港西高校山岳部物語

小里 雪

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第3章 ザイルは伸び、無駄に荷物を背負い、二人は歩き、一人は助ける。

7. 第一次歩荷山行。それから、右派と左派の話。

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 秩父に行くときに使った赤い七十五Lのザックを今回も使う。ただし下半分は、重心を上げるための発泡スチロールだ。その上に、水を入れたペットボトルを乗せていく。『必携キット』や雨具などは潰れないようにさらにその上だ。

両神りょうかみが三十kg、上市かみいちが二十五kg、巻機まきはたが二十三kgな。」

久住くじゅう先生が言い、ぼくたちにバネばかりを渡す。

「歩行中に飲む水の重さは足しちゃだめだからな。」



 大倉までの電車やバスは、前に来た新人歓迎山行のときと全く同じだった。違っていたのはザックで、日帰りなのにぼくたちは巨大なザックを背負っているということだ。

 五月十五日の土曜日は、第一次歩荷ボッカ山行だった。新歓と同じ塔ノ岳とうのたけを、最短ルートの大倉尾根から登るのだ。ただし、ザックを水の入ったペットボトルで重くして登る。それが歩荷山行というトレーニング山行なのだ。大倉から塔ノ岳頂上までの標高差は約千二百mで、目標タイムは四時間三十分だ。



「今日はおにぎり六個も買っちゃったよ。」
と、まっきーは言いながら、もう一個目を食べている。ぼくもおにぎりを三個、パンも三個用意してあるので、パンを食べておくことにした。もちろん、まっきーもぼくも家で朝食を食べてから来ている。山行の前はいつも楽しそうなまっきーが、今日は心なしか緊張しているようにも見える。

 リーダーのりょうさんも口をもぐもぐ動かしているが、食べているのは先日の秩父のときに食べなかったエナジーバーの残りのようだ。

「ザックの準備ができたら、体操して、出発しようか。」

 稜さんがぼくたちに声を掛ける。そしてぼくたちは今までの二回よりも念入りに体操をして、これから始まる大変な四時間半に備える。

「時間の目安にしやすいように、八時ちょうどにスタートしよう。言うまでもないけれど、四時間半というのは休憩の時間まで入れたタイムだからね。十二時半に山頂に着けば合格。」

 あと十分ほど時間があるので、さらにストレッチをしておく。二十五kgの荷重はこの間の階段歩荷で経験はしていたが、歩いたのは一時間だけだ。今回は歩いている時間だけでもその四倍近くになるはずだった。

 八時ジャストに、大倉を出発。

「ゆっくり、ゆっくりね。特に最初の一本はゆっくり過ぎるくらいにゆっくり。」

と、稜さんは振り向いてぼくたちに声を掛ける。

 しばらくは舗装された道で、斜度も大したことはないため、階段歩荷のときのように力を込めて体と荷物を上に押し上げなくても歩くことができる。それでも、稜さんの歩みはとてもゆっくりだ。

 舗道から左に逸れて山道に入ると斜度が徐々に増してくる。大倉は水無川沿いにあるが、まずは大倉尾根の稜線に向けて山腹を登っていく。右側は牧場になっているようで、牛が放牧されている。今日は曇り空でそれほど気温も上がっていなかったが、すでに汗が噴き出していた。もちろんみんな最初からTシャツ一枚だ。

 最初の階段歩荷のときに先生が言っていた意味が分かりかけていた。一歩一歩で体を持ち上げる量は、本物の歩荷では階段歩荷よりもずっと少ない。ただ、二十m登れば下りになることが分かっている階段歩荷と違い、今日はほぼすべての行程が登りで、何回かある休憩時間以外に足を休めることはできない。最初の一本で少しでも疲労があるようなら、山頂にたどり着くことは無理なのだろう。

 展望は全くない。ひたすら杉林の中を登っていく。ショルダーストラップの当たる肩が痛いので、ヒップベルトを締めて荷重を腰に分散させる。

「チェストストラップをちゃんと締めると荷物も安定するし、肩の負担も少なくなるぞ!」

と、後ろの先生から声がかかる。両方のショルダーストラップを胸の前でつないでいるチェストストラップは、普段使いのリュックにもついていることが多いが、今まであまりその効果を感じたことはなかった。しかし、これを締めると確かに肩の負担が減り、荷物によって後ろに引かれる感覚も減った。

 四十分ほどで稜線に出る。ここは雑事場《ぞうじば》ノ平と呼ばれていて、休憩用のベンチも用意されている。少し早いがここで最初の一本になった。ザックを下ろし、すぐにおにぎりを頬張る。まだそれほど喉の渇きはないが、ソフトボトルを取り出して水も飲む。すべて早めに、早めに。

「みーち、調子はどう?」

 まっきーもおにぎりを食べながらぼくに話しかける。

「今のところまだ大丈夫。しかし暑いね。水、二Lで足りるかな。」

「早めに飲んだ方が軽くなるかもよ。」

 稜さんが意地悪な顔をして笑い、飴をぼくの方に投げてくれる。

「足りなくなったら稜さんの荷物も軽くしてあげますよ。」

 まっきーはちょっと驚いたような顔をしてぼくを見ている。

 再び歩き始めると、後ろからまっきーがぼくをつついた。

「みーち、りょうさんにあんな軽口叩けるようになったんだ。成長したねえ。」

「まっきー、何それ。弟を見守るお姉ちゃんかよ。でも確かに、あんなふうに話せたのは初めてかもなあ。」

「だからさあ、みんな聞こえちゃうから、山に登ってる最中はそういう話に向かないって。」

と、稜さんが苦笑いしながら振り向く。

「でも、つるちゃんが成長してるのは私も実感してる。さっきも重いザックを上手に背負ってたしね。補給も早め早めにしてるし。」

 自分ではあまり意識しなかったが、まず膝の上にザックを引きずり上げ、右手、左手の順にショルダーストラップに腕を通す背負い方ができるようになっていた。ただ、最後に左腕をストラップにねじ込むときにどうしても腕時計が引っかかることが気になっていた。

 ふと稜さんを見ると、右手に腕時計をしている。稜さんは右利きなのに。

「今気付いたんですが、稜さん、右手に腕時計してるんですね。もしかして、ザックに引っかからないようにですか?」

「あー、言っておいてあげればよかったね。その通り。普段は左手にしてるんだけどね。日帰りの軽い荷物のときにはあまり関係ないんだけど、重いザックを背負うときには左手にしてると、最後にねじ込む左手がどうしても引っかかっちゃうんだよ。山では右腕を見るのが習慣になっちゃったから、今はどんな山行でも右にしてるなあ。まあ、人によっては左手にしてても全然引っかからない人もいるんだけど。」

 そうだったのか。ぼくも、腕時計を左手から外して右に着け替える。稜さんと同じなのがなんとなく嬉しかったりする。

「わたし左でも全然平気ー。気にしたこともなかったよ。でもわたしだけ左なのもさみしいから右にしようかなあ。あ、先生も左ですね。」

「俺も全然大丈夫だな。そうそう、巻機、いいことを教えてあげよう。」

「なんですかー。」

「旭も、左だぞ。」

 ぼくと稜さんは歩きながら同時に噴き出した。

「えー! 知ってたんですか先生! いつから! いつから!」

 まっきーは手をバタバタさせて恥ずかしがっている。

「いつからって、もう去年の秋くらいから。見てればすぐに分かるよ。」

「まっきー、先生、こんなところで体力使わせないでよ。」

 前を歩く稜さんの肩が震えている。



 このときはまだ、笑っていられる余裕がぼくにもあった。このときには。
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