天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 2『変動と変革』

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 食事を終えた頃だった。後片付けを済ませた縁は、「あ、そうだ」と思い出したようにこちらを振り返る。

「俺、これからちょっと出掛けるけど、君も来る?」
「えっ?」
「ああ、別に強制とかしないよ。ここにずっと一人でいるのもアレかなって思ったんだけど」

「どうかな?」と小首傾げる縁。
 この部屋から出る。下手すれば会長と会うことになるかもしれない。そう考えると、ただ怖かった。けれど、ここに一人で残っても、確かに心細いのもある。

「……あ、あの、でも……邪魔になるんじゃ……」
「齋藤君が邪魔?そんなわけないだろ」
「……」
「もしかして、まだ不安?」

 当たり前だ。何があるのかわからないのだ。それに、下手についていって縁の足手まといになるようなことも避けたい。
 俺の沈黙から何かを悟ったのか、縁は不意に、屈んでこちらに目線を合わせる。
 真正面から覗き込んでくるその目に、ぎくりと心臓が反応する。

「もしかして、邪魔になるかも……とか、余計なこと考えてない?」
「……ッ」
「俺のことなら心配しなくて大丈夫だよ。寧ろ、何があっても齋藤君は守るから、俺」
「せ、先輩……」
「あれ?おかしいなぁ、俺の予想ではここで齋藤君が『先輩……嬉しいです!』とか言いながら抱き着いてくる筈なんだけど……」

 なんて言ってみせる縁。いつもの軽口だとわかってても、ほんの一瞬見せた真剣なその目に、俺は何も言うことが出来なかった。

 縁先輩が、よく分からない。
 志摩ほどの情緒不安定というわけではないが、何を考えてるのかわからないのだ。
 俺にそこまで優しくしてくれる価値があるのだろうか。それとも、縁の言う『好き』というのはそういうことなのだろうか。
 他人にここまで分かりやすいほどの求愛を示されたことがない俺にとって縁方人は未知の存在だった。

「……それとも、やっぱりあれ?俺は頼りない?」

 少しだけ、落ち込んだように眉根を寄せてみせる縁につい俺は「いえ」と答えてしまう。

「いえ、あの……そういうわけじゃないんですけど……」
「本当?」
「え、ええ……はい……」
「そっか、なら良かった。一応、君からの信頼は得られてたんだね。嫌われてたらどうしよーって思ってたけど」

 そう言って、先ほどとは打って変わってぱあっと明るくなる縁にますます断り辛くなる。
 苦手というのは変わらないが、けれど、安堵したようにむねを撫で下ろす縁を見ると、そこまで嬉しくなるようなものなのだろうかと不思議になって、同時に嬉しくなった。
 ……俺も俺で現金なのかもしれない。

「……それじゃあ、あの、ご一緒させていただいてもいいですか?」
「うん、勿論」

 ということで、縁について行くことになったが、縁が言うには今日、生徒会役員は招集が掛かってて午後までは会議室から出られないという。だから誘ってくれたのだろう。
 だったらなぜ最初にそのことを教えてくれなかったのだろうか。もしかして試されていたのだろうか。そんなことを考えながら、外出の準備することになる。

 数日間縁の部屋にいただけなのだが、それでも久し振りに思える。
 先導する縁とともに部屋を出た時だった。ぬるりと動いた影に、縁が足を止める。
 そして。

「おっと……危ねーな」
「し、志摩……ッ!」
「……おはよう、齋藤」

 もしかしてずっと待っていたのだろうか。ゆっくりと立ち上がる志摩は、縁を睨みつける。

「方人さんなんで携帯出ないんすか、っていうか、なんで齋藤も外に連れ出してるんですか!」
「携帯はサイレントにしてたから気付かなかったんだよ。あと、齋藤君は俺とデート」
「はぁっ?」

 どうして縁も縁で志摩を煽るようなことを言うのだろうか。慌てて俺は「違うよ」と志摩に部屋の鍵が見つからないことを説明する。
 すると、志摩は何かを思い出したように「あ」と口を開いた。 

「あ……って、何?もしかしてどこにあるか知ってるの……?」
「……いや、なんでもないよ」
「なんでもなくはないだろ。齋藤君、絶対こいつ何か隠してるって」
「隠してませんから。って、なに齋藤に触ってるんですか!」

 自然に肩を組んでくる縁にぎょっとする暇もなく、志摩に縁から引き剥がされる。
 縁は「どうだか」と笑っているが、正直、俺はそれどころではない。
 ……志摩には絶対、バレないようにしないとな。
 昨日の夜、縁とのことを思い出しては志摩に今まで何度もしつこくされた忠告が頭を過る。

 あの人とは関わるな。それを守るにはもう遅すぎるが。

「部屋の荷物なんて、別に鍵がなくたって壱畝遥香の鍵を奪えばいいでしょ。それならわざわざ齋藤が出て来る必要もないし、なんなら俺、今から取ってこようか」

 どうやらこうして俺が部屋から出てることが志摩は心配のようだ。
 そう簡単に志摩は言ってみせるが、簡単に壱畝が鍵を差し出すとは思えない。最初から実力行使するつもりなのだろう。

「亮太、お前は余計なことするなよ。別にそんなことしなくてもマスターキー借りれば波風立てる必要もないし、そのためにわざわざこうして俺達が出てんだよ」
「……齋藤はそれでいいの?」

 あくまで縁の言うことは納得できないようだ。こちらに投げかけてくる志摩に、俺は慌てて頷き返す。
 渋々という感じだが、志摩も判ってくれたようだ。
「後悔しても知らないよ」と、不満そうに志摩は口にして、それ以上縁に逆らうことはしなかった。その代わり、帰るつもりもないらしい。縁と俺の間に割り込んできた志摩。

「なんだよ亮太、お前邪魔なんだけど」
「俺も付いていきます」
「来るなよ、せっかくの俺と齋藤君のデートを邪魔するつもりか?お前」
「齋藤、良いよね。俺いた方が齋藤もいいでしょ?……ねっ?」

 聞いてくるわりには、選択肢が一つしか用意されていない気がしないでもない。顔を近付けてくる志摩から距離を取りながら、俺はつい頷いた。
 すると、志摩は「そうだよね」と嬉しそうに笑った。

「方人さん、そういうことなので残念ですがデートは諦めて下さいね」
「あーあ、齋藤君は本当優しいんだから」
「え、あ……すみません……」
「なんで謝るの?謝る必要なくない?」

 縁と二人きりというのも緊張していたので誰かが一緒にいるだけで大分助かる……と思っていたのだけれど、それが志摩となると余計ややこしくなりそうな気がしてならない。
 上機嫌な志摩を尻目に、そっと手に何かが触れる。
 縁の手だ。俺の指先を軽く握り締めた縁は、「残念だったね」と、志摩に聞こえない声量で俺に耳打ちした。
 慌てて縁を見上げれば、縁はぱっと俺から手を離して、そしてニコリと微笑んだ。

「齋藤、早く行くよ。もたもたしてたら面倒なやつらに会うかもしれないし」
「ぁ、う、うん……!」

 志摩に急かされ、慌てて俺は志摩の元へと逃げる。
 少し触れただけなのに、全身に昨日の熱が蘇り、顔中が焼けるように熱くなった。
 誂われてる。
 分かっていたことだが、やっぱり、心臓に悪い。
 俺達はエレベーターに乗り込み、一階・ロビーへと向った。

 学生寮の中は時間が時間帯だからか閑散としていた。
 残っている生徒と言えば、阿賀松の後輩だろう。いかにもな生徒たちは俺達を見るなり「おはようございます」と頭を下げる。それは俺でも志摩でもなく、縁に向けての挨拶だった。

「ああ、おはよ」

 縁はその度になんでもないように挨拶を返し、通路のど真ん中を歩いていく。
 志摩はその様子を恨めしげに見ていたが、正直、俺は少し不思議だった。畏まったような生徒たちもそうだが、それを受け流す縁もだ。
 自分が執拗に縁に絡まれてるからだろうか。反応はしてるものの、まるで一人一人に興味はなさそうに通り過ぎていくのだ。

「亮太、紛失届は管理室だっけ?」
「そうですね。寮監に言えばいいって俺、聞きましたけど」
「……管理室って、どこにあるんですか?」
「こっちにあるよ。学生寮一階。齋藤君はこれからも用になるかもしれないから覚えときなよ」
「は、はい……」


 ――学生寮一階、ロビー。
 ショッピングモールとは別に繋がる通路へと歩いていく縁の後をついていく。
 こちらの方面には来たことがなかった。ショッピングモール方面とは違い、質素な通路を歩いていく。どちらかと言えば校舎と雰囲気が似ているように感じた。落ち着いた色合いの床を歩いていくと暫く先にいくつかの扉が見えた。

「こっから先は教師の寮棟になるんだ。……んで、一番最初にやってくる扉が管理室ってわけ」

 志摩の説明に納得する。
 教師たちがいつもどこで寝てるのか気になっていたが、場所を聞いたのは初めてだ。
 すぐに見えてきた扉には志摩の言うとおり管理室と表記されたプレートがぶら下がっている。

「これから先は、齋藤君たちで行ってきなよ」

 不意に、立ち止まった縁。てっきりついてくるものばかりと思っていただけに、縁の言葉に素直に驚いた。

「あの、先輩は……?」
「俺はここで待ってるよ。大丈夫、別に帰ったりしないから」
「……」
「方人さんがいると借りれるものも借りれないしね、行くよ、齋藤」

 志摩は縁がついてこない理由が分かっているようだ。
 俺の肩を叩き、歩き出す志摩に、狼狽えてると縁は「そういうことだから、行っておいでよ」と俺に手を振った。なんとなく気になったが、すぐにその理由も分かった。

「し、失礼します……」
「失礼します」

 扉を開けば、広くはない空間が広がっていた。
 畳張りのその部屋の中、卓袱台の前に座って新聞を眺めていたその人は、こちらを見て不思議そうな顔をする。そしてすぐ、人良さそうな柔和な笑みを浮かべた。

「ああ、珍しい顔ですね」

 その人が自分と同じ生徒だとわかったのは、制服を着ていたからだろう。他の生徒とは違う、黒いネクタイを締めたその生徒は俺の前、志摩を見てそう口にした。
 志摩の知り合いなのかと顔を見るが、志摩は「ここ最近は物を無くさないように気を付けてるんで」と笑った。
 俺が志摩と出会ったばかりの頃に見たときと同じ笑顔、愛想笑いだ。

「寮長、こいつが部屋の鍵失くしちゃったみたいなんですけど落とし物とか来てないですか?」
「鍵ですか。それは困りますね」

 寮長、と呼ばれたどこか頼りなさそうな男は「よっこいしょ」とのろのろ立ち上がり、傍に置かれた棚を探り始める。
 それにしても……この人が寮長か。
 転校時、寮生活になるに当たって「何かあったら寮長に言え」と何度か教師たちに言われていたが、こうして頼ることになったのは初めてだ。
 ポイポイと棚から色んなものを引っ張り出す寮長。けれど、出てくるものは自転車の鍵だったりキーホルダーだったり水鉄砲だったりガラクタばかりだ。
 辺りがどんどん散らかり始めたとき、全てを調べたらしい寮長は「ふう」と疲れた顔して息を吐く。

「えーっと、残念ですけど鍵の落とし物は……ないみたいですね。それじゃあ、一応紛失届を書いときますか」
「あ、は、はい……」
「こういうのは初めてですよね。一応形式的なものなんで適当で大丈夫ですよ。いつぐらいにもしかしたらここで無くしたかもーって感じで。もし届いたら僕の方から君へ連絡入れるので、ここもお願いしますね」

 言いながら、胸ポケットに差していたボールペンと、一枚の紙切れを渡してくる寮長。それを受け取る。
 それにしても、なんというか、ちょっと……ゆるそうな人だな。志摩が敬語で話すからには先輩なのだろうけど。
 卓袱台を借りて、畳の上に正座した俺は記入欄を埋めていく。
 その間、ガサガサと散らかった荷物を部屋の隅へと寄せていた寮長に志摩が声を掛ける。

「そうだ、寮長、部屋に取りたいものあるんで合鍵貸してもらいたいんですけど」
「同室の方はいないんですか?」
「同室はいるのはいるんですけどそいつ今学校にいないんですよ。けど、ちょっと大切なものだから」

「すぐ返すから貸してくれませんかね」と、志摩。
 別にそこまでする必要ないのだが、志摩に何か思惑でもあるのだろうか。
 けれど、いい加減そうに見えても寮長は寮長のようだ。志摩に強請られた寮長は、心底嫌そうな顔をしてみせる。

「そう簡単に言いますけど、これはポンポン渡してたら僕も寮監に怒られるんですよ?分かりますか?というか、志摩君またですか?」

 思い通りにならないことに志摩が臍を曲げたら後が厄介だ。俺は、慌てて志摩の腕を掴んだ。

「……あ、あの、志摩……俺、いいよ……別に……」

「齋藤」と、志摩は不満げにこちらを見る。
 俺のためなのかどうか分からないが、それでも、あまり無茶なこと言って寮長を怒らせるのは不本意だ。
 邪魔するなよ、と言いたげな目でこちらを見てくる志摩に、「もういいよ」ともう一度口にしたとき。

「……君、齋藤君でしたっけ?」
「は、はい……!」

 いきなり寮長に名前を呼ばれ、ぎくりと体が強張る。
 余計なこと言ってしまったのだろうか、と青褪めた時、じゃらりと音を立て、目の前に現れる数本の鍵。

「あっ、あの……これ……」
「そうですね、これは必ず午前中までにここへ返して下さいね。僕がここにいる間ですよ。そうじゃないと、僕が怒られるので」
「いいんですか?」
「確かにそこの彼には遠慮願いたいのですが、君は初犯なので大サービスです。……本来なら僕も付き添わないといけないんですけどね、これから毎日見てるドラマが始まるのでここを離れられないんですよ」

「すみませんね」と、寮長は笑う。
 それは寮長としてどうなのかと思ったが、貸してもらえるなら有り難い。俺は慌てて頭を下げる。

「あ、ありがとうございます……えと……寮長……」
「志木村で結構ですよ、あまりその呼び方はしっくり来ないんで」
「し、志木村先輩……」

 名前を口にすれば、寮長、志木村はにこっと笑う。
 いい人、なのだろうか。
 いい人と形容するには若干抵抗あるが、それでも、よくしてもらえることに越したことはない。

「寮長ー、そういうの依怙贔屓なんじゃないんですか?いいんですか?先生に怒られません?」
「然るべき場所で然るべき態度を取ってるだけですよ、なんもやましいことなんてありませんし」

 俺たちのやり取りを見ていた志摩の野次にも屈するどころか躱す志木村から見て、志摩のような生徒の扱いにも慣れているように思えた。
 大人しそうなのに、なんというか、変わってる人だなぁ……。
 そんなこと思ってると、不意に志木村がこちらを振り返る。

「君、その鍵は一つしかないものなのでちゃんと無くさないようにしてくださいね。それと、悪用は禁止ですよ」
「は、はい!」

 慌てて鍵をポケットに仕舞う。
 それを見て志木村は「そうです、それがいい」と満足げだが対する志摩は「よく言うよ」と鼻で一笑する。志木村はそれを無視して続けた。

「それとそこの彼や、悪い先輩たちに何言われても貸しちゃ駄目ですよ」
「悪い、先輩……?」

 口にして、ハッとする。
 もしかして縁が外にいるのに気付いてるのだろうか。志木村はそれ以上何も言わなかったが、俺が「分かりました」と頷けば満足げに目を細めて笑った。

 任務遂行。紛失届を志木村に渡した俺は時間制限付きで合鍵を借りることになった。
 志木村にお礼を言って、部屋を出ていこうとしたとき。

「ああ、そうだ志摩君、ちょっといいですか」

 志木村は志摩を呼び止める。少し不満そうな顔をした志摩だが、渋々中へと戻っていく。

「なんですか。早くしてくださいよ」
「……」
「齋藤、外で待ってて」

 固まってると、志摩に命じられる。俺は頷き返し、縁が待つ通路へと出る。
 なんの話だろうか。気になったが、ああ言われてしまった手前従いざるを得ない。
 携帯端末を弄っていた縁は、俺に気付くなりそれをしまい、こちらへと手をあげる。

「遅かったね。……って、おっ、借りれたんだ合鍵」
「あの……寮長……志木村先輩に、午前中の間だけなら良いって渡されました」
「ふーん、亮太の入れ知恵か。けど、珍しいな、あいつももう懲りたと思ったんだけど……亮太は?」
「先輩と何か話してるみたいです」
「志木村と?」

 縁の口振りからして、志木村が合鍵を出し渋っていた理由を知ってるのかもしれない。
 けれど、志摩が志木村と残っているということを伝えた時、縁の顔が微かに険しくなったことに気付く。それも束の間、不安が顔に出ていたのだろうか。俺の頭を撫でた縁はにこりと笑う。

「ま、大丈夫だよ。そんな心配しなくても。どうせ、またなんか吹き込まれてるだけだろうし」
「志木村先輩って……その、志摩と仲いいんですか?」
「亮太?なんでそう思うの?」
「えっと、志摩と喋れる人って……あんまいない気がするので……」
「あー、まあ、そうだね。けどあいつの場合は、なんていうか……志木村は亮太の兄貴の後輩だよ」
「えっ?志摩のお兄さん?」
「そ、俺と同い年。体ぶっ壊して今はどっかで入院してて、停学扱いになってんの。……あれ?その反応、もしかして初耳だったの?」
「あっ……はい、その……」
「あー、なら言わなきゃ良かった?ま、たしかに亮太のやつ、言わなそうだしな。……んじゃ、聞かなかったことにしといて」

 そう悪びれるわけでもなくヘラヘラと笑いながら縁は続ける。聞かなかったことになんてできるわけないだろう。
 けれど、転校当時志摩が少し話した気がする。入院中の兄。あの時は志摩は「嘘だよ」だと笑っていたが、本当だったのか。
 なんだか聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。
 けど、志摩のお兄さんか……。

「ったく、遅いな……齋藤君、先戻っとくか」
「えっ、あ、あの……」

 痺れを切らした縁に、手を掴まれる。そのまま「いいからいいから」とその場から連れ出されそうになったときだった。
 管理室の扉が開き、志摩が戻ってきた。

「あ……し、志摩……」

 舌打ちする縁。なんとか縁から離れた俺は、志摩の元へ歩み寄る。志摩は、険しい顔をしていた。
 俺の声が聞こえてないのだろうか。「志摩」ともう一度名前を呼んだ時、ようやく志摩はこちらを見た。そして。

「……うん?何?」
「何っていうわけじゃないけど……あの、どうしたの?」
「別に、大したことはないよ。……早く行こう、この時間帯なら壱畝遥香もいないだろうし部屋に入れるよ」
「う……うん」

 志摩は、そう言って歩き出す。いつもと変わらない態度だが、それでも、違和感が拭えなかった。
 志木村と何の話をしていたのだろうか。自分の兄の後輩と。
 何か、あったのだろうか。気になったが、それ以上聞けそうな雰囲気ではなかった。縁は何も言わずに俺の隣を歩く。

 俺達は学生寮三階へと向かった。


 ――三階、自室前。

「荷物取ってくるんだろ?俺も一緒に行くよ」
「いえ、大丈夫です。……そこまで迷惑は掛けられないので……」
「迷惑だなんてまさか、俺は齋藤君の役に立てればそれで本望なんだって」

 どこまでが本当なのだろうか。分からないが、正直、ほっとする自分がいた。
 この時間帯、壱畝がいないと分かっていても一人で部屋に入るのには勇気がいる。

「亮太、お前はどうする?」
「……俺は、ここで待ってます」
「え?」

 俺は、志摩のその言葉に驚いた。
 だってそうだ、我先にと着いてくるだろうと思っていただけに志摩の態度は予想すらしてなかった。それは縁も同じのようだ。「ちょっと、電話するんで」と志摩は言ってたが、何か感じ取ったのだろう、縁は「なら、俺達だけで行こうか」と俺の肩を叩いてきた。

 志木村と話してから、志摩の様子がおかしい。どこに電話するのだろうか、気になったが、縁に急かされ俺は合鍵を使って自室の扉を開く。

 部屋の中は片付いていた。静まり返った空間の中。カーテンを締め切ったままの部屋の中は薄暗く、どこかどんよりした空気が籠もっているように感じた。

「齋藤君の匂いがするね」
「そ……そうですか?」
「けど、ちょっと空気換気しないと。具合悪くなっちゃいそうだね」

 言いながら、窓へと向って歩いていく縁はまるで自分の部屋か何かみたいにカーテンを開き、窓を大きく開いた。瞬間、ひやりとした風が頬を撫でて抜けていく。

「いいね、ここ日当たりいいじゃん。俺もここに齋藤君と一緒に住んじゃおうかな」
「え……ええと……」
「あ、迷ってくれてる?やった、少しは俺のこと受け入れてくれたんだね。嬉しいなぁ」

 どこまでが冗談なのか分からない縁に戸惑ってると、距離を詰めてきた縁に手を取られる。
「あ、あの」と慌てて手を離そうとするが、縁の指に絡め取られた掌はちょっとやそっとじゃ離れない。

「せ、先輩……」
「齋藤君、顔色悪いね」
「……えっ?」
「ここ、嫌な思い出でもあるの?」

 そんなに、酷い顔をしていたのだろうか。図星を指され、言葉に詰まる。
 真っ直ぐに覗き込んでくるその目に胸の奥まで見られてしまいそうで、怖くなって、俺は縁の胸を押し返し、離れた。
 縁は「おっと」と驚いたような顔をして、それからすぐ、申し訳なさそうな顔をする。

「ごめんね、嫌な思いさせるつもりじゃなかったんだけど……君が随分と何かに怯てるみたいだったから、気になって」
「……すみません、あの、なんでもないんで……」
「そう、分かった。ごめんね、変なこと言っちゃって。俺、無神経ってよく言われるんだよね、図々しいとか」

「君といるときは気をつけてたつもりなんだけどな」と、縁は「弱ったな」とも言った。
 そこまで落ち込まれるとこちらとしても忍びないが、正直、これ以上ここにいたくないというのが本音だ。
 俺は、目的のクローゼットを開く。
 クローゼットの中は、全て最後に見たときと同じままだった。何一つ乱れていなければ無くなっていることもなく、ましてやボロボロに切り裂かれているわけでもない。
 俺はそれが意外だった。壱畝のことだから全て燃やされていても仕方ないと覚悟していただけに、余計。
 中の服を見てると、縁が覗き込んできた

「これ全部?随分と少ないんだね」
「元々、あまり持ってきてはなかったので……」
「下着はあっちのタンス?」
「あっ、あの、大丈夫です、自分でやるんで……」
「いいっていいって、遠慮しないで」

 別に遠慮というわけではないのだが、今更下着を見られたくらいでという気もするがやはり自分の下着だ。他人にそこまでしてもらうわけにもいかない。俺は「じゃあ、あの、縁先輩この服袋に詰めてもらっていいですか」と慌てて縁を呼び止める。

 タンスの中も全部、そのままになってた。勉強机の上に出しっぱなしになってた参考書も、触られた形跡もない。これなら、壱畝もクローゼットとタンスが空になってても気付かないだろう。
 そうは思うが、バレてしまったときのことを考えるとやはり気が気でないのが本音だ。
 こうしてる間にも壱畝が部屋に戻ってきたらとか、そんな悪いことばかり考えては気が急いてしまう。早くこの部屋を立ち去りたい一心で荷物を纏めた。

 全て纏め終わって一息ついたとき、「こっちも終わったよ」と縁は大きく膨らんだ袋を掲げて見せてくる。

「ありがとうございます。あの、助かりました」
「構わないよこれくらい。それに、なんだかこれから一緒に暮らしていくって感じがして嬉しいし」
「……」

 縁の言葉に、改めて、俺は自分の立場を考える。
 そういうことになるのか。深く考えないようにと目を逸らしてきていたが、縁の部屋に居候することになるという事実は変わらない。
 縁本人に許可を貰ったとはいえ、同室とも言えないこの奇妙な関係に言葉に迷う。

「どうしたの?もしかして、嫌になった?」
「あ、あの……その……そういうわけでは……」
「そう?なら良かった。けど、俺達の間に遠慮はなしだよ。せっかくなんだから仲良くしようよ」

「ね?」と目線を合わせてくる縁は微笑む。
 数回頷いて返せば、縁は返事の代わりに頬にキスを落としてくる。あまりにも自然な動作に抵抗する暇もなかった。
 呆然とするこちらを覗き込んで、いたずらに成功した子供みたいに笑った縁は今度は唇を重ねた。

「っ、せ、先輩……っ!」
「へえ、齋藤君も大きな声出せるんだね。今日一番元気いいね」
「……っ、な……!」 

 もしかして元気づけてくれたのだろうかと思いかけたが、他にも方法はあるはずだ。俺は唇を拭い、慌てて縁から距離を取った。
 縁はそんな俺の反応すら面白そうに笑うばかりで、誂われてるのがわかったけど、そのお陰か壱畝への不安がいつの間にかに紛れていたことに気付いたのは部屋をあとにした頃だった。
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