伏して君に愛を冀(こいねが)う

鳩子

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15. 妾の宝物

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「それでも、私などは、その……皇后さまにお出しした分の残りを『お下がり』と言って頂けることになっておりますので、食べている方なのです」

 恥ずかしそうに言う瑛漣えいれんは、次の瞬間、ハッとなって、琇華しゅうかに問い掛けた。

「あの、もしや、腹の虫が、鳴いていたのが聞こえてしまいましたか……?」

「いいえ、そんなことではないの……そうなのね。妾の食事は、この宮のものたちに行き渡ると言うことなのね」

「あ、はい! それが、ほう帝国の慣習でして……ほう国では……」

「実は、妾は、そういう細かなことはよく解っていなかったのね。瑛漣。もし、良かったら……皇帝陛下の宮では、どんなお食事なのか、探って貰えないかしら」

「え? はい、それはもう……それでは、すぐに、聞いて参ります」

 唐突に妙な事を言い出した琇華に戸惑ったようだったが、瑛漣は拱手して足早に殿舎を出て行った。その瑛漣の後ろ姿を見送りつつ、琇華は溜息を吐いた。

 そういえば、本来、初夜のあとも、一緒に食事を摂るはずだったが、殆ど琇華が気を失っていたこともあって食事を摂っていない。だが、本当のところは違うかも知れない。

(朝餉を節約なさっているのでは……?)

 琇華が最初に疑ったのは、これだった。

 皇帝には、元々入宮させる予定だった愛妾がいると聞いて、平静を装うことも出来なくなっていたから、ほかのことを考えて居た方が良い。ただでさえ、初恋はさんざんに踏みにじられて、以降、やさしい言葉一つ掛けて貰えないのだから、ほかに、何かすることを探した方が良いのだ。

(その、婚約者から奪ったひとというのは、美しい人なのでしょうね……)

 惜しみなく、優しい笑顔を向けられ、そして愛されるのだろう。その女にとって、それが幸福なことかどうかはともかく、琇華は、内側から身を焼き尽くされるほどに、羨ましい、と思った。

(妾なんて、ただの、黄金よ)

 もし、その女が、有り余るほどの金を持っていれば、琇華は、ここには居なかったのだろう。そう思うと、悲しくて、涙が出る。

 琇華は、主たる女の心得として、侍女達の前では涙を見せないように心掛けている。公邸の前でも、極力控えている。だから、自分の為に泣くことが出来る時間さえ、ない。

 夜、牀褥しょうじょくには皇帝が居るから、牀褥しょうじょくの中で泣くことも出来ない。踏みにじられた初恋の為に泣いてやる時間も、琇華にはない。

 一部の侍女達は、まだ、琇華を蕃国ばんこくの姫と侮っているようだったから、これもなんとかしなければならない。

「意外に、妾には、問題が山積みなのね……」

 琇華は、あたりに誰も居ないことを確認して、手文庫の中に隠し持っていた、皇帝の姿絵を取り出した。

 ほう国に居た頃に、城下町で買いに行かせたものだ。やんわりと微笑む皇帝の姿など、現実の琇華は見ることが殆ど出来ないから、誰も居ないときに、そっと姿絵を見ている。

 抱きたくもない女、と言われたことは、まだ胸に突き刺さっている。

 手ひどく扱われたのは、皇帝が、致し方なく琇華を娶ったことを、全身で表現する為のものだろう。

(どうして、その人は入宮できなかったのかしら……)

 けれど、もし、琇華が入宮した時、既に愛妾がこの掖庭えきてい宮にいたとしたら……、文化の違いを理解しない琇華自身が、『汚らわしい』と言って皇帝を罵っていただろうとは思う。琇華の感覚では、まだ、一人の男に対して、何百人もの女が仕えるという状況が、しっくり来ない。

 姿絵の中の皇帝は、切なくなるほど優しい笑顔をしていて、胸が痛くなる。琇華には、見せてくれることのない微笑み。

(人の目があるときだけは、すこし、優しくして下さるけど……)

 できるなら、二人きりの時に、とろけるような甘い眼差しでなくて良いから、すこしだけ、優しい顔をして、名前を呼んで欲しいと、琇華は思う。けれど、そんなことは、望んでも仕方のないことなのだろうと思って、切なくなって、琇華は姿絵をぎゅっと抱きしめた。

「皇后さま、只今戻りました……あら、皇后さま、なにを御覧になっていたのですか?」

 思いの外、瑛漣が早く帰ってきた。それに慌てながら「なんでもないのよ」と琇華は姿絵を隠そうとしたが、するりと姿絵は琇華の指をすり抜けて、床に落ちてしまった。

「あっ!」

「あら、落ちましたわ。いま、お側にお持ち致します」

 身を屈めて床に落ちた姿絵を、瑛漣が手に取って、硬直した。

「あ、……あの、返して、それは、妾の、大切なものなの。宝物なのよ」

 恥ずかしくて、涙が出そうになった。『抱きたくもない』と言われて、ぞんざいに扱われ、黄金姫などと揶揄される琇華が、相手にして貰えない夫の姿絵を、後生大事にしているのは、さぞや滑稽だろう。

「まあ……これは、皇帝陛下の姿絵ですね」

「お願いだから、返して頂戴。妾には……それが、一番大事な宝物なの」

 堪えていた涙が、ぽろりと出そうになって、必死に唇を噛んで堪えていると、瑛漣が姿を渡してくれた。

「皇后さまは……、皇帝陛下を愛していらっしゃるのですね……。お噂では、皇帝陛下のことを、蛇蝎だかつの如く嫌っているのに、結婚をしなければならなくなって、ほう国でひざまづかせたということでしたので……」

「そんな、噂が流れているから、妾は、高慢で嫌な女だと思われていたのね」

「どういうことですか」

 瑛漣が心配して聞く。

「ここに来たときに、侍女達が、妾を蕃国の高慢な姫と噂しているのを聞いたの。皇帝陛下も、妾を愛しているわけではなくて、ただ、金子が欲しいから、妾を娶っただけと……。皇帝陛下のことが本当だったから」

「主をそんな風に言うなんて……侍女失格です。その者達は、すべて入れ替えましょう」

 キッパリと言う瑛漣に対して、琇華は「良いわ」と首を横に振った。

「そんなことをしたら、侍女達は職にあぶれるでしょう? 形ばかりの皇后の体面を保つ為に、皇帝陛下が処分なさるかも知れないわ。だから、放って置いて。でも、あなたにだけは言っておくわ。妾は、皇帝陛下が、そんな事情で妾に求婚したなんて、ちっとも知らなかったの。
 だから、跪いて、愛を請われた時には、天に舞い上がるほど嬉しかったのよ? 妾は、世界で一番幸せな姫だと、信じて疑わなかったわ。あの日、初めて見た陛下に、妾は、一目で恋に落ちたのですもの」

 瑛漣から受け取った皇帝の姿絵を、琇華はぎゅっと抱きしめる。

「皇后さま……」

 瑛漣の眦から、ぽろり、と涙が零れた。

「いやだ……どうして、あなたが泣くのよ。この手巾を使って頂戴」

 実家から持ってきた、ぬめるように輝く、白い絹の手巾を受け取った瑛漣だったが、それを使うことはなかった。

「皇后さまは、陛下を愛しておいでなのですね……」

「嫌いになれれば、良いのにね。何にも解らないままで、妾は、あの方に恋してしまったの。……だから、黄金姫なんて言われると、胸が潰れそうになるほど苦しいわ。
 ……ねえ、瑛漣。それはそうと、調べてきたことを、教えて頂戴」

 無理やり微笑んで、琇華は話題を変えた。自らの指で涙を拭った瑛漣も、キリッと顔を引き締めて、琇華に言った。

「皇帝陛下のお食事のことですが、その、姿絵にも関わりがあることが解りました」

「姿絵に……?」

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