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第2章 深海の檻が軋む時
第19変 変態さんはやっぱり変態さんだった(前編)
しおりを挟む――私は暗闇の中、逃げる逃げる逃げる――
息は乱れて化粧も取れちゃってるし、多分、今の私は化物みたいになっていることだろう。でも……
(逃げなきゃ! 【奴】が来る!)
ようやく、自分のアパートに辿り着き、鍵をかける。
(もう、大丈夫。もう、自分の部屋だ……)
電気もつけず、真っ暗なままの自分の部屋。しかし、自分の安心できるその空間に身を投じ、玄関にヘナヘナと力なくへたり込んでしまう。その時、ドアの外でコツコツコツッというゆったりとした足取りの【奴】の靴音が聞こえ、全身の筋肉が硬直する。
ちょうど私の部屋の前で立ち止まった足音に、心臓がドクンといやに大きな音を立て、息が止まりそうになる。ここから逃げたいのに、足が震えて立ち上がれない。
仕方なく、下ろし立ての黒ストッキングが破れて伝線していくのも構わず、這うようにして暗く冷たいフローリングの上を移動する。そうやって、もっと安全な部屋の奥へと行くために必死に手足を動かしていると、外からカチャリという金属音がした。
(え――)
驚きで声すら出ない。後ろを振り返ると、美しい月明かりが扉の隙間から滑り込み、私が知らず知らずのうちに落としてしまっていた白いショルダーバックを映し出していた。そこから化粧品などと一緒に飛び出してしまっているのは、私の想像が詰まった分厚い創作手帳(別名、黒歴史)……。
外から入ってきた無遠慮な風が、その黒歴史の1ページ1ページをご丁寧にペラペラと捲りあげ、どのページにもビッシリと書かれた殴り書きの文字を月明かりの元に曝している。
でも、問題はその黒歴史がポロリと出てしまったところではない……そう、私はドアの鍵をきちんと閉めたはずなのに、何故かドアが開いている――それこそが一番の問題で、今、決してあってはいけないことだった。
月の光を背に浴び、【奴】はそこに佇んでいた。外開きのドアが全て開いても、【奴】の背後から差し込む月明かりだけでは表情がよく見えない。でも、【奴】の三日月のように弧を描いた口元だけはとても印象的で、脳裏に痛いほどに焼き付いた。
そうして動けないでいる私に、【奴】は大きく一歩近づき、何の躊躇もなく腕を振り下ろした。月光に照らされて鈍く煌めいた銀色の一筋が、なぜだかひどく――綺麗だった……
★ ★ ★
「――チア」
ハッとして目を開けると、心配そうに私を見下ろす金色の瞳と無駄に綺麗なシェロンの顔があった。
「ルチア?」
彼の大きくて綺麗な手が伸びてきた瞬間、私は反射的に桃色の掛布団を引っ張り、大きなベッドの隅の方へと飛びのいた。息が乱れ、体が震える。
体にべったりと張り付いた部屋着の黒猫耳付きパーカーのせいで、大量の汗をかいていることが分かったが、気持ち悪いとは思わず、ただただ目の前に伸びてきたまま止まったシェロンの骨張った綺麗な手を見ていた。
「ああ、ごめん、驚かせちゃったかな? 次の講義に遅れないよう呼びに来たんだけど、何か食べられる?」
ふと、サイドテーブルに置かれたツナサラダと大根おろしが乗った焼き魚に白いご飯と味噌汁というセットが置いてあるのが目に留まる。私の大好きなメニューだ。そうして呆然とサイドテーブルを見ていると、彼がスッと黒猫が付いたピンク色のマグカップを差し出してくる。そのカップからふんわりと漂ってくるのは、心を落ち着けるような優しいミルクの香り……。
「だいぶ汗をかいたみたいだし、気分を落ち着けるのにも良いから、飲むかい?」
乱れた呼吸が少しずつ戻ってくるが、シェロンが差し出してきたカップを受け取れない。私が猫舌なのを知っていてぬるくされているそれは、きっと一気に飲み干せるのだろうが、まだ頭が痺れて動けなかった。彼は少し待った後、そのカップもサイドテーブルへと置いた。
「怖い夢でも見た?」
彼の言葉に、先程の悪夢が思い出される。
(そう、私が――ストーカーに殺された時の……)
久しぶりに見た前世の最後の瞬間の悪夢に、体がカタカタと震える。その様子を見かね、シェロンがこちらに一歩近づいた瞬間、私の口からは大きな声が出た。
「来ないで!!!」
強い拒絶の言葉に、彼は一瞬ビクッと体を震わせ、そっと元の位置へと戻った。
「ルチ――」
「なんであんたがここにいるの!? ここ、私の部屋だよね!?」
「それは明け方に君が寝ちゃったから俺がここまで連れてきて、その時にちょっと鍵を借りて今起こしに来たところだからだよ。君は【戦闘学特論】の講義が好きみたいだから、欠席したくないかなあって思ってこうしたんだけど――」
申し訳なさそうに笑う彼に、一瞬だけ心臓が鈍い痛みを訴えたが、私は低い声で彼を拒絶する。
「出て行って――」
(そもそも、ストーカーという時点でダメなんだ。【奴】と重なる……)
震えが止まらない。恐怖がぬぐえない。もう前世のことなのに、【奴】の三日月のように綺麗な弧を描いていたあの口元が――頭から離れない……。
「ルチア」
彼の真剣な声が聞こえたが、私は自分の震える手だけを見つめる。
(そもそも、このストーカー相手に少しでもドキッとしちゃって、少しでも心を許しかけていたこと事態が無謀だったんだ。特に恋愛面では前世で大失敗してるのに――)
気を許しかけていた彼に申し訳なくて、彼の傷ついた顔なんか見たくなくて――私はやはり、低い声で言う。
「出て行って」
視界が潤んでいるのは、きっと恐怖でだ。さっきの夢の恐怖が抜けないからだ。自分から突き放すのに、泣いちゃいけない……。
『我は主の盾なり。我は主の剣なり。我は主の道具なり――』
「?」
聞いたことのないフレーズと金色と闇色が混ざり合った周囲の魔力の渦に、重たい頭を動かす。シェロンは朗々と詩人のように言葉を紡ぐ。
『我は主亡き後灰と化す、主だけの刃なり。主のコトノハは我が命の源。主の心こそ我が心……我が魂は我が主の物。我が肉体は我が主の物。我が心は我が主の物――』
それらの言葉の羅列に、ふいに『理由はどうあれ、先生もそんな情熱的な恋とやらを誰かとしてみたいよ。そう、自分の心臓をささげてもいいと思えるような誰かと……ね』と言った、ハティ先生の鋭い黄色の瞳がちらついた。
(まさか――)
『我、ここに我が主への絶対の忠誠を誓う』
「な、何を――」
かすれた声を出した私に、彼は優しく笑った。どこまでも慈愛に満ちた金の瞳が私の心を捕らえて離さない。
『我が主、ルチアーノ=セレアンスロゥプへと、生涯、違うことなき忠誠を示すため――我を縛る主への【服従契約】を結ぶ』
キンッ――
一瞬、周囲に溢れ出ていた金色の光が強くなり、そのあまりの眩しさに目を瞑ってしまう。噛み締めるように――まるで、愛でも紡いでいるかのように契約の言葉を紡いでいた彼の優しい声が……頭から離れない。
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