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小里 雪

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五日目

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 これは、わたしが小学一年生のときの一学期の終業式の日の話だ。当時、わたしの家族は公団の団地の三階に住んでいて、そのベランダからはわたしの通学路がよく見えた。夏休みを前に大きな荷物を抱えたわたしがその通学路を戻ってくるのをちょうどベランダから見かけた母は、昼食のそうめんをゆで始めた。

 しかし、いつまで経ってもわたしが帰ってこないので、外に探しに出たところ、わたしは荷物を放り出して地面にうつぶせに寝ころび、蟻の行列を熱心に観察していたのだそうだ。

 わたしにはその日の記憶は全くないのだが、通学路の途中で植物や動物に興味を惹かれると、夢中になってしまって、学校に遅れたり、真っ暗になるまで家に帰らなかったりしたことがしょっちゅうあって、両親や先生に何度も叱られたことはよく覚えている。

 短かったわたしの結婚生活がだめになり、そのことを両親に報告に行ったとき、母は離婚のことについては何も言わず、その、小学校一年生の夏休み前日の話を懐かしそうにした。

 わたしはトイレに行き、そこで一人で泣いた。

 興味があることに熱中するあまり、対人関係に難がある娘が、それでも、その興味があることのために大学院まで行かせた娘が、好きになった人を連れて行ったときに一番喜んだのは母だった。

 お母さん、ごめんね。わたし、やっぱりなんか変なんだよね。

 わたしは今でもあの人のことが大好きだし、あの人もそういうわたしを愛してくれた。でも、それだけでは一緒に暮らせなかった。

 ずっとわたしと暮らしてきてくれた人。楽しそうにわたしとの思い出を話してくれる人。いま、このときに、そのことを話したいと思ってくれる人がわたしにはいるのだ。わたしが次のそういう人になれる可能性を、いま、捨てたばかりなのに。

 そして、饒舌な母の隣で、何も言わずに泡盛を飲んでいた父のことを思う。目が合うと、ちょっと微笑むその顔に、昔よりも深く刻まれた皴。まだ日本ではなかった地に育ち、家族の反対を押し切って故郷を離れた彼の中にある自由と、わたしの中にある自由が同じだと、ずっと思いたかった。

 たぶん、わたしは死ぬまで思えないだろう。たぶん、そう思っていることを伝えないまま、そうだったらいいなって思いながら死んでいくのだろう。わたしは手を伸ばし、父のささくれた、黒い手の甲に触れる。そんなことをしたことがなかったから、父はちょっとびっくりしてわたしを見て、昔のわたしを見ていたのと同じ目で笑う。



 〇三〇〇に起床し、今日も餅入りラーメンの朝食。いつものように撤収をし、〇四四八、聖平小屋を出発。

 これまでの文章を注意深く読んだ人は、わたしが起床してから朝食を準備して食べ、撤収して出発するまでの時間がだいたい一時間五十分前後だということに気付いただろう。これはかなり遅い部類だ。縦走をする人の平均はおそらく一時間半程度、速い人だと一時間で出発する。火を使わない朝食で済ませる場合、起床から四十分などという驚異的なスピードで出発というパーティーもある。

 それもこれも、わたしが荷物の整理が下手だからなのだ。昔からそうだった。荷物の整理が下手で、みんなには迷惑ばかりかけていた。

 昨日の聖岳で今山行の三千m峰は終わりだった。今日最初の山は上河内岳かみごうちだけという標高二八〇三mの山。ただ、聖平小屋からの標高差はいきなり五百mもある。上河内岳のピークは縦走路から外れているので(と言っても片道十五分しかないのだが)、三千mを切る山であることもあり、登らずに済ませてしまう人もいる。しかし、この山からの眺めは本当に素晴らしいものがある。

 この日は、好天に恵まれた昨日や一昨日ほど天気が良くなかった。縦走路に大ザックを置いて、サブザックすら持たずに、カメラだけをぶら下げて、本当の空身で上河内岳に登るが、強い風に流されるガスの合間に、運が良ければ周囲が見渡せるかどうかという状況だった。〇六四五、上河内岳に到着。

 幸運にも、わたしはガスがないときに頂上に着くことができた。眼前に昨日這う這うの体で登った聖岳の重量感あふれる山体が聳え、その上に複雑で美しい模様の雲が浮かんでいた。

 剣呑なことに、これから進む茶臼岳・光岳の方面を望むと、茶臼岳のあたりだけが雲に覆われている。稜線の右側から湿った、かなり強い風が吹いていて、茶臼岳近傍の稜線で露点を下回り、それが稜線を覆う滝のような雲になっているのだ。

 さらに南西のの光岳に近い場所では、雲はなくなっているため、この先ずっと悪い状況が続くことはなさそうだったが、少なくともしばらくは条件の悪い中で歩くことを覚悟しなければならないようだった。

 上河内岳と茶臼岳の間は、二重稜線の間に高山植物が生い茂ったとても気持ちのいい道だったが、果たして茶臼岳が近づくにつれて風が強まり、目の前をかなりのスピードで霧が流れ始める。〇七四〇ごろ茶臼岳に到着。「ごろ」というのは、この時点ではかなり風が強まり、さらにこの風に乗って霧が吹きつけるため、止まって休むことができなかったためだ(このときはまだ、自動的に行程を記録するGPSアプリは実用化されていなかった)。

 茶臼岳から易老岳いろうだけの間は、再びわたしが一度も歩いたことのない領域だった。初めて見る景色を楽しみにしていた稜線だったが、悪天候のせいでその願いは叶わなかった。ここでついに雨具を出して着る。寒さはしのげるものの、右から吹き付ける霧交じりの風で、右のサングラスのレンズが何度拭いても曇って片眼視になってしまい、距離感がつかめない。と、この薄暗い状況の中でサングラスをする理由がないことに思い当たり、苦笑いをしながらサングラスをしまう。

 びょうびょうと冷たい風が吹く稜線を、ひたすら光岳に向かって歩いた。急な登り下りもなく、湿地の保護のために木道になっているところもあるため、歩くのは楽だが、いかんせん霧と風がひどい。光岳までの道中、稜線からの往復二十分くらいのところに仁田岳にっただけというピークがあるのだが、この霧と風では展望も期待できないため、カットして光岳に向かう。

 悪い知らせといい知らせが一つずつ。念のためつけていたナプキンによって、下腹部がすれてかなり痛みを感じていた。それから、まだ生理は始まっていない。

 仁田岳の分岐を過ぎてしばらくしたあたりで、急に風が弱まる。霧もなくなり、空には青空が見える。山の天気は急変するとよく言うが、ほんのちょっとした位置の違いで天候が全く違うことが、山ではよくあるのだ。

 易老岳に着くころには、暑いほどの日差しがよみがえっていた。明日はこの易老岳まで戻って、易老渡まで下って下山することになる。ここまでは若干の下り基調で来たのだが、光岳の手前で、最後に比高三百mの登りが待っていた。

 この光岳への登りの途中、昨日聖平で一緒になった青年が空身で下りてくるのと出会う。例の楽しい集まりの中で、わたしの隣にいた青年だった。今日、畑薙はたなぎに下りてバスに乗らなければならないということで、光岳に足を延ばすかどうか、だいぶ迷っていたのだが、わたしも含めた周りの人に焚き付けられて、結局ピストンすることにしたようだ。聖平から茶臼小屋近くの分岐まで行き、ザックをデポ。そこから空身で光岳をピストンして、ザックを回収して畑薙ダムまで下る。かなり長い行程だけれど、この時間に光から降りてこられるならまず大丈夫だろう。

 急登が終わると、急に傾斜が緩くなる。光岳の頂上付近は台地のようになだらかな地形になっているのだ。

 このなだらかな高地にはピークが二つあり、一つが主峰の光岳で、もう一つがイザルヶ岳と呼ばれる山だった。イザルヶ岳の方が手前にあり、ほんのちょっとだけ縦走路から外れているため、大ザックをデポしてピストン。一二三〇イザルヶ岳到着。完全に天気は回復し、青空で目が痛いほどだった。樹林に囲まれた周囲とは打って変わって、イザルヶ岳の山頂付近には木が全くなく、素晴らしい展望が開けている。頂上付近だけむき出しになった地面と、何の意味があるのかよくわからないケルンがいくつも立っているのを見ると、なんだか異星の地にいるような錯覚に陥る。

 一二五五、光小屋に到着。受付を済ませ、テントを張る。テントを張った後、すぐそばにある光岳山頂へピストン。光岳山頂はイザルヶ岳と違い、木々に囲まれていて、展望は全くない。

 頂上から少し離れた位置に展望台があり、そこから南アルプス深南部の山々を望むことができた。

 ここが最終目的地。高校生の頃につなぐことができなかった、塩見岳と光岳が線でつながった。もしこのときインタヴューされて感想を聞かれたら、わたしは恥ずかしげもなくこう答えただろう。「股が痛いです」と。



 テン場にはわたしのテントのほかにテントが二張りあった。一つは甲斐駒ケ岳からジョギングシューズで単独縦走してきた青年(靴以外の装備は非常にまともだった)で、もう一つはこれから南アルプスを、稜線が異なる白根三山と甲斐駒、鳳凰まで含めて全山縦走しようとしている信州大学の三人組のパーティ。

 そう、塩見にこだわっていたので山行の当初は気付かなかったが、あと一日日程を延ばせば、わたしは北岳から縦走することも、甲斐駒から縦走することもできたことに、ここで初めて気が付いた。

 明日の天気も問題なさそうなため、停滞する場合に備えて持っていた予備のフリーズドライ食品を信州大学のパーティーに寄付する。そして、光小屋で最後の山ビールを飲みながら、小屋泊まりの人の中に、昨日会った易老渡に下山する人を探した。テン場の青年も易老渡で、聖平小屋で話をした男性が見つけてきたあと三人の易老渡下山者の六人でジャンボタクシーの相乗りをすることになった。

 明日もかなり暑くなることが予想されたので、真昼間に標高が千mを切って気温が高くなる林道を、大荷物を背負って二十kmも歩くのは、いまのわたしには耐えられなかった。

 この日の午後、わたしは解放感の中で、非常にゆっくりと時間を過ごした。本を読み、飽きると周囲を散策した。誰も見ていないことを確認して、自分で作った「南ア賛歌」という歌を歌いながら、変な踊りを踊った。

 最終日はカレー。そのあとは例によって、泡盛と6pチーズと読書の夜。わたしは6pチーズを二箱持ってきた(箱はかさばるので中身だけだが)。ということは、全部で十二個。テント泊は五泊で、今まで毎晩二個ずつ食べてきた。

 そう、今日はパーティーだ。6pチーズを四個食べられるのだ。わたしがこの山行でおいしいと思ったものは、6pチーズとビールしか思いつかない。フリーズドライカレーも餅入り棒ラーメンも早ゆでスパゲティーも、昼食の何とかバーというような甘い栄養補給食品も、苦痛を感じながら喉の奥に押し込むものでしかなかった。

 6pチーズを四個。至福。至福。なんという至福。山行最後の夜の記憶は、「明日帰れる」という期待や「明日で山行が終わる」という残念さよりも、「四個の6pチーズ」にその大部分が支配されているのだった。

 その夜、わたしはあまりにも明晰な夢を見た。高校生のわたしが何個も何個も、何箱も何箱も6pチーズを食べ、ほんのちょっとの間だけわたしの夫だったひとが、まるでわたしの父親のようにその横で目を丸くして、笑いながら見ている夢を。



 この山行もずいぶん前の話になった。でも、6pチーズの夢は今になっても見る。登場人物はわたしだけだけれど。

 

 

 

 

ぼくたちは「ねじれの位置」ですれ違う 伸ばした手が わずかに  触れぬまま
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