水茶屋『はなや』の裏看板

こみあ

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第三話 蕎麦屋の神隠し(三)

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「ここでございます」

 そう言って小菊が入っていったのは『はなや』からそう遠くない真砂町の、やはり武家屋敷に囲まれた裏道に店を構えるこじんまりとした蕎麦屋だった。

 中に入ると土間に床几しょうぎが三つ、客もそこそこ入ってる。

「あれが五助ですよ」

 あっさりとそう言って小菊が指し示したのは、店の奥から声をかけてきた、がたいのいい親父。
 店も狭い上に出してるのは蕎麦のみじゃ、注文もそれほど大した数にはならぬのだろう。
 どうやらここはこの親父が一人で切り盛りしている店らしかった。

「どういうことだ?」

 睨みつつ尋ねれば、はぐらかすように肩を竦めて小菊が返す。

「蕎麦屋に来て蕎麦も食べずに立ち話じゃあ野暮ってもんです。まずはこっちに座って」

 奥から顔を出した親父に二人分の蕎麦を注文した小菊は、店の入り口近くにさっさと座ってしまった。仕方なく、黒木もすぐ横に座って様子を伺う。
 さっきの話とは違いこの男、大きな体でくるくると驚くほどよく動く。
 注文されてからすぐ蕎麦を茹で始め、井戸水を汲んできたと思ったら、蕎麦を茹であげ、盛ったと思ったらもう持ってきた。
 まだ水気が滴る艶やかな蕎麦は竹で編んだざるに馬蹄型に並べられ、猪口に半分ほどの黒いつゆと刻み葱まで一緒に運んできた。
 思わず黒木も喉が鳴って箸を取る。

 『神の蕎麦』が一体どんなもんかは知らないが、ここの蕎麦も中々に旨い。
 井戸の冷水でよく冷やされた蕎麦は、喉を滑るように心地よく落ちていく。これからの夏の暑い日には、こいつは本当に旨かろう。
 あっという間に全て食べ終えた黒木は、同様に箸を置いた小菊が五助を手招きしたのを見て、咳払いして顔をしかめる。
 如何に旨かろうと、こんな蕎麦一つでまけるほど黒木はお人好しじゃあない。

「ちょいと親父さん、この蕎麦はやけに白くないかい?」

 そんな黒木の目の前で、小菊は世間話のように五助に話を振った。
 五助は一瞬こまっしゃくれた物言いをする小菊を睨んだが、横に座る黒木の様子をちらり見て、少し改まった様子で返事を返す。

「そりゃそうですよ、更科そばですから」
「へぇ、更科ってぇのは細切りなだけで、もっと黒っぽい蕎麦じゃあないですか」
「そいつは更科じゃあありやせん」

 小菊の言葉をきっぱりと否定して、憮然とした様子で五助が続ける。

「更科つうからには信州で育った玄蕎麦を、外皮を丁寧に剥いでから石臼挽きした一番粉で打たなきゃあ、本もんとは言えやせんです」
「奇遇だねぇ。そりゃまた、人形町の爺婆さんたちと同じこと言いなさる」

 小菊の口から『人形町』の言葉が出た途端、目に見えて五助がぎょっとする。

「ときに五助さん、『神の蕎麦』はこれよりももっと美味しかったんですかい」

 追い打ちをかけるように続けた小菊を、一瞬身を硬くして五助がぎろりと睨んだ。が、すぐに再び横に座る黒木を見やって、観念したように大きなため息を吐く。身をかがめ、他の客には届かぬ掠れた声で五助は小菊に返事を返す。

「ありゃあ、こんなもんじゃあねえ。まるで比べもんにならねえんでさぁ」


   ❖


 暮れ六つも過ぎ、すっかり客がはけた蕎麦屋の床几にはまだ、小菊と五助が座っていた。
 店の中は壁にかけられた行灯の灯りで薄暗く照らされている。
 いかに美味い蕎麦とは言え二食は飽きる。そう言って黒木だけは先に近所で飯を済ませ、番屋に声だけかけて戻ってきたところだ。
 小菊は茶屋の仕事はどうしたのやら、どうやらずっと蕎麦屋に居座っていたらしい。

「じゃあ五助さん。今年の土用の丑の日、その『神の蕎麦』を二人前、お願いできますよね」

 どう話が進んだのやら、黒木が帰ってきた蕎麦屋の中では五助が汗を拭きつつ、小菊に押され気味に返事を濁しているところだった。

「だからあれは『神の蕎麦』であって俺みたいな駆け出しが──」
「いえ、正しくは、『お上の蕎麦』なんでしょう?」
「だからそれは俺の口からはなんとも……」

 いい時に戻ってきたのか、小菊が少し離れて座った黒木を見て、意味ありげにこちらに顔を向ける。

「口止め料とは言いません。こちら定廻りの黒木の旦那はご存知でしょう。ここまで来たら黒木の旦那が『知っていて』来てくれれば安心じゃあないですか?」
「『口止め料』とはなんだ。お上に背くようなことに加担する気はないぞ」

 聞き捨てならぬ小菊の言に、怒気を含めて黒木が問えば、なぜか五助がその場で震え上がる。顔色を悪くする五助と違い、小菊は平気な顔でかまわず返す。

「ではもう一つの『神の蕎麦』のお話を二人で聞いて、それで判断していただきましょう」

 そう言いおいて、小菊はまた背筋を伸ばし、二人を前に今日二つ目の話を始めた。


    ❖


 とある山深い藩にとても不憫な殿様がいらっしゃいました。

 正妻の母は訳けあって子を産めず、この殿様は母の侍女の腹を借りて生まれた庶長子でございました。とは言え、生まれてすぐに母が引き取って我が子として育てたのでございます。ですが父はそれを認めず、その後お手つきとなった妾腹の次男ばかり可愛がり、とうとう嫡子届さえ出さぬまま時は流れてゆくのでございます。

 名ばかりの江戸屋敷に放り込まれ、父への恨み言しか言わぬ母と二人、慎ましやかに育ったこの殿様は、挙げ句、十八という若さで筆頭家老と父に暗殺されかけるのです。

 すんでのところで、もう一人の老家老に救われますが、この男とて腹の中は大差ない欲物で、己の欲から彼の方を救ったに過ぎません。
 長子暗殺未遂はお上に知れるところとなり、筆頭家老は切腹、父は隠居を言いつかり、彼の方はその若さで藩主を継ぐことにとあいなりました。

 さて、藩主を継いだはいいが、祖父や父の放蕩三昧で藩の内情は火の車……と言うより、もう燃やす物もないほどすっからかん。いっそ廃嫡になったほうが楽だったのではと投げ出したくなるようなひどい有様でした。

 ただ一つ救いがあったのはこの殿様、歴代の当主に比べ頭の出来がよろしゅうございました。
 幼い頃より放蕩三昧の父と苦渋を訴え続ける家臣たちを見て育ったこと、また自分を救おうと町民に身をやつして江戸まで来てくれた国元の家臣たちの苦労を見たことも大きかったでしょう。
 江戸から離れず藩領をほったらかした先代とは違い、年に一度は国元に戻り、藩の情勢をその目で学ぶことの出来る賢い殿様でございました。

 お国に戻り、藩史を学んだ殿様はあることに気が付きます。先代たちや家老たちがあれだけ悪政を続けて来たにも関わらず、過去一度も一揆が起きていなかったのです。
 疑問を抱いた殿様は、自分を救い出してくれた家臣を頼み、村々の現状を調べてもらいました。

 藩内の町人農民の扱いはそれは酷いものでありました。内情の苦しかった藩からは御借用金ごしゃくようきんと言う名目で年貢以上に金をむしり取られ、役人たちからは何を願うにも賂金まいないきんを巻き上げられ。
 何十年もそんな生活を強いられてきた藩民たちは、藩に頼ることなく強かに生きるすべを身に着けていました。

 簡単に言えば、巻き上げられる年貢や借用金を賄えるだけの隠し畠などを持ち、米だけではなく蕎麦などを作って食い扶持を増やし、また独自の伝手で直接出荷したりしていたのでございます。

 親を見て子は育つとでも言いましょうか、地頭や豪農さえもまたまいないに長け、隠し畠も穀物の密売も、書面上は綺麗に隠され全て水面下で行われていました。お陰で藩は表向き、どこをどうやっても赤字になる仕組みが出来上がっていたのでございます。

 これを知ってただ民を罰し利益を取り上げるような先代たちとはこの殿様、ちょいとおつむの出来が違います。
 政治の裏も、人の欲も、憎愛も、幼いうちから嫌ってほど見てきた彼の方は、物事には常に表裏があることも、またそれを許容し利用することもよくご存知でいらっしゃいました。


 折しも江戸では信州の蕎麦打ちが考案した白い蕎麦が売れ始めたばかりでございます。
 殿様は『表向き』藩は赤字にしたまま、農民たちが勝手に出荷していた蕎麦を直接江戸で売り出す算段を付けたのです。
 隠し畠などには目を瞑り、表立っては上納金を取らず、それどころか参勤交代の自分の荷まで使って藩の後押しで蕎麦を江戸に流しました。

 蕎麦が売れ、藩民が潤えば、やがては底力も上がって新田開発や潅水作業も可能になります。
 その為にもまずは民草が飢えないよう、貧農や食い扶持にあぶれた御家人からも蕎麦の打てる者を集めては江戸に送って店を持たせて、出荷した蕎麦の受け皿まで用意する周到さ。

 あの人形町の爺婆もそうして江戸で商売を始めた口でございましょう。某藩の江戸屋敷近くに店が多いのもこの為にございます。

 こうして民の為に動いてくれた賢い殿様のところへ、とある豪農が素晴らしい献上品を持ち込んでくれます。

 苦しい民草が厳しい冬を越すために編み出した保存法。
 寒い冬にわざわざ凍りかけの沢で蕎麦の実を洗い、寒風に晒して年を越させたそれは未だ世に出ぬ特別な蕎麦。
 藩が潤わねば決して表に出てこなかったであろう農村の非常食であり、年に僅かばかりしか作られない、幻の蕎麦にございます。

 蕎麦好きと言われる上様がこれをお気に召したのは言うまでもなく。こうして江戸でも大層な役回りを頂き、彼の殿様は今もご活躍とのことにございます。
 まさしく藩民から賢い殿様にもたらされたそれは、知る人ぞ知る、『神の蕎麦』ならぬ『お上の蕎麦』にございます。

 さて、ここで江戸に話を戻しましょう。

 上納されましたこの特別な蕎麦、一部の者には城内で上様から下賜が行われます。蕎麦好きなお上のこともあり、下賜された者たちの口から自慢を多分に含んだ噂話があっという間に広がりました。
 面白くないのは、江戸近辺で蕎麦を賄っていた問屋株主、そしてそれに繋がりを持ち、まだ城内で特別の蕎麦にありつけないお偉方です。
 彼の殿様も城内ならば勝手知ったる賂で済ますことも出来ますが、町人はそうは行きません。

 ここで殿様、一計を案じます。
 江戸に集めた蕎麦打ちに、年に一度、下屋敷への奉公を申し付けたのです。
 江戸市中の顔どころ、選ばれた者だけが数年に一度、同じ『土用の丑の日』に下屋敷へ呼ばれてご機嫌伺いに出向きます。
 そこでこっそり振る舞われるのが、先述の『お上の蕎麦』。

 これがあの、土用の丑の日に五助が食べた『神の蕎麦』の顛末にございます。
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