港西高校山岳部物語

小里 雪

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第3章 ザイルは伸び、無駄に荷物を背負い、二人は歩き、一人は助ける。

11. 同行二人。

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 下りは行きとは違うルートで、水根沢に沿って沢伝いに奥多摩湖まで下りる予定を立てていた。日原にっぱら鍾乳洞は二次歩荷の前に観光できるので、そのときにみんなで行こうという話になったのだった。そして、時間と体力が許せば先生が勧めてくれた『奥多摩むかし道』で奥多摩駅まで戻るつもりでいた。今のままなら十五時過ぎに奥多摩湖畔まで下りられそうなペースだったし、体力にも十分に余裕があったから、ぼくもまっきーも奥多摩駅まで歩くつもりでいた。

 まずは榧ノ木かやのき尾根を下って行くのだが、このときに前を歩くぼくが痛恨のミスをした。水根沢に下りる分岐を見落として、榧ノ木尾根を直進してしまったのだ。榧ノ木山への登り斜面が見えた時点でおかしいことに気付いた。

「ごめん、まっきー。分岐ずっと前だ。」

「わたしこそごめん。たぶんおしゃべりしながら下ってたときで、二人とも注意が散漫になってた。それに、地図アプリでもっと前に確認できたのに。」

 引き返すと、分岐には立派な標識が立っていた。ガスも出てないのに、この大きな標識を二人とも完全に見逃していたのだ。このミスコースの往復で、三十分以上ロスをした。

 本来のコースは針葉樹の斜面だった。この斜面を沢筋に向けて降下するのだが、ここでも植樹帯の景色があまりに単調で道の判別が付きにくい。このときもぼくがまだ前を歩いていたのだが、登山道を示すピンク色のテープを探すのに苦労する場面も多かった。

 本来、沢筋のルートというのは危険で、道以外のところを下ってしまうと進退窮まってしまう恐れがあるため、時間をかけてルートを探し、道を外れないように注意する。ここでもさらに時間を費やしてしまった。

 沢まで下りたところでトップをまっきーに譲る。危なっかしい木橋や渡渉としょうで、ルートは水根沢の本流や支流を何度も横切っていた。沢に向かって急激に落ち込む斜面を横切るように道がつけられている場所も目立ち、そのような場所では危険を避けるためにどうしてもペースが落ちる。まっきーは高いところを全く苦にしないが、滑落の危険を最小限にするために神経を尖らせていることが分かる。山に登る人はよく、『高度感がある』という言い方をするが、ぼくもそういう場所は嫌いではない。ただ、高さを楽しむために安全を疎かにするべきではないことを、まっきーもぼくも今までの山行で何回も繰り返し言われていた。

 さらに、増水によって道が寸断され、迂回路に回らざるを得ない場所もあり、なかなかペースが上がらない。

「奥多摩湖畔のバスはかなり遅くまであるから、安全を最優先して、ゆっくり進むね。」

と、まっきーは言い、注意深く道を探る。それはぼくも全く同じ意見だった。



 奥多摩湖畔のバス停と『むかし道』の分岐に到着したのはもう十六時半を回っていた。ここから奥多摩駅までは二時間半くらいかかるため、いくら日が長くなったとはいえ、真っ暗になる前に駅に着くことができるかどうか、非常に厳しい状況だった。

「どうしようか、まっきー。歩くと遅くなっちゃいそうだけど。」

「最後、ヘッドランプ出すことになりそうだね。みーち、疲れてない?」

「そりゃ疲れはあるけど、歩けるよ。もうほとんど平らだしね。」

「ほんとのこと言うとさ、っていうか、みーちもそうだってわたしほとんど確信してるんだけどさ、」

 まっきーはぼくを見て笑う。

「歩きたいよ、最後まで。」

 ぼくもまっきーを見て笑う。

「家の人に電話かけとこう。ちょっと遅くなるけど、もう山道じゃないから大丈夫って。それにさ、」

 夜の気配が漂い始めた空を、ぼくは見上げる。

「今日はほとんど満月だし。」



 ちょっと心配そうにしている母との電話を半分打ち切るような形で終え、ぼくたちは歩き始めた。山岳部に入るときもそうだったけれど、こんなふうに親と意見が食い違ったときに、自分の意見を通すことが増えてきている気がする。もしかしたら、ぼくの子どもの時代が、終わりに近づいているのかもしれないとふと思う。そして、ちょっとだけ寂しい気持ちになる。

「わたしのお母さんもちょっと心配そうだった。でも、歩きたいよね。一緒に歩く人もいるし。これがわたしたちの自由で、自由ってちょっとだけ悲しいのかも。」

 隣を歩くまっきーも同じことを考えているようだった。

 しばらくすると舗装道路に出たので、登山靴を脱いで運動靴に履き替えた。アスファルトの固い路面を登山靴で歩くのは、脚にダメージがある。そのため久住くじゅう先生はぼくたちに運動靴を持って行くことを勧めてくれたのだった。

 多摩川の源流に沿って『むかし道』は続いている。並行する国道にはバスが通っているため、休日にはここを散策したりウォーキングしたりする人も多いようだが、今日は試験休みの平日なので誰とも出会わない。運動靴に履き替えた足どりは軽く、ザックに入れた登山靴のごつごつとした感覚もどこか心地よい。

 まっきーは鼻歌を口ずさんでいる。だんだんと日が傾き、辺りの色が赤みを帯びてくる。ごくまれに地元の方の車両が通り、その間だけぼくたちは縦に並ぶ。今までのおしゃべりが嘘だったかのように、この山と人里の境界のような場所を、ぼくたちは並んで黙って歩いている。

 鳥の鳴き声。道の左側に広がる林の中で動物がうごめく音。底の薄い靴を通じて伝わる石と小枝だらけの路面の感触。どんどん明るさを減じていく空。東の空に現れた大きな月。点在する祠やお地蔵さん。思い出したように現れる人家。まっきーの歌。まっきーの足音。まっきーの足音を聞いていると、なぜかぼくも同じピッチで歩いていることに気付く。シンクロする二つの足音。

 国道と接する地点からしばらくの間は、道が再び未舗装路になる。空にはまだ明るさが残っているが、林の中ではもう足元が見えにくくなっていたので、いったんザックを下ろし、ヘッドランプをいつでも点灯できるように頭につけておく。二人のスマホが同時に鳴動し、『いろいろ大変だったけど、今無事に家に着いた。明日話すね。二人はまだ行動中?』という稜さんのメッセージが入る。

「わたし、返事出しとくね。」

という、鼻歌以外のまっきーの声を久しぶりに聞く。

 まっきーの返信が着信した振動を感じながら、ぼくはまた歩き始める。程なく未舗装路は終わる。浄水場とその周辺の集落。また林間の道。ヘッドランプを点ける。道が舗装路と未舗装路に分岐する。未舗装路の方が近いのでそちらを選ぶ。並んで歩けないほどの狭い小道。ぼくが前を歩き、後ろにまっきーの足音と息遣いを聞く。東の視界が広がるたびに目に入る月。もうライトなしでは歩けない暗さだ。

 林が切れ、家々の灯りが目に飛び込んでくる。もう奥多摩の駅はすぐそこのはずだった。

「やー、長かったけど、着いたね。でも、『むかし道』、なんだか楽しかったよ。山の世界からいつもの世界に、急激に戻るんじゃなくてゆっくりゆっくり戻ってくる感覚。それが日没の時間と重なっててさ。しゃべったらいろんなものが逃げて行っちゃいそうだった。わたしみーちがいなかったら泣いてたよ、きっと。寂しくて。ありがとね、みーち。今日一緒に来てくれて。」

 まっきーがそっと手を握ってくる。本当はぼくも手をつないで歩きたかったので、それがとても嬉しかった。まっきーにそう言おうとしたが、照れて言えなかったので、ぼくは手をぎゅっと握り返し、初めて会った日にまっきーがしてくれたみたいに手をぶんぶん振りながら歩く。

 ぼくもまっきーも笑い、また他愛のないおしゃべりをする。行進するように、つないだ手を振りながら歩くぼくたちを、すれ違う人は不思議そうな目で眺めている。



 奥多摩の駅に着くと、時刻は十九時を回っていた。家と久住先生に電話をかけ、稜さんにメッセージを送る。早く帰宅したほうがいいので風呂はあきらめ、早々に電車に乗る。隣に座ったまっきーはザックを抱きしめたままぼくにもたれて眠り始めた。しばらくまっきーの体温を感じたまま車窓の景色を眺めていたが、いつの間にかぼくも眠りに落ちた。

 青梅の駅で、まっきーに起こされる。ここで乗り換えだが、まだ家までは二時間近くある。青梅駅のホームから、高度を増した真円に近い月がよく見えていた。眠っている間、ぼくとまっきーがよだれを垂らしていたかどうかは定かではない。
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