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Ⅶ 魔女の決意
x 去る者と残される者
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「なんだよそれ」
伯爵の祈るような言葉のあと、しばらく誰も言葉を見つけられずにいた。
だがその静寂を破ったのは、レイモンドのまるで子供のような一言だった。
「『正しい』『正しい』って言うけど、結局は僕を踏み台にして兄上とアズレイアを手に入れようとしたってだけじゃないか」
レイモンドの言葉に、モントレー伯爵の顔色が一段と暗く陰る。
「理解し難いよ。こんな禁忌を禁忌とも思わない魔女も、それを理解した上で兄上に嫁がせてまで手に入れようとする父も──」
そんなことはお構いなしに、レイモンドが小馬鹿にするように肩をすくめて見せ、
「──薄気味悪い」
そしてアズレイアをまっすぐに見て、吐き捨てるように言い放った。
レイモンドの辛辣な言葉は、多分、大多数の貴族や学院の研究者の気持ちを代弁するものなのだろう。
それをアズレイアも充分理解している。
だからこそ、すぐには言い返す言葉が見つからない。
レイモンドの心無い言葉に心を痛めたのは、アズレイアや伯爵だけではなかった。
幼くして近衛隊に入り、従軍したカルロスはこの国だけではなく遠い南の国も見ている。
言葉も近く、生活習慣も近い国でありながら、かの国は我が国よりもほんの少しだけ、土壌に恵まれている。
ただそれだけで、同じ旱魃の年、かの国では飢えるものをほとんど見なかった。
いやそれだけではない。多分備蓄や治水方法も違っていた。
そうした知恵を少しでも取り入れたいと思ったからこそ、カルロスもアルも南の国との交易に力をいれたのだ。
今やアルがかの国の王女を妻に迎え、交易も盛んになり、可能性は大いに拡がったわけだが。
アズレイアの研究もまた、この国が飢えを忘れるには必要な研究なのだろう。
それを改めて聞かされたカルロスには、とてもレイモンドの貴族的な言葉に賛同できない。
というか、彼を含む権威者たちを、殴ってでも分からせてやりたい……。
冷笑を浮かべてこちらを見返すレイモンドに、カルロスが覚悟を決め、思い切って口を開く。
「もうお前を当主に担いで怠けるのはやめだ。俺がこの家の当主になって──」
「そんなことないわ。だって私、結婚しないもの」
が、カルロスの言葉と同時に、アズレイアもまた宣言した。
それを聞いて、一番ショックを受けているのがカルロスだ。
だがカルロスが口を挟む間もなく、アズレイアが喋りだす。
「伯爵様。沢山の気遣いをありがとうございます。私、改めて気づきました。私の人生がどれほど恵まれていたのかを」
ペコリと頭を下げたアズレイアに、カルロスが言葉を飲み込んだ。
アズレイアにはアズレイアの、言いたいことがあるのだろう。
それを自分は先に聞くべきだ。
そう理解して、ぐっと我慢する。
「レイモンド、あなたにとって、私の研究は一銭も産まず、地位を上げず、貴族を喜ばせもしない無駄なものに見えているのかもしれない。視点が違うあなたにはこの研究はただ醜悪で、意味も価値も解らないのでしょう」
今、アズレイアは、目をそらすことなくレイモンドを見て堂々と話す。
もしここまでの伯爵の言葉がなければ、アズレイアはこうしてレイモンドとまっすぐに向き合えなかったかもしれない。
「でも私にとってこの研究は、何にも変えがたい、一生を掛けてやり遂げなければならないものなのよ」
たとえ今、自分が言葉を重ねても、この人にはやっぱり伝わらないかもしれない。
だとしても。
アズレイアは諦めるわけにはいかない。
なぜなら彼は、これからアズレイアが説得しなければいけない、数々の難問のたかが一人目でしかないのだから。
レイモンドの本心を聞いた今、アズレイアにとって、これは自分の研究の意義をちゃんと説明させてもらえる、初めてのチャンスなのだと思えた。
すっと息を吸って、吐いてみる。
「だって私、母を殺して生きているんだもの」
そしてアズレイアは、それまで誰にも話したことのない、彼女の秘密を口にした。
「あの旱魃の年。私は幼なすぎて何もできなかった。覚えていることは少ないけれど、何日も食べるものも飲むものもなくて、お腹がすきすぎて、もう息をするのも辛かったのは覚えてる」
思い出すのも苦しい、自分の過去を、アズレアはだからといって忘れようとはしない。
「本当に辛くなるとね、息が痛いの。乾ききった喉を通る空気が熱くて、ただただ痛くて」
乾く喉が焼ける痛み。
その記憶は、今も忘れられず、時に夢に見る。
「もう手も足も指さえも動かせなくて、息を吸うために胸を上下するのも億劫で。生きられる時間なんてもう、大してあるとは思えない。もう楽になりたくて。だから私はそっと息をするのをやめたの」
でも死はアズレイアにそんなに優しくなかった。
「息を止めたら、のどの痛みが治まった代わりに、今度は胸と頭がくぅっと痛くなって。気づいたら私、母の腕を掴んでた」
掴んで、しまっていた。
もう動かないと思っていた自分の手が、勝手に動いた。
自分に乗せられていた母の腕を掴んだのは、多分単なる反射だろう。
でもあの時、母が一瞬笑った気がした。
「次の瞬間、私の口に何か生暖かいものが流れ込んできた。臭くて、ベタついて、気持ち悪い、だけど喉を潤すその赤い液体のおかげで、私はその一時をなんとか生きながらえてしまった……」
これをアズレイアが口にするのは初めてだ。そして多分、最後だろう。
「伯爵様がいらして水や食べ物をくださったのはその直後。母は餓死したのではなくて、自分で手首を切って私に命を分けたせいで死んだのよ」
アズレイアの話す壮絶な過去に自分の記憶を重ね、伯爵もまた苦しげにため息を吐く。
石柱を手配し、魔法陣を刻み付け、改めて彼女の家に戻ったとき。
彼女の母は、アズレイアを腕に抱き、微笑みながら絶命しようとしていた。
最後の一滴まで娘に与えようと、体を壁に寄りかからせたまま。
伯爵が腕に抱いた時、彼は彼女の最後の吐息を聞いたのだ。
「母の血を飲んで、私は今ここにいる。母はその血を全て私に飲ませて、そして死んでいったのよ」
アズレイアには、一人残されたことを恨むことも、詰ることも許されない。
なぜならば、アズレイアは生き残った側なのだ。
「でもね、私みたいな人間はあの村には沢山いたわ。母をなくした子も、子をなくした親も。沢山、沢山ね」
こんな話をしているのに、アズレイアの気持ちは凪いでいる。
「私はそんな村で、村の皆を親代わりに育ったの。普通の親と同じ愛はもらえなかったけれど、どんなに苦しいときも、誰一人として私を損なおうとする人はいなかったわ。一緒に水を運び、麦を育て、同じ食べ物を同じだけ食べて。でもその生活も、一度の旱魃でまたゼロになる。それじゃダメなのよ」
それはきっと、ただ一人、同じあの時を知っている伯爵が、隣に座ってくれているからかもしれない。
「村の子として育った私には、返さなくてはならない義務がある。それは人として、一生を賭して、自分の能力の全てを費やして、初めて返すことが出来る借りなのよ」
別にアズレイアはこれを話して同情を買いたいわけではない。
ただ、自分にはこの家や金では賄えない、一生をかけてやり遂げるべき目標があることを知ってほしかっただけだ。
だがこの先を続けるのは、もう単なるアズレイアの自己満足でしかない。
そう理解していてもなお、アズレイア自身が前に進むために、彼女は彼に伝えなければならない。
「レイモンド。あなたにこれを言う機会がなかったわね。たとえあなたが私を騙していたにしろ、一時の夢を与えてくれたあなたに感謝してるわ。人がなぜ人を愛し、子を育み生きようとするのか。あの時初めて実感できた」
人が触れる暖かさを、感じたのは母以来だった。
村では淡々と生きるのに忙しすぎて、誰もアズレイアにそんなことを教えてはくれなかった。
学校に入ってからも、友人と過ごすことさえなかったアズレイアに、レイモンドは唯一、気を許せる時間をくれたのだ。
その事実は、裏切られた今も変わらない。
「あなたのした仕打ちに、私は無論傷ついたけれど、貴方から受けとった人を愛するっていう経験は、今誰でもなく私自身の糧になってる」
自分の身体を抱きしめて、自分の中に息づくその感情に胸を震わせる。
それは今、再びその相手を見つけて、以前よりももっと強くアズレイアを魅了している。
そう、今アズレイアがカルロスに向けるこの気持ちも、もしレイモンドとの時間がなければ、こんなに簡単に理解できなかったのかもしれない。
「だから私はあのとき、なにも波風をたてずに終わりにしたのよ」
レイモンドに未練はない。
だけど、あの時間を共に過ごした記憶の中の彼には、今も少なからず借りがあったのだ。
そしてこれを話し終えた今、彼への恨みももう過去になる。
全てを話しきったアズレイアは、静かにレイモンドの顔を見る。
別に答えを待っていたわけではない。
ただそれでも、彼の中にも何かしら、自分との時間で培われたものがあるように。
微かにそんな希望を持ったのかもしれない。
「バカバカしくてやっていられない」
ゆうに十数えるほど見つめ合った後、先に視線を外したのはレイモンドだった。
ぶっきらぼうに言い放ち、そして席を立つ。
「父上も兄上も、もう好きにすればいいさ」
そしてカルロスとモントレー伯爵を交互に見比べながら言葉を続けるレイモンド。
「こっちは局長になるのも時間の問題だ。そうなれば僕を取り込みたい家など掃いて捨てるほど出てくるだろう」
そこで言葉を切ると、伯爵に向かってはっきりと宣言する。
「僕は他家へ養子縁組させてもらうよ。だがそれまでは家名は使わせてもらう」
そう言い切ったレイモンドはもう振り返ることもなく東屋を後にした。
重ねた言葉には、意味があったのだろうか?
いつか彼がそれを思い出し、何かを感じる日は来るのだろうか。
願わくば、あって欲しい。
たとえ今は否定されようとも、今の話は、何かしら彼の記憶に残るだろう。
それで彼が違う結論をどこかで出してくれますように。
アズレイアはただ静かにそう願う。
「俺たちももう帰ろう」
ぼうっとそんなことを考えていたアズレイアの肩に、カルロスが手を置いて言う。
促され、アズレイアも席を立った。
「また、来てくれ」
一体それは、カルロス、アズレイア、どちらに言ったのだろう。
帰ろうと席を立った二人の背に、伯爵の声がかかる。
一瞬歩みを止めたカルロスが、小さくため息をついて振り返る。
「親父。あんたの意向は理解はするが、俺は貴族に向かない。アズレイアも向かない。悪いがレイモンドを説得するんだな」
貴族らしい口調を捨てたカルロスの返答は、なんともすげないものだ。
それを聞いた師の顔に、今までで一番深い悲しみが浮かぶのを見て、アズレイアは思わずカルロスの腕を掴む。
それを見たカルロスが、はぁと大きなため息を吐いてアズレイアを見た。
しばらく睨み合った二人だが、最後にはカルロスが諦めたように頭をグシャグシャとかき回して付け足す。
「まあ身体に気をつけろよ。でないとアズレイアが悲しむ」
ぶっきらぼうにそう言うと、今度こそ振り返らずに歩きだす。
カルロスの言葉を聞いて目を見開いた師を確認して、アズレイアは師に頭を下げた。
そしてカルロスの背を追って、整え直された小道を小走りにかけだした。
伯爵の祈るような言葉のあと、しばらく誰も言葉を見つけられずにいた。
だがその静寂を破ったのは、レイモンドのまるで子供のような一言だった。
「『正しい』『正しい』って言うけど、結局は僕を踏み台にして兄上とアズレイアを手に入れようとしたってだけじゃないか」
レイモンドの言葉に、モントレー伯爵の顔色が一段と暗く陰る。
「理解し難いよ。こんな禁忌を禁忌とも思わない魔女も、それを理解した上で兄上に嫁がせてまで手に入れようとする父も──」
そんなことはお構いなしに、レイモンドが小馬鹿にするように肩をすくめて見せ、
「──薄気味悪い」
そしてアズレイアをまっすぐに見て、吐き捨てるように言い放った。
レイモンドの辛辣な言葉は、多分、大多数の貴族や学院の研究者の気持ちを代弁するものなのだろう。
それをアズレイアも充分理解している。
だからこそ、すぐには言い返す言葉が見つからない。
レイモンドの心無い言葉に心を痛めたのは、アズレイアや伯爵だけではなかった。
幼くして近衛隊に入り、従軍したカルロスはこの国だけではなく遠い南の国も見ている。
言葉も近く、生活習慣も近い国でありながら、かの国は我が国よりもほんの少しだけ、土壌に恵まれている。
ただそれだけで、同じ旱魃の年、かの国では飢えるものをほとんど見なかった。
いやそれだけではない。多分備蓄や治水方法も違っていた。
そうした知恵を少しでも取り入れたいと思ったからこそ、カルロスもアルも南の国との交易に力をいれたのだ。
今やアルがかの国の王女を妻に迎え、交易も盛んになり、可能性は大いに拡がったわけだが。
アズレイアの研究もまた、この国が飢えを忘れるには必要な研究なのだろう。
それを改めて聞かされたカルロスには、とてもレイモンドの貴族的な言葉に賛同できない。
というか、彼を含む権威者たちを、殴ってでも分からせてやりたい……。
冷笑を浮かべてこちらを見返すレイモンドに、カルロスが覚悟を決め、思い切って口を開く。
「もうお前を当主に担いで怠けるのはやめだ。俺がこの家の当主になって──」
「そんなことないわ。だって私、結婚しないもの」
が、カルロスの言葉と同時に、アズレイアもまた宣言した。
それを聞いて、一番ショックを受けているのがカルロスだ。
だがカルロスが口を挟む間もなく、アズレイアが喋りだす。
「伯爵様。沢山の気遣いをありがとうございます。私、改めて気づきました。私の人生がどれほど恵まれていたのかを」
ペコリと頭を下げたアズレイアに、カルロスが言葉を飲み込んだ。
アズレイアにはアズレイアの、言いたいことがあるのだろう。
それを自分は先に聞くべきだ。
そう理解して、ぐっと我慢する。
「レイモンド、あなたにとって、私の研究は一銭も産まず、地位を上げず、貴族を喜ばせもしない無駄なものに見えているのかもしれない。視点が違うあなたにはこの研究はただ醜悪で、意味も価値も解らないのでしょう」
今、アズレイアは、目をそらすことなくレイモンドを見て堂々と話す。
もしここまでの伯爵の言葉がなければ、アズレイアはこうしてレイモンドとまっすぐに向き合えなかったかもしれない。
「でも私にとってこの研究は、何にも変えがたい、一生を掛けてやり遂げなければならないものなのよ」
たとえ今、自分が言葉を重ねても、この人にはやっぱり伝わらないかもしれない。
だとしても。
アズレイアは諦めるわけにはいかない。
なぜなら彼は、これからアズレイアが説得しなければいけない、数々の難問のたかが一人目でしかないのだから。
レイモンドの本心を聞いた今、アズレイアにとって、これは自分の研究の意義をちゃんと説明させてもらえる、初めてのチャンスなのだと思えた。
すっと息を吸って、吐いてみる。
「だって私、母を殺して生きているんだもの」
そしてアズレイアは、それまで誰にも話したことのない、彼女の秘密を口にした。
「あの旱魃の年。私は幼なすぎて何もできなかった。覚えていることは少ないけれど、何日も食べるものも飲むものもなくて、お腹がすきすぎて、もう息をするのも辛かったのは覚えてる」
思い出すのも苦しい、自分の過去を、アズレアはだからといって忘れようとはしない。
「本当に辛くなるとね、息が痛いの。乾ききった喉を通る空気が熱くて、ただただ痛くて」
乾く喉が焼ける痛み。
その記憶は、今も忘れられず、時に夢に見る。
「もう手も足も指さえも動かせなくて、息を吸うために胸を上下するのも億劫で。生きられる時間なんてもう、大してあるとは思えない。もう楽になりたくて。だから私はそっと息をするのをやめたの」
でも死はアズレイアにそんなに優しくなかった。
「息を止めたら、のどの痛みが治まった代わりに、今度は胸と頭がくぅっと痛くなって。気づいたら私、母の腕を掴んでた」
掴んで、しまっていた。
もう動かないと思っていた自分の手が、勝手に動いた。
自分に乗せられていた母の腕を掴んだのは、多分単なる反射だろう。
でもあの時、母が一瞬笑った気がした。
「次の瞬間、私の口に何か生暖かいものが流れ込んできた。臭くて、ベタついて、気持ち悪い、だけど喉を潤すその赤い液体のおかげで、私はその一時をなんとか生きながらえてしまった……」
これをアズレイアが口にするのは初めてだ。そして多分、最後だろう。
「伯爵様がいらして水や食べ物をくださったのはその直後。母は餓死したのではなくて、自分で手首を切って私に命を分けたせいで死んだのよ」
アズレイアの話す壮絶な過去に自分の記憶を重ね、伯爵もまた苦しげにため息を吐く。
石柱を手配し、魔法陣を刻み付け、改めて彼女の家に戻ったとき。
彼女の母は、アズレイアを腕に抱き、微笑みながら絶命しようとしていた。
最後の一滴まで娘に与えようと、体を壁に寄りかからせたまま。
伯爵が腕に抱いた時、彼は彼女の最後の吐息を聞いたのだ。
「母の血を飲んで、私は今ここにいる。母はその血を全て私に飲ませて、そして死んでいったのよ」
アズレイアには、一人残されたことを恨むことも、詰ることも許されない。
なぜならば、アズレイアは生き残った側なのだ。
「でもね、私みたいな人間はあの村には沢山いたわ。母をなくした子も、子をなくした親も。沢山、沢山ね」
こんな話をしているのに、アズレイアの気持ちは凪いでいる。
「私はそんな村で、村の皆を親代わりに育ったの。普通の親と同じ愛はもらえなかったけれど、どんなに苦しいときも、誰一人として私を損なおうとする人はいなかったわ。一緒に水を運び、麦を育て、同じ食べ物を同じだけ食べて。でもその生活も、一度の旱魃でまたゼロになる。それじゃダメなのよ」
それはきっと、ただ一人、同じあの時を知っている伯爵が、隣に座ってくれているからかもしれない。
「村の子として育った私には、返さなくてはならない義務がある。それは人として、一生を賭して、自分の能力の全てを費やして、初めて返すことが出来る借りなのよ」
別にアズレイアはこれを話して同情を買いたいわけではない。
ただ、自分にはこの家や金では賄えない、一生をかけてやり遂げるべき目標があることを知ってほしかっただけだ。
だがこの先を続けるのは、もう単なるアズレイアの自己満足でしかない。
そう理解していてもなお、アズレイア自身が前に進むために、彼女は彼に伝えなければならない。
「レイモンド。あなたにこれを言う機会がなかったわね。たとえあなたが私を騙していたにしろ、一時の夢を与えてくれたあなたに感謝してるわ。人がなぜ人を愛し、子を育み生きようとするのか。あの時初めて実感できた」
人が触れる暖かさを、感じたのは母以来だった。
村では淡々と生きるのに忙しすぎて、誰もアズレイアにそんなことを教えてはくれなかった。
学校に入ってからも、友人と過ごすことさえなかったアズレイアに、レイモンドは唯一、気を許せる時間をくれたのだ。
その事実は、裏切られた今も変わらない。
「あなたのした仕打ちに、私は無論傷ついたけれど、貴方から受けとった人を愛するっていう経験は、今誰でもなく私自身の糧になってる」
自分の身体を抱きしめて、自分の中に息づくその感情に胸を震わせる。
それは今、再びその相手を見つけて、以前よりももっと強くアズレイアを魅了している。
そう、今アズレイアがカルロスに向けるこの気持ちも、もしレイモンドとの時間がなければ、こんなに簡単に理解できなかったのかもしれない。
「だから私はあのとき、なにも波風をたてずに終わりにしたのよ」
レイモンドに未練はない。
だけど、あの時間を共に過ごした記憶の中の彼には、今も少なからず借りがあったのだ。
そしてこれを話し終えた今、彼への恨みももう過去になる。
全てを話しきったアズレイアは、静かにレイモンドの顔を見る。
別に答えを待っていたわけではない。
ただそれでも、彼の中にも何かしら、自分との時間で培われたものがあるように。
微かにそんな希望を持ったのかもしれない。
「バカバカしくてやっていられない」
ゆうに十数えるほど見つめ合った後、先に視線を外したのはレイモンドだった。
ぶっきらぼうに言い放ち、そして席を立つ。
「父上も兄上も、もう好きにすればいいさ」
そしてカルロスとモントレー伯爵を交互に見比べながら言葉を続けるレイモンド。
「こっちは局長になるのも時間の問題だ。そうなれば僕を取り込みたい家など掃いて捨てるほど出てくるだろう」
そこで言葉を切ると、伯爵に向かってはっきりと宣言する。
「僕は他家へ養子縁組させてもらうよ。だがそれまでは家名は使わせてもらう」
そう言い切ったレイモンドはもう振り返ることもなく東屋を後にした。
重ねた言葉には、意味があったのだろうか?
いつか彼がそれを思い出し、何かを感じる日は来るのだろうか。
願わくば、あって欲しい。
たとえ今は否定されようとも、今の話は、何かしら彼の記憶に残るだろう。
それで彼が違う結論をどこかで出してくれますように。
アズレイアはただ静かにそう願う。
「俺たちももう帰ろう」
ぼうっとそんなことを考えていたアズレイアの肩に、カルロスが手を置いて言う。
促され、アズレイアも席を立った。
「また、来てくれ」
一体それは、カルロス、アズレイア、どちらに言ったのだろう。
帰ろうと席を立った二人の背に、伯爵の声がかかる。
一瞬歩みを止めたカルロスが、小さくため息をついて振り返る。
「親父。あんたの意向は理解はするが、俺は貴族に向かない。アズレイアも向かない。悪いがレイモンドを説得するんだな」
貴族らしい口調を捨てたカルロスの返答は、なんともすげないものだ。
それを聞いた師の顔に、今までで一番深い悲しみが浮かぶのを見て、アズレイアは思わずカルロスの腕を掴む。
それを見たカルロスが、はぁと大きなため息を吐いてアズレイアを見た。
しばらく睨み合った二人だが、最後にはカルロスが諦めたように頭をグシャグシャとかき回して付け足す。
「まあ身体に気をつけろよ。でないとアズレイアが悲しむ」
ぶっきらぼうにそう言うと、今度こそ振り返らずに歩きだす。
カルロスの言葉を聞いて目を見開いた師を確認して、アズレイアは師に頭を下げた。
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