天国か地獄

田原摩耶

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√α:ep.2『解いて結ぶ』

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 寝返りを打とうとして、体が思うように動かないことに気付く。そこで俺は目を覚ました。

 まず視界に入ったのはどこか見覚えのある天井だった。そして、自分がベッドに寝かされていることに気付く。
 そのまま慌てて起き上がろうとして、なにかに右手首を引っ張られた。何事かと視線をあげれば、俺の右手首には手錠が嵌められていた。
 頑丈な鎖の先、それはベッドのフレームに嵌められていた。
 誰がこんなことを、という疑問の答えはすぐに出てきた。

「……ぅ、んぐ……ッ」

 なんとか外せないかと手首を動かすが、この体勢では上手く力を入れることすらもできず、案の定びくともしない。
 かといって、ベッドの上でぼーっとしてるわけにはいかない。

 ――気を失う前に見たあの芳川会長の目は、幻覚でも見間違いでもないはずだ。
 それに、志摩のことが何よりも気がかりだった。
 
 全体重をかけて手首を引っ張る。
 負担を掛けるあまり金属部分で皮膚が擦れ、手首の関節が軋む。

「っ、くそ……」

 ――やっぱり無理だ。
 このままでは手首の関節が外れるだけで終わるだろう。手錠の嵌められた腕から力を抜いた俺は、そのまま辺りに視線を向けた。

 綺麗に整頓されたその部屋には覚えがある。――ここは、芳川会長の部屋だ。
 以前来たことあるから間違いないだろう。しかし、肝心の部屋の主の姿は見当たらない。

 次に自分の体に目を向ける。
 俺の服も気を失う前と変わらない。だとしたら、と制服のポケットを弄ってみるが、携帯らしき感触は見当たらなかった。
 ――安久から借りた携帯は会長に回収されたらしい。
 安久にどう言い訳したらいいのか考えてみたが、それより先にやらなければいけないことがあった。
 フレームに繋がった自分の手首を見詰め、ぐっと奥歯を噛み締めた。

 ――ここからどうにかするにはやはり、この鎖を切るしかないんだ。





「っぁ゛ああッ!」

 最初、バギリという音が手錠から発せられたものなのか、それとも自分の腕から発せられたものなのか分からなかった。
 あまりの激痛に頭の中は鮮明になっていく。まるで目が覚めたようだ。
 そして、その破壊音はちゃんも手錠から聞こえたものだったようだ。――正確には手首の鎖だが。

 俺とベッドを繋ぎ止めていた鎖はぐにゃりと曲がり、引き千切れていた。

「っ、は……ッ」

 無理な体勢で無理なことをし、無理矢理引き千切った手錠同様俺の手首の負担も相当だったようだ。手錠はハマったまま、傷付き、赤く擦れた自分の手首から目を逸らす。

 ――でも、これで動ける。

 そう意気込んで、数分後。


「やっぱりダメか……」

 ここが会長の部屋で、会長の意思によって俺がベッドに縛り付けられているという時点で正直諦めていた。
 玄関に通じている扉は外からきっちりカードキーで施錠してあり、びくともしない。

 食料品も用意してあるし、トイレも風呂もついているこの寮室内。困ることなんてないのだろうけれど、それでも俺はここに閉じ込められているわけにはいなかった。
 唯一、無防備な窓を見る。ここは四階。馬鹿でかいこの寮の四階は優に地上から数十メートルは越しているはずだ。

 ――それでも、志摩は。
 俺を逃してくれるとき、平然とその道を選んだ志摩を思い出す。そして拳を握り締めた。

 窓は固定されており、開閉は不可能だ。つまりただのガラスだ。ここを進むには突き破るしかない。

 部屋の片隅、置かれた椅子を手に取った。
 手首が痛むのを堪え、その足を掴む。そのまま椅子を持ち上げた俺は窓へと近づき、抱えたそれを思いっきりガラスへ叩き付けた。
 しかし硬い音が響いただけで肝心のガラスは無事だ。
 もちろん、一回だけでこのセキュリティ万全の設備を破ることができるなんて思っていない。

 椅子を高く持ち上げた俺はよろけながらも二回目、三回目とガラスを叩き割ろうと試みる。
 何発椅子を叩き込んだかわからなくなった頃。
 半ばやけくそに思いっきり椅子をぶん投げた瞬間、窓ガラスが真っ白に染まった。――亀裂が走ったのだ。

 息を飲んだ俺は、すかさずもう一発叩き込もうと椅子を拾い上げる。
 そして次の瞬間、劈くような破壊音とともに椅子が窓を突き破って外へ飛んでいった。
 辺りに飛び散る破片。
 窓ガラスに亀裂を入れることが出来たが、今の状態ではとてもではないが俺が窓から出る前に突き刺さってしまう。
 他になにかないだろうか、と椅子の代用になりそうなものを探し、不意に壁に掛かった額縁が目に入った。
 人の部屋のものを使うのは気が引けたが、今更後ろに退けない。
 額縁を壁から外した俺はそれを掴み、残ったガラスの片を掃き捨てる。

 ――もう少しだ。腕に突き刺さるガラスの破片を振り払い、額縁を高く振り上げたときだった。
 閉まっていたはずの玄関の扉が開く。
 そして、

「なにがあった!」

 開いた扉から顔色を変えた芳川会長が現れた。

「会長……」
「齋藤君……っ、君は」

 割れた窓、辺りに散乱するガラスの破片。俺の手にした額縁。それらを見て全てを悟ったのだろう。
 珍しく動揺を顕にする会長を前に、不思議と頭の中は冴え渡っていた。こうすれば会長自ら現れるんじゃないだろうか、と心の奥底で信じていたのもあるのかもしれない。

 ガラスの破片で傷ついた腕から血が流れる。けれど、先程まで感じていた痛みはなかった。
 器物損壊なんて慣れないことしたせいで脳内麻薬が発生しているのかもしれない。不思議と悪い気分ではなかった。

「馬鹿な真似を……手を貸せ。早く止血を――」

 そう一歩、近付いてきた会長は俺に手を差し伸べた。それでも俺はその手を取らず、身構える。
 そんな俺の態度に激昂するわけでもなく、会長は「齋藤君」とただ俺を見据えるのだ。

「……志摩は、どこですか」
「…………」
「会長……っ」
「手を貸せ」

 そして、芳川会長はそんな俺を無視して強引に距離を詰めてくるのだ。そのまま腕を掴まれ、引き寄せられる。
 必死に作り上げたバリケードを一発で壊されたような、そんな恐怖と緊張で身が竦んだ。

「会長」
「君が気にすることなんて何もない」
「……っ、それは俺が決めることです」

 ここで怯んでは駄目だ。何度も口の中で繰り返し、自分に言い聞かせる。
 そのまま俺は会長を見上げる。会長は冷たい目でこちらを見つめていた。――気を失う直前に見た、理解できない生き物を見るような目で。

「――だったらなんだ。志摩亮太に会うためにノコノコ外に出てそのまま針の筵にでもなりたいというのか」
「そうなるのなら、俺はそれでも構いません」

 自分でも愚答だとわかっていた。それでもそう、自分で決めた言葉は口に出すだけで酷く心強くなる。

 これ以上傷つく必要のない人間が巻き込まれるのなら、俺が針の筵になった方がマシだ。
 そんな俺の言葉にもちろん会長はいい顔をするはずもなかった。「馬鹿馬鹿しい」と深く眉間に皺を寄せ、会長は吐き捨てる。

「俺は君に平穏な生活を過ごしてもらいたい。そのために、ただ少しの間だけ大人しくしていろと言っているだけだ。……なのに、何故そこまで嫌がる?」

 そして伸びてきた会長の手に、手首の手錠を掴まれた。
 先程の無茶で擦れたそこは熱を持ち、赤く黒く腫れている。

「き……っ、気持ちは嬉しいです。けど、これは俺の自業自得です。これ以上、他の人に迷惑を掛けるのは……耐えられません」
「だから、俺の言うことを聞けないと」
「……すみません」
「いや、構わない。君ならそういうと思っていた」

 そう会長は諦めたように息をつく。だけど、俺の言葉を認めてくれたというわけではないようだ。
 嫌な予感がし、「会長」と目の前のその人を見上げたとき。

「俺もな、あまり手荒な真似はしたくないんだ」

 どういう意味だ、と目を見開いたと同時に手首ごと手錠を強い力で引っ張られる。

「ッ!!」

 抵抗する間もなかった。会長に引きずられ、そのまま俺の体はベッドの上に突き飛ばされた。
 軋むスプリング。咄嗟に起き上がろうとするものの、ベッドの上へと乗り上がってきた会長に押さえ込まれてしまえば動くことすらできなかった。

「……っ、会長……っ」

 壊れた手錠がぶら下がったままの手首を頭上へ持ち上げられたかと思えば、そのままベッドのヘッド部分に紐状のなにかでキツく括られる。
 ――まさに、振り出しに戻るだ。

 鉄よりかはましだ、なんて矢先、考えている間にも手首はキツく何重にも縛られ、痛み云々よりも強い力で血管を押し潰されたことにより手先の感覚が急激に麻痺していくのがわかり、血の気が引く。

「なんで、こんな……ッ」
「そういえば、栫井のやつが病院に運ばれたらしいな」
「……は?」

 ――今、なんて言った?
 ――栫井が?

「五味とどんな話をしたか知らないが、君ならなにか知っているんじゃないのか?」
「……かこ、いが……?」

 一瞬、言葉が理解できなかった。
 栫井が病院に?なんで?あそこに人はいなかったはずだ。だとしたら。
 ――間に合わなかったってことか?

「灘とも連絡がつかない」

 次第に呼吸が浅くなっていく。視界が暗くなっていき、息が苦しくなるようだった。

「……そ、んな……っ」

 取り返しつかなくなる前に、そう思って動いていたはずなのに、結局全ては最悪の方向へ進んでいく。
 いつもだ、いつも俺の思惑とは逆の方へと物事は進んでいく。
 その原因もわかっているのに。どうにかすることも出来たはずなのに。

 ――それが歯痒くて、遣る瀬無くて、俺は。

「齋藤君、目を逸らすな」

 そのときだった。会長に肩を掴まれ、真正面から見据えられる。

「っ、会長……」
「もう君が謝れば済む問題ではないと分かっているんだろう?」

 肩に会長の指が食い込む。
 覆い被さってくる芳川会長の言葉が、視線が、崩れかけた俺の心に突き刺さった。

「それとも、まだ君は何故こうして俺が躍起になっているか分からないのか?」

 いつだって会長は俺の良い方へ導いてくれた、助けてくれた。
 その優しさに甘えてきたのも事実だ――裏にどんな思惑があったのかなんて考えもせず、目先の優しさに甘えてきた。
 だから、このツケが今回ってきたのだ。

「君はここにいるだけでいい。あと二日もすれば全て片が付く。君は耳と目を塞いで休んでればいいんだ」
「会長……っ、……」
「君は疲れている。……君が自責の念を抱く必要はない。もう少し休んで、ゆっくり考え直せ」

 休む――その言葉を聞いた瞬間息が詰まった。
 休む、俺が?……なんでだ。こんなにたくさん休んで、高見から眺めていたというのに、また休めというのか。俺に。

「……齋藤君? ……っ!」

 身を捩るようにして起き上がれば、驚いた顔をした芳川会長に肩を掴まれた。
 それでも、寝てる暇なんてなかった。

「……灘君を、探します」
「――は?」
「灘君なら……灘君なら、なにか知ってるかもしれません」
「何を言ってるんだ、君は」
「栫井が運ばれた病院はどこですか?」

 片手で、キツく縛られた手首のヒモの結び目を摘む。かなりの力で縛られたそこは片手ではきついが、時間があればなんとかなるはずだ。
 言いながら手首を拘束するそれを解こうとすれば、目の色を変えた会長に「齋藤君」と怒鳴られた。
 その大きな声に体が震える。それと同時に、必死に腹の底に溜め込んでいたドロドロとしたなにかが勢い良く溢れ出す。

「……っ、栫井に怪我させたのは会長じゃないですか……ッ!」
「……っ」

 聞いたこともないような大きな自分の声に、自分でも驚いた。
 それでも、限界まで溜め込んで押し込めて蓋をして塞ぎ込んでいたものを簡単に止めることはできなかった。

「俺のことなんかどうでもいいから早く、早く灘君を探さないと……っ!」
「なにを言ってるんだ、君は」
「か……会長だって、なに言ってるんですか……っ、もしかしたら、何かあったのかもしれませんし……っ、だったら尚更探しにいかないと」

 ――行くべきなのに、会長はそうしない。
 明らかに守るべき対象、やるべきことを、優先順位が間違えているのだ。
 もっと早くに気付くべきだったのだ、この優しさに甘えるよりも先に。

 俺の言葉に、芳川会長はなにも言わなかった。
「何故君が必死になるんだ」まるでそう言いたげな冷めた目で俺を見ていた――それが会長の答えなのだ。
 その事実に気付いたときだった。
 
 ばきりと、遠くからなにかが破れるような音がした。それと同時に鍵が閉まっていたはずのその扉が派手に吹っ飛ぶ。

「な……ッ」

 呆れ、目を見開いた会長。
 釣られて振り返った俺は、そこに立っていた人影を見てぎょっとした。

「齋藤っ! 大丈夫っ?!」
「し、志摩……っ?!」

 扉がなくなったその向こうから現れた志摩に、思わず俺は目を疑った。
 どうして志摩が、というかどうやって。
 そして、いきなり現れた志摩に驚いたのは会長も同じようだ。
「あの縄をどうやって」と声を漏らす会長に、志摩は笑う。

「あいにく狙われやすいらしくてね、こんなものくらいはマナーとして持ち歩いてるんだよ」

 そう続ける志摩の手の中には小型ナイフが握り締められていた。鋭く光るそれに、俺も芳川会長も言葉を失った。

「……呆れた。どういう教育を受けてるんだ」
「それはこっちのセリフなんですけどね。――生徒会長さん、一般生徒にんなことして許されると思ってるんですか?」
「一般生徒はナイフを持ち歩かない」
「俺は、ナイフを持ち歩いていない一般生徒のことを言っているんだよ」

 そう会長の背後へと立った志摩は笑みを消した――会長の首筋に手にしたナイフを突き立てて。

「し、志摩……っ!」

 なんてことを、と青褪める俺を前に、志摩はいつもと変わらない笑みを浮かべる。
 なんなら、どこか落ち着いてさえいた。

「齋藤、悪いけど少し静かにしてて。齋藤の声聞くと緊張感なくなるから」

 こんな状況を黙って見逃せる人間がいるというのか。
 刃先を向けられた芳川会長も会長で顔色一つ変えるわけでもなく、呆れた様子で息を深く吐き出した。

「……許される冗談の範疇を越えてるようだが、もちろん警察を呼ばれる覚悟はしてるだろうな」
「そうだね、呼びたいなら呼べばいいよ。その場合あんたも道連れになっちゃうだろうけど」
「……」

 警察だとか道連れだとか聞き逃せない単語が飛び交う中、俺は慌てて起き上がって志摩を見上げた。

「ダメだよ、志摩。お願いだから……っ」
「齋藤、いくらこいつが好きだからってなにも俺の邪魔まで真似しなくていいんだよ」

「それとも、同じようにしてもらいたいわけ?」そう薄く笑んだ志摩は今度はナイフの先端を俺に向けた。
 いつもと変わらない様子、軽薄な口振り。
 ああ、なるほど。と思った。

 ――これは茶番だ。

 いつもと変わらない余裕溢れるその態度は脅迫する人間のものとは違う。
 なにを企んでるのかわからないけど邪魔をするなということだろう。目があって、志摩が小さく笑った。それもほんの一瞬のことだった。

「用があるのは俺にだろう、彼に刃を向けるな」

 抵抗するわけでもなく、そう静かに言い放つ会長。この会長の反応は志摩にとっては意外なものだったらしい、少しだけ目を開く。そしていつもの軽薄な笑みを浮かべる志摩。

「俺的には、鈍臭い齋藤を相手にした方がやりやすいんだけどね。会長さんがそういうなら仕方ないな」

 白々しい口調と態度。言われるがまま志摩は俺に向けていたナイフの刃で会長の首筋を撫でる。
 言葉とは裏腹に、その目が愉しそうに輝いているのを俺は見なかったことにする。


 そこからは志摩のやりたい放題だった。
 志摩の指示により、会長にベッドに括りつけられていた紐を切ってもらう。
 念願の自由を手に入れたのはいいが、どうしてこんなことになってしまったのだろうか。悪化している気すらした。

「それで、こんな茶番まで企ててなにが目的だ」

 ぶち割れた窓から吹き込む生暖かな風。
 窓ガラスの散乱した部屋の中、ソファーに腰を下ろした芳川会長は背後から刃物を押し付けてくる志摩に問いかける。

「単刀直入ですね。情緒がなくて嫌だなぁ、そういうの」
「君も、俺とだらだらお話がしたいわけではないだろう」

 取り付く島もないとはまさにこのことだろう。
 会長の言葉に、志摩は嘲笑うように目を伏せた。
 そして、

「生徒会長を辞任して下さい」
「な……ッ!」

 その口から出てきた言葉に逸早く反応したのは俺だった。
 なにを言い出すかと思えば、あまりにも無茶苦茶だ。こんなことをしてまで、というかなんでこんなときに。

 志摩が何を考えてるのか解らない。それは会長も同じなはずなのに、会長の反応は相変わらず冷めたものだった。
 志摩の提案にさして驚くわけでもなく、会長は「何を言い出すかと思えば」と眼鏡のアーチを指で押し上げる。しかし志摩は撤回しない。
 ――本気だ。

「今日中に書類を提出したら明後日くらいには受理されるんでしょう? 問題起こして無理矢理辞めさせられるのと自分から辞めるの、やっぱり自分から辞める方がかっこいいと思うんですけどねえ、俺は」
「なに言ってんの、志摩」
「俺は本気だよ、齋藤。齋藤のお陰だよ、ようやくボロ掴めたんだからさ」

 その言葉に、俺はナイフを握るその手の甲に目を向けた。
 不自然に青黒く腫れ上がったその手の甲は、間違いなくあのとき会長が踏んだものなのだろう。そんな志摩の手を見れば、何も言えなくなってしまう。

 会長の部屋に僅かに沈黙が流れる。
 そして、その沈黙を破ったのは会長だった。

「そうだな、仮に俺が会長を辞任したとしよう。それが君になんのメリットになる?」
「目障りなゴミが消える。万々歳だよ」

 志摩の言葉に、「嘘だな」と芳川会長は間髪入れずに突っ込む。

「それなら俺を退学に追い込んだ方が確実だろう。なぜ辞任に拘る?」
「あんた、見た目通りねちねちしつこいね。……それは、会長さんが辞めてからのお楽しみにとっておくことにしてるから」

「これでいい」と馬鹿にしたように笑う志摩に、会長は小さく笑った。

「――そうだな、ならば期待しておくとしよう」

 それは俺には決して見せないような冷ややかな笑顔だった。
 ――嫌な予感がする。
 
「……齋藤君、そこの机の引き出しに用紙と万年筆が入っている。取ってくれないだろうか」

 二人のやり取りにどうしていいのかわからず、ただ傍観に徹していたときだ。
 不意に芳川会長に頼み事をされ、つい条件反射で「はい」と頷いてしまう。

 まさか、本気で志摩の条件を飲むのか。
 胸の奥がざわつく。けれど、会長に従うことしかできなかった。

 言われるがまま机の引き出しを開けば、そこには筆記用具が一通り入っていた。
 その中から会長に指示されたものだけ手に取り、持ち出す。そして「どうぞ」と会長に用紙と万年筆を手渡せば、芳川会長は「すまない」と万年筆を手にした。

 まるでなにかに突き立てるかのようなその不自然な受け取り方に一抹の違和感を覚えた矢先のことだった。
 万年筆の先端が、ナイフを持った志摩を向いた。それに気付いた時には体が動いていた。

「ッ、う゛ぐ……ッ!」

 万年筆の先を掴もうと広げた手のひらに尖った感触が突き刺さる。
 それは目の醒めるような鋭い痛みだった。穴が空いたのではないかと錯覚するほどの痛みだったが、実際は数ミリペン先が埋まってる程度だ。
 手のひらに赤い血が滲むのを隠すように俺は万年筆を掴んだ。

「齋藤?」
「……ごめん。大丈夫、なんでもないから」

 そして、志摩に見つからないようにそっと万年筆を掴む会長の手を志摩から遠ざける。
 ぬるりとした液体が、手のひらから制服の袖口まで滑り流れていく。
 何故、そう言いたそうにこちらを見下ろす芳川会長に俺を見上げた。

「今度は……ペン、落とさないように気をつけて下さいね」

 そう笑みをつくって、会長の手を離す。
 赤くべっとりと汚れた万年筆を見た志摩は、俺を睨んだだけで何も言わなかった。
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