46 / 70
第二章
第16話 小さな異変
しおりを挟むその朝の診療所には、大きな変化が起きていた。
アニの高位貴族としての財力と行動力が惜しみなく発揮され、診療所の休憩室は、いつの間にか研究室へと様変わりしていたのだ。
大きな棚には、アニがこれまで集めてきた魔法陣研究の論文や専門書がずらりと並び、壁一面には、魔法陣らしき図や走り書きの考察が、所狭しと貼られている。
昨日消えてしまった机の代わりには、豪華な装飾がふんだんに施された新しい机が、当然のように据えられていた。
ミュラー曰く腰をいためるソファーも、見るからに高級な革張りのソファーに変わっていた。
「俺の休憩室……」
ミュラーが力なく呟く。
「ローン組んで診療所を広くして、広げたばっかだったのに……」
めそめそと項垂れるミュラーに、アニはちらりと視線を向けた。
「うるさいな。この研究が進めば、この診療所も国一番にだってなるでしょ」
「……そうしたらまた、勲章もらえますよ」
ヴィルが、慰めるようにそう付け足す。
「……勲章」
その一言に、ミュラーはぴたりと動きを止め、やがて、しぶしぶといった様子で首を縦に振った。
「僕はここで魔法陣の改良にあたるよ。聞きたいことあったらすぐ聞けるし」
「じゃあ、わたしも昼休憩とか外来落ち着いた時とかすぐ来るから!お願いねアニ!」
クラリスは甘くみていたのだ。
外来と研究、どちらも回せるだろう、と。
「大変だ……外来が繁盛しすぎてる……」
昼食も取れないままカルテにペンを走らせながら、
クラリスは、廊下の向こうの研究室から漏れ出す魔法陣の淡い光に、ちらりと視線を向けた。
「くぅ……参加したい……!」
思わず腰が浮きかける。
あの光の向こうで、研究が進んでいると思うと、どうしても心が引っ張られてしまう。
だが。
「先生!次の患者さん、お願いします!」
「……はい」
無情にも、ハンナが差し出した問診票が、その欲望を正面から叩き潰した。
(ええと……26歳、男性。腹痛。昨日から下痢と嘔吐……)
クラリスは一瞬だけ目を伏せ、深呼吸をひとつ。
(食あたり、かな?)
診察室から声をかけると、日焼けした、がっしりした体格の男が入ってきた。
「こんちは。あんたが噂の女医さんですか!いやぁ、嬉しいなぁ」
「はは……どんな噂でしょうね。どうぞ、こちらへ」
(笑顔で冗談を言える余裕がある。ひとまず、重症ではなさそう)
男をベッドに横たえ、手早く問診と診察を進める。
一通り終えると、クラリスはペンを取った。
「腸炎ですね。食あたりかな?何か心当たりあります?」
「うーん……あ~あれかな。あの燻製。ヒポクルスにいってて、家あけてたんですよ。腐ってたのかな~」
「ヒポクルス……使節団が来るっていう?」
クラリスの手が、ふと止まる。
ちょうど今朝、ヴィルから聞いたばかりの話だった。
「そうそう!よくご存知ですね!俺はその使節団をお迎えするルートの下見ってやつで!いや~いいとこですよ!ワタンボが名産なだけあってやっぱうまいの!先生も是非!」
「はは、ありがとうございます。今は忙しすぎて」
「そうでしょうな!ハハハ!さすがは国一番と噂のミュラー診療所!」
豪快に笑う男を尻目に、カルテに《ヒポクルス》とだけ書き留め、処置と注意点を説明する。
男はにこやかに礼を言い、診察室を後にした。
(ヒポクルスか……港町なんだっけ……?)
魚料理のイメージが、ふっと頭をよぎり、涎がたれかけたそのとき。
「はい先生!次!おねがいね!流石ね、診断がはやい!」
ハンナが間髪入れず、次の問診票を差し出す。
(褒めてくれる……!育て上手、好き……!)
クラリスは涎を拭いて問診票に視線を下ろした。
そしてすっかり日も落ちた頃、ようやく閉院した診療所では、クラリスとミュラーが椅子にしなだれかかっていた。
ハンナはこのあと飲み会があるらしく、「じゃ、お先!」と元気に手を振って帰っていった。
「……体力あんな……」
ミュラーがぼそりと呟く。
向かいで、ぼそぼそとパンを噛んでいたクラリスも、小さく頷いた。
「今日な、一人ちょっと大変だったんだ。すげー下痢で、おまけに血便まで出ててな」
「診察中も、かなり辛そうでしたね……」
ヴィルはそう言いながら、焼き菓子に手を伸ばす。
「ああ。ヴィルにも見てもらったが、透視じゃ異常は出てねえ。腸炎だろってことで、今日は帰した」
ミュラーは肩をすくめた。
「明日も来させることにはしたが……
やっぱりな、今の時期は長く置いた食いもんが一番あぶねえ」
(……あれ?)
クラリスは、ふと眉を寄せた。
同じような話を、どこかで聞いた気がする。
だが、その思考は続かなかった。
ドンドンドン!!
突然、激しく扉を叩く音が響く。
「ルスカ王子殿下!どうか、お話だけでも!!」
切羽詰まった叫び声が、夜の診療所に突き刺さった。
「……うるさいやつらだな」
ルスカは低く呟き、ため息をひとつつくと、ゆっくりと扉へ向かった。
「大変だな、ルスカ」
ミュラーは立ち上がりながら、苦笑する。
「俺は庶民の生まれで正解だったわ。あんなの、無理無理」
鞄を手に取り、肩にかける。
「まあ、この後に研究なんてしようとしてるお前らも大概バケモンだけどな。じゃ、また明日」
ひらりと手を振り、ミュラーは診療所を後にした。
ぱたんと扉が閉まると、クラリスはくるりと背後のヴィルを振り返った。
「ヴィルとルスカは帰ってて?わたし、遅くなったらここに泊まればいいし……危なくないから」
ヴィルは小さくため息をつく。
「ここまできて、ほっとけないよ。ルスカだって、きっとそういうよ」
椅子を引いて近くに腰掛けた。
「ヴィル~……」
クラリスが目を潤ませていると、
「……で、いけるの?」
文献から顔を上げて、アニが尋ねる。
クラリスはパンを一口かじり、コップの水を一気に飲み干した。
そして、ぱん、と両手を叩く。
「よし!始めよう!!」
そう言って、アニの向かいの椅子にどしりと腰を下ろした。
84
あなたにおすすめの小説
99歳で亡くなり異世界に転生した老人は7歳の子供に生まれ変わり、召喚魔法でドラゴンや前世の世界の物を召喚して世界を変える
ハーフのクロエ
ファンタジー
夫が病気で長期入院したので夫が途中まで書いていた小説を私なりに書き直して完結まで投稿しますので応援よろしくお願いいたします。
主人公は建築会社を55歳で取り締まり役常務をしていたが惜しげもなく早期退職し田舎で大好きな農業をしていた。99歳で亡くなった老人は前世の記憶を持ったまま7歳の少年マリュウスとして異世界の僻地の男爵家に生まれ変わる。10歳の鑑定の儀で、火、水、風、土、木の5大魔法ではなく、この世界で初めての召喚魔法を授かる。最初に召喚出来たのは弱いスライム、モグラ魔獣でマリウスはガッカリしたが優しい家族に見守られ次第に色んな魔獣や地球の、物などを召喚出来るようになり、僻地の男爵家を発展させ気が付けば大陸一豊かで最強の小さい王国を起こしていた。
美少女に転生して料理して生きてくことになりました。
ゆーぞー
ファンタジー
田中真理子32歳、独身、失業中。
飲めないお酒を飲んでぶったおれた。
気がついたらマリアンヌという12歳の美少女になっていた。
その世界は加護を受けた人間しか料理をすることができない世界だった
能力値カンストで異世界転生したので…のんびり生きちゃダメですか?
火産霊神
ファンタジー
私の異世界転生、思ってたのとちょっと違う…?
24歳OLの立花由芽は、ある日異世界転生し「ユメ」という名前の16歳の魔女として生きることに。その世界は魔王の脅威に怯え…ているわけでもなく、レベルアップは…能力値がカンストしているのでする必要もなく、能力を持て余した彼女はスローライフをおくることに。そう決めた矢先から何やらイベントが発生し…!?
異世界転生~チート魔法でスローライフ
玲央
ファンタジー
【あらすじ⠀】都会で産まれ育ち、学生時代を過ごし 社会人になって早20年。
43歳になった主人公。趣味はアニメや漫画、スポーツ等 多岐に渡る。
その中でも最近嵌ってるのは「ソロキャンプ」
大型連休を利用して、
穴場スポットへやってきた!
テントを建て、BBQコンロに
テーブル等用意して……。
近くの川まで散歩しに来たら、
何やら動物か?の気配が……
木の影からこっそり覗くとそこには……
キラキラと光注ぐように発光した
「え!オオカミ!」
3メートルはありそうな巨大なオオカミが!!
急いでテントまで戻ってくると
「え!ここどこだ??」
都会の生活に疲れた主人公が、
異世界へ転生して 冒険者になって
魔物を倒したり、現代知識で商売したり…… 。
恋愛は多分ありません。
基本スローライフを目指してます(笑)
※挿絵有りますが、自作です。
無断転載はしてません。
イラストは、あくまで私のイメージです
※当初恋愛無しで進めようと書いていましたが
少し趣向を変えて、
若干ですが恋愛有りになります。
※カクヨム、なろうでも公開しています
【完結】前世の不幸は神様のミスでした?異世界転生、条件通りなうえチート能力で幸せです
yun.
ファンタジー
~タイトル変更しました~
旧タイトルに、もどしました。
日本に生まれ、直後に捨てられた。養護施設に暮らし、中学卒業後働く。
まともな職もなく、日雇いでしのぐ毎日。
劣悪な環境。上司にののしられ、仲のいい友人はいない。
日々の衣食住にも困る。
幸せ?生まれてこのかた一度もない。
ついに、死んだ。現場で鉄パイプの下敷きに・・・
目覚めると、真っ白な世界。
目の前には神々しい人。
地球の神がサボった?だから幸せが1度もなかったと・・・
短編→長編に変更しました。
R4.6.20 完結しました。
長らくお読みいただき、ありがとうございました。
生まれ変わりも楽じゃない ~生まれ変わっても私はわたし~
こひな
恋愛
市川みのり 31歳。
成り行きで、なぜかバリバリのキャリアウーマンをやっていた私。
彼氏なし・趣味は食べることと読書という仕事以外は引きこもり気味な私が、とばっちりで異世界転生。
貴族令嬢となり、四苦八苦しつつ異世界を生き抜くお話です。
※いつも読んで頂きありがとうございます。誤字脱字のご指摘ありがとうございます。
転生したら、実家が養鶏場から養コカトリス場にかわり、知らない牧場経営型乙女ゲームがはじまりました
空飛ぶひよこ
恋愛
実家の養鶏場を手伝いながら育ち、後継ぎになることを夢見ていていた梨花。
結局、できちゃった婚を果たした元ヤンの兄(改心済)が後を継ぐことになり、進路に迷っていた矢先、運悪く事故死してしまう。
転生した先は、ゲームのようなファンタジーな世界。
しかし、実家は養鶏場ならぬ、養コカトリス場だった……!
「やった! 今度こそ跡継ぎ……え? 姉さんが婿を取って、跡を継ぐ?」
農家の後継不足が心配される昨今。何故私の周りばかり、後継に恵まれているのか……。
「勤労意欲溢れる素敵なお嬢さん。そんな貴女に御朗報です。新規国営牧場のオーナーになってみませんか? ーー条件は、ただ一つ。牧場でドラゴンの卵も一緒に育てることです」
ーーそして謎の牧場経営型乙女ゲームが始まった。(解せない)
幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない
しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる