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箪笥に鍵をかける元花魁の話──『思出草紙』より
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抽斗のなかには、たしかに三四郎にも見覚えのある小袖がはいってはいた。
だが、その下に隠されるようにおさめられていたのは、まったく予想もしないものであった。
「おいっ、いったい、こんなものがなぜ、ここに……」
ふたたびお道へと向き直った三四郎は尋ねずにはいられない。
そこにあったのは、黒染めの衣装、それも喪服などではなく、僧、修行者がまとうような袈裟であった。それよりほかに、見覚えのない衣類、小物はなく、間男からの贈物などそこになかった。
なかなか三四郎の問いに答えようとしないお道であったが、高ぶっていた三四郎の怒気もすっかりぬけて、いつものやさしい口調で順々に促してやると、ようやく重い口を開いた。
「その抽斗をお見せできなかったのは、お察しとのとおり、それのせいです」、
お道は箪笥から、高価な着物を扱うの変わらぬ丁寧な手つきで袈裟をとりだした。
「こうなってしまって限りは、すべてをお話いたします。長い話となりますが、よござんすか」
三四郎にはいやおうもなくうなずく。ゆっくりと聞くために、お道のもとに寄って並んですわった。日差しはやや陰りがみえはじめていたが、風はあいかわらずゆるやかに吹き込んでいて、着物をわずかに揺らしている。
ええ、旦那様と松葉屋での初会(はじめての顔合わせ)のもっと前、そう、もう二三年も前のことでしょうか。
浅草のひとで、深くなじんだ客がいたのです。
旦那様は、あまりそういう馴染みの話はお嫌いでしょう。いや、だめですよ。ちいとも隠せてませんよ、すごい、焼き餅やき。いまだって、ほら、ちょいと機嫌を悪くなさった。
それでね、言い交わすようになったんです。夫婦になろうって。末々まで見捨てない、永く連れ添おうと。
太夫になるまでは、太夫になりさえすればとは、吉原の女ならだれでも思います。天神、囲(かこい)、端女郎(はしじょろうと、扱いには大変な差がございますからね。で花魁になってみれば、楽ばかりではないとやっとわかる。しょせん、苦海に沈んだ身、浮世渡りの苦しいことばかりです。その男と契りを交わしてよりあとは、その約束だけを心の支えに日を送ることになりました。
けれど、好事魔多しとでもいうんでしょうか。その人、ある頃から咳が出だし。最初は風邪かなぐらいだったけれど、いつまでたっても熱も、咳もひかない。それどころかどんどんひどくなって、ついに寝込むようになった。そうなるともうもう見世にはこれない。
それでもしばらくは、手紙を書いてくれた。様子を伝えてきて、まあ一安心となるけれど続かない。そのうち途切れ途切れとなってくる。まさか私を見限ったとはちっともおもわない。病が重いんだ、ひどいめにあってるのがわかるから、ただ会えないよりもっと切なくってかなわない。
あっしは、毎日、大門からこっちの神社(吉原神社)に行って手を合わせ、仏様にだってを頼みにしましたよ。お茶断ち、莨断ち、あげくにはまんま断ちまでやったんだ。ただただ手紙が来てくれさえすればいい、生きていてくれさえすればいいってね。
でも文はこない。そうなるとますます逢いたい気持ちが募る、そういうもんでしょ、ねえ、旦那さん。
けれど、花魁といえどもしょせん囚われの鳥、へいへいと堀の外に出てはいけない。それで考えた。浅草寺にお参りに行こうって。あそこは吉原の女が参詣にでるのは奇妙なことじゃない。市の立つ頃でもなかったけど、お父さん(楼主)からお許しがでた。私が足抜けするとは、さすがに思ってなかったのかしらねえ。そんな大それた事までは考えてなかった。
でも、連れの禿や下男たちは、茶屋でなにか食べておいでって小遣いを渡して振り切って、誰にもいわずに愛しい人のところよ見舞いにいったんですの。
ただ、会ってみたらびっくりした。こころづもりして、気落ちしないよう先回りしてたつもりだったけど、ぜんぜんだめ。張りだの、つやだのというようなもんじゃないくらい、面やつれしてました。正直に言うと、怖くなった。ああ、だめだ、この人は死んでしまうんだって一目でわかるくらい、なにもかも変わってた。
たぶん、からだはつらくってしかたないはずなのに、ぽつぽつと話をしてくれた。私の気持ちをわかったんだとおもう。
「おれはもうだめだ。おまえとの約束は果たせそうにない」といったのよ。そこで私はたまらない気持ちになった。もうかわいそうでかわいそうでたまらなくなったのよ。こんないい人が死んでしまうんだと思うと。すごく暗くて、寒くて、寂しい場所があたまのなかに急に浮かんだの。
そのとき、剃髪して墨染めの衣をまとって、永く菩提を弔おうと心に誓ったんです。このままでは、この人は、あの寂しいところに一人でいつてしまうことになるとおもったから。
そうして当りはどんどん暗くなってきて、廓に帰る時刻がせまってくる。そうして、もうこれが最後だとわかっていたけど、また、と再会することを約束して私はそこを去ったんです。
ええ、そのとおりになりましたよ。ほどなく知らせがはいって、露の命も消え果てたのです。
それからというもの、いつか楼をでて姿を変えて菩提を祈るといのうが、あたらしい心の支えとなったわけなんです。
それから三四郎様とであって、このように苦海から私を助け出してくださいました。それどころか、夢をみているような毎日を送らせてもらっています。これまでのご恩は山よりも高く海よりも深いということばの通りです。
だが、その下に隠されるようにおさめられていたのは、まったく予想もしないものであった。
「おいっ、いったい、こんなものがなぜ、ここに……」
ふたたびお道へと向き直った三四郎は尋ねずにはいられない。
そこにあったのは、黒染めの衣装、それも喪服などではなく、僧、修行者がまとうような袈裟であった。それよりほかに、見覚えのない衣類、小物はなく、間男からの贈物などそこになかった。
なかなか三四郎の問いに答えようとしないお道であったが、高ぶっていた三四郎の怒気もすっかりぬけて、いつものやさしい口調で順々に促してやると、ようやく重い口を開いた。
「その抽斗をお見せできなかったのは、お察しとのとおり、それのせいです」、
お道は箪笥から、高価な着物を扱うの変わらぬ丁寧な手つきで袈裟をとりだした。
「こうなってしまって限りは、すべてをお話いたします。長い話となりますが、よござんすか」
三四郎にはいやおうもなくうなずく。ゆっくりと聞くために、お道のもとに寄って並んですわった。日差しはやや陰りがみえはじめていたが、風はあいかわらずゆるやかに吹き込んでいて、着物をわずかに揺らしている。
ええ、旦那様と松葉屋での初会(はじめての顔合わせ)のもっと前、そう、もう二三年も前のことでしょうか。
浅草のひとで、深くなじんだ客がいたのです。
旦那様は、あまりそういう馴染みの話はお嫌いでしょう。いや、だめですよ。ちいとも隠せてませんよ、すごい、焼き餅やき。いまだって、ほら、ちょいと機嫌を悪くなさった。
それでね、言い交わすようになったんです。夫婦になろうって。末々まで見捨てない、永く連れ添おうと。
太夫になるまでは、太夫になりさえすればとは、吉原の女ならだれでも思います。天神、囲(かこい)、端女郎(はしじょろうと、扱いには大変な差がございますからね。で花魁になってみれば、楽ばかりではないとやっとわかる。しょせん、苦海に沈んだ身、浮世渡りの苦しいことばかりです。その男と契りを交わしてよりあとは、その約束だけを心の支えに日を送ることになりました。
けれど、好事魔多しとでもいうんでしょうか。その人、ある頃から咳が出だし。最初は風邪かなぐらいだったけれど、いつまでたっても熱も、咳もひかない。それどころかどんどんひどくなって、ついに寝込むようになった。そうなるともうもう見世にはこれない。
それでもしばらくは、手紙を書いてくれた。様子を伝えてきて、まあ一安心となるけれど続かない。そのうち途切れ途切れとなってくる。まさか私を見限ったとはちっともおもわない。病が重いんだ、ひどいめにあってるのがわかるから、ただ会えないよりもっと切なくってかなわない。
あっしは、毎日、大門からこっちの神社(吉原神社)に行って手を合わせ、仏様にだってを頼みにしましたよ。お茶断ち、莨断ち、あげくにはまんま断ちまでやったんだ。ただただ手紙が来てくれさえすればいい、生きていてくれさえすればいいってね。
でも文はこない。そうなるとますます逢いたい気持ちが募る、そういうもんでしょ、ねえ、旦那さん。
けれど、花魁といえどもしょせん囚われの鳥、へいへいと堀の外に出てはいけない。それで考えた。浅草寺にお参りに行こうって。あそこは吉原の女が参詣にでるのは奇妙なことじゃない。市の立つ頃でもなかったけど、お父さん(楼主)からお許しがでた。私が足抜けするとは、さすがに思ってなかったのかしらねえ。そんな大それた事までは考えてなかった。
でも、連れの禿や下男たちは、茶屋でなにか食べておいでって小遣いを渡して振り切って、誰にもいわずに愛しい人のところよ見舞いにいったんですの。
ただ、会ってみたらびっくりした。こころづもりして、気落ちしないよう先回りしてたつもりだったけど、ぜんぜんだめ。張りだの、つやだのというようなもんじゃないくらい、面やつれしてました。正直に言うと、怖くなった。ああ、だめだ、この人は死んでしまうんだって一目でわかるくらい、なにもかも変わってた。
たぶん、からだはつらくってしかたないはずなのに、ぽつぽつと話をしてくれた。私の気持ちをわかったんだとおもう。
「おれはもうだめだ。おまえとの約束は果たせそうにない」といったのよ。そこで私はたまらない気持ちになった。もうかわいそうでかわいそうでたまらなくなったのよ。こんないい人が死んでしまうんだと思うと。すごく暗くて、寒くて、寂しい場所があたまのなかに急に浮かんだの。
そのとき、剃髪して墨染めの衣をまとって、永く菩提を弔おうと心に誓ったんです。このままでは、この人は、あの寂しいところに一人でいつてしまうことになるとおもったから。
そうして当りはどんどん暗くなってきて、廓に帰る時刻がせまってくる。そうして、もうこれが最後だとわかっていたけど、また、と再会することを約束して私はそこを去ったんです。
ええ、そのとおりになりましたよ。ほどなく知らせがはいって、露の命も消え果てたのです。
それからというもの、いつか楼をでて姿を変えて菩提を祈るといのうが、あたらしい心の支えとなったわけなんです。
それから三四郎様とであって、このように苦海から私を助け出してくださいました。それどころか、夢をみているような毎日を送らせてもらっています。これまでのご恩は山よりも高く海よりも深いということばの通りです。
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