雨崎少年の悪夢とその要因について

田原摩耶

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 殴られることには慣れていた。受け身の取り方も、覚えてきた。
 けれどやはり、自分よりも体格のいい、それも大人に殴られると思考がぶっ飛びそうになる。
「クソガキ、殺してやる」と血走った赤い目がこちらを捉える。
 唾が掛かりそうなほどの至近距離、手の豆が潰れて分厚く堅い掌は、俺の首を掴まえた。
 ああ、と思った。今度こそ、やばいかもしれない。
 ぼんやりとした頭の中、部屋に目を向ける。カーテンから差し込む日の光。転がる日本酒の瓶と、缶ビール。何日も閉め切った部屋の中にはアルコールとヤニ、それから腐臭が充満していた。
 掌に力が籠もった。足元が浮き、体重が掛かる。開いた口からはうめき声と、唾液が溢れる。
 苦しい。なけなしの力でやつの腕に爪を立てるが、太い腕は鋼のように硬く、びくりともしない。四肢が痙攣する。思考が遠のく。
 ……いつか、こんな日が来ると感じていた。
 締め上げられる。頭に血が登り、焦点が定まらない。鬼のような形相の男は、魚みたいに口を開閉させる俺を見て、笑い、それから、唇を重ねた。
 皮膚に噛み付くようなそれに今更何も感じない。感覚もなくなってきて、ただ、舌を受け入れる。
 ――殺してくれ、早く、早く、早く、俺を、殺してくれ。
 確かに忍び寄る死に、心臓が脈打つ。下腹部が濡れる感覚を覚えた。
 ――ああ、今度こそ、やっと、俺は……。
 そう、目を細めた瞬間だった。

「何をしている……ッ!!」

 聞こえてきた声に、首を締め上げていた手が一瞬緩んだ。
 誰だ。この声は。霞む視界の中、ぼんやりと眼球を動かした矢先のことだった。
 侵入者は転がっていた酒瓶を拾い上げ、そして、躊躇なく俺に覆いかぶさっていたそいつの頭目掛けて振り下ろした。鈍い音とともに、筋肉が硬直し更に強い力で首を締め上げられた。厭な音ともに辛うじて残っていた器官すらも押し潰され、瞬間、下腹部から熱い液体が垂れるのを感じた。それからすぐ、俺を掴んでいた手が離される。否、額から紅い血を流しながらあいつは、目を剥いて倒れたのだ。
 俺の体は畳の上に投げ出され、受け身も取れず、倒れ込む。
 そのまま咳き込む俺に、侵入者は駆け寄ってくる。

雨崎あまざき、大丈夫か、しっかりしろ、雨崎!」

 大きな手が体を抱き寄せる。眼鏡がない今、景色は全て霞んでいたが、名前を呼ばれ、気付いた。侵入者は、担任の秦野はたのだった。
 流石に、今回のは、本気で殺されるかと思った。いっそ、そのまま死ねた方が良かったのかもしれない。頭から血をながし、ぴくりともしないあいつの姿を朧気に眺めながら、俺は、青ざめた秦野の頬に手を伸ばした。

「……なんで、来たんですか」

 久し振りに人間の言葉を発した気がした。
 潰された器官は喋るだけで酷く痛んだ。それでも、秦野の耳には届いていたらしい。
 秦野の顔が、緊張するのがわかった。太い首、浮かぶ喉仏が上下するのが見えた。

「……言っただろう、お前を解放するつもりはない、と」

 震えた声、いい大人のくせに。と、悪態をつく気力もなかった。
 秦野は俺の体をきつく抱きしめる。スーツが皺になるのも気にせず、俺の体液で汚れることも構わず、抱き締め、それから、俺の胸元に顔を押し当てた。
 子供みたいだと、思った。俺よりも一回り年上で、体だって俺の二倍くらいはある。
 皆から『秦野先生』と慕われ、教壇で堂々と弁を振るうあの秦野が、泣いてる。
 それがどうしようもなく情けなくて、みっともなくて、可哀想で、俺は、その広い背中にそっと腕を回した。
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