天国か地獄

田原摩耶

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√β:ep. 4『日は沈む』

13※

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 窓すら見当たらない、締め切られた薄暗い部屋の中。一人がけのソファーに腰をかけた阿賀松は持て余した足を組みながらまるで手遊びするように手元のそれを手にしていた。それは、阿佐美が手にしている銃よりも銃身が長いハンドガンだ。なぜ、こんなものを持ってるのか。本来ならば早々持ち出せるものではない。実銃だとすれば許可が必要だ。でも、相手は阿賀松だ。俺は、まるで動くことができなかった。

「なんで俺が見晴らしのいい最上階でもなくこの部屋を選んだか、分かるか?」
「……防音完備の地下があるからだろ?」
「正解。じゃあなんで防音じゃなきゃなんねーんだろうなぁ?」

 阿賀松の掌、正しい位置に収まったその引き金に指がかかるのを見て、息を飲む。

「さあ?なんでだろうね」

 そう、縁が答えたときだった。部屋全体に響く破裂音に、ビリビリと痺れる空気。一瞬何が起きたのかわかなかった。気付けば、目の前の縁が膝をついて蹲るのだ。その足元にはぼたぼたと赤い血溜まりが広がっていくのを見て、凍り付く。

「お前の汚え声が響かねえようにだよ」

 太腿を抑えて呻く縁を見下ろしたまま、阿賀松は笑いもせず答えるのだ。その銃口は縁の鼻先に向けられたまま、外れない。
 殺される。縁も俺も、ここで死ぬ。逃げないと。逃げる?……この男からか?できるのか?……本当に?
 そう、視線を探る。出入り口の扉を塞ぐように立っていた阿佐美に気付く。阿佐美なら、阿佐美なら助けてくれるはずだ。このままでは、本当に縁が。

「詩織、っ、このまま縁、先輩が……っ」
「………………」
「……し、おり……ッ?」

 そう、腕を掴もうとして、振り払われる。
 阿佐美は俺の方を見ようともしなかった。瞬間、再び阿賀松は発砲した。阿賀松が狙ったのは縁の頭ではなく、俺の足元だった。あと少し阿佐美から離れていたら被弾していたその距離に綺麗に空いた穴に、息が止まった。

「――ッ、ひ、……」
「ぎゃあぎゃあうるせぇなあ、喚くなよ。お前もまた腹に風穴空けられたいのか?」
「……ッ、……ッ!」

 震えが止まらなかった。本物の銃だ。この男は人間を撃つことを躊躇しない。引き金を引くことを躊躇わない。震えのあまりガチガチと奥歯が鳴るのを口を覆って堪えるしかなかった。縁に駆け寄りたかった。先ほどよりも広がる血溜まりの中、青い顔をした縁は俺にだけ見えるようにアイコンタクトを送る。従え、というかのように伏せられるその目に、とにかく今は阿賀松を刺激しないことに務める他なかった。

「お前はこっちに来い。――ユウキ君」
「……っ!」
「さっさとしろ」

 心臓が、鳴り止まない。震えも、止まらない。息も儘ならず、縺れそうになりながら俺は阿賀松の元へと向かう。死刑執行を待つ死刑囚のように、一歩、また一歩と踏み出したとき。目の前、立ち上がった阿賀松と視線がぶつかった。そのとき、すぐ背後で発砲音と縁のくぐもった悲鳴が部屋に響いた。阿賀松がもう片方の腿も撃ち抜いたのだと気付いたときには、何も考えられなかった。

「っ、ぐ、ぅ……ッ!!」
「詩織、そいつ部屋に連れて行け」
「……わかった」

 阿佐美は顔色一つ変えなかった。ただ、生気のない声で応え、従う。腿を抑え、苦痛に喘ぐ縁を羽交い締めにするように抱えた阿佐美はそのまま縁を引きずるようにして奥の部屋へと引き摺っていくのだ。二人の出ていった後には引き摺られた血痕が残っていた。
 扉が閉まった瞬間、部屋の中に静寂が戻る。
 縁の悲鳴も、何も聞こえない。血の匂いだけがなまなましくこびりついていて。
 血のように赤い髪の下、冷めたその目はただじっと動けない俺を見下ろすのだ。恐怖のあまり全身の熱が抜け落ち、立っている感覚もなかった。

「……なあ、覚えてるか?」

 阿賀松の声が部屋の中に響く。
 伸びてきた手に腹部、着ていたスウェットごと託し上げられる。剥き出しになる胴体には傷口に菌が入らないための包帯が巻かれていて、それを見た阿賀松はすっと目を細めた。

「次、余計な真似したら麻酔なしで犯してやるってあれ、優しすぎねえか?」
「ぅ、……っ、ぐ、……ッ!」

 包帯に触れた阿賀松は長い指先で雑に包帯を解いていくのだ。まるで引き千切る勢いで剥がされ、抵抗する暇もなかった。包帯の下から現れたまだ生々しいその二箇所の刺し傷に凍りついた。俺でも、まだ直視できなかった。必死にくっつこうとしているのだろう、不自然に盛り上がったその傷跡に阿賀松の指が触れた。そのまま傷口をなぞられれば、このまま突き破られるのではないかという緊張で頭の中が真っ白になっていく。

「ここに来て、亮太を探して、警察にでも俺を付き出すつもりだったのか?」
「っ、……」
「答えろ」

 擦れるような金属音とともに、鼻先に拳銃を突き付けられる。縁の足を撃ち抜いた拳銃だ。まだ熱を持ったそれをごり、と額に押し付けられる。熱い、という感覚よりも、この引き金を引かれた瞬間自分の頭が吹き飛ぶ。その事実に、まともに思考することもできなかった。俺はただ何度も頷くことしかできない。喉から声が出なかった。

「ははっ、正直者だなぁ?嫌いじゃねえよ。けどなぁ……テメェの犬に噛まれんのは我慢ならねーんだわ、俺」
「っ、ご、めんなさ……ッごめんなさい、ごめんなさ……ッ」

 小さい子を叱りつけるような声だった。長身を僅かに屈め、俺に視線を合わせる阿賀松はそうコツコツと銃身で頭蓋骨を軽く叩くのだ。ごめんなさい、ごめんなさい。ごめんなさい。何度も謝罪した、舌も縺れ、ちゃんと言葉になっているのかすらわからない。けれど、阿賀松は嗜虐的な色を滲ませ俺を見下ろしていた。そして、顔に触れていた銃口はゆっくりと頬の輪郭を確かめるように滑り落ち、そして俺の唇に触れる。

「しゃぶれよ、ユウキ君」

 唇の薄皮越し、銃の熱が押し付けられる。
 この男がおかしいことなど、とうに知っていたはずなのに。

「それとも頬にでっけえピアス穴でも開けるか?」

 むに、と唇を割り開いて入ってこようとする銃口が歯にぶつかる。これは、罰なのだ。なんの。裕斗を傷つけた。阿賀松を裏切った。芳川会長を助けられなかった。縁に唆された。阿佐美を信じれなかった。……全部、俺のせいだというのか。
 俺を殺すための道具を愛撫しろという。熱もない、射精もしないそれを。それが何を意味するのか考えたくもなかった。俺は、俺には、阿賀松に従うことしか残されていなかった。口を開き、銃口を咥える。恐怖を通り越して急激に冷めていく体内、今になって火傷するほどの熱を感じたが、この痛みから逃れることは許されない。
 これは、罰だ。そう言い聞かせることでしか、自己を励ますこともできなかったのだ。

「っ、ふ、ぐ……ぅ……ッ!」
「ポーズだけじゃねえ、ちゃんと舌も銃身に這わせろよ」

「俺のもんだと思って根本までしっかりな」唇を抉じ開けるように喉奥まで突き立てられるそれに息を飲む。
 もし、このまま阿賀松が引き金を引けば顎ごと吹き飛ぶだろう。自分の頭部が四散する姿を想像し、まるで生きた心地がしなかった。
 ――死にたくない。こんなところで、死にたくない。

「……っ、ぅ、……ッ」

 粘膜が焼けるような熱を感じながら、吐き気を堪えてその銃身に舌を這わせる。光沢のある銃身はコーティングされているとはいえ鉛そのものだ。なにも、楽しくない。阿賀松だって気持ちいいわけではないはずなのに、この男は喜んでるのだ。自分の息の根を止めるかもしれない凶器に無心でしゃぶりつく俺を見て、見下したような目で笑うのだ。そして、息を漏らす。

「美味そうにしゃぶるなぁ、お前。そんなに美味いか?」
「っ、……っふ、ぅ゛……ぉ……ッ」
「おいおい、うまいかどうかを聞いてんだよ、俺は。答えろよ」

 ごり、と内側から頬の裏側に銃口を押し付けられる。痛みよりも、銃の形が浮かび上がる己の頬を見て血の気が引いた。そして、阿賀松の長い指が引き金にかかろうとしたとき、下半身がびくりと跳ねた。

「っ、お、いひ……れひゅ……っ」

 そして、俺は銃を頬張ったまま慌てて阿賀松に答えたのだ。
 こちらを見下ろしていたやつは楽しげに声を上げて笑った。細められる目、やつの唇には歪な笑みが浮かぶ。

「まあそうだろうな。太さと長さには申し分ないだろうし、たっぷり可愛がってくれよ?……ユウキ君」

 良かった。やつの気に召したようだ。そう安堵するのも束の間。いきなり喉奥まで銃口を咥えさせられる。口蓋を掠める銃口に吐き気を催す。それ以上に、まるで実際にフェラチオさせているかのように俺の後頭部を掴んで喉奥に銃口を突きつける阿賀松に血の気が引いた。

「っ、ん゛ぉ゛ぶ……ッ!」

 痛い、苦しい、というよりも、怖かった。引き金を惹かれれば、避けることすらもできない。突き付けられたのは逃れられない死の恐怖だ。固まる俺を見て阿賀松は表情から笑みを消した。

「――……本当、お前、そんなんでよく俺に楯突こうと思えたな」

 口の中、開きっぱなしの口内にはじわりと唾液が溜まり、それは唇を伝ってぽたりと落ちていく。
 それを拭うことすら許されない、そんな空気が流れる部屋の中、阿賀松の声だけが確かに鮮明だった。

「それとも、わざとか?……俺にこうされたくてわざと人の言うことと逆のことしてんのか?」
「っ、ひ、は……ッ」
「なあ、ユウキ君」

 違います、と震える声で答えようとしたときだった。なけなしの力で必死に首を横に振る俺を見て、阿賀松は興味が失せたように俺の口から銃口を引き抜くのだ。
 そして。

「――下、脱げよ」

「早くしろ」と、どろりと己の唾液で濡れた銃口を頬に擦り付けられる。奥歯がガチガチと重なる。
 拒否権などなかった。
 顔から流れ落ちるのが汗なのか唾液なのかそれとも涙なのかもわからない。少しでも阿賀松の機嫌を損ねてしまえば頭ごと吹き飛ばされかねない。それだけは確かだった。

「……ッ、ふ、……ッ」

 これから自分が何をされるか、そんなこと考えたくもなかった。
 けれど、逆らってしまえばそれまでだ。
 ろくに力が入らない指で、もたもたとベルトを緩める。前を寛げ、阿賀松に言われた通りスラックスを脱ぐ。恐る恐る阿賀松を盗み見たとき、冷めた目でやつがこっちをじっと見てることに気づいた。
 早くしろ、というかのように銃の先で頬を叩かれる。下着も脱げということなのか。恥じらってる場合ではなかった。それでも、躊躇いそうになるのをぐっと堪え、下着をゆっくりと脱いでいく。あまりの恐怖に顔を上げて阿賀松の反応を伺うこともできなかった。
 そしてやつは恐怖のあまり縮こまった性器を見て鼻で笑うのだ。

「……っ、ふ……っ、ぅ……」
「机の上に座れ。俺に見えるようによぉく脚を広げてな」
「……っ、は、い……」

 阿佐美がいつ戻ってくるかもわからない。そんな状況にも関わらずこの不毛な行為を続けようとする阿賀松が正気と思えなかった。
 それでも恐怖心がただ俺を突き動かす。従わなければ殺される。血の匂いが充満した部屋の中、
 阿賀松に言われるがままその大きな机の上に座る。

「っ、ふ、ぅ……」

 腰をかけたところで腹部が焼けるように痛んだ。慣れない動きに傷口が開いてしまったのだろう、じぐじぐと疼くような痛みに涙が滲む。
 それでも、逆らうことはできない。
 俺は阿賀松に言われた通り、膝の頭を掴んで股を開いた。下腹部を隠すものは一枚もない。向けられた阿賀松の目に心臓の音が加速する。……どこまで見えてるのか、考えたくもなかった。

「……可哀想に、縮み込んでんじゃねえか」

 そして、俺の前に立った阿賀松は更に大きく脚を開かさせてくる。
 そして、そのまま萎えた俺の性器を指で弾いた。瞬間、電流のような痛みが走り堪らず仰け反った。歯を食いしばり、声を殺す俺に阿賀松は更に楽しそうに笑うのだ。

「裕斗にたっぷり可愛がってもらったんだろ?なら、一々慣らす必要もねえか」

 なんて、恐ろしいことを言い出す阿賀松にぎょっとした。……そのときだった。やつは大きく開いた俺の股、その奥に銃口を突きつけるのだ。指でもないその硬さに驚き、自分の下腹部に目を向けた。そして、今まさに肛門を押し広げるように先端を埋めてくる拳銃に慄いた。

「ぁ、う、そ……ッ!」
「動くなよ、うっかり撃つかもしれねえだろ。それともそれをご所望か?」
「っ、ひ、ぅ、ぎ……ッ!」

 唾液を絡めさせぬらぬらと怪しく濡れる黒のそれを力任せに捩じ込まれた瞬間。ずぷ、と肉の中に埋め込まれるその硬い異物に息を飲む。硬く閉じた肛門を無理矢理押し広げるように力任せに捩じ込まれる。腹部の裏側、傷口が焼けるように熱くなった。

「っ、ご、めんなさ、っ、ごめんなさい……ッ!ぬ、いて……っ、くださ……」
「あ?聞こえねえなあ?」
「ぃ゛ッ、ぎ……!っ、ひ……ッ!」

 腹の中を硬い銃口で掻き回されるだけでどうにかなりそうだった。快感もクソもない、悪趣味なお遊びだ。恥ずかしい姿で痛め付け、屈辱と恐怖を植え付けるためだけの行為だ。堪えろ。この男が飽きるまで。そうすれば解放される。そう思うことでしか保てなかった。奥歯を噛み締め、ただ痛みを堪えた。

「っぐ、ぅ……ッ」

 焼けるように腹部が熱い。表面の傷か、それとも内部が傷ついたのか自分にはもうわからなかったがそれでも金属は俺の体温を奪い、馴染んでいく。痛みにも慣れ、ただ圧倒的な異物感といつ発砲するかわからないこの状況の中声を押し殺し、ただじっと耐えていたとき。

「飽きた」

 腹の中、深く挿入されていたそれを引き抜いた阿賀松はそう言って銃をテーブルの上に置く。混乱する頭の中、視線で置かれたはずの銃を探そうとしたときだ。ジッパーを下ろす音が聞こえてくる。

「っ、待」
「待たねえよ」

「俺は、約束を守る男だからな」なんて、全く面白くもない冗談を口にする阿賀松はそのまま俺の腰を捕まえ、笑うのだ。恐怖で硬く閉じようとする脚を開脚させられたまま、そこに押し当てられる亀頭の感触に俺は青褪めた。


 拷問のような時間が続いた。
 傷口が開いたのか、またナイフで刺されるような激痛に意識が飛びそうになる。痛みから逃れようとする体を無理矢理机に抑えつけられ、奥まで性器を捩じ込まれれば口から内臓が飛び出しそうなほどの激痛に堪らず悲鳴が漏れる。快感なんてい、この男にとって性行為は人を苦しめるための手段なのだろう。

「はぁ、っ、ぐ、ぅう……ッ!
「っハ……すげえ熱いな、お前の中。もっと締め付けろよ、死ぬ気でな」

 何が面白いのかわからない、気持ちいいと感じる神経も理解できない。けど、やつが興奮してるということは嫌でもわかった。脈打つ鼓動その間隔が短くなっていく。もう感覚もなかった。あるのは痛みだけだ。テーブルの端、血で汚れた銃を見つけた。アレを手に取り、目の前の男に向けることができれば。そんな白昼夢を見ることで現実逃避するしかない。
 濃厚になる血の匂い。指先を動かすことすらままならない。ただ受け入れ、堪えることが精一杯だった。俺は気絶していたらしい。腹を思いっきり殴られ、腹部を大きな杭で打ち抜かれるような激痛に飛び上がる。

「ぅ゛ッ、ぅぐ、ぅ、あ゛ぁッ!」
「おい、誰が寝ていいって言った?」
「っ、ぅ゛、う゛ぅ……ッ!」

 ……訂正しよう、これは拷問である。
 意識が飛べば、阿賀松に殴られて叩き起こされた。出血と痛みで意識は朦朧としていた。血の匂いが増す。阿賀松の拳も赤く濡れていた。俺の、腹部も、傷口は赤く滲んでいた。酸素が薄くなる。下半身の感覚は最早なかった。中に入ってるという異物感と、痛みだけが襲いかかってくる。

「……よかったなぁ、お前は、その顔に産んでくれたご両親に感謝しろよ」

 阿賀松が何を言ってるかもわからない。音が遠いのに、阿賀松の声だけはやけに近くて、自分がどこにいるのかもわからない。意識が試算する。
 力を入れることすらできない下腹部にどろりとしたものが吐き出されるのをただ感じながら俺は思考を放棄した。

 生きてるのか死んでるのか、本当は既に俺は死んでいて今俺がみているものは全部幻覚ではないのだろうか。そんな風に考えることしかできなかった。
 阿賀松は満足するまで俺を犯した。俺が逃げも抵抗もしないと「つまんねえな」とだけ吐き捨て、そのまま引き抜いたのだ。体を起こすこともできなかった。机の上、仰向けになったまま動けない俺を他所に阿賀松は自分の服を整えるのだ。
 そんなとき、タイミングを見計らったかのように部屋の扉が開いた。見なくてもわかった、部屋に入ってきたのは阿佐美だった。
 阿佐美にこんな姿を見られたくない、という思考すらなかった。起き上がって体を隠す気力もない。そんな俺に目もくれず、阿佐美は阿賀松に声をかけるのだ。

「伊織、方人さんどうするの」
「あいつは血抜きしねえと駄目だからな、放っとけ」
「わかった」
「それと……詩織ちゃん。そこ、片付けといて」

 それ、というのがなんなのか、俺にはわからなかった。けど、多分この部屋で一番邪魔なものは俺だろう。阿賀松はそれだけを言うとそのまま部屋を出ていこうとする。
 阿佐美は「わかった」とだけ応えた。その声も阿賀松に届いていたかはわからない。扉が閉まる。
 阿賀松がいなくなり、精液と血の匂いが籠もったこの部屋に静寂が戻った。

 阿佐美は、俺の側にやってくる。
 俺の意識があるのを確認すると、阿佐美は「だから言ったのに」と小さく吐き捨てた。

「……ゆうき君、……どうして俺のことを信じてくれなかったの?」
「………………」

 悲しそうな声。俺が傷つけたのだ。わかっていた。そっと体を起こされる。腹部に走る激痛に呻いたとき、阿佐美は「ごめん」と口にした。

「……苦しいだろうけど、我慢して。……ああなった伊織は、俺にもどうしようもできないから」
「……っ、し、おり……」
「だから、言ったのに」

 自分を信じて。大丈夫だから今は大人しくここにいて。そう阿佐美は何度も俺に釘を刺した。
 その上で、俺は阿佐美を裏切ったのだ。
 阿佐美からして見れば自業自得もいいところだろう。それでも、阿佐美は俺の血を拭ってくれた。傷口にバイ菌が入らないようにと簡単な止血と手当をしてくれたのだ。

「詩織、ごめ……っ、ごめんなさい……」
「悪いのは唆した方人さんだよ。……けど、伊織はそう思わない」
「……っ、……」
「……ゆうき君、今俺に出来るのはこれくらいだ。悪いけど、これ以上はゆうき君を助けてあげられない」

 詩織、という声は言葉にならなかった。

「……これ以上伊織に逆らわないで。俺は、ゆうき君を苦しめたくない」

 俺から手を離した阿佐美はそう言う。
 その言葉がどういう意味なのか理解できなかった。したくなかった。
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