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第四章 加速する物語とハッピーエンド
産女とパウンドケーキ(その1) ※全4部
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冬の寒い空気の中、何かの音が我の意識を覚醒させる。
聞こえるのはサイレンと怒号と悲鳴。
うっすらと瞼を開けると夜明け前だというのに妙に明るい。
いや、赤い。
なるほど、火の赤さであったか。
パチパチと爆ぜる音を聞き、我は明るさの原因を理解する。
ア゛ァァァアー
まあよい、我は眠い。
もう数年、消えそうな母の温もりの残る封印の中でまどろみたいのだ。
オゥンガァァアァ-
だから、そんなに泣くな。
赤子の声は別れた弟たちを思い出してしまうではないか。
ァゥェァァ
それでよい。
「もし、そこの高貴な御方」
声が聞こえる。
我の眠りを妨げるとは狼藉者もよいところだが、我を貴人と見抜いた眼力は評価に値する。
「何用か?」
「お願いです。この子をしばしの間、預かっていただけないでしょうか」
目を開くと朱に染まった女の胸に抱かれた赤子が虚ろな目でこちらを見ている。
血まみれであり、へその緒もついてあった。
我は眠気とその願いを天秤にかけ、考える。
我はこの国の王となる存在である。
それは”あやかし”の世界も、人間の世界も、両方の長に立つ存在である。
王ならば、未来の臣民を慈しむのは当然であろう。
仕方がない、これも王道。
我は岩を押し上げ、そして赤子を手に取った。
「ありがとうございます。優しい君」
女はそう言い残すと、スゥーっと音も無く姿を消した。
ア゛ア゛ァァァゥアー
赤子が泣く。
はてさて、どうしたものか。
空気は冷たい、このままではこの赤子は体温を奪われて死んでしまうであろう。
仕方がない、我の衣を分け与えよう。
恩に着るがよい人間、それは神衣であるぞ。
ウァアアアア゛
赤子の泣き声が聞こえる。
それは倒壊した家屋の下から。
「またか」
我の前に血まみれの女が現れる。
「そこの貴き方。しばしの間、この子を抱いてくれませんか」
我は目の前の衣にくるまれた赤子を見る。
スヤスヤと寝息を立ててはおるが、まだまだ寒そうである。
肌を寄せ合う人間が必要かもしれぬな。
「あい、わかった」
我は腕を伸ばし、柱の下の赤子に触れると、我の腕で守るように引き寄せる。
この程度の柱の重みなど、八岐大蛇の嫡男たる我にとっては箸程度の重さでしかない。
そして、我は箸より重いものなど持ったことがないのだ。
衣にふたり目をくるんでいる間に、あの血まみれの女は姿を消しておった。
あ゛ぁぁぁぁあー
さすがに3回目ともなると、頭を抱える。
血まみれの女がスゥーっと音も無く現れ、瓦礫の一角を指差す。
あれは、かつて風呂だったものであろうか、その中から赤子の声が聞こえ……
「そこにおりますイケメン男子。ちょっくらこの子を……」
……お前、頼み方がおざなりになっておらぬか?
まあ、よかろう。
王たる者は臣民を分け隔てなく愛するものである。
赤子をひとり抱いたなら、この腕が折れるまで何人でも抱くのが王の道というもの。
うむ、これぞ王道! ならばよし!
最終的に赤子は6人になった。
衣と互いの体温で寒さは凌げたが、まだ赤子の声は止まぬ。
おそらく腹が減っているのであろう。
まてまて、未来の我が臣民よ、すぐに仲間の人間の所に連れていってやるからな。
それまで、少し泣くのを止めて腹の減りを抑えるがよい。
『眠れ』
我は権能を使い赤子を眠らせた。
傾く岩の社、ささくれだった道、そして溢れる瓦礫の山。
それらを越えて我は進む。
今より20年以上前、寒き冬の日のことであった。
◇◇◇◇
「久しぶりね」
「ああ、久しいな」
とある夏の日、我は1年ぶりに人間の女と喫茶店で会う。
名は、確か……そう、羽衣。
20年を超す長い付き合いだ。
「羽衣よ、結婚するという話だが」
「そうよ、来週末にハワイで挙式。そのままハネムーン、来週の今頃はあたしはアメリカ横断中ね」
「相手は?」
「中華系アメリカ人の素敵な人よ」
コーヒーを口に付けながら、羽衣は言う。
羽衣はあの日、我が助けた赤子のひとり。
一番幼く、まだへその緒がついていた娘だ。
「めでたいな。だが、悪いが式には行けぬ」
「いいわよ、別に」
我はこの国の王になる道程にある。
数日とはいえ国を離れることはできぬのだ。
「それでは最後の仕送りだ。これからはその伴侶と共に生きるがよい」
「そうね、これであなたともお別れね」
我は分厚い封筒を机の上に置く。
「ありがとう。一応、礼は言っておくわ」
少し不機嫌そうに羽衣はその封筒を受け取る。
これが女中ならば『イヤッホー! 金だぁ!』なんていって靴でも舐めそうな勢いで尻尾を振るというのに。
やはり人間は個体差が大きい生き物であるな。
「海外挙式というがフライトは?」
「来週の金曜」
「そうか、見送りに行こう」
「好きにすれば」
うむ、会話が盛り上がらぬ。
若い女子との会話は難しいと緑乱が言っていたが、その通りであるな。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「なんでも申せ」
「あなたって、私の母親とどういう関係だったの?」
その問いに我は少し考える。
あの女とはあの日以来会っておらぬ。
「そうだな……ただのゆきずりの仲だ」
バシャ
「ごめんなさい。手がすべっちゃったわ。これはお詫びのクリーニング代」
我のシャツが液体で黒く染まり、一枚の高額紙幣が我の前に置かれる。
羽衣よ、その金は我が渡した封筒から出たものだぞ。
ヴィーンヴィーン
我の携帯が鳴る、赤好からだ。
「何用か弟よ」
『おお! 黄貴の兄貴! わりぃ、ヘマやった。助けてくれ』
ふぅ、と我は溜息をつく。
赤好がこう言う時の用件はいつも同じだ。
金の無心である。
「わかった、いくら必要だ」
長兄たる我は弟たちの面倒を見なければならぬ。
八岐大蛇に八稚女が奉られた時に一緒に奉納された宝、その在りかを知るのは我のみである。
それが我が一家の資金源。
一朝一夕に無くなる物ではないが、無限ではない。
正直、かなり目減りしている。
『な、なあ不動産情報通の珠子さん。これっていくらくらいで元に戻せるかな?』
『えーっと、……住居と店舗の建築費がこれくらいで、さらにお店の内装と厨房機器と什器がこれくらいで……これくらいでしょうか』
電話口の先から女中の声が聞こえる。
どうやら赤好のヘマに一役買っておるようだな。
まあ、女中が『酒処 七王子』の経営を軌道に乗せた功績で、今なら弟たちの小遣いくらいは賄えておる。
小遣いに毛が生えた程度の臨時出費が出た所で心配する事はない。
『計算できたぜ! 黄貴の兄貴! ざっと5000万円くらいだってさ!』
「なんだそれは!?」
うかつにも我は王にあるまじき叫びを上げる。
「なんだか大変なようね。私は先に失礼するわ」
カランカランと音を立てて、喫茶店の扉が動く音がした。
◇◇◇◇
「なんだこれは!?」
我が我が家に戻って発した第一声はそれだった。
いや、我が家に戻れてはおらぬ。
なにせ、家が無くなっていたのであるから。
「あっ、黄貴様だ! おかえりなさーい」
女中が石積みの竈らしきものの前で手を振る。
おそらく料理をしているのであろう。
甘い香りが漂っておる。
「わりぃわりぃ黄貴の兄貴、ちとヘマやっちまった」
薄ら汚れた格好で赤好が頭をかきながらやってくる。
「赤好か、何があった……いや、しばし待て」
目の端に映った姿を見て、我は赤好を制止する。
映った姿とは、木の根にもたれかかった弟、橙依の傷ついた姿だ。
「大事ないか?」
「うん、へーき。休めば治る」
橙依は力なく手を上げるが無理をしているのは自明。
この弟は溜め込むタイプであるからな、体調は本人が言うよりも悪かろう。
妖力は枯渇し、身体は満身創痍、人であれば即入院。
「わかった、しばし待て」
ピッピッと我はスマホを操作する。
便利なアイテムを作ったものよ、人間も。
「駅前のホテルを予約した。そこで休むがいい」
「……ありがとう兄さん。ご飯を食べたら行くよ」
グギュルーと弟の腹の虫が鳴る。
「お待たせしました! そんな橙依君にキャンプご飯です! ジャーン! バナナケーキ!」
ああ、あの甘い匂いの正体はバナナケーキであったか。
「『酒処 七王子』の本館はあの有様ですが、蔵と庭の水道が生きていたのが幸いしました! 小麦と砂糖と卵とバナナを水で練って型に入れ、ダッチオーブンに入れて弱火でじっくり焼けばでっきあがりー! バナナは手で潰れるので、混ぜる道具も包丁も不要! かんたーん!」
パカッっと女中が重たい鉄の蓋を開けると、漏れ出るだけだった甘い香りが一気に広がった。
「……すごい、匂いだけでカロリー大爆発」
切り分けられたケーキが紙皿に盛られ我らの前に出される。
「はい、黄貴様もみなさんもどうぞ。生クリーム系のケーキは衛生の関係で冷たいのが多いですけど、この焼きケーキ系は温かい! 出来立ては格別! いただきまーす」
女中の言葉を合図に我先にとみながバナナケーキを口に運ぶ。
無論我も。
カリッ、フワッ、トロッ
外側はカリッと、中はしっとりフワッ、そしてバナナは形を感じながらもそれが舌の上で柔らかく溶けていく。
いや、舌で潰れる感触が溶けていくように思えるのだ。
「やっぱりスイートホームな珠子さんの料理は最高だな」
「おじさんの旅道具を蔵から引っ張り出してきた甲斐があったよ」
「今は舌鼓を打ちましょう。ですが、電子レンジでもケーキが作れる事はお忘れなく」クイッ
「ふっ、酸いも甘いも噛み分けた俺は知ってるぜ。疲れた時は温かくて甘いのがいい、消化に優しいし、カロリーの吸収もいいからな」
「佐藤殿は博識でござるな。拙者は甘い物も得意でござるよ」
「外はしっとり、中身はカリッ、塩味が効いてるな」
「あら天野君、味覚が鋭いわね。隠し味に塩をパラパラ、それが甘味を引き立てているのよ」
「ぐぬぬ」
なんだかやけに数が多い、見た目の年齢的に橙依の友であろうか。
それに……
「うわー、すごーい美味しそう! いやーん、おいしー! はいっ、ダーリン、私が食べさせてあげる。あーん」
「……僕はダーリンでもない。それに自分で食べれる……おいしい」
この人間の女はなんだ?
金色がかった茶髪で、ジャージの上からもわかる、たわわな乳。
まったくはしたない。
少しは女中の控え目さを見習ったらどうだ。
「橙依よ。こやつは?」
「あっ、はじめまして、えーと……」
「一番上の兄だぜ。黄貴の兄貴」
「ああ! 黄貴義兄さん! 初めまして九段下 月子です。橙依君の運命の人ですっ!」
「……その運命は昼に僕が切り裂いた」
「あーん、いけずぅー」
そう言って九段下と名乗った女は橙依に抱き着く。
ふぅ、事情はわからぬがこの女が居ては話が進まなさそうだな。
「九段下よ、間もなく日も暮れる。今日の所は家に帰るがよい」
「いやよ! もう離さないって決めたもん。それに私は何も悪い事はしていないわ! 罪も無いのに私たちの仲を引き裂かないで!」
ふむ、見るからに思い込みの激しそうな女だ。
だが、話が通じぬというわけではなさそうだな。
「では女よ、お前に悪い所があれば大人しく帰るのだな」
「そーよ、そんな所はどこにもないと思うけど」
まったく、駄々をこねる人間の女はいつの時代も変わらぬな。
こういう女は自らの言葉で縛るに限る。
「そのだらしない恰好と乳はなんだ。純情な弟の教育に悪い」
女はすごすごと帰っていった。
聞こえるのはサイレンと怒号と悲鳴。
うっすらと瞼を開けると夜明け前だというのに妙に明るい。
いや、赤い。
なるほど、火の赤さであったか。
パチパチと爆ぜる音を聞き、我は明るさの原因を理解する。
ア゛ァァァアー
まあよい、我は眠い。
もう数年、消えそうな母の温もりの残る封印の中でまどろみたいのだ。
オゥンガァァアァ-
だから、そんなに泣くな。
赤子の声は別れた弟たちを思い出してしまうではないか。
ァゥェァァ
それでよい。
「もし、そこの高貴な御方」
声が聞こえる。
我の眠りを妨げるとは狼藉者もよいところだが、我を貴人と見抜いた眼力は評価に値する。
「何用か?」
「お願いです。この子をしばしの間、預かっていただけないでしょうか」
目を開くと朱に染まった女の胸に抱かれた赤子が虚ろな目でこちらを見ている。
血まみれであり、へその緒もついてあった。
我は眠気とその願いを天秤にかけ、考える。
我はこの国の王となる存在である。
それは”あやかし”の世界も、人間の世界も、両方の長に立つ存在である。
王ならば、未来の臣民を慈しむのは当然であろう。
仕方がない、これも王道。
我は岩を押し上げ、そして赤子を手に取った。
「ありがとうございます。優しい君」
女はそう言い残すと、スゥーっと音も無く姿を消した。
ア゛ア゛ァァァゥアー
赤子が泣く。
はてさて、どうしたものか。
空気は冷たい、このままではこの赤子は体温を奪われて死んでしまうであろう。
仕方がない、我の衣を分け与えよう。
恩に着るがよい人間、それは神衣であるぞ。
ウァアアアア゛
赤子の泣き声が聞こえる。
それは倒壊した家屋の下から。
「またか」
我の前に血まみれの女が現れる。
「そこの貴き方。しばしの間、この子を抱いてくれませんか」
我は目の前の衣にくるまれた赤子を見る。
スヤスヤと寝息を立ててはおるが、まだまだ寒そうである。
肌を寄せ合う人間が必要かもしれぬな。
「あい、わかった」
我は腕を伸ばし、柱の下の赤子に触れると、我の腕で守るように引き寄せる。
この程度の柱の重みなど、八岐大蛇の嫡男たる我にとっては箸程度の重さでしかない。
そして、我は箸より重いものなど持ったことがないのだ。
衣にふたり目をくるんでいる間に、あの血まみれの女は姿を消しておった。
あ゛ぁぁぁぁあー
さすがに3回目ともなると、頭を抱える。
血まみれの女がスゥーっと音も無く現れ、瓦礫の一角を指差す。
あれは、かつて風呂だったものであろうか、その中から赤子の声が聞こえ……
「そこにおりますイケメン男子。ちょっくらこの子を……」
……お前、頼み方がおざなりになっておらぬか?
まあ、よかろう。
王たる者は臣民を分け隔てなく愛するものである。
赤子をひとり抱いたなら、この腕が折れるまで何人でも抱くのが王の道というもの。
うむ、これぞ王道! ならばよし!
最終的に赤子は6人になった。
衣と互いの体温で寒さは凌げたが、まだ赤子の声は止まぬ。
おそらく腹が減っているのであろう。
まてまて、未来の我が臣民よ、すぐに仲間の人間の所に連れていってやるからな。
それまで、少し泣くのを止めて腹の減りを抑えるがよい。
『眠れ』
我は権能を使い赤子を眠らせた。
傾く岩の社、ささくれだった道、そして溢れる瓦礫の山。
それらを越えて我は進む。
今より20年以上前、寒き冬の日のことであった。
◇◇◇◇
「久しぶりね」
「ああ、久しいな」
とある夏の日、我は1年ぶりに人間の女と喫茶店で会う。
名は、確か……そう、羽衣。
20年を超す長い付き合いだ。
「羽衣よ、結婚するという話だが」
「そうよ、来週末にハワイで挙式。そのままハネムーン、来週の今頃はあたしはアメリカ横断中ね」
「相手は?」
「中華系アメリカ人の素敵な人よ」
コーヒーを口に付けながら、羽衣は言う。
羽衣はあの日、我が助けた赤子のひとり。
一番幼く、まだへその緒がついていた娘だ。
「めでたいな。だが、悪いが式には行けぬ」
「いいわよ、別に」
我はこの国の王になる道程にある。
数日とはいえ国を離れることはできぬのだ。
「それでは最後の仕送りだ。これからはその伴侶と共に生きるがよい」
「そうね、これであなたともお別れね」
我は分厚い封筒を机の上に置く。
「ありがとう。一応、礼は言っておくわ」
少し不機嫌そうに羽衣はその封筒を受け取る。
これが女中ならば『イヤッホー! 金だぁ!』なんていって靴でも舐めそうな勢いで尻尾を振るというのに。
やはり人間は個体差が大きい生き物であるな。
「海外挙式というがフライトは?」
「来週の金曜」
「そうか、見送りに行こう」
「好きにすれば」
うむ、会話が盛り上がらぬ。
若い女子との会話は難しいと緑乱が言っていたが、その通りであるな。
「ねえ、ひとつ聞いていい?」
「なんでも申せ」
「あなたって、私の母親とどういう関係だったの?」
その問いに我は少し考える。
あの女とはあの日以来会っておらぬ。
「そうだな……ただのゆきずりの仲だ」
バシャ
「ごめんなさい。手がすべっちゃったわ。これはお詫びのクリーニング代」
我のシャツが液体で黒く染まり、一枚の高額紙幣が我の前に置かれる。
羽衣よ、その金は我が渡した封筒から出たものだぞ。
ヴィーンヴィーン
我の携帯が鳴る、赤好からだ。
「何用か弟よ」
『おお! 黄貴の兄貴! わりぃ、ヘマやった。助けてくれ』
ふぅ、と我は溜息をつく。
赤好がこう言う時の用件はいつも同じだ。
金の無心である。
「わかった、いくら必要だ」
長兄たる我は弟たちの面倒を見なければならぬ。
八岐大蛇に八稚女が奉られた時に一緒に奉納された宝、その在りかを知るのは我のみである。
それが我が一家の資金源。
一朝一夕に無くなる物ではないが、無限ではない。
正直、かなり目減りしている。
『な、なあ不動産情報通の珠子さん。これっていくらくらいで元に戻せるかな?』
『えーっと、……住居と店舗の建築費がこれくらいで、さらにお店の内装と厨房機器と什器がこれくらいで……これくらいでしょうか』
電話口の先から女中の声が聞こえる。
どうやら赤好のヘマに一役買っておるようだな。
まあ、女中が『酒処 七王子』の経営を軌道に乗せた功績で、今なら弟たちの小遣いくらいは賄えておる。
小遣いに毛が生えた程度の臨時出費が出た所で心配する事はない。
『計算できたぜ! 黄貴の兄貴! ざっと5000万円くらいだってさ!』
「なんだそれは!?」
うかつにも我は王にあるまじき叫びを上げる。
「なんだか大変なようね。私は先に失礼するわ」
カランカランと音を立てて、喫茶店の扉が動く音がした。
◇◇◇◇
「なんだこれは!?」
我が我が家に戻って発した第一声はそれだった。
いや、我が家に戻れてはおらぬ。
なにせ、家が無くなっていたのであるから。
「あっ、黄貴様だ! おかえりなさーい」
女中が石積みの竈らしきものの前で手を振る。
おそらく料理をしているのであろう。
甘い香りが漂っておる。
「わりぃわりぃ黄貴の兄貴、ちとヘマやっちまった」
薄ら汚れた格好で赤好が頭をかきながらやってくる。
「赤好か、何があった……いや、しばし待て」
目の端に映った姿を見て、我は赤好を制止する。
映った姿とは、木の根にもたれかかった弟、橙依の傷ついた姿だ。
「大事ないか?」
「うん、へーき。休めば治る」
橙依は力なく手を上げるが無理をしているのは自明。
この弟は溜め込むタイプであるからな、体調は本人が言うよりも悪かろう。
妖力は枯渇し、身体は満身創痍、人であれば即入院。
「わかった、しばし待て」
ピッピッと我はスマホを操作する。
便利なアイテムを作ったものよ、人間も。
「駅前のホテルを予約した。そこで休むがいい」
「……ありがとう兄さん。ご飯を食べたら行くよ」
グギュルーと弟の腹の虫が鳴る。
「お待たせしました! そんな橙依君にキャンプご飯です! ジャーン! バナナケーキ!」
ああ、あの甘い匂いの正体はバナナケーキであったか。
「『酒処 七王子』の本館はあの有様ですが、蔵と庭の水道が生きていたのが幸いしました! 小麦と砂糖と卵とバナナを水で練って型に入れ、ダッチオーブンに入れて弱火でじっくり焼けばでっきあがりー! バナナは手で潰れるので、混ぜる道具も包丁も不要! かんたーん!」
パカッっと女中が重たい鉄の蓋を開けると、漏れ出るだけだった甘い香りが一気に広がった。
「……すごい、匂いだけでカロリー大爆発」
切り分けられたケーキが紙皿に盛られ我らの前に出される。
「はい、黄貴様もみなさんもどうぞ。生クリーム系のケーキは衛生の関係で冷たいのが多いですけど、この焼きケーキ系は温かい! 出来立ては格別! いただきまーす」
女中の言葉を合図に我先にとみながバナナケーキを口に運ぶ。
無論我も。
カリッ、フワッ、トロッ
外側はカリッと、中はしっとりフワッ、そしてバナナは形を感じながらもそれが舌の上で柔らかく溶けていく。
いや、舌で潰れる感触が溶けていくように思えるのだ。
「やっぱりスイートホームな珠子さんの料理は最高だな」
「おじさんの旅道具を蔵から引っ張り出してきた甲斐があったよ」
「今は舌鼓を打ちましょう。ですが、電子レンジでもケーキが作れる事はお忘れなく」クイッ
「ふっ、酸いも甘いも噛み分けた俺は知ってるぜ。疲れた時は温かくて甘いのがいい、消化に優しいし、カロリーの吸収もいいからな」
「佐藤殿は博識でござるな。拙者は甘い物も得意でござるよ」
「外はしっとり、中身はカリッ、塩味が効いてるな」
「あら天野君、味覚が鋭いわね。隠し味に塩をパラパラ、それが甘味を引き立てているのよ」
「ぐぬぬ」
なんだかやけに数が多い、見た目の年齢的に橙依の友であろうか。
それに……
「うわー、すごーい美味しそう! いやーん、おいしー! はいっ、ダーリン、私が食べさせてあげる。あーん」
「……僕はダーリンでもない。それに自分で食べれる……おいしい」
この人間の女はなんだ?
金色がかった茶髪で、ジャージの上からもわかる、たわわな乳。
まったくはしたない。
少しは女中の控え目さを見習ったらどうだ。
「橙依よ。こやつは?」
「あっ、はじめまして、えーと……」
「一番上の兄だぜ。黄貴の兄貴」
「ああ! 黄貴義兄さん! 初めまして九段下 月子です。橙依君の運命の人ですっ!」
「……その運命は昼に僕が切り裂いた」
「あーん、いけずぅー」
そう言って九段下と名乗った女は橙依に抱き着く。
ふぅ、事情はわからぬがこの女が居ては話が進まなさそうだな。
「九段下よ、間もなく日も暮れる。今日の所は家に帰るがよい」
「いやよ! もう離さないって決めたもん。それに私は何も悪い事はしていないわ! 罪も無いのに私たちの仲を引き裂かないで!」
ふむ、見るからに思い込みの激しそうな女だ。
だが、話が通じぬというわけではなさそうだな。
「では女よ、お前に悪い所があれば大人しく帰るのだな」
「そーよ、そんな所はどこにもないと思うけど」
まったく、駄々をこねる人間の女はいつの時代も変わらぬな。
こういう女は自らの言葉で縛るに限る。
「そのだらしない恰好と乳はなんだ。純情な弟の教育に悪い」
女はすごすごと帰っていった。
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