江戸の夕映え

大麦 ふみ

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肥担桶を運ぶ百姓ともめる侍の話―『我衣』より

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 百姓は、そのどよめきが、なにかの瑞兆が我が身に訪れつつある徴と思うほど間抜けではなかったようだ。

 搔鬢奴の足元が左足が一歩うしろに引かれ、沈み込むように踏ん張って緊張しているのを見逃さなかった。わすがに顎をしゃくって、首を傾い搔鬢奴の腹辺りに視線を走らせると、左手の親指が長刀の鐔を押し上げつつあるのをみた。

 そこから起こったことは、もう一度やってみせろといわれても、搔鬢奴にも百姓にも、再びできることは決してなかったろう。

 搔鬢奴は抜刀ざまに土下座する百姓を上から斬りつけた。その振り下ろした四尺もの太刀を、百姓は眼の前の担い棒を掴んで迎え撃ち、跳ね上げたのである。

 わずかにずれていたら、二つの得物のどぶつかりあいの仕方で、いろいろ異なった様相を示していただろう。だかこのとき、担い棒は、太刀の軌跡にぴったりと重なり、柄にある頭の部分を真正面から捉え、百姓の腕力そのまま伝えて、刀を宙に向かって放り飛ばした。

 群衆の期待以上の見物となった。

 搔鬢奴の手から離れた長刀はぐるんぐるんと風車のように回転しなから、三間(五、六メートル)ばかり先まで飛行して、大きな溝(どぷ)に届いた。磨き抜かれた刀身がキラキラと陽光を反射して、そのまばゆさに薄く目を閉じた者さえいた。もう少し角度に恵まれていたなら、ぐっさりと泥土に刺さり、さらに観衆を喜ばせるあざやかな景物となったことだろう。残念ながら、刀は力なく汚水のなかに倒れて、近くの者にだけぱしゃりという水音を聞かせたのみだった。

 搔鬢奴、辻番、そして周囲の者も、派手な刀の演舞に気をとられていたために、百姓が我が身を守った神木を握りしめたまま、この決闘場から走り去っていたのにほとんど気づかなかった。

 人を殺そうと意を決したはずの搔鬢奴は、その数瞬のうちに、衆人の見守る中に一人残されるかたちとなった。

 我に返った周囲の者は、これからの見世物を見せてもらった以上、ここからの展開は、ひとり残された役者のほうである搔鬢奴に求める気分になっていた。さあ、どうするんですかい、おさむらい様。

 台本を与えられているわけではない、搔鬢奴は助けを求めるようにあたりを見回したが、皆が目線をずらして、侍らしい矜持ある振舞をうながす。

 搔鬢奴は溝に向かって歩き出し、その前でわずかにためらったのち、袴の裾をからげてから、そろりと足を踏み入れた。しぶきの返ってこないように、また足をすべらせてさらなら醜態をさらすのをおそれるごとく、うまれかわった様な慎重な身のこなしで、ゆっくりと太刀の元へと近づいて、拾い上げた。

 刀身についた血糊を払うがごとく、手首を利かせて泥水をはらい、懐からだした手ぬぐいで丁寧に拭って、朱鞘に収めた。

 溝からあがって、そのまままっすくに辻番に搔鬢奴は向かう。

「思いもみなんだ事で、面目なき仕合(しあい、腕比べ)になり申した。方々御苦労おかけ致した。忝ない。お礼申し上げる」

 そういって一礼すると、そそくさとその場を去って行く。

 挨拶をしたのは、武士と百姓の身分違いの仕合を見届けてくれた礼の意味のほかに、罪を問われるような刃傷沙汰はなかったことを辻番が一部始終みていたことを、確認しておくためでもあったろう。

 辻番は、搔鬢奴を貶めることはなく、なにも返事もなく、搔鬢奴に向かって軽くうなずいただけで、そのまま行かせた。

 成り行きを楽しんだいた者たちも、芝居がはねたあと引けるように散らばっていき、また堰かれていた往来の流れが復しはじめた。

 だが、芝居の見せ場は、まだこれからだった。
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