水茶屋『はなや』の裏看板

こみあ

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第三話 蕎麦屋の神隠し(四)

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 まるで全て見てきたかのように迷いなく最後まで話しきった小菊は、講釈師よろしく一礼して話を締めくくった。
 五助は一体どこまで知っていたのか、途中『暗殺』やら『賂』などの言葉が出るたびに顔色を失い、最後は耳を塞いで聞くのを拒絶する有様。
 黒木もいっそ聞かないほうが良かったかと思案する。

「それで、なぜそんな話をお前のような小娘が知っている」

 そう問えば小菊はにやりと嫌な笑みを浮かべて唄うように言う。

「それをお聞きになるならもう一両。お酌百文、お話一両、ねやの誘いは一千両。お話はただじゃあございません」

 しゃあしゃあと胸を張る小菊に黒木はふんっと鼻を鳴らし、

「ならば小娘の与太話を信じる義理もなし」

 と言い返す。
 すると打てば響くと言うが如く、すかさず小菊がまた口を開く。

「まあそう言われることは承知の上。これまですでにお話二つ。ここまではご挨拶代わりと致しましょう。では三つ目、『水茶屋娘の小菊』の触りだけ。『わっち生まれは大門の中、父は桜田門のあちら側、名も言えぬ怖いお方にございます──』」

 ここで黒木も合点がいった。
 先程からの小菊の話術は町娘のものではない。
 かと言って、武家の娘が話す言葉ともまた違う。

 あれは郭で話す夜話のそれか。
 
 驚きつつも、ふと思い浮かぶ一人の名前『菊太夫』──

「さてまだ『水茶屋娘の小菊』、続きを本当にお聞きになりますか?」

 そう言う小菊の口元は薄っすらと笑み、目はぎらぎらと輝いて、年端もいかぬ小娘とは思えぬ異様な凄みを醸し出す。
 ぐっと口を引き結び眉根を寄せた黒木は、もうこれ以上は聞きたくもないと諦めた。

 大門の向こう側は修羅の極楽だ。表を過ぎれば美しく、裏を覗けば命が危うい。それは一介の同心風情の自分だって代わりはない。
 あの奥には生まれて一度も表に出ることなく、江戸のことを隅々までよく知る者がいるとも聞く。
 また、小菊が話した『とある藩』の一件は、大きな不祥事として黒木の知る話と一致していた。

 驚くべきは小菊の話術。以前書物で読んだ長々と煩雑な某藩お家騒動の顛末が、まるで絵巻で書かれた一本の筋がごとくすんなりと得心できてしまった。
 今度もまた、黒木は気づけばすっかり小菊の話に聞き入ってしまっていたのだ。

 かと言って、このまま全てこの小娘が言う通りに収まるのも癪である。

「ならば、お前の話が事実だとして、その五助がなぜここで蕎麦屋を開いてる」

 意地悪が透ける黒木の問に、ちらりと五助の顔を見た小菊は笑顔で答えを返す。

「これはすでに人形町の爺婆から聞きましたが、土用の丑の日、あの老夫婦も下屋敷へご奉公に出る為に店を閉めました。ですがしつこい五助が店に忍び込むのは承知の上。つい絆されて、蕎麦好きの五助に一口だけ、特別な蕎麦を残したのだそうです。ただ五助の口から『神の蕎麦』なる噂が立ち始めたのには爺婆も驚きました。なんせ語呂が不味い。こりゃあいかんと蕎麦を餌に五助を説得し、下屋敷の下働きとして奉公に出したのでございます」

 どうやら小菊の話は本当らしく、これを聞いた五助がやっと少し顔色を取り戻す。

「この蕎麦屋を任されたのはただただこの五助さんの才覚でしょう。好きこそものの上手なれって言いますし、事実、頂いた蕎麦はまさしく更科。
『神の蕎麦』をもう一度食べたいがため、よっぽど真剣に学んだじゃあありませんか」

 少しほっとした顔で頷いた五助だが、黒木の次の問にまたも顔色をなくす。

「だがしかし、そんな藩内の事情を知られてなぜ殺さない」
「その必要がないからですよ……心配なさいますな五助さん。今日こちらに伺ったのも、黒木の旦那をお連れしたのも、全て某藩のとある方からの口添えあってでございます」

 先ずは五助を安心させるように声をかけた小菊は、再度黒木に視線を戻す。

「藩領内の収穫は藩主の裁量。どのように管理されていても上納米が収まってさえいれば大きなお咎めはございません。前藩主のように放蕩を繰り返そうが、彼の殿様のように善政で蓄財しようが問題はないのです。ただ年に一度とは言え、お上が召し上がる上納品と全く同じものが、町民に振る舞われていると噂がたつのは好ましくない、という程度でございます」

 ここでまた、小菊が口元をやんわりと緩め黒木をじっと見つめる。

「ですから、定廻り同心の旦那が『知った』上でたまにここへ足を伸ばし、美味い蕎麦を食べてくだされば、馬鹿な噂をするものも、無理を言う客も寄って来なくなるでしょう」

 伏せ目がちに小菊が進言しているのは、要は定廻りの自分がここへ足を運ぶことでお上『黙認』のように見せかけようってことだろう。

 と言うことはだ。
 今日自分は最初からこの娘の思惑に載せられてまんまとここにいるという事か。

 呆れるを通り越して、思わず笑みがこぼれた。

「そのついでにですね、一度くらいはその噂の蕎麦も味見してみたいものだと……」

 手数料を棒びくどころか、俺を利用して、しかもちゃっかり自分も『お上の蕎麦』にありつく気か。
 流石に最後のは難しいとわかっているのか小声になりがちだが、そうかと思えば悪戯にまた目を輝かせてこちらを見る。

「まあ、黒木の旦那がそれ以上望むというのですあれば止めは致しません、脅して金を揺することだって無理とは言いません。ただし──」
「蕎麦でいい」

 目を輝かせた小菊を黒木が素早く遮った。
 黒木も馬鹿じゃあない。金を稼ぐに越したことはないが、だからと言って身に余る危険を犯してまでとは思わない。
 思わず答えたが、これもまた小菊の思惑通りだろう。
 それはまあ癪ではあるが、ここに来て小菊の申し出を考える。

 黒木もこの店で時折旨い蕎麦を食べること自体に否があるわけじゃあない。
 また、これは全て小菊が言うとおり、自分の役分とは一切関わりのない話である。自分が取り締まったり報告すべき内容は一つもない。

 ましてや、夏には雲の上におわす上様が嗜まれるのと同じ『神の蕎麦』を食べられるという。
 それは、一生この定廻り同心と言う下役から逃がれられぬであろう黒木にとって、中々に痛快な余録であった。

「見廻りは持ち番の月の五日と非番の二十日、暮れ六つ頃に蕎麦を準備しておけ」

 そう言いつつ、小菊を盗み見る。
 思い通り黒木の了承をもぎ取ったにも関わらず、小菊は別段喜ぶ様子もなく、もう既に淡々と爺婆への言付けを五助に指示している。
 その様子はどうにも水茶屋で働き出したばかりの小娘とは思えない。
 もしこの小菊があの『菊太夫』の娘だと言うのなら──
 慌てて黒木は思考をやめる。
 知らぬが仏の『お話』もこの世を渡るにゃ沢山ある。

 こうして黒木への支払いを『お話』で済ませた小菊は、それ以来、今に至るまで一度として黒木を失望させる話をしたことがない。
 毎回結局は黒木も納得ずくで、全て『お話』だけで勘定を済ましてしまうのだった。


 去年の夏、五助の店でこっそり食べた『お上の蕎麦』の極上の味は、未だ黒木にも忘れられない。
 夏の長い日が傾く中、今日も小娘の小賢しい、だが無視するには惜しい話を土産に帰途につく。
 いつしか黒木も、小菊の話を楽しみにこの界隈に足を伸ばしていることに、気づく日が来ることだろう。


蕎麦屋の神隠し(終)
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