江戸の夕映え

大麦 ふみ

文字の大きさ
25 / 69
肥担桶を運ぶ百姓ともめる侍の話―『我衣』より

3

しおりを挟む
 百姓は、そのどよめきが、なにかの瑞兆が我が身に訪れつつある徴と思うほど間抜けではなかったようだ。

 搔鬢奴の足元が左足が一歩うしろに引かれ、沈み込むように踏ん張って緊張しているのを見逃さなかった。わすがに顎をしゃくって、首を傾い搔鬢奴の腹辺りに視線を走らせると、左手の親指が長刀の鐔を押し上げつつあるのをみた。

 そこから起こったことは、もう一度やってみせろといわれても、搔鬢奴にも百姓にも、再びできることは決してなかったろう。

 搔鬢奴は抜刀ざまに土下座する百姓を上から斬りつけた。その振り下ろした四尺もの太刀を、百姓は眼の前の担い棒を掴んで迎え撃ち、跳ね上げたのである。

 わずかにずれていたら、二つの得物のどぶつかりあいの仕方で、いろいろ異なった様相を示していただろう。だかこのとき、担い棒は、太刀の軌跡にぴったりと重なり、柄にある頭の部分を真正面から捉え、百姓の腕力そのまま伝えて、刀を宙に向かって放り飛ばした。

 群衆の期待以上の見物となった。

 搔鬢奴の手から離れた長刀はぐるんぐるんと風車のように回転しなから、三間(五、六メートル)ばかり先まで飛行して、大きな溝(どぷ)に届いた。磨き抜かれた刀身がキラキラと陽光を反射して、そのまばゆさに薄く目を閉じた者さえいた。もう少し角度に恵まれていたなら、ぐっさりと泥土に刺さり、さらに観衆を喜ばせるあざやかな景物となったことだろう。残念ながら、刀は力なく汚水のなかに倒れて、近くの者にだけぱしゃりという水音を聞かせたのみだった。

 搔鬢奴、辻番、そして周囲の者も、派手な刀の演舞に気をとられていたために、百姓が我が身を守った神木を握りしめたまま、この決闘場から走り去っていたのにほとんど気づかなかった。

 人を殺そうと意を決したはずの搔鬢奴は、その数瞬のうちに、衆人の見守る中に一人残されるかたちとなった。

 我に返った周囲の者は、これからの見世物を見せてもらった以上、ここからの展開は、ひとり残された役者のほうである搔鬢奴に求める気分になっていた。さあ、どうするんですかい、おさむらい様。

 台本を与えられているわけではない、搔鬢奴は助けを求めるようにあたりを見回したが、皆が目線をずらして、侍らしい矜持ある振舞をうながす。

 搔鬢奴は溝に向かって歩き出し、その前でわずかにためらったのち、袴の裾をからげてから、そろりと足を踏み入れた。しぶきの返ってこないように、また足をすべらせてさらなら醜態をさらすのをおそれるごとく、うまれかわった様な慎重な身のこなしで、ゆっくりと太刀の元へと近づいて、拾い上げた。

 刀身についた血糊を払うがごとく、手首を利かせて泥水をはらい、懐からだした手ぬぐいで丁寧に拭って、朱鞘に収めた。

 溝からあがって、そのまままっすくに辻番に搔鬢奴は向かう。

「思いもみなんだ事で、面目なき仕合(しあい、腕比べ)になり申した。方々御苦労おかけ致した。忝ない。お礼申し上げる」

 そういって一礼すると、そそくさとその場を去って行く。

 挨拶をしたのは、武士と百姓の身分違いの仕合を見届けてくれた礼の意味のほかに、罪を問われるような刃傷沙汰はなかったことを辻番が一部始終みていたことを、確認しておくためでもあったろう。

 辻番は、搔鬢奴を貶めることはなく、なにも返事もなく、搔鬢奴に向かって軽くうなずいただけで、そのまま行かせた。

 成り行きを楽しんだいた者たちも、芝居がはねたあと引けるように散らばっていき、また堰かれていた往来の流れが復しはじめた。

 だが、芝居の見せ場は、まだこれからだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...