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第1章 四月、横浜市の西のはずれ、丹沢の見える街で物語は始まる。
10. ここがぼくのスタート地点だ。
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海老名駅の小田急のホームで、四人全員が揃った。
「上市、それすごいなあ。帆布のザックだよ。懐かしいな。俺の上の世代の人たちが使ってたよ。」
と、久住先生がぼくのザックを見て、感嘆の声を上げる。
「これが昨日言っていた祖父の遺品です。丈夫でまだまだ使えそうだったので。」
遺品と一緒にもらった剱の写真でも、祖父はこのザックを背負っていた。
「同じような材質で、もっと大きなものはなかった?」
「ありました。ただ、そちらはかなりボロボロで、使えそうにありませんでした。」
「それはたぶん、『キスリング』って呼ばれるザックだね。昔はみんなキスリングで山に行っていたんだ。ただ、横に長くて、狭い場所を歩くのに気を使うし、岩とかにぶつけてバランスを崩してしまうのが怖いから、俺が大学に入ったころはもうすでにナイロンの縦長のザックが主流になっていたな。」
もとは茶色だったのだろうが、色あせて白っぽくなったぼくのザックを、先生はしげしげと眺める。
「ただ、サブザックはまだこういうのを使ってた人がたくさんいたよ。これはピッケルホルダーもアイゼンホルダーもあるから、かなり登る人向けのやつだね。あー、ちょっと革の部分が劣化してるな。今日は大丈夫だと思うけど、この先は直すか、別のものを使った方がいいかもしれないね。」
すぐに小田急線の下り電車が到着し、みんなで乗り込んだ。
稜先輩は今日、カーキ色のキャップをかぶり、緩く三つ編みにした髪を肩の前に垂らしている。フードのないフリースは空色で、登山用ズボンでカーキ色が反復している。ベースボールキャップとだぶつきの少ないウェアに包まれた長身は精悍で、ただ一つ子どもっぽさを残した髪型がアクセントになっていた。ぼくはどこに目をやっていいのかわからず、車内では先生ばかりと話をしていた。
「俺以外みんなフリースだなあ。昔はみんなこういうウールのシャツだったんだけどな。」
と、白いキャップに赤系統のチェックのシャツと紺のズボン、黄色のザックに緑色の靴という、ガチャガチャな服装の先生が言う。
「なんか先生、信号機みたいですね。」
と、ぼくも内心思っていたが、さすがに失礼だと思って言わなかったことばを、まっきーはずけずけと口にする。
「山では目立った方がいいからね。ほら、俺がどこにいるかすぐに分かるだろ。」
と、先生は気にした様子もない。
三十分ほどで渋沢の駅に着く。バスの時間まで少し間があるため、駅近くのコンビニで昼食を買った。甘いものと塩辛いものの、どちらが食べたくなるのか分からなかったので、菓子パンとおにぎりの両方を買うことにした。
「パンは上に行くと袋が膨らんじゃうから、ちょっと端っこを切っといた方がいいよ。」というまっきーのアドバイスに従う。まっきーはおにぎりばかり四個も買っていた。
まだ柔らかい朝の陽の中を、まっきーと二人でバス停の方に戻る。まっきーの服装は、この前買った淡い緑色のフリースに、チノパンのような茶色のズボン。グレーの迷彩の、ぐるりとつばがあるハットの下で、結んでいない髪が揺れる。
「今日は筆じゃないんだ。」「何のこと?」「髪。」
まっきーはまた後ろからぼくの尻を蹴る。
「痛いよまっきー。登山靴で蹴るのははやめてよ。」
本当は全然痛くないけどね。ぼくは大きな声で笑い、バス停に向けて、登山靴をゴトゴト言わせながら駆け出す。まっきーもすぐに追いついて、おにぎりの入った袋を振り回しながら、
「今日、すごく楽しくなりそう。っていうか、もうすでに楽しい!」
と、最高の笑顔でぼくに言った。
十五分ほどバスに揺られると、登山口である大倉に着いた。天気のいい日曜なので、始発のバスはすでに満員で、臨時の二台目も出ていた。
ぼく以外の三人は水筒に水を汲んでいた。ぼくはさっきのコンビニで買った二Lのペットボトルだったが、三人ともソフトパックの水筒を使っていた。軽く、使わない時は畳んでしまえる上に、水が減ってもザックの中でちゃぷちゃぷ揺れたりしないので、一度使うともうほかの水筒に戻れないそうだ。その間にぼくは、先生から預かった登山届を提出しに行く。
「じゃあ、みんな靴紐を結んで。両神、体操。」
と、ぼくが戻って来たところで先生が言った。登りは少し緩めに結ばないと、かかとに靴擦れを起こすという先生の指示に従って靴紐を縛る。稜先輩が音頭を取って、ラジオ体操をアレンジしたような体操をする。これが港西山岳部の伝統らしい。
そして、いよいよ歩き始めだ。この間買ったばかりのレモンイエローのフリースと濃いグレーのズボン、父に借りたベージュの顎紐付きのハットにほぼ新品の登山靴、そしてこれだけは異様に年季の入ったザックを背負ったぼくの、初めての瞬間が近づいてきた。
稜先輩のザックは濃紺にピンクの差し色が入っている。まっきーのザックは濃淡のグレーのツートンだ。服装もザックもバラバラのメーカー、自分の好きな色。こういう自由さこそがきっと港西山岳部の一番の伝統なのだろうと、例の信号機みたいな先生を見ながら思う。
よく晴れて、気温も上がり始めていた。登山口の標高は二〇〇mあまりしかないが、もうすぐそこまで山が迫っている。自分があの場所を登っていることを想像し、ぼくは高揚感と緊張感に包まれていた。
「私が先頭、つるちゃん、まっきーの順で、先生は最後をお願いします。さあ、行こう!」
と先輩が告げ、出発時刻を手帳に書き入れてズボンの太腿にあるポケットにしまうと、ぼくの最初の山行が始まった。二〇二一年四月二十四日、午前七時二十六分。神奈川県秦野市大倉バス停付近。ここがぼくのスタート地点だった。
「上市、それすごいなあ。帆布のザックだよ。懐かしいな。俺の上の世代の人たちが使ってたよ。」
と、久住先生がぼくのザックを見て、感嘆の声を上げる。
「これが昨日言っていた祖父の遺品です。丈夫でまだまだ使えそうだったので。」
遺品と一緒にもらった剱の写真でも、祖父はこのザックを背負っていた。
「同じような材質で、もっと大きなものはなかった?」
「ありました。ただ、そちらはかなりボロボロで、使えそうにありませんでした。」
「それはたぶん、『キスリング』って呼ばれるザックだね。昔はみんなキスリングで山に行っていたんだ。ただ、横に長くて、狭い場所を歩くのに気を使うし、岩とかにぶつけてバランスを崩してしまうのが怖いから、俺が大学に入ったころはもうすでにナイロンの縦長のザックが主流になっていたな。」
もとは茶色だったのだろうが、色あせて白っぽくなったぼくのザックを、先生はしげしげと眺める。
「ただ、サブザックはまだこういうのを使ってた人がたくさんいたよ。これはピッケルホルダーもアイゼンホルダーもあるから、かなり登る人向けのやつだね。あー、ちょっと革の部分が劣化してるな。今日は大丈夫だと思うけど、この先は直すか、別のものを使った方がいいかもしれないね。」
すぐに小田急線の下り電車が到着し、みんなで乗り込んだ。
稜先輩は今日、カーキ色のキャップをかぶり、緩く三つ編みにした髪を肩の前に垂らしている。フードのないフリースは空色で、登山用ズボンでカーキ色が反復している。ベースボールキャップとだぶつきの少ないウェアに包まれた長身は精悍で、ただ一つ子どもっぽさを残した髪型がアクセントになっていた。ぼくはどこに目をやっていいのかわからず、車内では先生ばかりと話をしていた。
「俺以外みんなフリースだなあ。昔はみんなこういうウールのシャツだったんだけどな。」
と、白いキャップに赤系統のチェックのシャツと紺のズボン、黄色のザックに緑色の靴という、ガチャガチャな服装の先生が言う。
「なんか先生、信号機みたいですね。」
と、ぼくも内心思っていたが、さすがに失礼だと思って言わなかったことばを、まっきーはずけずけと口にする。
「山では目立った方がいいからね。ほら、俺がどこにいるかすぐに分かるだろ。」
と、先生は気にした様子もない。
三十分ほどで渋沢の駅に着く。バスの時間まで少し間があるため、駅近くのコンビニで昼食を買った。甘いものと塩辛いものの、どちらが食べたくなるのか分からなかったので、菓子パンとおにぎりの両方を買うことにした。
「パンは上に行くと袋が膨らんじゃうから、ちょっと端っこを切っといた方がいいよ。」というまっきーのアドバイスに従う。まっきーはおにぎりばかり四個も買っていた。
まだ柔らかい朝の陽の中を、まっきーと二人でバス停の方に戻る。まっきーの服装は、この前買った淡い緑色のフリースに、チノパンのような茶色のズボン。グレーの迷彩の、ぐるりとつばがあるハットの下で、結んでいない髪が揺れる。
「今日は筆じゃないんだ。」「何のこと?」「髪。」
まっきーはまた後ろからぼくの尻を蹴る。
「痛いよまっきー。登山靴で蹴るのははやめてよ。」
本当は全然痛くないけどね。ぼくは大きな声で笑い、バス停に向けて、登山靴をゴトゴト言わせながら駆け出す。まっきーもすぐに追いついて、おにぎりの入った袋を振り回しながら、
「今日、すごく楽しくなりそう。っていうか、もうすでに楽しい!」
と、最高の笑顔でぼくに言った。
十五分ほどバスに揺られると、登山口である大倉に着いた。天気のいい日曜なので、始発のバスはすでに満員で、臨時の二台目も出ていた。
ぼく以外の三人は水筒に水を汲んでいた。ぼくはさっきのコンビニで買った二Lのペットボトルだったが、三人ともソフトパックの水筒を使っていた。軽く、使わない時は畳んでしまえる上に、水が減ってもザックの中でちゃぷちゃぷ揺れたりしないので、一度使うともうほかの水筒に戻れないそうだ。その間にぼくは、先生から預かった登山届を提出しに行く。
「じゃあ、みんな靴紐を結んで。両神、体操。」
と、ぼくが戻って来たところで先生が言った。登りは少し緩めに結ばないと、かかとに靴擦れを起こすという先生の指示に従って靴紐を縛る。稜先輩が音頭を取って、ラジオ体操をアレンジしたような体操をする。これが港西山岳部の伝統らしい。
そして、いよいよ歩き始めだ。この間買ったばかりのレモンイエローのフリースと濃いグレーのズボン、父に借りたベージュの顎紐付きのハットにほぼ新品の登山靴、そしてこれだけは異様に年季の入ったザックを背負ったぼくの、初めての瞬間が近づいてきた。
稜先輩のザックは濃紺にピンクの差し色が入っている。まっきーのザックは濃淡のグレーのツートンだ。服装もザックもバラバラのメーカー、自分の好きな色。こういう自由さこそがきっと港西山岳部の一番の伝統なのだろうと、例の信号機みたいな先生を見ながら思う。
よく晴れて、気温も上がり始めていた。登山口の標高は二〇〇mあまりしかないが、もうすぐそこまで山が迫っている。自分があの場所を登っていることを想像し、ぼくは高揚感と緊張感に包まれていた。
「私が先頭、つるちゃん、まっきーの順で、先生は最後をお願いします。さあ、行こう!」
と先輩が告げ、出発時刻を手帳に書き入れてズボンの太腿にあるポケットにしまうと、ぼくの最初の山行が始まった。二〇二一年四月二十四日、午前七時二十六分。神奈川県秦野市大倉バス停付近。ここがぼくのスタート地点だった。
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