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第一章 珍奇で美味なる菓子
娃琳の初恋
しおりを挟む娃琳が八歳の頃、当時の游帝国皇太子だった、瀛遊嗄が、堋国に留学の為に滞在することになった。
遊嗄、十六歳。―――槐花十五年の頃である。
当時の皇帝、槐花帝(瀛黎氷)の母親である皇太后が、堋国の出身だった為、皇太子の留学という行事が生まれたらしい。
宗主国である游帝国から、皇太子をお迎えするというので、黄金宮は、上を下への大騒動だったが、娃琳は、それを冷めた目で見ていた。
(どうせ、私は、皇太子殿下にお目に掛かることさえないだろう)
というのが、わかりきっていたからだ。
末席の公主で、しかも、絶世の美女揃いの後宮において、なぜか、規格外に地味な顔立ちの娃琳は、やはり美女で揃えた女官や侍女ではなく、端女に間違えられることがある程で―――それは彼女の衣装が、地味なものだったのが悪いのだが―――父王が気を遣うほど、母親の身分も高くない。
万に一つにも、皇太子と言葉を交わすことなどないはずだった。
だから安心して、大書楼に籠もって、遊嗄という皇太子の事など、すっかり忘れていたのだった。
隣国の、宗主国の皇太子が、物見遊山に、ここに来ているだけだろうと、正直侮っていたこともある。だが、しかし、遊嗄という男は、存外、生真面目だった。
「……済まない、堋国の歴史と、治水について書かれた書物を探している」
遊嗄が大書楼を訪れたのは、留学した翌日のことだった。
後宮の大書楼に、男が立ち入っているということに娃琳は驚いたが、「国王陛下からは格別の思し召しにて、宦官三名を同行することで、大書楼への立ち入りを許可して頂いた」と彼が告げ、その通りの、札も見せてくれたので、納得するほかなかった。
大書楼には、司書たちと司書を統括する司書監という官職があるが、この時の司書は、あまり仕事熱心なものではなかった。それで、遊嗄の望む本まで彼を導くことが出来なかったので、娃琳が、代わりに彼に本の案内をすることになった。
「堋国は、水には恵まれているが、それでも季節ごとに氾濫を起こす箇所などはいくつかある。この書物は、全国の地形について詳細を記したもの、そして、そちらが、実際に治水の工事を行った記録などの資料だが」
娃琳が案内すると、遊嗄は、目を輝かせて喜んでいた。
その時、娃琳は、初めて、遊嗄が美しい容姿をしていると言うことに気がついた。象牙色の肌。闇を紡いだような美しい黒漆の髪、黒水晶の瞳。そのどれもが整って、たとえようもなく美しいのである。
游帝国の皇帝は、怜悧な美貌で知られるとは聞いていたが、この皇太子を見る限り、噂は真実なのだと、思う。
娃琳は、いままで、容姿が劣ることを卑下したことはなかったが、生まれて初めて、この容姿を、のろわしく思った。この、美しい皇太子の前にいるのが苦痛でたまらなくて、娃琳は彼を避けようと思って、大書楼を抜け出した。
ところが、数日後、遊嗄は、後宮の翠玉殿と呼ばれる殿舎に、国王と供に現れたのだった。
翠玉殿は、娃琳の母親が賜って居た殿舎だ。あまり、国王の訪ないはない殿舎だったので、滅多にない出御に、殿舎内の空気は浮ついていた。
「まあまあ、陛下がおいでになるなんて」
いつになく着飾った母親の姿にうんざりしながら、娃琳は溜息を隠す。この母は、妃の中でも特に豪奢な衣装を好む。一度、禁色である黄金色の聴しも得ずに、黄金色の上衣を身に纏ったことから、『黄金姫』と揶揄されていることに、多分、気がついていない愚かな女だった。
本物の黄金姫は、娃琳の父親である、国王の妹にして、游帝国の皇太后であった。
「娃琳! お前も仕度をなさい! ああ、幾ら着飾っても、地味な子ね!」
化粧を施され、華やかな衣装を着せられ、それでも、娃琳の容姿は、ほかに劣る。華がない。ほかの姫ならば、その場にいるだけで、空間を、ぱあっと明るくするような、将来の生気に恵まれているのだろうが、娃琳には、それはなかった。
「ああ、陰気な娘っ!」
母親は、紅水晶の飾りが付いた簪を引き抜くと、それで容赦なく娃琳を打擲した。
こういうとき、普通の姫ならば、泣いて母親に許しを請うのだろうが、経験上、それは、火に油を注ぐようなものだと、娃琳は理解していた。だから、嵐が通り過ぎるのを、じっと、耐えて、待つ。それだけだ。
母親の狂乱が一通りおさまったころ、見計らったように、国王と遊嗄が殿舎を訪ねた。
「陛下、久方ぶりでございます。わたくし、陛下がおいでにならない間、どれほど淋しい夜を過ごしていたことか……。わたくしの枕は、干しても乾く間がありませんわ」
挨拶もそこそこに、国王にしなだれかかった母親を仕方のない人だと思ったが、娃琳は名にも言わず控えていた。
「ああ、そなたは控えていなさい。娃琳、おいで」
国王に呼ばれて御前に進み出る。拝礼をすると、父王は、満足げに頷いて、「こちらは、游帝国の皇太子殿下。……お前は、殿下に本を出して差し上げたそうだね」と娃琳に確認する。
娃琳は、とっさに、やってはいけないことだったのではないかと、思って「申し訳ありませんでした」と勢いよく頭を下げた。
「皇太子殿下には、大変失礼を……」
「いや、そうではない、むしろ、司書が解らぬ書物を、良く探り当てた。そなたは、なぜ、それを探ることが出来た? 余は、皇太子殿下からその話を聞いて、不思議でたまらなくなった」
娃琳は、言葉に詰まった。
この殿舎に居たくなくて、ずっと、本ばかり読んでいたくて、隠れるように大書楼にいたこと。大書楼の本ならば、片っ端から読みあさっていたこと。それをすべて話すのは、気が引けたのだった。
「陛下、お茶の仕度が出来ましたわ。今日は、桃の蜜をたっぷり含ませた餡を入れた酥を用意致しましたわ。可愛らしい形でしょう?」
空気を読まずに割り込んできた母親の存在が、この時ほどありがたいと思ったことはなかった。
可愛らしい桃の形に作られた『白桃酥』に、娃琳は躊躇いなく手を伸ばした。
「母さま、美味しそうです。皇太子殿下も、如何ですか?」
にこりと笑って、白桃酥を皇太子に手渡す。その、不作法な態度に、母親の怒りが一気にこみ上げたようだった。
「何をしているの! お前の汚い手で触れたものを、皇太子殿下にお出しできるわけないでしょう!」
いつも通りに、母親は、娃琳を殴りつける。その様子を、茫然と見ていた父王が「尹妃! 止めぬか!」と割って入る。それで、やっと、母親は、娃琳を国王の御前であることに気がついたらしい。
「も、もうしわけありませぬ……いつもは、このようなことは……」
「とにかく、そなたは、今は気が立っておる。ゆっくりと眠って休養せよ」
「そ、そんなっ……」
折角、殿舎を訪ねてくれたのにあんまりだ……という恨みが混じった声音だった。だが、国王の命令は絶対だ。すごすごと、彼女は帰っていった。
そして、国王は娃琳に向き合う。そっと、手を伸ばして、殴られた所を撫でてくれようとしたのに、娃琳が、びくっと身体を震わせたことで、国王は、悲しげな顔をした。
「尹妃は、いつも、ああなのだね」
答えられなかったが、雄弁に語っているようなものだ。国王の溜息が御の隣で、遊嗄が、じっと、美しい顔を崩すこともなく、娃琳を見つめて居るのに気がついて、娃琳は、恥ずかしくなった。
「娃琳姫。……よろしければ、少し、書物について教えて欲しいことがあるのです。司書から、あなたが、大書楼の中の本ならば、おそらく、すべての本の場所と書名を把握しているはずだと伺いました。
どうぞ、私にお教え下さいませ、姫君」
遊嗄は、今、目の前で起きたことには、なにも言わなかった。しかし、最大の礼で―――つまり、跪いて拱手して、娃琳に教えを請うたのだった。
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