所轄刑事

美亜野

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血縁無縁

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血縁無縁
    
                                            美亜野

東堂達夫  32   武蔵野北警察署捜査一課東堂班班長
小高信吉  55   同署捜査一課長
小柄で優しいが捜査に関しては厳しい 
最近血圧が高くて悩んでいる。

東堂班員
熊谷 邦彦  44  飲んべであるがスケベでも有る。捜査の手は抜かない。独身

美木多重雄  54  ベテラン刑事だが敢えて平のままである。妻に頭が上がらない。東堂はこの捜査員を頼りにしている。

穂高由美  39  交通課から捜査課に。
  空手はこの人の右に出る者はいない。
 
坂田慎吾   26  今年制服警官から刑事に。真面目だが女に弱い

折本太郎   27   折本圭子の弟、明るいが少し抜けてる。正義感が強く、お酒は弱い。折本圭子は昭島東署で係長に昇任している。

美作あきら  25 春からの新任捜査員。
春からの新任である。生真面目。

保坂賢治   55  武蔵野北署、生活安全課の課長捜査員経験が豊富で人当たりの良い人物



 平成7年。今から23年前の関東平野でやっと桜が咲き始める3月の末の頃であった。北国の春は遅くまだ寒い。
目は醒めては居たのだが暖房を朝方落とした寝室は既にシンシンと冷え切っていた。それに日曜日、妙子はまだ起きれずにベッドの中にいたから、エアコンのリモコンに布団から手だけを出してつけた。
隣では夫の公男が鼾をかいている。
,,まだ起きそうもないわね、やっぱりも少し寝てよう,,と思ったその時だった。
隣の家から大きな音がして子どもの泣く声が響いて来た。
(あ、また洋子(ようこ)ちゃん怒られている!)
そう思った妙子は飛び起きた。
傍らの綿入れ半纏をパジャマの上に羽織ると寝室から一気に階段を降りて玄関を飛び出した。
途端に突き刺すような冷気が妙子に襲って来た。だが構っては居られない。日頃から気になっていた事だ。
隣との塀は低くその玄関に目を移すと
ドアーが乱暴に空いてまだ3歳の洋子が「出てろ!お前なんか帰って来んな!」と父親の声とともに飛ばされるように出されそのドアーは無情に大きな音を伴い閉まった。
幼い洋子はパジャマ姿で裸足のまま放り出されたのだ。
妙子は駆け寄った。思わず洋子を抱き締めると自分の半纏を脱ぎ洋子に着せた。不思議に寒さを感じない。
「大丈夫よ。泣かないで。おばちゃん、パパに謝って上げるから。」
洋子は妙子にしがみついで泣くのを止めない。
震える指を落ち着かせながら恐る恐るチャイムを押した。
いきなりドアーが空いてその父親が妙子に血走った眼を剥いている。
身体が小刻みに震えて止まらない。「なんだ!人のうちの子を!」と怒鳴る。
だが、妙子は気丈な女だったから負けてはいない。だが足は正直に震えている。
「なんだと聞きたいのは私の方です。一体どうしたのですか?」と精一杯言い返した。
「躾だよ!ほっといてくれ!」
見るとそう叫んでる後ろで母親がオロオロしているのが見えた。
「ほっとけませんよ。まだこんなに小さな子をほおり出すなんて。躾じゃないでしょ!ご主人の怒り収まるまで洋子ちゃんうちで預かりますから、良いですね!」と言い返した。その勢いが意外だったのか
「か、勝手にしろ!どうせそんなやつ要りゃしない!」と妙子に目を剥き怒鳴った。
その酷い言葉は妙子と泣きじゃくる洋子の凍りつかせている。
妙子は洋子を護るように抱くと急いで戻ろうとした。
「全く物好きな女だよ!シャシャり出て来やがって!覚えてろ。」と罵声を浴びせると乱暴にドアーを閉めて中から鍵をかける音がした。正直妙子の身体は怖さに震えている。
急いで洋子を抱えた妙子は家に入った。エアコンとガスストーブをつけると
居間のソファーに洋子と共に座った。じんわりとガスストーブの暖かい空気が二人を包み始めている。公男が起きて来た。外での声が聞こえていた様だ。
「大丈夫か、お前そんな事して来て。」
「大丈夫も何も無いの。見て!」「洋子ちゃんの身体アザだらけよ。」
公男もパジャマの袖をたくしあげて洋子の腕を見て驚き息を呑んだ。
「こ、これはほっといたらこの子大変な事になるな。」
「顔は殴らないのよ、知能犯だわ!」妙子は呻くように言った。
「一応警察に電話しておこう。」
妙子は其れにうなづきながら洋子を抱きしめた。
胸が苦しいほど可哀想で堪らない。「おばちゃん、苦しい。」と言われて腕を緩めると。
「顔綺麗にしてご飯食べようか。美味しいの作るよ。」と話しかけた。洋子は泣きながら「うん、食べゆ。」と回らない口で言った。
その小さな顔をお湯で絞ったタオルで拭くと幼児らしくとても可愛いらしくなった。目の前にまだ三歳の痩せた幼子が居た。
若い夫婦には3歳の子供が何を食べるのか良く分からない。
「洋子ちゃん、何が食べたい?」と聞いてみた。
洋子は円な瞳を向けながら
「うーんとね。ご飯。」「ご飯?」「お塩のご飯。」「え、ご飯、塩?」「...。」
妙子は涙が止まら無くなった。,,こんな小さな子がご飯しか知らないなんて,,
胸が詰まって声を殺すのに大変だ。「それとご褒美のバター。」
とまた言ったからやるせなくなってしまった妙子は頭を撫でてやるとそそくさと台所に立った。
オムレツも温かな味噌汁も何にも食べさせて貰って無いのは確かな事だ。
塩のかかったご飯だけ食べてたのか。ご褒美でバターか!だからこの子痩せてるのか。
妙子はほんとに忌々しかった。一体母親は何をしてるのか!自分の子供さえ護れないのか!そう心で叫びながらだから包丁の音が否応無しに大きくなる。
そのオムレツとサラダと味噌汁を作った。
3人でテーブルに着くと椅子の上に母さん座りをして洋子は其れを眺めている。
スプーンでオムレツを一口運んだ洋子は妙子をじっと見ている。
その小さな瞳からみるみるうちに涙が溢れ出した。
堪らなくなって妙子は吐き出すように公男に言った。
「もう、この子を返したくないわ!」その気持ちは一緒だがやはり男である。公男は冷静だった。
「でも人の子だよ。そんな事簡単には出来ないよ。それにあの男は何をしてくるのか知れやしない。やはり警察に相談してみるのが一番じゃないかな。」
妙子はその言葉にやっと自分の気持ちを納得させた。
その間も洋子は夢中で妙子の作った物を食べている。
「おいちい。」と一言ポツリと言った。公男と妙子は同時に微笑んでしまった。
その日妙子が揃えた服に着替えさせて、その洋子を連れて山形南酒田警察署の生活安全課を訪ねたのである。

滝沢公男 28  東京の五反田に本社が有るIT関連会社、【SSIT】から山形営業所に転勤。優しい男で2年前その転勤とともに妙子と結婚した。

滝沢 妙子  26  公男と同じ部署に居たが婚姻と同時に退社し山形についてきた。正義感が強く愛情深い性格である。

木村洋子  (ようこ)3  母、織江が洋子を連れて哲郎と再婚した。流し放題にした髪の毛、ほっぺが赤く可愛い子供だ。

木村哲郎  31  織江と再婚したが横暴な性格で織江と幼い洋子に日常的に暴力を働いている。
    
山形北警察署は東京の所轄署よりもこじんまりとしている。
その生活安全課は二階の捜査一係や二係と同じフロワーの一番手前の仕切りであった。
「それは偉いことだったねぇー。洋子ちゃんって言うの?あのお姉ちゃんと遊んでてね。」
と人の良さそうな巡査部長高峯郁夫が洋子に声を掛けて促した。
頭は禿上がり丸いメガネを掛けてニコニコしている。
婦人警官が洋子を別の仕切りに連れて行くと高峯は応接室のソファーに二人を促した。
「あの木村って男はね。横浜から流れて来た男でね。悪い噂も聞いてますよ。あ、洋子ちゃんの事で何回か此処にも通報が来てましたね。」
ノートをめくる。
「つい二週間前にも虐待されてるのでは無いかと電話が有りましてね。児童相談所とも連携取ろうとしてたとところなんです。」
「あの、陽子ちゃんの身体、至る所に乱暴された後が有って、あのお父さんの所に返すのは危険だと思うのですが。」
妙子は高峯に必死に話した。
公男は黙って聞いている。
「その辺は今うちの捜査員が洋子ちゃんを調べて居る筈です。何にしても人様の子どもさんですから余程のことがない限り保護は難しくてこんな機会でもないと何も出来なくて、情けない事何ですが、
でもこの子を連れて相談に来られたおかげでね今回は相談所に一時預かって貰い親子さんと話し合う事が出来るでしょう。」という。
「じゃぁ今日は洋子ちゃん家に帰らないで済むんですか?」「親御さんに通達してからですが懸念が有れば親子さんには引渡しません。」署から木村へ電話を入れた。
「あの女警察へ行ったのか!構わない何日でも預かってくれ!だけど洋子はうちの娘だ、いずれ返して貰いに行くぞ!」と電話口で凄い剣幕で怒鳴っていたらしい。
妙子も公男も後追いして泣きわめく洋子に後ろ髪を引かれる思いになったが納得せざるを得なかった。
何か有ったら洋子を何時でも引き取る旨を告げ、今回の相談の要望書を提出して高峯の手に洋子を委ね帰りの車に乗り込んだ。
ひとまず親の元には戻らない。それだけが少しだけ安心出来た事だ。しかし胸の内では警察や行政の対応が歯がゆくてならない。妙子の気持ちは複雑であった。
ようやく家のそば迄帰ってきたのは午後の二時を回った頃だ。
木村の家から町内会の役員の近藤が慌てて飛び出して来るのが見えた。
公男は車を降りると「近藤さん何か有りましたか?」と通り過ぎようとしている近藤に声をかけた。電話、電話、と慌てている。
「警察!」と叫んだ。
公男の手を引いて引っ張るように木村宅に入って行った。
玄関は開け放たれてその上がり口に頭を強打した木村織江が動かなくなって倒れていた。
公男も息を呑んだ。
静かな町は時を待たずに警察車両や関係者、やじうまでみるみる内に賑やかになった。
    履物も吐かずに衣服も乱れ倒れていた織絵は既に事切れていた。どうした事なのか詳しい見聞を待たなければ事故が他殺か判断はつかない。
確かな事はどこを探しても家の中に哲郎の姿は無かったのである。
織絵は玄関で何者かと争い突き飛ばされて上がり口に頭を強打、頭蓋骨陥没が死因で有る事が判明して他殺と認定された。
警察は即夫の木村哲郎を第一容疑者として行方を追った。
洋子の事も有ったのでいつ哲郎が殴り込みにくるかも知れないと滝沢夫婦は気が気でない何日かを過ごした。
まだ哲郎は逃げて捕まらずいる。
織江も居ない今、洋子は行政の保護の元にいる。其れだけが救いであった。
    それから時が瞬く様に過ぎ去り平成29年の二月ももう直ぐ終わろうとしていた。
一際寒い朝である。
武蔵野北署は朝から捜査員や事務方やビル清掃業者等で忙しい。その時「東堂さんお早よう御座います。」
署のロビーで生活安全課の滝沢洋子(ひろこ)が声を掛けてきた。
何時も明るく笑顔の可愛い生安の捜査員だ。
「おーひろこちゃんお早よう。」達夫も返した。
「あ、夕べねほら、あのスリの...なんて言ったっけ。」
「直さんかい?」
「そうそう、その直さん、来たのよ。」
「生安に?」
そう聞かれて洋子はケラケラ笑いだしてしまった。訳が分からない。
「どうした?」
聞かれて洋子はお腹に手を当てて笑いを堪えるのが大変なようだ。
「署の前でお腹痛くなってね。トイレ貸してって。」
「ほう~?」
「でね、どうぞって言ったら預かってくれってカバンを。」
「ん、」
「で、トイレに飛び込んだの。」
課長がまだ居て、あいつの事だからってカバン調べてみたらしい。
財布が二個出て来た。「当然トイレ出てきた所で捕まってね。」
「そりゃそうだね。」達夫も笑いだした。
「直さん。俺もウンが落ちたなって、廃業するって喚きながら取調室にね。」
「だけどねひろこちゃん、直さんの事だからきっと懲りないよ。」
洋子は達夫の顔を見て大真面目にうなづいてみせた。
洋子は捜査課の男性捜査員だけではなく誰にも好かれている。年の割に若く見え、明るい。
捜査課の折本何か彼女にしたいなんて言っている居るくらいであった。
「直さん少し長く此処にいたら良いよ。歳だからねもうほんとに引退したら良いのに。」と達夫が言うと
「ほんとに~。」と言いながら生活安全課のカウンターの中に消えて行った。
直さんとは武蔵野北署管内では名の知れた年寄りのベテラン箱師である。
悪いやつだが妙に人懐こくて憎めない。
朝から何だか楽しい気分になって達夫は捜査課への階段を上がって行った。
  滝沢洋子(ひろこ )  26歳。国立の曙団地に両親と四歳離れている弟と暮らしている。
滝沢さんの両親はきっと良い育て方をしたんだろうなぁと達夫は日頃を見ていて思う。
達夫は去年の秋に長女、美穂(みほ)生後五ヶ月をもうけていた。だから他人事では無いのである。
美穂子も警察官、二人とも忙しい生活をしている。美穂子の母親と同居して留守を護ってくれては居るのだが
わが子の行く末はとても気にかかる事だ。
幸せを願わない親は居ないのである。
(ひろこちゃんの様に育てなきゃな)と日に日に可愛くなる美穂の顔を思い浮かべてそう思うのであった。
    捜査課に入ると折本捜査員が笑いながら言った。
「お早よう御座います班長。聞きましたか?」
達夫は直ぐに直さんの事だと分かった。
「直さんだろ?」
折本は「滝沢から聞きましたね。」とはずかしそうに笑っている。
「何も警察のトイレを借りなくても、すぐ先にファミマが有るのに。」と笑った。
「ま、間とはそんなものだろな。年貢の納め時だと思うけどな。」と達夫が言うと黙って聞いていた美木多が
「無理だろな、今回の事で少しムショに入るだろうが出てきたらまたやるよ。あの爺さんは。」とメガネを直しながら言った。
達夫は美木多に聞いた。
「直さんどうしてる?」
「朝から事情聴取されててね。奴さんしょげてる見たいだよ。お腹の調子もまだ良くないみたいだし。」と美木多が応えた。
まぁ~、釈迦に説法だろうけど少しは薬になるか~と、達夫はそんな事を考えた。
直さんは腕の良い箱師なのだが何せ歳を喰っていた。
八十七歳ともなれば身体の具合も悪い時も有るだろう。
今度はどのくらい食らうか分からないが元気で出所出来るか保証は無いのである。
  だが、そんな事が話題になるのは署の管轄でこの所大きな事案も無く少しのんびりとした日が続いている平和な証拠だった。
何事も無いのは良い事で、もっとこんな日が続くと良いのだがと、捜査員達は皆そう思っていた。
吉祥寺の駅辺りは屈指の繁華街。小さないざこざや窃盗などは管内では毎日の様に有るが其れに振り回されるのは警察では当たり前の事だ。
大きな事件が起きないのは幸いな事であった。
   拘留期間が切れる少し前直さんは起訴されその身柄が国分寺刑務所に移された。
そこで裁判を受け量刑が言い渡される。
   それから十日余り平穏な日が続いていた。
もうこの年も桜の開花も話題に上る時期になっていたのである。
    洋子は自宅に帰る道を急いでいた。夫婦喧嘩の通報が有り、同僚の増川捜査員と臨場して、それを処理していたので6時を過ぎている。いつもの事だが。周りは既に暗い。慣れた道とは言え少し怖い感じがする。
そう言えば晃生も変な男に睨まれたと言っていたのを思い出した。見覚えの無い人だったと言っていた。思えば父親の公男が去年の秋に横断橋から足を踏み外して階段を落ち2年前に亡くなっている。落ちたさいに頭を強く手すりの柱を固定するコンクリートにぶつけ脳が陥没しての即死状態だった。この時に捜査に当たった国立的場署の捜査課長は事故として処理をした。だが捜査員の間では団地のすぐ前にコンビニが有るのに家から離れたコンビニに何故出かけたのか、その疑問が残ると話していたそうだ。洋子も刑事の端くれ、その決定に疑問を抱いていたのはその捜査員達と同じであった。洋子を慈しんで育ててくれた父、その急すぎる死は今でも残念だ。その話は洋子も忘れかけていた。
が、こう暗く、寒いと急に思い出して気になって来た。足音が後ろからしてるような気がした。
思い余って後ろを見ても誰も居ない。尚更家までの道を急いだ。
   「ただいま。」と息を切って玄関に入ると妙子は急いで電話機を置いた所だった。
「あら、誰から?晃生?」と聞いた。
「ん、誰でも無いわ、間違い電話よ。」と取り繕って言ったが妙子の顔色が蒼白だった。洋子はなるべく気にしないように振舞った。この所得体の知れない電話が時折かかって来ていたのは知っている。
「母さん、今夜はなぁに?」
と明るい声で聞いた。
「ビーフシチューよ。もう晃生も戻るでしょ。少し待ってね。」といつもの様に答えた。
晃生は洋子の働いている署からそう離れては居ない畜産大学に通っていてこの春から四年生になる。念願の獣医となる予定でなのである。その勉強の最後の追い込みを頑張っていた。
勿論、最初から動物病院を持てるはずも無いので大きな動物病院へ就職する事になるだろう。その就活も始まる。彼は公男と同じで細身で背が高い。若い時の公男に仕草までそっくりだと妙子が呟いた事がある。
そんな事を思い出してしまったが
気を取り直して「着替えてから手伝うわね。」と自分の部屋に上がって行った。
父さんが亡くなってから何かが変だ。と感じているのだ。
洋子は自分がその亡くなった父や妙子の養子である事は大学受験の時の取り寄せた戸籍謄本で知っていた。高校入学の時は公男が上手く隠したものらしい。
だがそんな事をおクビにも出さず晃生と分け隔てなく何不自由無く育てて貰った。どうして養子になったのか、洋子は知らない。そして自分の名前がひろこでは無く本当はようこである事も全く知らない事であった。物心付いた頃からひろこであったのだ。其れに晃生が産まれる前に山形から東京に公男は仕事を辞めてまでして移り住んでいる。
もしかしたらそれらは私が養子である事が関係しているのでは無いだろうか。ふとそんな疑念を少し前から抱いていた。
ジャージに着替えて洋子は階段を降りて行った。
口には出さないが公男の死で落ち込まないはずも無いのに妙子が気丈に振舞っている事等は二十六歳とも成れば感じ取れる。だから敢えて明るく妙子と接していた。食器を並べながら言った。「母さん。夏のボーナス出たらね北の方へ旅行しない?」
妙子はビクッとして「北って?」と言った。
「暑い季節になるから、そうね長野の安曇野辺りは駄目?」妙子は洋子の顔を見て「其れは良いかもね。でも.......。贅沢よ。」と言う。妙子の顔は明るくなった。
「贅沢では無いわ。晃生も大学最後の年だし。記念に家族でね。父さんの写真も持ってさ、ね、どう?」
「洋子や晃生に生活費助けて貰ってるだけで母さん充分なの。これ以上は望まないわ。」と応えた。
「つまらない事をおっしゃいますね。母さんは相変わらず。」とおどけてみせた。妙子は思わず笑顔を浮かべて「その通りですわよ。」と、言ってのけた。その時リビングのドアーがいきなり開くとそこに晃生が変な顔をして立っていた。「あら、お帰り、なぁにただいまも言わないで。」晃生は「母さん、ほらこの間知らない男から睨まれたって話したでしょ?」妙子は晃生の顔を見て「それがどうしたの。」と聞き返した。
「その男だ、絶対。」
「その人が何だと言うの?」今度は洋子が聞いた。
「今家の前に居て、僕をじっと睨み付けるんだ。」
妙子は狼狽えた。
「それでその男は?」と声が上擦る。「睨み返してやったら駅の方へ行っちゃったよ。変な奴だ。」
「どんな人よ?」気になって聞いてみた。
「がっしりとした大柄の50歳位の男で、あ、左目の下に小さな黒いホクロが有ったな。」妙子はそれを聞いて玄関に飛んで行った。「母さんもう居ないよ。俺、明日午前中暇だからほら、あの駅前の交番に行ってみるわ。」
リビングに戻った妙子は急に静かになって其れは食事中続いたのである。
晃生は次の日交番に相談しに行った。「しかし、なんだよね。君が女の子なら付け狙うのも分かるけど。ま、巡回増やしてみるね。」とその巡査は言ったらしい。その程度の事だと判断したのだろう。
その次の日は日曜日だった。
妙子は珍しく外出をして半日位帰らなかった。普段は買い物くらいしか出ないので洋子は少し気になっていた。
その夜食事が終わりお茶を飲んでいる時だった。
「二人に母さんから話が有るの。」
洋子と晃生は同時に何?と聞いていた。
「あのね。お父さんの保険金ね。二人に取っておこうと思って居たのだけど。」
「晃生もいずれお嫁さん貰うでしょ。」
晃生は照れた。
「馬鹿ね、今じゃないわよ。」と洋子が茶化すと
「真剣に聞いて。」と妙子が言う。
二人は神妙になった。
「この団地にいつまでも居るのは何だと思って前からマンションを探してたの。」思わぬ妙子の言葉だ。
「ほら、武蔵野市なら、洋子も働き場所に近くなるし、晃生も勤め先見つけるのもあの街ならと思って、今日決めて来たのよ。」「えっ」二人は声を揃えた。「何でよ。ここで充分じゃない。」洋子が言うと。
「実はね母さんあの吉祥寺が好きなのよ。親孝行だと思って越すの許して。」と言う。洋子は感が良い。
これはこの間から起きてる不穏な事と関係してるのでは無いか。もしかして私が養子である事も。と思った。其れに付けても思い詰めた様子の妙子にこれ以上の反対は二人とも出来なかった。その日から間もなくして武蔵野市の公会堂近くのマンションに移り住んだのである。
    洋子は署に歩いても通える位の所で通勤も楽になった。諸手続きも諸々総務課に提出してまたこれで穏やかな毎日が始まると信じたかった。
晃生はアルバイト先も大学も近くなってそれなりにやはりマンション購入は嬉しい事で、生活をエンジョイしているようだ。其れにあれ以来あの男は現れてないみたいである。
   その引越しからまだ幾日も経ってない日だった。ついこの間まで住んでいた曙団地の一室が日曜日の夜中何者かに火炎瓶の様な物を投げ入れられて焼けた。幸いその部屋だけで済んだのが奇跡の様だったと朝のニュースで顔見知りの団地に住む人がインタビューされていた。,,国立市曙三丁目二の六   その団地の三号棟三○三号室から昨夜一時半頃発火しその部屋は全焼しました。空き家となっており怪我人は有りませんでしたが遅く帰宅した住人の怪しい人影を見たとの情報も有り、消防と警察はその男が火炎瓶等を投げ込んで放火したとみて捜査中です。,,
朝七時のニュースだった。
妙子は震えが止まらない。洋子も晃生も其れに釘付けとなって居る。
紛れもなく其れは洋子達が永年住んだ部屋に間違いなかった。何者かに火炎瓶を投げ入れられた、その言葉が妙子の頭の中を駆け巡っている。自分達が狙われての放火に違いないも思われて怖かったからだ。
もう、ダメだ警察に相談に行こうとそう決めた瞬間である。
それにしてもあの男は執念深い。恐ろしい男だ。しかしあの時哲郎は本当に捕まったのだろうか。日本の警察は甘くないもの。絶対に捕まったのだろう。新聞にも報道もされてたし、もしかして出所してから探し当てたのだろうか。
うちの人もあの人が突き落としたのでは無いのか。
妙子はそんな事を思っていてほんとに震えがが止まらない。洋子に話さなければ、あの子に危害が有るとすれば注意をしなければならない。
そうだ2人と話そう。そう漸く決心が着いた。「お母さんどうしたの?そんな怖い顔して。」心配して洋子が声をかけた。「二人とも今夜は早く帰れる?」「話があるの。」
晃生はこの放火のせいだと直感した。其れに二度も変な奴に睨まれたのを考えて、
「アルバイト休んで早くに帰るね。」と妙子に言った。
「私は定時に上がれると思うわ。」
妙子は二人の顔を見て「お願いね。」と付け足した。
   署まで歩いても直ぐなのだが洋子は自転車を利用する事にした。歩いて通うと隙が出来る。自転車なら回避出来る事も多いからだ。だから直ぐに署に着いた。自転車を止めながらふと思った。(母さんは私の養子の事を話すのかも知れない。そこに一体何があるのだろう。晃生は確かに変な男と会ってるけど、私には接触何もして来ないしな。と頭の中でそんな思いがかけめぐる。昨日の放火の事も一応課長の耳に入れて置く事にしていた。明らかに我が家に何かが起きていると確信したからである。生活安全課に入ると課長が洋子の所に飛んで来た。そして応接室に招くと。「国立の放火って前滝沢さんの住んでた部屋だろ?」と開口一番に聞いてきた。洋子は「そうなんです。」と応えた。
「これは何らかの事で恨まれたり妬まれたりしてる者が居ると考えた方が良いね。」と言う。
「そう思います。2年前父が亡くなった事か、私の事が有るのかも知れないんです。今日、私の方から課長にお話しするつもりで居ました。」課長は顔を曇らせて「そうか、気をつけた方が良いね。」「有難う御座います。今夜母から話があるそうなんです。多分私の事だと思います。」課長は不思議に思ったらしい。「滝沢さんの事?」洋子は意を決して自分は養子である事を話したのである。「知っては居たよ。」「本人がその事を知らないのであればと思い聞かないでいたんだが。」課長の思いやりに洋子は頭を下げた。
「暫くの間、身辺を注意しておいた方が良いね。私もそれと無く気をつけて見てるから。」と言う。
「はい、ご心配おかけします。」洋子は課長の配慮が嬉しかった。少し心が軽くなったような気がした。
生活安全課の一日の仕事を卒無く粉して洋子は母の待つ我が家へ帰宅したのである。晃生は既にお風呂に入っていた。台所では妙子がコロッケを揚げている。テーブルにはもう切り干し大根の煮付けやワカメの酢の物等が出ており、いつもながらの母の手料理に急にお腹が空いてきた。
「も少し待ってね。晃生もあがってくるでしょうから。」と妙子が声を掛けて来た。「うん、着替えて来るわ。」洋子が言うと「もう階段が無いから楽でしょ?」と言う。国立の団地にはエレベーターが設置されて無く三階とは言え疲れて帰宅した時など階段はそれなりにきつかったのである
洋子は「ほんとよ。」と笑いながら応えた。
でも胸の内では妙子が今夜話す内容が気になってどうしようも無い。自分の幼い時の事は全く覚えては居なく、物心か着いた時には既に滝沢の両親に大事にされていたのである。その頃にはホントの両親では無いなんて疑っても無い事で、今夜一体どんな話を聞くのか不安であった。
    妙子のコロッケは絶品である。
公男も良く頼んで居たのを思い出す。胸の奥で父の亡くなった現実が悲しくなる。お父さんコロッケ好きだったとは誰も口には出さないけど妙子も晃生も思い出して居るのだろう。この家族に公男の居ない生活が普通になるのにはもっと時が必要なのである。
親子三人の食事を終え洋子が珈琲を入れた。
「今朝言った話なのだけど。」妙子は切り出した。「もしかしたら洋子は知って居るのかも知れないね。」
「私が養子だと言う事?」妙子は洋子の顔をまじまじの見て、「やっぱり。」と言った。
聞いていた晃生が「姉さんが養子?」と驚いた様に言うと
「そうなの。でも母さんは勿論父さんだって洋子の事を養子だなんて一度も思った事なんて無いの。」
「私だってそうよ。父さんや母さんに甘えて生きてきたわ。」妙子は嬉しそうに微笑むと「洋子、あなたは本当はようこって名前なの。」洋子は驚いた。何故なのか?「な、何で。?」と自然に言葉が出ていた。
「実はまだ山形にいた頃ね。隣に木村さんと言うお宅が在って。」「洋子、あなたはその木村さんの子供だったの。」洋子は黙って聞いていた。「何時もあなたのお父さん、哲郎さんは洋子を連れたお母さんと再婚したの。だけれど、連れ子のあなたを虐待してて、」虐待!洋子は胸が張り裂けると思うくらいその言葉に驚いた。「ある朝見兼ねて家に連れてきてね。警察に相談したの。あなたは児童相談所に一時預かって貰ってね。その日、あなたのお母さん、お父さんと揉めてね。.......」言葉に詰まってしまった。流石に辛い事を言わなければならない。「それでどうしたの?」洋子は堪らなくなって聞いた。「うん、あなたのお父さん織江さん、あなたのお母さんの事よ。殺して逃げたの。」それには晃生も驚いた。「な、なんだよ。いきなりそんな話!」と狼狽えた様子だった。「大人しく聞いて。」と妙子は晃生を制すると続けた。
「警察が行方を探したのだけど暫くは逃げて哲郎さんは捕まらなかったの。」「私は洋子ちゃんが可哀想で、お父さんと相談して児童相談所から引き取って来たの。」洋子は息を呑んだ。実の母親を養父に殺された?にわかに信じられない。
「それから哲郎さんの仕返しが怖くて、父さん会社で何か問題もあったらしくてね仕事を退職して東京へ出て来たのよ。」「暫くして哲郎さん逃亡先の大阪で捕まったの。」と言いながら古い新聞を出して来た。その哲郎の記事が掲載されていた。そこに父親が捜査員に確保され新潟の寺泊署に連行される報道写真があった。上着を頭から被り俯いていてその顔はハッキリとは分からない。それでもガタイの良い事だけはわかる。晃生もマジマジと見つめた。
「それから一年半もたってそこでやっと正式な養子縁組が認められて洋子はうちの子になったの。」「刑は懲役9年、でも早くに保釈される事もあってね。今では絶対に出所してるだろうし、いつか洋子を取り返しに来るのではと怯えて暮らしていたのよ。」
そんな事は日頃から洋子は感じた事は1度もなくて聞いてもにわかに信じられない。「引き取った頃、あなたには虐待の爪痕がいっぱいあって。食事もろくにね。」「お母さん。私今ショックで。」と洋子が言うと「そうだよね。両親の事、こんな酷いこと聞いたのだもの当たり前よね。」と妙子は肩を落とした。「母さん、私は養子だなんてちっとも知らずに大学生なる迄。それからもお母さんやお父さんの子供でいた事を感謝してたの。私がショックを受けたのは、その養父から虐待を受けていた事なの。それ以外何も無い。」事実の事だった。養子に出された経緯を知らずにいた洋子にとって虐待した養父もそれを容認していた弱い母の事もそして殺された事もそんな事はどうでも良かった。ただ虐待されていた事を初めて知って今の両親が助けてくれた事実にショックを受けていたのである。
「もしかして、父さんの事故死、関係有るのかな、俺を付け狙った男はもしかして、あ、あの放火も。」
と晃生が言った。「それは分からないわ。国立に越したのも行政が隠してくれて探しようがないと思って居たのだけど。執念深くて粗暴な人だからこの所の事は私もそうじゃないかと恐ろしくなってね。」洋子は情けなかった。自分の両親がそんな人達である事が恨めしい。だが今まで愛情をいっぱい受けて育って来た。妙子が母親である事に決して変わりない。
そしてもしかしたらその養父が大切なお父さんを殺害したのかも知れなく。其れには言い様もない思いがしていた。しかし今何とかしなければならない。その男が執拗に嫌がらせをして居るとするならば大切な家族にこれ以上の危害は避けなければならない。どうしようもない現実に初めて恐ろしさを感じたのである。洋子は公男の仏壇の前に座りじっと公男の写真を見つめていた。・もしかしてお父さん、私のお父さんに殺害されたのかも知れなくてごめんなさい・そう心で話していると済まなくて涙が頬を伝わっている。ふと我にかえると晃生が見ていた。「大丈夫、姉さん、俺が守るよ。姉さんの事も母さんの事もね。」それを聞いて妙子も涙を流した。「母さん、私母さんの事大好きよ。私はずっとお母さんのこども。これからもね。ありがとう、今までの事。」「本当に有難うしかないわ。助けて貰って、育てて貰って。」洋子の涙は後から後から流れてくる。
初めて洋子に食事させた時の妙子を見つめて泣いたあの時の洋子の涙を今また見ている様な妙子はそんな思いがしていたのである。
「取り敢えず、明日課長とまた相談するわね。そして正式に要望書提出しておくわ。」と涙を拭いながら洋子は取り分け明るく言った。
     達夫は美穂を風呂から上げて美穂子に渡すとホッとして湯船に飛び込んだ。忙しい仕事の連日地獄の時間だ。シャンプーを済ませジャワで流している時だった。風呂場のドアーを叩く音が響いた。「たっちゃん、署から電話!」ドアーが少し空いて達夫の携帯が美穂子から手渡された。左手で頭を拭きながら受け取ると「東堂!」と響いた自分の声が木霊する。「済まんが武蔵境の駅前で殺しだ。出張ってくれ。車を向かわせた。」小高の声だった。「承知しました。」お風呂もゆっくりと入って入られない。上がると美穂子が着替えを入れた手提げ袋を用意してた。「殺しですって?いつ帰れるか分からないわね。」と言う。
「仕方ないさ、これが俺の仕事だ。」美穂子の用意したスーツを着ると風呂から上がってご機嫌の美穂を抱っこして「いい子で寝てるんだよ。パパ行って来るからね。」高い高いをしようとした。「あら、ミルク飲んだばかり、やめて!」と美穂子が叫ぶ。今夜はゆっくりと美穂と遊べると思っていた達夫は不満そうな顔して美穂をベビーベッドに移した。「俺、外で車待つわ。」とマンションを飛び出して行った。夜の8時を少し過ぎている。風が冷たい。
    坂田が運転する警察車両が達夫の前で停まった。
どんな殺しだと聞くと「武蔵境の北口を出たところにバス停があるでしょ。」「田無駅経由ひばりヶ丘団地行の乗り場で40代の男性が後ろから刃物で左胸の辺りを刺された模様です。まだ詳しい事は鑑識が出て調べて居る段階です。」と説明した。坂田は今夜は泊まり当番であった。「そうか、迎え済まなかったね。」と言うと「班長こそ定時でやっと帰れたのに。」とポツリと言った。
現場に着くと駅前と在って人だかりが凄くその一角は警察車両や一般の車の乗り入れやタクシーので入りなど規制され騒然としていた。
その規制線のテープを監視している制服警官に捜査員証を提示して坂田と入って行った。
「課長、遅くなりました。」
バス乗り場の上に横たわる遺体にはブルーシートがかけられている。
その男はサラリーマン風のいかにも真面目そうな40代から50歳位の男だ。その身元が持っていた財布の身分証から判明していた。
大崎太郎  株式会社、SSIT.経理課長
五反田が本社である。
更に運転免許証から年齢や住所が割れていた。ひばりヶ丘団地に住まっている。既に家族への連絡は済んででいた。その遺体の状況を見た達夫は「この殺られ様は怨恨でしょうかね。執拗に刺されてますね。」
「この雑踏の中でやられてるからね、目撃者が当然居てね、逃げた男の面が割れてるよ。」周りに飛び散る血痕やげそ痕などの採取が鑑識班でされている。「今監視カメラで逃走経路を追っている。近辺の聞き込みに合流してくれ。」と小高の命令を受けて2人はスキップ通りで聞き込み中の仲間と合流した。初動捜査は極めて大切でそれ如何で事件が早期解決するのか迷宮入りするのか決まると言っても過言では無い。程なく武蔵野北署に警視庁捜査一課が出張り捜査本部が置かれた。
目撃者が見たのはバス待ちをしていた被害者大崎に後ろから男が掴み大声で「殺してやる!」と叫びながら背後から背中を何回も刺した。大柄で少し白髪混じりの厳つ顔をし、左の目の下にホクロがあったとそのバス停の向かいのパン屋へ買い物に来ていた主婦から得られた。その後その主婦の情報で男はそのまま線路伝いに三鷹駅方面へ逃げて行った。との事だた。駅前の商店街へ入れば人が多くそこを避けたので有ろう。その道のりにある監視カメラを徹底的に探した。返り血を相当浴びて至ると思われ目立たない所へ隠れる事も考えられた。
  三鷹方面に少し行くと左の角に手作りのアクセサリーの店がある。その角はその店が休みで一角の灯りが弱い。そこを大柄の男が身体を丸めるようにして曲がる所が店の向かい側に有る監視カメラで捉えることが出来た。顔認識でどうやら鮮明な顔が分かる位の画像になった。一報を聞いて、大崎の確認に妻の聡子と(   SSIT )の総務課長、野澤が署に来ていた。遺体安置所には熊谷捜査員が付き添っている。先に野澤が出てきた。達夫は「大崎さんに間違いないですか?」と問うと「はい、ウチの経理課長の大崎に間違いないです。何故こんな事に.........。」と絶句した。
「済ません。今回の容疑者らしい人が監視カメラに写ってまして、念の為に確認をして頂きたいのですが。」と応接室に案内した。既にテーブルの上には写真のコピーが届いていた。余りの事にショックを受けて顔色が悪い。「大丈夫ですか?お茶でも飲んで下さい。」と進めるとこの男何ですが。と写真を野澤の側へ移した。其れをマジマジと見つめて居たが暫く時を置いて「あの~、刑事さん。この男が大崎君を殺した男に間違いないんでしょうか?」と聞いてきた。変な事を言うなと達夫は感じたが「目撃者の証言から割り出すとほぼこの男では無いかと見てるのですが。」「見覚えが有りますか?」と重ねて聞いてみた。野澤は「前かがみになって見ずらいけどこの男は五十嵐と言う昔会社を解雇された男に似てます。少し歳をとって居るけど左目の下のホクロ、間違いないと思いますが。」と驚く事を言った。「うちの課長と生安の課長と東堂を呼んで来てくれるか?」と傍にいた折本に頼み、折本が急いで応接室を出て行くのと同時に「その辺りの詳しい話をお話して下さいますか。」と言うと、もう定年も近いのであろう歳頃の人の良さそうな野澤は話ずらそうにポツポツと話し出した。「今から二十四、五年くらい前になります。殺された大崎君が我社に入社した年でした。その頃経理部に滝沢と言う係長が居たんですが、その当時経理課長をしてたのが五十嵐何です。」若い大崎と滝沢は五十嵐の二重帳簿を見つけて会社の利益から横領してたとの不正の事実を掴み内部告発をした。その直後妙子と結婚した公男は山形の酒田市に有る営業部に転勤して行った。五十嵐は当然解雇され訴訟されて裁判を経て実刑が言い渡され府中北刑務所に送られた。五十嵐は随分と公男と大崎を恨んでいた。と説明されたのである。
その後直ぐに公男は退社して山形から逃れる様に東京に帰ったのある。その話をしてる間に洋子達三人も加わって聞いていた。
達夫は洋子に「滝沢、君の弟さん左目の下にホクロが有る男に何回か付けられたと言ってたね。其れに亡くなったお父さん以前SSIT社の社員だったと。」洋子はうなづいた。と、同時に其れを聞いていた野澤は「あ、あの滝沢さんの娘さんですか?」と驚いたように聞いた。
洋子は動揺していた。間違いなく今までの不可解な出来事が一本の線で繋がって来たと感じていた。「はい、滝沢公男の長女洋子です。」
とそう答えると野澤が嬉しそうにうなづいた。
「課長、滝沢の弟さんに五十嵐の顔写真確認して貰って下さい。」
「そうしよう。」と小高が席をたって行った。
「滝沢、動き始めたな。」と達夫は感慨深そうに洋子にそう言った。
「はい。」洋子は応えた。
「こ、こんなことで滝沢さんのお子さんに会えるとは·····。」懐かしい者を見るような眼をして洋子を野澤が見詰めてた。「野澤さん、今日はご協力有難う御座いました。」と達夫が頭を下げると洋子も深々と頭を下げた。
「いえ、今度の事が我社の過去の汚点から出た事であるなら本当にお恥ずかしい事です。卑怯な五十嵐を必ず捕まえて下さい。」と言い残し応接室を後にして行った。
   程なく大学の授業から急遽呼びだされ出頭した晃生によって付け狙っていた男が五十嵐である事が確認された。
晃生は五十嵐が洋子の養父では無く、父の元同僚であった事を知って
公男の死に疑念を持たざるを得なくなっていた。歩道橋からの転落死がもし事故で無く五十嵐の手による殺人で有ったなら、今回殺害された大崎さんとのこの三人に何が有ったと言うのだろう。何故父は死ななければならなかったのだ。そう突きつめて考えてみるとその胸は不信でいっぱいになっていくのだった。
  達夫達捜査員はその話を持って捜査本部会議に臨んだ。
この事件は中々奥が深く、
堺駅前会社員刺殺事件捜査本部と帳場がたった。警視庁の捜査一課管理官は真岡であった。久しぶりで懐かしいがそんな気持ちは抑えなければならない。警視庁の管理官となっても真岡は変わってしまった様子も無く昭島西署の頃のままに見えて達夫は嬉しかった。
    会議室に入ると折本が隣に座って来た。「凄いですね真岡さん警視庁の管理官なんて。」と達夫に聞かせる様に呟いた。
「彼は優秀だからね。努力家だよ。」折本は姉から聞いて全て知っている。うなづいた。
気がついたように「この事件生安の滝沢さんに関連あるかもなんですよね。」と唐突に言った。
「あれ、?折本はひろこちゃんに興味有るのかな?」否定が帰って来ると思ってたのに返って来ない。
ちょっと折本の顔を覗いた。
そして内心ふぅーん、成程なぁ~。
と思って愉快になったが赤い顔をして俯いてる折本が可愛らしく思えて言葉にはしないで置く事にした。
こんな殺伐とした警察署内の僅かながらのホットな若者の気持ちが楽しかったのである。副所長の声が響いた。
  「これより武蔵境駅前で起きたサラーリマン刺殺事件、本部会議を始める。警視庁との合同捜査になるが真岡管理官の指揮の元進めて行く事になる。」風見鶏のように自分に得するように顔を向ける副所長が真岡に向いた瞬間だ。だが真岡はそんな事に無関心を装って居るようだ。
「今、紹介された真岡です。今回の殺傷事件は多くの人の中で行われた非常に残忍な事件です。早期解決に向けて皆さんから今までの捜査報告をお願いします。」と淀み無く話した。女言葉では無かった。達夫は胸の内で、やはり、と思った。
真岡は中々の男なのである。
  「四月二十七日、金曜日の午後七時十二分頃、武蔵境北口田無経由ひばりヶ丘団地行きのバス待ちしていた。大崎太郎さん、五十三歳、会社員が刃渡り18センチの鋭利な包丁の様な刃物で襲われ殺害されました。」「司法解剖によりますと
死因は左背後から胸を四回刺され失血死したもの。これまでの報告をお願いします。」
    その会議を終って捜査員達は夫々の捜査に散って行った。今回はホシの面が割れており、監視カメラ等で逃走路を探しているし捜査員一丸となってホシを追い早期に解決出来ると達夫達捜査員は息を上げた。
     私の養父が父さんを殺してたのでは無いのかも·····。そんな僅かな思いを抱いて洋子は妙子に話した。章生はアルバイトまだ帰宅しては無かった。
「お母さん、晃生を付け狙っていた人が今回の犯人らしいの。」妙子は驚いた。「前にお父さんが務めていた会社に居た人で殺されたのもその会社の人なの。」そこまで聞くと「洋子、木村さんの顔を知ってるの母さんだけなの。同一人物では無いとは思うけど写真観てみたい。」その言葉を聞いて洋子は時を待たずに妙子を連れて捜査課に急いだ。
小高課長が残っておりすぐさま写真を見せて貰うと「違う!この人は木村さんでは無いわ。」と洋子を見て言った。
「お母さん、その木村は大阪で捕まって刑務所に入って居たと言ってのましたね。」と小高がシワシワの顔を向けて言うと、妙子は「はい、其のように聞いてますがその後何年刑務所に居たのか刑期を終えたのか、皆目分からないんでしす。」と言うと「それなら安心する為にもこちらでその方も調べて見ましょう。」妙子は驚いた。そして嬉しかった。
「今回の事で大変なのにすみません。どうぞ宜しくお願いします。」
少し時間がかかるが木村のその後が判明すれば打つ手もある。妙子は小高に感謝していた。
     五十嵐容疑者の住所や電話番号は程なく割れた。杉並区天沼天地町三の十五の二   橘荘二0四号室
張り込みをしても五十嵐が帰って来る気配が無いまま二日が経ってしまった。実家は仙台に有り、地元の所轄が張り込み捜査をしているが立ち回った形跡も無い。捜査員の焦りが見える。武蔵境の駅からあのか監視カメラに五十嵐らしき人物が映り込んでいた以来何処の監視カメラにも見つける事が出来ないでいるのだ。
達夫は班員に言った。
「何処かに糸の先が必ず見つかるもんだ。諦めたらそこで終わり、大崎さんの無念を晴らすため頑張ろう!」と声をかけた。この様な直ぐに逮捕に至ると思われる事件程捜査は難航する事が在って達夫はそれを良く分かっていた。
美木多を始め六人の捜査員の新たな決意が力強い返事となって返って来た。
折本が「班長、もしかしたらその監視カメラの辺りに五十嵐を匿ってる女でも居るんじゃないでしょうか。そこで着替えて風体を変えればカメラをごまかす事が出来るんでは無いでしょうか。」その折本の考えは達夫も考えていた。だから風体の違う人間の顔認証を科捜研に依頼して有った。近くのバスの乗り場や駅から徹底的な捜査がされていたのである。「それは科捜研に依頼してあるから報告を待とう。」
捜査員達も疲れている。この夜も八時を回っていた。小高は捜査員達を一時帰宅させた。
署の外へ出ると今が盛りと桜が咲いて署のある通りはライトアップされていた。五分咲き位で有ろうか。そのライトに照らされた薄いピンクのソメイヨシノが美しい。
気持ちではゆっくりとそれを愛でる余裕は無かったが、やはり日本の春は素晴らしいなと達夫はそんな事を思いながら車を我が家へと走らせた。家では何だか分からない言葉をしきりに口に出すようになって一段と可愛さが増してきた娘の美穂がいる。もう寝てしまっているだろう。だが我が家へ少しでも帰れるのはとても嬉しい事だ。達夫の気持ちは一気に家へと向いたのである。
つかの間の自宅で家族の団欒を味わった。翌朝に事件が大きく動いたのである。
捜査員室に入るなり「東堂!五十嵐の女が割れた。行ってくれ。」
達夫ははいと言いながら真木田、熊谷、穂高、折本に合図をした。未だ出て来てない署員も後を追う。
女のアパートは武蔵野市の本町3-6-6飛鳥荘、古い建物で監視カメラに五十嵐らしい男が写りこんだ所から500メーターも離れていないコンビニの裏手あった。田川亜希子の部屋は2階の左端の部屋だ。
ドアーの前に警戒しながら捜査員達が立ち、達夫が田川の苗字を呼びながら叩いた。が、返事が無い。
再度呼ぶが返事は帰って来ない。
傍に控えていた大家が部屋の鍵を開けた。入ると直ぐに6畳くらいの台所とその奥にベッドの置かれた部屋が有る。南に向いて隣にも部屋が有るが部屋は慌てて出ていった形跡がありタンスや食器棚等開けっ放しになって、台所は急いで食事した後がそのままだ。ベランダに出た熊谷が「班長!」と叫んだ。その洗濯機の中から血の付いた薄手のジャンバーと紳士物のスボンが見つかったのである。「折本!鑑識を読んでくれ!」と達夫は叫んだ。
部屋は逃げた後であった。
田川亜希子の実家が小笠原である事が程なく判明して小高の支持を得て本部の捜査員2名と東堂班から真木田、熊谷、美作、折本が小笠原に向かう事になった。五十嵐への逮捕状をたずさえて警察ヘリを飛ばした。
    猫の手も借りたい時だが小高は署に残り陣頭指揮を取っていた。
捜査員達が小笠原に向かって行き少しの間が出来た。生活安全課の内線を回した。「滝沢くん、話が有るんだが来てくれるか。」
捜査課の会議室へ洋子は案内された。
小高は洋子の顔をまじまじと見つめた。その目は余り愉快では無い話しを物語っている。
「君のお父さんの事なんだが·····。」洋子は「何か分かったのですか?」懇願するように言った。
「確かに大阪の刑務所に平成3年から収容されていた。」「さっき報告が届いてな。」「君のお母さんを殺してしまったのは間違いない事だったが、お母さんが君を連れ戻しに行き、滝澤さんをぶっ殺すと言うお父さんをしがみついて止めたそうだ。」だからそれを玄関で力いっぱい振り切った時にお母さんは投げ飛ばされて玄関の上がり口に後頭部を強打してその結果死に至らしめた。
二年間近く逃げたが逃げきれずに逮捕された。たが、殺意は無くて裁判では比較的な軽い過失致死で実刑ではあったが六年の判決が言い渡された。大阪の刑務所に収監されて三年が過ぎる頃ちょうど桜の咲く頃の事だ。哲郎は脳溢血で作業中に倒れた。大きな血管が切れてほぼ即死状態であった。
そこまで小高の話を聞いていて洋子は涙がで出来た。何でだろう。自分を虐待し、母を殺した哲郎の死を今告られて憎い筈の父なのに理屈では割り切れない悲しみが襲っていた。
「滝沢くん、今回の事件と君のお父さんがもし殺害されたとしたら、木村では無い。今追っている五十嵐かも知れないんだ。これが報告書だよ。」と書類を見せられた。その書類には平成十四年四月二十五日脳溢血の為作業中に死亡。と記され、
大阪南刑務所の総務課と所長の印鑑が押印されていた。それを見つめていた洋子は涙を吹いた。自分を虐待して母を故意にでは無くても死に至らしめた哲郎の準備されていた様な病死であったと、どこかて納得したような気持ちだった。「大変な事だったね。だけど滝沢くん、君は亡くなった滝沢さんの今は娘さんだ。捜査員である事に何の関係も無いからね。これからも頑張るんだよ。」と小高は父親の様に優しい。
「有難う御座います。今度の案件を忙しい中調べて頂いてほんとに有難うございました。家族にも話します。」小高はその言葉に微笑んだ。
「さ、課に戻って市民の力になってくれ。」と言う。洋子は小高に丁寧に敬礼し、「はい!有難うございました。戻ります。」と元気に挨拶をして捜査課から自分の職場に戻ったのだった。滝沢家にまとわりついた男は父では無かった。だとするならばまだ危険は去って無い。改めて少し怖さを感じていたのである。
自分を虐待した、そして母を殺した男を一時でも父と頭の中でも言ってしまった事に、大切に育ててくれた両親に少し済まない気がした。そしてもう哲郎がこの世に居ないと知っても少しも悲しくは無かった。むしろ少し安心している。
この事実の方がが洋子は悲しかったのである。
「滝澤、駅前で置き引きだ。徳田君と臨場してくれ。」部屋に戻ると課長の声が飛んだ。感傷に浸る時間など無い。「自転車で行くぞ。」徳田が言う。洋子は頷くいて外に飛び出した。
    小笠原迄はヘリを飛ばしていたからそう時間はかからない。小笠原警察のヘリポートに降した。小笠原警察署の所長が迎えに出ていた。真岡管理官も同行していたからだ。
「お迎え有難うございます。林所長~。」真岡らしい挨拶だった。達夫はそれにまごついている林が可笑しかった。真岡め、わざとだな、そう思った。諂われるのが嫌なのだろう。変わってないな、とここでも思ったのである。
小笠原は海が美しく魚も美味しい所だ。近年少し建物が増え便利にはなってはいるのだが都会から来た者は別世界に来たような気分になる。
だが今回は観光ではなく捜査なのである。直ぐに行動を起こした。
田川亜希子の実家は既に小笠原署で調べてあった。町中から少し奥に入った半田という所に点在する民家の1軒であるが既に亜希子の両親も他界し空き家となっているらしい。
そこに五十嵐が居るかどうかは分からない。それはひとつの賭けであった。捜査員達は小笠原警察が出した車の中で願った。真岡は署長の車に乗せられた。何処にでもゴマすりは居るものだと真岡自身思う。ただこれは真岡がキャリア組で出世も早く本庁に入った頃から所轄の警察署の中には早くもおべっかを使う者も居たので大した事とは思っては居ない。「あら~、署長すみませんねぇ。今日は御足労お掛けします~。」出た、真岡の真髄。
でっぷりとした身体に署長はいっぺんに汗が吹き出したようだった。
地域の交番の警察官がその空家の事を事前に調べてくれていた。
それによると、空き家にも関わらずこの二日余り夜になると薄い灯りが灯るのを近くの農家の主婦が見ており不審に思っていたと言う。
逃げた二人が居たのはまず間違いの無い事であろう。風光明媚な静かな一角がにわかに賑やかになった。少し高台のその空き家に車を降りて目指した。捜査員達の緊張が高まっていく。道幅二メーター位の上がり坂を空き家を取り巻く様に外れて捜査員達が広がっていく。真岡が達夫に目配せをする。古くなった玄関を達夫が叩く「誰か中にいるのか!警察だ入るぞ!」勢い玄関の引き戸を開けた。土間に達夫、美木多、真岡が踊り入った。玄関から見える範囲には誰も居ない。裏に回っていた折本が叫んだ「裏口から逃げた模様ですす!」「裏へ回れ、追え!」真岡が叫んだ。五人の捜査員達と地元警官は裏山に分け行った。
「班長、女物のバックが落ちてました!」見ると茶色のショルダーバックだった。五十嵐の女の物に違いない。慌てて落としても拾わずに逃亡したのだろう。「この先は行き止まりで崖です!直ぐ海へ出ます!」地元の警官が言う。「危ないな、死ぬ気かもしれん!」達夫が叫ぶ。出来る限り走った。
目の前が開けた。確かに崖になっている。その前は空しか見えない。
勢い上がり切ると周囲を探した。結構広い。その目の先に二人の姿が見えた。崖の先端に抱き合う様にしてただずんでいる。「五十嵐、馬鹿な真似はよせ!」達夫が声をかけた。少し近づくと「来たら飛び込む!」と五十嵐が叫ぶ。
「女を道ずれにするの?弱い男ね。」と真岡が流暢に言う。
五十嵐はキョトンとしていた。が「俺は弱く無いぞ。ふ、二人に仕返しをしたんだから!」と叫ぶ。
「大崎さんと滝沢さんの事か?」
「そうさ、あいつらのせいで俺は、俺の人生が狂って、だから仕返ししてやった。」と女の手を引いて飛び込もうとする。「やめろ!その恨み辛みを話してからでも死ぬのは遅く無い!」達夫が言うと五十嵐は女の手を離して後退りをした。
身体が震えて居るように見えた。
「な、今死ぬのはやめろ!恨み辛みを全て話してからにしろ。」と、一歩五十嵐へ歩を進めると五十嵐は観念した様に大人しく動かなくなった。
坂田と折本が女の身柄を保護した。
「五十嵐、殺人容疑で逮捕する。」
五十嵐は達夫の顔を見据えていた。
この日の午後四時二十分達夫によって五十嵐の腕にワッパがかけられた。「署で話しをたっぷり聞いてやるぞ。」と達夫は五十嵐の肩を叩きながら言った。


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