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3.蘭気饗笑
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陵 蘭碧にとって、汝 彩歌は侵しがたいほど狂おしく、憎しみさえ懐き得る宿命の相手であった。
秘されてはいるが、現皇帝の唯一の一粒種であり、踊り子とされてはいるが、亡国の姫であった女を母に持つ、誰にも貶められる要素が無い血筋を持ちながら、気狂いの姫を演じている、賢くも復讐に燃えている哀しく愚かな姫。
最初に彼が彼女、つまり彩歌を認識したのは、彼女が三つの頃のこと。
当時すでに皇帝と言う至高の御位に就いていた、歳の離れた悪友である男の腕に抱かれ、政敵に陥れられ、すっかり落ちぶれていた蘭碧の実家に連れてこられた日のことであった。
「蘭碧、コレがお前の未来の妻だ。コレをくれてやるから、戻って来い、否、どんな手を使ってもいい。昇って来い」
最初は悪友に押し付けられた子供に、嫌悪感も抱けぬほど無関心でいられたが、その幼子が五つの歳を迎える春、幼子の纏う空気ががらりと変わり、常に憎しみと悲しみの空気を背負い始め、義務的に会うたびにそれは増していくばかりで、ある日悪友にそれとなく蘭碧が問えば。
「あぁ、アレを産んだ女が、アレの目の前で首を吊ったらしい」
興味も何もなさげな声とは裏腹に、黒に近い濃紺の瞳には、揺ぎ無い怒りと憎しみ、そして狂気が渦巻いていたのを、10年以上経った今でもしっかりと覚えている。
先日の契約から数日、すっかり彩歌の主治医の地位を奪い取った蘭碧は、彩歌の細い手首に布を割いて作った包帯を巻き、自ら沸かした湯を木桶に入れ、そのお湯で絞った布で綺麗に拭った彩歌の爪先に、薄くとも形の良い唇を押し付ければ、一瞬ぴくりと体に力が入ったが、ついでに上から降ってきたのは、感情の窺えない声音だったが、蘭碧は楽しくてしかったが無かった。
「なにを、そんなにわらえるのかしら、ね」
あなたは、へんたいなの?
と、声なき声で呆れた感情が向けられ、それに対し彼は妖艶な笑みでもって返す。
どうやらこの姫様は、口付けする部分で意味合いが異なってくることをご存知ない様子。
女の欲望と嫉妬が渦巻く後宮の奥宮にいながら、そちらの知識が真っ新に等しいことに、蘭碧は我知らず笑み、にこりと害のない笑みを浮かべ。
「呪いですよ。早くあの頃のように舞えるように、とのね」
本当は足をもぎ、首に枷を嵌め、己しか瞳に映さないで欲しいとも思ってはいるが、それをしたら蘭碧の好きな歪んだ彼女ではなくなってしまう。
足にもしっかりと包帯を巻き、年齢の割には小さな足に布で出来た靴を履かせたところで、扉を控え目に叩く音がした。
普通であれば、室の主である彩歌が返事をしなければ使用人は入ってこれないが、どうやらこの後宮はそこも腐っているらしい。
室の主の赦しもなく扉を開け、蘭碧の存在に気付くなり、嘲笑を浮かべていた表情をコロッと変え、主を放り出し、秋波を送ってくる女官に、悪友に気狂い医と渾名されている男は、それこそ嘲笑を抑えることに必死であった。
ガチャガチャと茶を淹れる陶器を手荒に扱う動作、香を焚きすぎ、もはや悪臭を放っているとも言える衣に、何も理解していないだろうと、主を貶める発言の数々。
彼は言ってやりたい。
懇切丁寧にこの使えなくて醜悪な女官らの耳元で、真意を教え、絶望を与えてやりたい。
が、それは今ではない。
今はまだ何もかもが足りない。ゆえに彼は清廉潔白な医師の仮面をかぶり、春夢のような穏やかで裏のない生真面目な男を演じ、手ずから女官らに茶を淹れてやり、新しい薬をちょろっと入れてやり、実験をするだけに留めてやった。
果たしてその結果は。
ぴくぴくと彩歌の足元で痙攣し、泡を吹き目をぐるんと白目に裏替えし、倒れている女官であった者達を残念そうに溜息を吐き。
「どうやら配合を間違えたようです。私としたことが」
貴重な実験道具を失ったが、そんなに惜しくないともとれる言の葉に、室の主である女は懸命なことに言葉を紡ぐことはしなかった。
秘されてはいるが、現皇帝の唯一の一粒種であり、踊り子とされてはいるが、亡国の姫であった女を母に持つ、誰にも貶められる要素が無い血筋を持ちながら、気狂いの姫を演じている、賢くも復讐に燃えている哀しく愚かな姫。
最初に彼が彼女、つまり彩歌を認識したのは、彼女が三つの頃のこと。
当時すでに皇帝と言う至高の御位に就いていた、歳の離れた悪友である男の腕に抱かれ、政敵に陥れられ、すっかり落ちぶれていた蘭碧の実家に連れてこられた日のことであった。
「蘭碧、コレがお前の未来の妻だ。コレをくれてやるから、戻って来い、否、どんな手を使ってもいい。昇って来い」
最初は悪友に押し付けられた子供に、嫌悪感も抱けぬほど無関心でいられたが、その幼子が五つの歳を迎える春、幼子の纏う空気ががらりと変わり、常に憎しみと悲しみの空気を背負い始め、義務的に会うたびにそれは増していくばかりで、ある日悪友にそれとなく蘭碧が問えば。
「あぁ、アレを産んだ女が、アレの目の前で首を吊ったらしい」
興味も何もなさげな声とは裏腹に、黒に近い濃紺の瞳には、揺ぎ無い怒りと憎しみ、そして狂気が渦巻いていたのを、10年以上経った今でもしっかりと覚えている。
先日の契約から数日、すっかり彩歌の主治医の地位を奪い取った蘭碧は、彩歌の細い手首に布を割いて作った包帯を巻き、自ら沸かした湯を木桶に入れ、そのお湯で絞った布で綺麗に拭った彩歌の爪先に、薄くとも形の良い唇を押し付ければ、一瞬ぴくりと体に力が入ったが、ついでに上から降ってきたのは、感情の窺えない声音だったが、蘭碧は楽しくてしかったが無かった。
「なにを、そんなにわらえるのかしら、ね」
あなたは、へんたいなの?
と、声なき声で呆れた感情が向けられ、それに対し彼は妖艶な笑みでもって返す。
どうやらこの姫様は、口付けする部分で意味合いが異なってくることをご存知ない様子。
女の欲望と嫉妬が渦巻く後宮の奥宮にいながら、そちらの知識が真っ新に等しいことに、蘭碧は我知らず笑み、にこりと害のない笑みを浮かべ。
「呪いですよ。早くあの頃のように舞えるように、とのね」
本当は足をもぎ、首に枷を嵌め、己しか瞳に映さないで欲しいとも思ってはいるが、それをしたら蘭碧の好きな歪んだ彼女ではなくなってしまう。
足にもしっかりと包帯を巻き、年齢の割には小さな足に布で出来た靴を履かせたところで、扉を控え目に叩く音がした。
普通であれば、室の主である彩歌が返事をしなければ使用人は入ってこれないが、どうやらこの後宮はそこも腐っているらしい。
室の主の赦しもなく扉を開け、蘭碧の存在に気付くなり、嘲笑を浮かべていた表情をコロッと変え、主を放り出し、秋波を送ってくる女官に、悪友に気狂い医と渾名されている男は、それこそ嘲笑を抑えることに必死であった。
ガチャガチャと茶を淹れる陶器を手荒に扱う動作、香を焚きすぎ、もはや悪臭を放っているとも言える衣に、何も理解していないだろうと、主を貶める発言の数々。
彼は言ってやりたい。
懇切丁寧にこの使えなくて醜悪な女官らの耳元で、真意を教え、絶望を与えてやりたい。
が、それは今ではない。
今はまだ何もかもが足りない。ゆえに彼は清廉潔白な医師の仮面をかぶり、春夢のような穏やかで裏のない生真面目な男を演じ、手ずから女官らに茶を淹れてやり、新しい薬をちょろっと入れてやり、実験をするだけに留めてやった。
果たしてその結果は。
ぴくぴくと彩歌の足元で痙攣し、泡を吹き目をぐるんと白目に裏替えし、倒れている女官であった者達を残念そうに溜息を吐き。
「どうやら配合を間違えたようです。私としたことが」
貴重な実験道具を失ったが、そんなに惜しくないともとれる言の葉に、室の主である女は懸命なことに言葉を紡ぐことはしなかった。
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めちゃくちゃ好きなやつです…!!
彩歌の、内に秘めた煮えたぎる感情も胸熱ですが、蘭碧も!負けず劣らず歪んで!いる!!(イイ!!)
2話の展開も悶えましたが最新話の蘭碧もイイ…(イイしか言っていない…)
このあと一体どうなっていくんだろう…
奏月様のペースで、更新楽しみにお待ちしております!
マッドなお医者さんに見えてればいいのですが
悶えて下さりありがとうございます
歪んだ愛情大好き侍なのでこれからも歪んでまいります