕生日を祝うのが、なぜ我儘なの?
※『わたくしの誕生日を家族で祝いたい、ですか? そんな我儘仰らないでくださいな。』の、妹視点。多分、『わたくしの誕生日を~』を先に読んでないとわかり難いかもです。
設定はふわっと。
お姉様は嘘つきです! ~信じてくれない毒親に期待するのをやめて、私は新しい場所で生きていく! と思ったら、黒の王太子様がお呼びです?
朱音ゆうひ@『桜の嫁入り』発売中です
恋愛
男爵家の令嬢アリシアは、姉ルーミアに「悪魔憑き」のレッテルをはられて家を追い出されようとしていた。
何を言っても信じてくれない毒親には、もう期待しない。私は家族のいない新しい場所で生きていく!
と思ったら、黒の王太子様からの招待状が届いたのだけど?
別サイトにも投稿してます(https://ncode.syosetu.com/n0606ip/)
妖精のいたずら
朝山みどり
恋愛
この国の妖精はいたずら好きだ。たまに誰かの頭の上にその人の心の声や妖精のつっこみを文章で出す。
それがどんなに失礼でもどんなに不敬でも罪に問われることはない。
「なろう」にも投稿しています。
妹なんだから助けて? お断りします
たくわん
恋愛
美しく聡明な令嬢エリーゼ。だが、母の死後に迎えられた継母マルグリットによって、彼女の人生は一変する。実母が残した財産は継母に奪われ、華やかなドレスは義姉たちに着られ、エリーゼ自身は使用人同然の扱いを受ける。そんなある日――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる