元救急医クラリスの異世界診療録 ―今度こそ、自分本位に生き抜きます―

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第一章

第16話 姫様のランチ

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翌日。
クラリスは一人、フィーリアの居室の扉の前に立っていた。

『俺の患者だって、二日も休んじまえば困るしな。
……それにな、俺は……人前で全裸になるのが大嫌いなんだよ』

ミュラーはそう言い残し、ヴィルも「自分は診察に同席できないから」と同行を断ってきた。
ルスカは公務。

結局クラリスは、ひとりで来るほかなくなったのだった。

「はあ……緊張するなあ……
でも……推しと結婚したら未来の義妹かもしれないしな……!」

ぼそぼそと呟きながら拳を握りしめていた、そのとき。

「なにをぶつぶつ言っているんですか。早く入ってください」

ぴたりと動きが止まる。

びくりと肩を揺らしながら顔を上げると――
扉は開いていて、真横にはいつの間にかカレルの姿があった。

とても怪訝そうな顔で、クラリスを見下ろしている。

「あっ、すみません!入ります!」

クラリスは慌てて一礼し、足早に部屋へと入っていった。






カーテンの閉ざされた室内は、昨日と同じように薄暗い。
隅に置かれたランプが淡く灯っている。

(昨日も思ったけど……やっぱり暗くない?診察のために、あえてこうしてるんだよね……?)

視線を彷徨わせるクラリスの目に入ったのは、白いベッドの上に静かに横たわる少女ひとりの姿だった。

「よく来てくださいました」

フィーリアは微笑みながら、ゆっくりと身を起こす。
その笑顔に、クラリスは思わず頬を染めた。

(か、可愛い~~~~~!)

「体調はいかがですか?」

頬と高まる内心を押さえつつ、そっとベッドサイドに荷物を置きながら尋ねると、フィーリアは小さく頷き、そして――

「ええ、よろしくてよ。お気遣い、ありがとう。そんなことより……」

するりとクラリスの手が取られた。

「わたくし、ランチをご一緒するのをとても楽しみにしていましたの。
聞きたいことが、たくさんありますのよ」

そっと握られる手。
寄せられる顔。
ほんのり香る、花のような匂い。

(……わたし今日、死ぬのかな……?)

クラリスは、ごくりと喉を鳴らした。
 







それからフィーリアがメイドに一言声をかけると、あれよあれよという間に準備が整っていった。

ベッドサイドには、シミひとつないテーブルクロスをかけた小さなテーブルが運ばれ、クラリス用に黄金で飾られた椅子が設えられる。

ぽかんと口を開けているクラリスをよそに、きらきらのカトラリーやグラス、前菜のサラダが次々と運ばれてきた。

気づけば、クラリスは“今日という日に”乾杯していた。

(ルスカって、あんな雑に扱ってるけど……本当はこんなふうに接遇されて育ってる人なんだ…?)

クラリスはぶるっと身を震わせた。

その様子に気づかず、フィーリアはグラスをそっと置き、嬉しそうに口を開いた。

「クラリスさん?それでね、わたくし聞きたいのは…」

庶民の暮らしのこと。
何をして暮らしているのか、どんな遊びがあるのか。
学校とは何か、どんなことを学ぶのか。

クラリスにとっては、退屈でありふれた日常のはずだったが――

「まぁ……そんなことが?なんて面白いの……」

フィーリアはひとつひとつの話に、驚きやくすくす笑いを交えながら、熱心に耳を傾けてくれる。

聞き上手な彼女に話しているうちに、前菜の皿が下げられ、二皿目の料理が運ばれてきた。

(……え?またサラダ?)

てっきりスープが来るものだと思っていたクラリスは、皿とフィーリアを交互に見る。

フィーリアは“いつものこと”といった顔で、自然にフォークとナイフを手に取り、緑の野菜を口に運んでいる。

会話が弾むうちに、二皿目のサラダが下げられ、三皿目が届く。
今度こそ肉か魚料理かと思いきや――またしても、サラダだった。

(……庶民は草でも食ってろってこと?)

クラリスは小さく目を細め、フィーリアを見つめる。

フィーリアは、まったく疑問を抱くことなく、当たり前のようにその皿に手を伸ばしていた。

「あ、あの……ルスカに…あっ、ルスカ王子に聞いたんですが…」

「まぁっ…!お兄様のこと、そんなふうに呼んでらっしゃるの?」

パァッと目を輝かせるフィーリア。
その勢いに押され、クラリスはこくこくと頷いた。

「ルスカが、そう呼べって……」

「わたくしのことも、そんなふうに呼んでくださいな!喋り方も、お兄様の時と同じに!」

にっこりと微笑む彼女の顔が、あまりに可愛らしくて。

(……これ、名前を呼んだ瞬間に“裏で呼び出されて斬首される美人局”だったりしないよね?)

クラリスは、首が落ちた自分を想像し、震えながら小さく頷いた。

「そ、それじゃあ……フィーリア」
「はいっ」

うっとりとした表情で頷くフィーリア。

「王族って、肉ばっかり食べてるんじゃないの?ルスカはそう言ってたけど…」

「そうですのね……でも、わたくしたちはそれぞれの能力や特性に合った食事を摂るよう言われていましてよ。求められるものも異なります。きっと、お食事も違うのでしょうね」

「じゃあ……フィーリアは、ずっと…朝も夜もこの食事を?」

「ええ。わたくしは“美しくあれ”と、幼い頃から言われてまいりましたの。だからきっと、この食事が美しさにはよいのだと思いますわ」

にこにこと笑む彼女の顔は、どこまでも純粋だった。

(彼女は、自分がどれほど“異端”な環境にいるのか、気づいてない)

その事実に、クラリスは息を呑んだ。

(それが“王族”の背負わされるものなのかもしれない。
でも……彼女はまだ、子供だ。守られるべき存在なんだ)

クラリスの脳裏にフィーリアの言葉が蘇る。

『体調はいかがですか?』

『ええ、よろしくてよ。お気遣い、ありがとう。そんなことより……』

(“そんなこと”。――本当は、期待なんてされていないのかもしれない。
それでも、わたしに形式だけでも“治してほしい”と頼んだからには……首を突っ込ませてもらう)

クラリスは最後のサラダをのみ込み、まっすぐにフィーリアを見つめた。

(白雪姫だかなんだかしらないけど、この子に必要なのは、真実の愛のキスじゃない。"医療"なんだから)

その手を、そっと取る。

「フィーリア。会わせてもらいたい人がいるの」







何度も何度も明日のランチを約束し、フィーリアとのランチを終えたクラリスは、城の一室、王室管理課のある塔へと向かっていた。

(彼女の"歩けない"理由はまだわからない。けれど……あの食事では、鉄が足りないことによる鉄欠乏性貧血になる)

握りしめた診察バッグに、自然と力がこもる。

(とっちらかった病態でも、ひとつひとつ、目の前の問題を丁寧に解決していけば、次の課題が見えてくることもある。
それは、前世の救急外来で得た、わたしの教訓)

ほどなく、目の前に目的の扉が現れた。
「王室管理課」と金文字で掲げられた看板。
その奥にある重厚な扉は、まるで、来る者すべてを試すように、威圧的にそびえ立っている。

(まずは……貧血の問題から。ひとつずつ。大丈夫。終わったらわたし、王子のアクスタ貰うんだから……サイン入りで……!それに……)

真に欲しいものだってある。

自分を奮い立たせるように小さく息を吸って。
死亡フラグの匂いを漂わせながら、クラリスは扉を押し開けた。








「フィーリア様のあの美貌、あれは内側から来るものなのですわ。食事とは、身体を形成するもの。食の内容が変われば、身体だけでなく、そこに宿る精神も変わりますの。ですからご覧なさい、フィーリア様の御姿と御精神を。どこの御国に出しても恥ずかしくないどころか、世界で一番のお姫様。――お育てしたのは、このわたくし!」

勢いよく語る貴婦人を前に、クラリスはただ、笑みを浮かべて頷くしかなかった。

(……癖が強い…)

『本日は、フィーリア様とのランチをご一緒させていただいた医者見習いのクラリスと申します。お食事の件で、少しお伺いしたく――』

そう名乗った瞬間から、彼女は鼻を高くして語り始めた。

(要約するとこういうことだ。
フィーリアの美しさを保つため、美容に良いとされるハーブや野菜のみを取り入れている。
動物性タンパク質は“穢れ”だから排除している)

クラリスは、静かに息を吐いた。

(いつからこんなことを……。この様子じゃ、肉どころかミルクも卵も魚も、ほとんど口にしていない)

頭の中で、足りない栄養素のリストがつらつらと並んでいく。

(可哀想に……フィーリア、あんな笑顔の裏で、きっと身体、辛かったでしょうね)

クラリスはふと目を伏せ、それから小さく息を吸って、再び顔を上げる。

(大丈夫。なんとか、する。――できる)

そう心に決めて顔を上げれば、目の前では「フィーリア様はわたくしの芸術作品ですのよ!」と主張する癖強栄養士。



クラリスは、ぎゅっと拳を握った。


――勝算は、ある。



医者だった頃。
学会発表の壇上に立ったときのことを思い出す。

『~という結語となりました。ご清聴ありがとうございました』

パラパラと鳴る拍手。
にこりと微笑む座長。

(終わった……!)

胸を撫で下ろしたのも束の間。

『◯△大学病院の山田と申します。この難しい病態に関わる者として、大変勉強になる素晴らしい発表だったと思います』

ドキリ。

その病院名、そしてその名――
心臓が跳ねた。
自分より遥かに格上の医師からの形式上のお褒めの言葉。

そして、この前置きのあとに続くのは、決まって……

『では、数点、素人質問で恐縮ですが、お尋ねさせていただきます。まず一点目ですが――』

なにが素人だ。
質問内容が高度すぎて、覚えていない。
けれど、あの戦法の効果だけは、よく知っている。

(……そう。あの、飴と鞭戦法を使えば――!)

クラリスの瞳に、確かな炎が宿っていた。
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