天国か地獄

田原摩耶

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√α:ep.4 『共犯関係』

08

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「齋藤、確認しようか」
「栫井にそれとなく阿賀松との関係を聞けばいいんだよね」
「それと、協力してもらえるように脅……頼むのも忘れないように」
「……」

 さらっと志摩の隠し切れていない本音が覗いているが、今更突っ込む気にもなれなかった。
 押し黙っていると、「齋藤」と促される。

「……わかったよ、頑張る」
「気が変わったらいつ俺と交代してもいいんだからね」
「いい……いらない」
「本当、変なところで頑固なんだから」

 志摩には言われたくないが。というか、暴力沙汰を避けたいのは普通ではないのだろうか。
 思ったが、志摩に何言ったところで言い包められるのがオチだ。敢えて俺は黙秘を貫く。

「それじゃ、俺は栫井平佑を探してくるよ。齋藤はここで待っててね」

 まさか俺の病室に連れてくるのか。
 怪しまれるのではないかとも思ったが、栫井のことを信じる他ない。……あとは、志摩が余計なことを言ってないことを祈るばかりだ。

 そもそも、色仕掛けってなんだ。
 今更栫井にそんなものが通用するのだろうか。
 ……やはり、他に説得する方法も考えていた方がいいのではないか。

 そんなことを考えてる内に時間ばかりは進んでいく。
 志摩が出ていって数分程経った頃だ。いきなり病室の扉が開かれ、『まさかもう連れてきたのか』と顔を上げたときだ。
 
「あ、かこ――」

 栫井、と呼ぼうとして、その先の言葉は出てこなかった。そこに立っていたのは俺が待っていた人物ではなかった。
 ――寧ろ、顔を見たくすらない相手だった。

 まず目に入ったのは真っ白な花束だった。数輪の百合の花の花束を手にしたその男は、こちらを見下ろす。

「あ? 誰と間違えてんだよ、お前。
 ――まさか恋人の顔、忘れたわけじゃねえよなぁ?」

 真っ黒な髪。阿佐美と同じ髪色髪型のその男の声を聞いた瞬間、俺は背筋が凍るのを感じた。
 ――阿佐美はこんないやらしい笑い方をしない。ならば、この男は。

「阿賀松……先輩……っ」
「よぉ、久し振りだな。ユウキ君、ケツの調子はどうだ?」

 阿賀松伊織、何故この男がここにいるのか。
 元々ここは阿賀松の実家の息が吹きかかった病院だ。そして、俺を病院送りにさせた本人でもある。
 最悪この展開は想像できていたはずだが、よりによって今なのか。

 凍りつく俺の元までやってきた阿賀松。阿賀松が手を上げた瞬間殴られるのではないかと身構えたが、違った。
 ベッドの上、とさりと落ちてくるのは花束だった。阿賀松が放ったそれから溢れる花の香りに包まれ、まるで悪い夢でも見てるような錯覚に堕ちる。

「俺からの見舞いだ。大切にしろよ、ユウキ君」
「あ、りがとう……ございます……」
「花は好きか?」

 手元の花束に気を取られている内に阿賀松はベッドのすぐ横まできていた。
 一気に詰められる距離。目の前の花束を見つめたまま凍りつく俺に、「返事は」と阿賀松は繰り返す。

「す、きです」

 嘘、ではない。一時期、自分で花を育てるなんて趣味があったときもあった。
 なのに、この男に返す言葉の全てが薄っぺらくなってしまう。言わされてる感。

「そりゃよかった。――可愛がってくれよ、ユウキ君」
「……は、い」
「亮太みてえにな」

 そして、阿賀松の口から飛び出した単語に全身の体温が上がるのがわかった。それなのに、指先は冷たくなっていく。

 阿賀松は視線を合わせるようにじっと俺の見ていた。
 俺は、阿賀松の方を見ることはできなかった。阿賀松の口から志摩の名前が出たこともただ恐怖でしかなくて、これから立ち向かわなければならない相手だと分かっていても、阿賀松の声を聞くだけで、その袖の下から覗く筋肉質な腕を見るだけで、体内に埋まったソレの感触を思い出す。硬い拳を、その節々の凹凸に内側からぶん殴られる衝撃を。

「どこ見てんだ、ユウキ君」
「……ッ」
「こっちを見ろよ。寝違えてんのなら直してやろうか」

 そう、伸びてきた手に顎を掴まれ、びくりと全身の筋肉が凍りついた。真正面、真っ直ぐにこちらを覗き込んでくる阿賀松から目を逸すことはできなかった。

「お前、随分と亮太のやつと仲良くやってるみてぇだな」
「っ、それは……」
「詩織ちゃんが心配してたぞ? ……お前が変なこと吹き込まれてるんじゃねえかって」

 阿佐美から何を聞いたのか、さっきの今だったからこそ余計恐ろしかった。
 俺と志摩の企みまでは聞かれてない――はずだ。それなのに、阿賀松の目に見つめられると心の奥まで覗き込まれてるようでただ恐ろしかった。奥歯がガチガチと鳴りそうになるのをぐっと歯を食いしばり、堪える。
 そんな矢先だ。阿賀松は冷ややかに笑う。阿佐美と瓜二つの容姿で、阿佐美と正反対な嗜虐的な笑みを浮かべて。

「なぁに震えてんだよ。……別にとって食いやしねえよ」
「……っ、ぁ……」

 そう、ベッドに腰をかけた阿賀松は俺の肩に手を回す。阿賀松の方へと強引に抱き寄せられ、そのまま入院着越しに肩から腕のラインをねっとりと撫で上げられたときだ。耳元に唇を寄せられたと思った瞬間、べろりと舐められ、「ひっ」と喉の奥から声が漏れた。

「――今はな」

 耳元、鼓膜へと直接響く阿賀松の低い声にずぐん、と下腹部が疼く。逃げ出したいのに、逃げられない。これから敵対しなければならない相手だと意識すればするほど、肩を抱き寄せるその手の大きさ、分厚さが余計鮮明に伝わってくるのだ。
 バクバクと激しく脈打つ心臓。たった数秒間のことだ、そのまま腰へと手を回した阿賀松に震えた。

「っ、……せ、んぱい……っ」
「さっさと調子取り戻せよ。じゃねえと、つまんねえから」
「……は、い」

 本当にこれ以上は何もしないつもりなのか。

 二人っきりの病室内。腰へと回された腕に抱き寄せられたまま恐る恐る頷けば、阿賀松は笑った。

「そうだ、今日はテメェにイイモン渡そうと思ってな」

「目が覚めた記念にな」と阿賀松は笑いながら上着のポケットに手を突っ込む。
 そして、

「手ぇ出してみろ」

 ただでさえ嫌な予感はしていた。けれど、逆らうことなどできなかった。
 恐る恐る手を差し出せば、開いた手のひらの上、阿賀松はなにかをころんと乗せるのだ。
 手のひらの上に置かれたそれはリングケースのような小さな小箱だった。

 阿賀松からプレゼントというだけで嫌な予感がしてならないというのに、やつは薄ら笑いを浮かべたまま「開けてみろ」と囁きかけるのだ。
 今、この時点で俺に選択肢は残されていない。
 言われるがままケースを開けたとき。ケースが倒れ、蓋の中から手のひらの上へとバラバラと何かが落ちる。

「これ、なんだと思う?」

 白くて、硬い、小さなそれに熱はない。何かの部品か何かだろうか、そう思ったがすぐにその正体に気付いた。
 ――歯だ。それも、人の。

「っひ」

 授業で見た模型のものと同じその白い物体はどうみてもプラスチック製ではない。長さから形、様々なそれを咄嗟に振り払おうとした瞬間、阿賀松に手首を掴まれる。そのまま体ごと引っ張れそうになったとき、視界が暗くなる。そして、額にゴッと鈍い痛みが走った。

「……お前、余計なこと企んでんじゃねえだろうな」

 唇に吐息が吹きかかるほどの至近距離だった。手の甲に重ねられた手に指ごと絡み取られ、みぢ、と骨が軋む。それでも声を上げることもできなかった。

「今度俺の邪魔したらお前らの分もこれに追加してやるよ」

 低い声が、鼓膜から頭蓋骨へと響き渡る。

 これは、カマ掛けだ。反応しては駄目だ。動揺を悟られるな。
 俺たちの作戦が、企みが、もう阿賀松にバレているなんてことはあり得ない。
 そう自分に言い聞かせるが、体の震えは止まらない。
 そんな俺を見詰めたまま、阿賀松は目を細める。

「どうした? そんなに震えて。……なにか怖いことでもあったのか?」

 骨が軋む。唇が触れ合いそうな距離で阿賀松は笑うのだ。そして、

「――こんくらいでビビるくらいなら、最初から俺に楯突くんじゃねえよ」

 このくらい、阿賀松にとってはこのくらいと言うのか。
 伸びてきた指に顎を掴まれる。そのまま強引に上を向かされれば、阿賀松の昏い目に俺の間抜けな顔が反射しているのが見えた。

「わかったか?」
「……っ」
「返事」

 もう流されない。利用されない。そう決めたはずなのに。
 あの目に見据えられたら身体が、頭が、思うように動かなくなるのだ。全身を乗っ取られたみたいに阿賀松のこと以外考えられなくなる。
 ――根底深くに植え付けられた恐怖の種は厄介以外の何者でもない。

「返事。……口の利き方からまた教えてやんねえといけねーのかよ」

 阿賀松から笑みが消える。先程よりも阿賀松の周囲の空気が冷たくなるのを身体で感じたとき。
 

 突然、病室の扉が開く。
 最悪のタイミングで、ノックもなしにやってきた来訪者の方へと目を向ける。そして、思わず息を飲んだ。

 相変わらず血の気のない青白い肌。そして、パーマがかった黒髪。
 眠たそうな目は、ベッドの上で阿賀松に迫られている俺を見つけた途端、更に細められた。

 ――栫井だ。
 志摩に呼ばれてきたのだろう。最悪のタイミングで現れた栫井に青ざめる俺。対する栫井は、そんな俺たちを見ても特に慌てふためくわけでもなかった。

「おい、なに人の恋人の部屋入ってきてんだよ」

 突然の来訪者に先に反応したのは阿賀松の方だった。露骨に不快感を顕にした阿賀松はそのままじとりと栫井を睨む。
 対する栫井は動じていないようだ。
「知るか。そいつが用があるっていうから来てやっただけだ」とこちらを指差す栫井に、内心ぎくりとした。

「……へえ? ユウキ君がか?」

 ――勘繰られている。
 栫井と阿賀松、二人の視線を一身に浴び、ただ全身から嫌な汗が吹き出した。
 ここは穏便に済ませるためにも、一旦栫井に待っていてもらおう。

「あのっ、栫井、やっぱり……」
「じゃ、さっさと済ませろよ」
「――え」
「え、じゃねえ。なんだ? まさか、俺の前で言えないような用事か?」
「いえ、や、その……」

 ――その通りだった。
 最悪の展開に更に最悪が重なっていく。
 どうすればいい。どうしたらこの場を切り抜けられるのか。
 栫井の怒りを最小限に食い止め、阿賀松をこの場から追い出す方法。
 この際、穏便でなくてもいい。――この場だけでも凌げれば。

 そう病室内に視線を向けた俺は、とあるものに目を付ける。気付けば、考えるよりも先に体が動いた。

 腕を伸ばした壁、そこに取り付けられたナースコール。そのボタンを押し、俺は深く息を吸い込んだ。
 そして、

「っ、うう! お、お腹が……! 急にお腹が痛くなりました……っ!」

 ベッドの上、突然呻き声をあげる俺に、阿賀松は「は?」と目を細めた。その横で、「下手くそ」と栫井の唇が動いたのも見えた。……ごもっともだった。


 そして、数分もしない内に看護師たちがやってくる。気付けば阿賀松の姿はなくなっていた。
 やってきた看護師たちには勿論仮病ということがバレ、一頻りお叱りを受けた後に看護師たちと入れ違うように志摩が病室へとやってくる。それはもう、血相を変えて。

「齋藤っ! 大丈夫っ?」
「煩い、黙れ。喋るな」
「お前に言ってないんだよ、俺は齋藤に話しかけてんの」

 どうやら志摩は俺が仮病だと気づいていないようだ。早速栫井と揉め始める志摩。取り敢えず俺は志摩を安心させることにした。

「あの、志摩、別に俺は大丈夫だから……演技だったんだ」
「……どういうこと?」
「阿賀松を追い払うつもりだったんだろ」

 訝しむ志摩に、俺の代わりに栫井が答えた。
 栫井にはお見通しのようだ。もしかしたら阿賀松も気付いているのかもしれないが、それでもいい。阿賀松を追い払うという目的は果たせたのだから。
 ……その代わり、こってり絞られたけれど。

「……あいつ、来てたの? ここに?」
 阿賀松を聞いた瞬間、志摩の表情が強ばる。
 小さく頷き返せば、「何もされなかった?」と畳み掛けるように志摩は尋ねてくるのだ。
 
「されそうになってた」
「か、栫井……っ」
「あいつ――」

 俺の代わりに答えた栫井に、志摩はそのまま病室から出ていこうとする。そして、俺は慌てて志摩の腕を掴んだ。行かせては駄目だ、それだけは考えずともわかった、

「志摩、本当何もないから。……その、栫井が途中で来てくれたから……」
「来てくれたって、呼び出したのあんただろ」

 ……そうだった。そういうことになっているのだった。

「そ、そう……だったね」
「で?」
「……え?」
「え、じゃねえよ」

 用があるなら早くしろ。そう言いたげな目で無言で睨んでくる栫井に、さっきとは別の種類の汗が流れる。冷たい方の汗だ。

「いや、その……あの……話しっていうか……」
「……」
「ええと、なんていうか……」
「…………」

 ……正直に言おう。阿賀松が来たおかげで、栫井に対してどう説得するのか考える暇もなかった。
 けれど、このまま無言でいてはまた即逃げられるだろう。せめて、何かを言わなければ、

「ぁ……あの、さっきは阿賀松……先輩のこと、止めてくれてありがとう。それで、その、よかったらお礼がしたいんだけど……」

 よし、これなら自然な流れだ。
 そう、「ちょっと、付き合ってくれないかな」と恐る恐る栫井を見上げたときだ、道端の生ごみか何かを見るかのような目でこちらを見ていた栫井と視線がぶつかり合う。そして。

「――嫌だ」
「えっ」

 まさか、この流れで断られるとは思ってもいなかった。いや、栫井ならそうなってもおかしくはないのか。などと納得してる場合ではない。

「ちょっと、せっかく齋藤が誘ってくれてるのに断るつもり?」

 どうしよう、次の手を考えなければ、と右往左往している俺の代わりに助け舟を出してくれたのは志摩だった。
 しかし、間に割って入ってくる志摩に対して、栫井は冷たい目を向ける。

「なんで邪魔しないんだよ、お前」
「は?」
「普通ならうぜえくらい絡んでくるくせに」

 それもそうだ。あれだけ栫井を疎ましがってる志摩がこうして大人しく、それどころか俺が栫井を誘うのを見過ごしているのは些か不自然だ。
 ……いや、納得している場合ではない。このまま志摩の助け舟を無駄にするわけにはいかない。
 脳をフル回転させた俺は、咄嗟に「志摩がっ!」と声をあげた。
 思いの外大きな声が出てしまい、二人の目が同時にこちらを向いた。そして、それは俺も例外ではない。

「その、言い出したんだ。栫井に助けてもらったお礼をしようって……っ!」
「ちょっと、齋と……んぐっ」

 露骨に嫌そうな顔をする志摩の口を慌てて塞ぐ。志摩がもごもご言っている隙に俺は言葉を並べた。

「本当は、志摩から『栫井が嫌がるだろうから秘密にしといてくれ』って言われたんだけど……この前、栫井が灘君を止めてくれたお陰でその、助かったから……」
「……」
「そうだよね、志摩」
「……」

 手を離し、「志摩っ」とアイコンタクトで合わせてくれと懇願すれば、志摩はそのまま引き攣るような笑みを浮かべる。

「……そうだね、本当はこんなこと言いたくないんだけど事実だしね……感謝してるよ……」

 ――よかった、志摩も俺の作戦を理解してくれたようだ。
 ただ額にびきびきと浮かぶ青筋が隠しきれていないが、こうして口裏合わせてくれるだけでも有難い。……後から何言われるか知れたものではないが。

「……で、なんだよ。お礼って」
「え、え……ええと……その、栫井が欲しいの用意するよ……志摩が」
「えっ」
「ね?!」
「ま……まぁね……俺が用意できる範囲ならね……」

 ものすごく志摩が睨んできている。
 しかし俺に任せると言ったのは志摩だ。文句はあとで聞くから、と、アイコンタクトをしながら俺はちらりと栫井を伺った。

「…………」
「あの、栫井……?」
「……喉が乾いた」

「なんか買ってこいよ」と、栫井は簡易椅子に腰を掛ける。その視線は志摩に向けられていた。

「炭酸キツイやつ」
「は? 俺が? なんで?」
「早く行けよ、感謝してるんだろ」
「こんの……っ」

 しまった、志摩の堪忍袋の緒の方が限界に達しそうになっている。

「志摩っ、早く、早く行ってきて……!」
「でも、齋藤……」
「志摩なら出来るよね」

 お願いだから、と小声で頼み込む。腑に落ちない様子の志摩だったが、最終奥義「あとで何でも言うこと聞くから」を乱用すれば、渋々ながらも承諾してくれた。
 自分でも安売りし過ぎな気がするが、今は物事を円滑に進めるしかない。

「……わかった。すぐに買ってくるからそこで大人しくしてなよ」

 そう栫井を睨むように一瞥した志摩は、そのまま病室を後にした。
 とてもじゃないが感謝している人間がする目ではないな。……そんなことを思いながら俺は志摩を見送る。
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