江戸の夕映え

大麦 ふみ

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江戸に奉公にでる熊谷農夫の話 ― 『譚海』より

7 宴の終わり

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 皆が見つめる中、佐代は臆する様子はまったくなく、太平次のところに歩み寄り、並ぶように立った。

 誰もが突然現れた、若く美しい娘に気をとれられて気づいていなかったが、太平次は半左衛門が真っ青となり、こぎさみにからたが震えだしたのを見逃さなかった。

 佐代は、名主の前に膝をつきお辞儀をして、名前と桶川宿で働いていることを告げた。

「名主様にはもっと失礼の無きよう、御目通おめどおりしとうございました。けれど、事の白黒をはっきりつけるため、仕方のないこととお許しください」とびた。

 その丁寧な挨拶あいさつに、名主も、まわりのものも、佐代の言葉を聞く姿勢となった。昨日、太平次と一緒に桶川にいった佐助と源五郎が、その女が桶川の旅籠屋で働いているのは本当だ、と大声で口添えした。

「櫛と引替に金子を渡したのは、このひとに違いありません」

 佐代は、そのときの様子、小五郎と名乗る男が、その日のどんな着物を着て、何時くらいに桶川に現れ、なにを話し、去っていたかを事細かに話した。

 半左衛門は、佐代の言葉になにも反対を唱えようとせず、ただ顔を下に向けている。けれども、顔は死体のように真っ白となり生気を失い、動揺をまったく隠し切れてはいなかった。

 それは名主のほうも同じであった。佐代のことばに思い当たることがあるのか、一言ごとに、先ほどの怒りでこわばった表情が、ゆるんでだらしがなくなり、やがて渋く、重たい面持ちへと転じていった。

 だれもが名主親子にちらちらと目線をやって、この女の言葉に二人がどう応えるのか待っているのは明らかだった。

 半左衛門がいつまでたっても佐代の言葉に抗弁せず、置物のようにただじっとしているのを悟って、名主のほうが立ち上がった。

「よろしい、こうあっては今度は私が潔白を示す番です。皆はここで待っていなさい。屋敷にもどって、悴の家財を検めてきましょう」

 みなの面前で息子を問い詰めても、ただ時間の無駄で、混乱をいやますばかりと考えたのか、そう言い残して、下男をつれて座敷を立ち去った。

 しばらくすると、残された者は、一転したうまれた重苦しい雰囲気を振り払おうとするように、前にいやます勢いで飲み始めた。小半時もたたないうちに名主が戻ってきたときには、座敷は得体の知れない熱狂が満ちていた。ただ太平次と佐代ばかりは並んですわり、静かに事の成り行きを語り合っていた。

 名主は、太平次の前に威儀を正して座った。懐から財布をさしだし、深々と頭を下げた。まちがいない、太平次が佐代に預けた物だった。

 波紋がひろがるように、みながこれに気づいていき、ふたたび座敷はしんと静けさを取り戻した。それでもしたたかに酔って、座の邪魔をするものは、外に連れ出された。

「百七十両、確かめなさい」

 その言葉に周りは一挙に酔いから醒めた。小判を初めて目にしたものも多く、数え上げられる一枚、一枚、その山に眼は釘付けとなった。

「悴の箪笥の底にあった。……、人様のお金を盗む悪党のくせに、やることがなにもかもが粗忽だ」

 庄屋の息子の愚かしさを詰るの聞いて、そうしてはじめて半左衛門がそこにいないことに皆が気づいた。名主が消えて浮かれ始めた時か、さきほどの小判の山が人たちのきを引いた時なのか、いったいいつなのかだれとも知れずに姿が消えていた。

 どこだ、どこだというざわめきが、座敷から順繰りに家のすみずみにまでひろがっていくと、今度は太平次の女房も、しばらく前から姿を消してしまったという声が伝わってきた。

 座敷の外で、亭主達にまけないくらい飲み潰れていた村の女たちも、裁きの場に加わってきた。

 ──太平次さんには、気の毒だけど、この村のものはみんな知っとるよ。

 ──おお、もう言っちまったほうがいい、こうなったのなら。

 ──知らんのは、太平次のおっかあだけだ。

 太平次が江戸にいる六年のあいだに、半左衛門と太平次の女房は乳繰り合う仲になっていた。みな口々に、どれほど二人がだらしなくたわむれ合っていたかを語り合った。

 それはあまりに目に余り、注意するものもいたという。だが、江戸に手紙を書いてまでそれを知らせるのは、名主様の手前はばかられたと言い訳した。帰ってくるまでに飽きて関係が終わる、それでなかったことにすればいい、それが太平次にもいい、そう思っていたのだと。

 名主は、あらぬ方向に視線を泳がせ、息子の不始末を聞かぬていをよそおっていた。

 ──どうせ、半左衛門といっしょに村をでたに決まってるさ。もうここにはいられないから。いや、最初からそのつもりだったんじゃあんめいか。

 ──そうだ、泥棒も二人で示し合わせてだ。ちげえねえ。

 村人達の噂話は、酒の勢いもあってとまるところがなかった。

 こうして佐代の企みどおり、百七十両は太平次のもとに帰ってきた。しかし、同時に、多くのものを失った太平次には、そういった話しにいちいち反応する気力を失っていた。
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