戦う理由

タヌキ

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個室の中

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 エレナは泣き続けた。
 けれど、涙だって無限ではない。涙が涸れ、しゃくりあげるばかりになった頃。
 部屋の扉が開けられる。
 入ってきたのは、エレナの知らない男――梁だった。
 彼はエレナが起きていることに気がつくと、ニヤついた笑みを浮かべ近づいてくる。
「お目覚めかな?」
 しかし、彼の言葉は中国語でエレナには何を言っているのか分からなかった。
「寝顔も可愛かったが、起きていても可愛いね」
 本当に、何を言っているのか分からなかったが、エレナは鳥肌が立つのを感じた。
 本能から彼女はベッドから降り、梁から距離を取る。
「つれないな……」
 梁は苦笑する。本人は普通の苦笑のつもりだったが、エレナからすれば悪魔の笑みに他ならない。
「君はもう、僕の物なんだ。少しは懐いてくれてもいいじゃないか」
 にちゃにちゃした口調で話しながら、彼は距離を縮めようとした。
 だが、エレナは極力、梁と対角線上に立とうとする。
 数分の小競り合いの末、業を煮やした梁がベッドに飛び乗ってショートカットを試みた。
 だが、エレナも咄嗟にベッドの下に潜り込んで、彼の攻撃を躱した。
 掃除が行き届いているようで、ベッドの下は塵一つない。
 埃まみれだったら籠もるのは難しかったが、想像以上の快適さにエレナは、ここにしばらく籠もろうと決めた。
 梁はエレナのネグリジェや足を掴んで、引きずり出そうとするも。
 エレナも負けじとベッドの骨組みを握り、脚をバタつかせ、対抗する。
 その必死の抵抗に、梁が折れた。
「……そうか、分かったよ。それじゃあ、気が済むまでそこにいるといい」
 口調こそ余裕ぶっているが、部屋を出る際には。
「もう一度言うが、君はもう僕の物なんだぞ」
 そんな捨て台詞を吐いていった。
 扉が閉まり、足音が遠ざかっていっても、エレナはしばらくの間、骨組みを掴んでいた。
 部屋が静まり返ってから十分近く経ってから、ようやく骨組みから手を放す。
 それから一度、外へ出て布団を下に押し込んでから、また潜り込んだ。
 布団に包まり、胎児のように丸くなる。
(……なんだか、こうするの久しぶりだな)
 彼女は物心ついた頃から、「リンカーン」にいた頃まで、布団や毛布に包まるように寝ていた。
 布団の中は、彼女の中で唯一のサンクチュアリであり、睡眠という動物が一番弱い時間に、我が身を預けられる唯一無二の場所であったのだ。
 しかしながら、石田達と行動するようになってから、特にナザロフの家に滞在するようになってからは意識的に包まることは無くなった。
 石田達が、これまで接してきた多くの人間とは違う人種だと、感覚的に理解していたからだ。
(……おじさん)
 これでは、辛かった時に逆戻りである。
(イリナお姉ちゃん、ナザロフさん……)
 涸れたはずの涙が、また溢れてきた。


 一晩経って、俺は一般病棟に移された。
 これは怪我の治りに支障がなさそうで、なおかつ他に問題が無いことを証明している。
 ただ、それに俺は喜べなかった。
 傷が癒えているといっても、安静を強いられていることに変わりないからだ。
 看護師は口を揃えて「病棟移れて、よかったですね」なんて言うが、こっちはこれっぽっちもよくない。
 何も出来ない虚しさとフラッシュバックが俺を苦しめる。
 昨晩から、ふとした瞬間に嫌な記憶が目の前に広がるのだ。
 エレナを攫われた瞬間から、傭兵時代、果ては幼少期に押入れへ閉じ込められた記憶を追体験される。
 必ず過呼吸気味になって、冷や汗で全身がびしょ濡れになる。
 旅行に行く前に度々起こっていた発作に近いが、あれより大分酷くなっている。
(……畜生)
 色んな感情がめしゃくしゃになって、心を締め付けてきた。
 苦しくてしょうがないが、打ち明けられる人間がいない。
(気持ち悪い……)
 痛む身体に無理を強いりつつ、俺はベッドから降り、トイレに向かった。
 個室に入って、便器の中に嘔吐する。
 ペースト状となった朝食が、胃液と共に水の中へぶちまけられる。
 しゃくりあげては吐き、しゃくりあげては吐きを繰り返す。出てくる物も、最初は固形物が混ざっていたが段々水っぽくなっていき、しまいにはなにも出なくなった。それでも、俺は便器に向かってえづいていた。
 そのうち、えづきは嗚咽にすり替わり、便器につっぷして泣く。
 声を出して、鼻水も拭わず、ボロボロと涙を流す。
 四十八にもなった男がみっともないが、こうしないと心が壊れてしまいそうだった。
 どのくらいそうしていただろうか。
 時間の感覚が消えかけ、思考がまとまらなくなった時。不意に個室の扉が叩かれた。
 その頃には、泣き疲れて、ときおり思い出したかのようにしゃっくりを出すだけだった。
「誰だ……?」
 おおかた、警備員あたりが様子を見に来たのだろう。
 そう思っていたが、返ってきた声は予想外の人物のものだった。
「亮平」
 イリナだ。
「扉、開けて」
 普段の俺なら、開けるか開けまいか逡巡していただろう。でも、今の俺にはそんなことを考える余裕はなかった。
 蜘蛛の糸を手繰るカンダタの如く、俺は扉の錠へ手を掛けた。
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