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√β:ep. 4『日は沈む』
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考えを纏め、その内容を裕斗に伝える。
裕斗の表情は硬い。
「……齋藤、本気で言ってるのか?」
問い掛けられ、俺は頷き返す。
とにかく今は阿佐美を止めるしかない。
今ならばまだ俺が死んだと伝えられたのは阿賀松だけだ。……学校や実家まで行くとそれこそ収拾が付かなくなる。
そうなる前になんとしてでも阿佐美に止める。
けれど俺には何もない。携帯も財布もなにもない。裕斗の体が万全ではない。
ならば、利用するものは利用する。
ここにいる間は確かに時間は有限だがそれを逆手に取る。
「はい……恐らく、これが一番油断させられると思うので」
「でも、気付かれるんじゃないか。いくらなんでも替え玉と入れ替わるなんて」
車のトランクの中、夢現で聞いた阿佐美の声は夢でも何でもない。阿賀松に電話で対し言ったのだ。俺にそっくりな人間を用意していると。
それで会長を、周りを欺くつもりなのだと。
「詩織が、俺の家族も騙せると思えるほど瓜二つだったら……不可能ではないと思います」
それに……元はといえば阿佐美に買われた他人だ。
こんな状況に巻き込むわけにもいけない、穏やかに過ごすべきなら今回の被害者である見知らぬ彼だろう。
阿佐美ならばきちんと安全も保証してくれるだろう。……それならば、と俺は裕斗に向き直る。
裕斗は心配なのだろう、首を縦に振ろうとしない。
「替え玉と入れ替わることの意味、分かってるのか?下手したらまた同じことになるかもしれない」
あの学園に戻ることが怖くないと言えば嘘になる。それでも、あの部屋に阿賀松と阿佐美の二人に閉じ込められているよりは遥かにマシだ――そう思えたのだ。
それに、勝算がないわけではない。
とにかく阿佐美と阿賀松、二人の連携を崩すのが必要になる。
それは恐らく阿佐美にとっては酷なことになるだろうが……それでも俺も阿佐美と同じだ、譲れないものがあるのだ。
無言で頷けば、裕斗は何かを考え込むように息を吐く。そして、くしゃりと俺の頭を撫でるのだ。
「お前の考えはわかった。けど、俺の方でも考えてみるよ。……まだ他に道があるんじゃないかって」
「っ、先輩……」
「……あまり長居するとあいつに怪しまれるからな、俺は病室に戻るよ」
離れる掌。そう行って、裕斗はベッドの側に立て掛けられていた杖を手にする。……腕を固定するタイプの杖だ。
「また会いに来る」
「……はい」
余程酷い顔をしていたのかもしれない。
もう一度肩を掴み、軽く額同士を擦り付けるように抱き締めてくる裕斗に内心緊張するがそれも一瞬。触れた手から伝わる震えに、広がる裕斗の熱に自分の心が凪いでいくのだ。
……俺だけではない。今は、裕斗がいる。そう思うことが今は何よりも力になった。
一人になった病室の中、俺はぼんやりと天井を見上げていた。
歩きづらそうな裕斗に部屋まで送ろうと提案したが断られた。
「もう元気だと思われたらすぐに整形させられるぞ、なるべく具合悪そうにしておけ」なんて笑えない裕斗の忠告を素直に聞き入れ、結局俺はベッドの上からただ裕斗を見送ったのだ。
目を閉じていても思考が溢れ出して止まらない。
阿佐美のことを恨むことができない自分が嫌だった。覚悟を決めなければならないとわかっている。阿佐美も腹を決めたのだ。だから俺に銃口を向けたのだから。……そう何度も言い聞かせるが、胸を締め付けるような痛みに耐えきれずに心臓を掻き毟る。
怖くない。けれど、希望がないわけではない。まだ光ですらない本当に微かなものだが、それでもあの部屋から出られただけでも、こうして生きていることだけでも俺にとっては奇跡のようなものだった。
ここからが正念場だ。
ずくん、と腹の傷に鈍い痛みが走る。次第に熱を持ち出すが、以前のようにただの苦痛ではなかった。
生きてるのだ、俺は。死んでもいいと思っていたのに、おかしな話だ。今となっては生きて元の場所に帰ることを望んでいる。
裕斗は阿賀松を告訴すると言っていた。
俺はどうしたいのかと考える。……阿賀松はきっと俺を許さない。あの男と和解することは不可能だろう。ならば、裕斗の言う通り然るべき罰を受けてもらう?
それこそ一筋縄ではいかないだろう、裕斗の言う最終手段を使わない限り。
……縁と志摩はどこにいるのだろうか。
あの二人を見つけることが出来ればまた大きいだろう。元はといえば縁も阿賀松を捕まえるつもりだったのだ。協力を頼めばもしかしたら、とも思ったが……。
裕斗の顔が過る。あの二人のことを考えるのはあとにしよう。けれど、裕斗が危険を侵さずとも場合によってはあの二人の存在が状況証拠になるのだ。
あくまでも希望的観測だ。最悪の場合も考えていないわけではない。
相手は顔色変えずに自分の知人の足を撃ち抜くような男だ、今の今まで二人の姿すら見ていないことが不安だった。
……このことも含めて、それとなく阿佐美に聞けることは聞いておいた方がいいかもしれない。
替え玉と入れ替わるまでの間、恐らくそれまでが阿佐美とちゃんと話せることが許される期間になるだろう。
目を瞑り、少し休もうとするが目を閉じていても裕斗との再会、そしてこれからのことで頭がいっぱいになって神経が昂ぶっているらしい。ちっとも眠気は来なかった。
鈍痛にも慣れ始めた頃、病室の外で足音が近付いてくる。……杖を突く音はない、裕斗ではないだろう。そしてこのやや踵を引き摺るような足音には聞き覚えがあった。
静かに開かれる扉、現れたそいつに俺はゆっくりと目を開いた。
「……詩織」
「ごめん、起こしちゃったね」
「具合はどう?ゆうき君」控え目に、それでも普段と変わらない阿佐美がそこにいた。
以前の俺ならばその姿を見て、声を聞いて安堵していただろう。けれど今は、現れた阿佐美を見て全身に緊張が走った。
何から話せばいいのか、どんな顔をすればいいのかわからなかった。きっとそれは阿佐美も同じなのだろう。扉を閉めた阿佐美はそのまま近づくわけでもなく、離れたところから俺を伺っていた。
「裕斗君に会ったんだよね。本当に、二人には悪いことをしたと思っているよ」
ごめん、と深く腰を折り、頭を下げる阿佐美に俺は一瞬反応に遅れた。
なんで、謝るのだ。……俺を殺すと言った口で、ごめんと謝るのだ。まるで阿佐美の思考が読めずに言葉が出てこない。それを怒りと受け取ったのか、頭を上げた阿佐美、その乱れた前髪の下の目が泳ぐ。
「分かってる、自分勝手な子としてるって。ゆうき君には悪いことしてるって」
「……っ、じゃあ……なんで……」
つい感情に任せて言い返しそうになってしまい、言葉を飲んだ。阿佐美からの返答は聞いていた。……阿佐美は俺のため――阿賀松の尊厳を傷つけない方法を選んだのだ。そうすることしかできないから。
前回の相容れない、平行線のやり取りを思い出す。流石に病室で凶器を持ち出すことはしないが、それでも二人きりの今、態度には気をつけなければならない。
それに俺は、手術予定までの期間で阿佐美を騙さなければならない。
こんなことで感情的になっては追々不審がられる。それでも、阿佐美は反論しかけた俺に腹を立てたわけではないようだ。寧ろばつが悪そうに俯き、落ち着かない様子で腕を掻き毟るように抱くのだ。
「ごめん、ゆうき君。……君のためなんだ」
きっと、阿佐美はずっとこういうのだろう。
最後まで、そう。
わかっていた。だから俺は何も言えなかった。
阿佐美も被害者なのだ。そう思えると哀れにすら見えてくる。
そして俺はそんな阿佐美を利用するのだ。
心を殺す。必死に抑え込む。考えるな、余計なことを。心を鬼にするんだ。相手はただの一般人ではない。
「……わかったよ」
そう口にした瞬間、ぴくりと阿佐美の肩が震えた。項垂れていた顔を上げた阿佐美、長い髪の間、見開かれた目がこちらを見るのだ。
まるで信じられないものでも見るかのような目で。
「詩織の言う通りにする」
この場合、こうするしかない。懐に潜り込む方が手っ取り早いのだ。
きっと阿佐美は手放しで喜ぶだろう。そう思っていた。けれど、阿佐美の反応は俺の早々とは違った。
「っ、ありがとう……ゆうき君……」
ごめんなさい、と聞こえないはずの声が聞こえた。顔を掌で覆ったまま項垂れた阿佐美の声は震え、涙が混ざっているようだった。
ああ、と思った。感じるな、殺せ。感傷に浸るな、殺せ。相手は化物だ、情に流されるな。ザクザクと突き刺さる見えないナイフを避けることもできなかった。
俺は、これからもっとこの人を、阿佐美を傷付けるのだ。
……人でなしはどちらなのか。化物は誰なのか。
考えるな。
俺は目を瞑り、阿佐美から視線を反らした。
鼻を啜る音が響く部屋の中、一つ、また一つと自分の中の大切な何かが音を立てて崩れていくのだ。
いっそのこと心の底から憎むことができればまた違ったのだろう。
「ゆうき君、怪我の具合はどう?」
「ちょっと、悪化してるみたい」
「本当だ、熱も上がってきている。薬を用意してもらっておくね」
触れる掌、ヤケに阿佐美の掌が冷たい。もしかしたら裕斗よりもずっと。
体調不良の真似をして入院を長引かせ時間稼ぎをした方がいいという話は裕斗としていた。
けど、演技などしなくても体調は俺が思っているよりも優れないようだ。
立ち上がろうとする阿佐美の腕を掴む。
「待って」と声を掛ければ、阿佐美がこちらを振り返る。前髪の下、二つの目がこちらを見下ろす。
「ここの病院は、阿賀松先輩には……」
何を聞こうかと思ったが、取り敢えず当然の疑問を尋ねてみる。阿佐美はそんなことか、とどこかホッとした様子で頷いた。
「ここは大丈夫だよ。確かに伊織の息はかかってるけど……ゆうき君じゃなくて別の人が今入院してることになっているから」
あ、と思った。阿佐美がこんな風に失言するのは珍しい。それとも俺のことを信用して話してくれているのか。恐らく、例の替え玉が関わっているのだろう。
それでも敢えて知らない顔して尋ねる。
「……別の人?そんなことできるの?」
「できないことはないよ。……けど、これ以上はゆうき君は知らなくていいことだから」
それじゃあ、と逃げるように立ち上がる阿佐美を引き止めた。腰を浮かそうとすれば鈍い痛みが走り、堪らず呻けば慌てた阿佐美が「ゆうき君っ」と俺を抱き留めようとする。
……来た。目の前に近付く詩織の腕をそのまま掴めば自然と顔が近付いた。
「っ、ゆうき君……?」
「……詩織、それは……電話で阿賀松先輩と話してた人と関係あるの?」
これは賭けだった。
そう、阿佐美にだけ聞こえる声量で尋ねたときだ。長い前髪の隙間から覗くその目が見開かれる。
薄く開いたその唇が微かに震えるのを俺は見逃さなかった。
「……どこまで聞いていたの?」
感情を押し殺そうとしている。けれど、俺は知っている。阿佐美がこうしてトーンを落とすときは何かを隠そうとしているときだ。
「わからない。けど、夢現で聞こえてきたんだ。……俺を死んだことにするって」
「別人を用意してるって」事実にしてはあやふやで、それでも現実にしてはあまりにも生々しい。
最後の切り札するには危険な橋すぎる、だから試したつもりだったが……阿佐美の反応からしてその真偽は一目瞭然だ。
阿佐美は固唾を飲む。そして、俺の腕を振り払おうとするがそれでも俺は手を離さなかった。
「ゆうき君……」
「詩織、俺はもう逃げない。だから、説明してほしい」
「自分のことなのに全部詩織に任せるのが嫌なんだ」それは嘘ではない。……目指そうとしているところは違うが、それでも自分のことだ。俺にも知る必要がある。そう阿佐美の説得を試みるが、阿佐美は俺の視線から逃げるように俯くのだ。
「……ごめん、言えない」
「なんで……」
「ごめん」としか言わない阿佐美に、「詩織」と呼び掛けるが阿佐美は目を伏せたまま俺の目を見ようとしない。――拒絶だ。
「嫌ってくれていいよ。……俺のこと信じなくていいから」
「そんなの」
勝手だ、と言いかけて言葉を飲んだ。
それはきっと俺も同じだ。……そしてわかるのだ、阿佐美は全部自分の責任にするつもりだ。俺に心労を掛けないよう、余計なことを考えさせないよう、全てを自分で被る気なのだ。
やり方は強引だが、それでも阿佐美の気持ちが分かってしまうとただひたすらに苦しい。けれど、それに甘んじてしまえば全ておしまいだ。それだけは駄目だった。
「俺はこれ以上詩織のこと……疑いたくない。信じたい、と思ってる」
「……ごめん、それでもやっぱり……」
言えない、と阿佐美が答えるよりも先に俺は阿佐美の手のひらに自分の手を重ねた。手のひらの下、阿佐美の大きな手がびくりと跳ねるのを見た。
ゆうき君、と阿佐美の視線が大きくぶれる。
阿佐美を信用させなければ、口を割ることができなければ恐らくこの先は難しい。
多少強引だとわかってても、手段を選んでる余裕などなかった。
「ゆうき君……っ、待って」
「……なんで、詩織は俺のことを阿賀松先輩から助けてくれたの?」
「それは……っ」
逃げようとする手を握り締める。
阿佐美の目を逸らさせないように真正面から覗き込む。責めるような言い方にならないように、あくまでも優しく問い掛ければ阿佐美の目は行き場を失ったように俺を見た。そしてすぐに逸らされ、またこちらを捉える。……手のひら越し、阿佐美の体温が先程よりも僅かに上昇しているのがわかった。
「見て、られないから……」
「見たくなかった、ゆうき君が傷付くのを」阿佐美の心は今、恐らく雁字搦めになっているのだろう。阿賀松を裏切ったことに対する罪悪感、そしてこれからのことに対する不安だ。
それを一つ一つ解すしかない。時間がかかってでも、それでもやらなければ。
「でも、詩織だって、阿賀松先輩に見付かったらただじゃ済まないはずだ」
「それは……わかってる、それでも……っ」
僅かに上擦る声。阿佐美の視線が今度は真正面から俺を捉えた。
一拍置いて息を飲んだ阿佐美はそのまま肺に溜まった空気を深く吐き出した。
「……それでも、怖かった」
どうしようもなく、怖かった。そう阿佐美は項垂れる。泣き出しそうな声。本心なのだ。そんな阿佐美を見て、ああ、と思った。
恐怖で追い詰められたとき、先が見えなくなったときの恐怖を俺は身を持って知ってる。
だからこそ、そんな阿佐美が酷く痛々しく思えたのだ。
そっと腕を伸ばし、阿佐美を抱き締める。
ぎこちない、下手くそな抱擁だった。それでも、俺は知っていたからそうするのだ。不安で心細くてどうしようもなかった俺を、裕斗は抱き締めて『大丈夫だ』と何度も背中を擦ってくれた。
だから、俺はそうするのだ。自分がされて助けられたように、阿佐美を抱き締める。腕の中、震える背中にそっと手を回し、撫でる。
「大丈夫だよ、俺は……詩織が助けてくれたから」
ちゃんと生きてる。腕を回そうとする度に腹部の縫い目が引っ張られ痛みが走ったが、それでも俺は阿佐美を強く抱き締めた。
今度はその腕は振り払われなかった。その代わり、恐る恐ると伸ばされた手が頬に触れる。
「詩織……」
「……俺は、馬鹿だから……こんな方法しかできない」
「でも、詩織が助けてくれなかったら俺はあの部屋から出られなかった」
それは大袈裟な例えではない。
あの部屋にいたとき恐ろしいほど死というものを鮮明に感じていた。
「ありがとう」と、頬の表面を撫でていた阿佐美の指にそっと手を重ねれば、阿佐美に抱き締められた。
一本、また一本と阿佐美の心を縛っていたものを解いていく。
そして新しい糸で縛り付けていくのだ。最初は細い一本の糸でいい。それを繰り返してる内にその糸が何重にもなるだろう。そのときにはきっと――……。
芳川会長のことを思い出す。会長も、俺と一緒にいたときはこんな気持ちだったのだろうか。そんなことを考えながら、俺は阿佐美の背中に手を回した。
裕斗の表情は硬い。
「……齋藤、本気で言ってるのか?」
問い掛けられ、俺は頷き返す。
とにかく今は阿佐美を止めるしかない。
今ならばまだ俺が死んだと伝えられたのは阿賀松だけだ。……学校や実家まで行くとそれこそ収拾が付かなくなる。
そうなる前になんとしてでも阿佐美に止める。
けれど俺には何もない。携帯も財布もなにもない。裕斗の体が万全ではない。
ならば、利用するものは利用する。
ここにいる間は確かに時間は有限だがそれを逆手に取る。
「はい……恐らく、これが一番油断させられると思うので」
「でも、気付かれるんじゃないか。いくらなんでも替え玉と入れ替わるなんて」
車のトランクの中、夢現で聞いた阿佐美の声は夢でも何でもない。阿賀松に電話で対し言ったのだ。俺にそっくりな人間を用意していると。
それで会長を、周りを欺くつもりなのだと。
「詩織が、俺の家族も騙せると思えるほど瓜二つだったら……不可能ではないと思います」
それに……元はといえば阿佐美に買われた他人だ。
こんな状況に巻き込むわけにもいけない、穏やかに過ごすべきなら今回の被害者である見知らぬ彼だろう。
阿佐美ならばきちんと安全も保証してくれるだろう。……それならば、と俺は裕斗に向き直る。
裕斗は心配なのだろう、首を縦に振ろうとしない。
「替え玉と入れ替わることの意味、分かってるのか?下手したらまた同じことになるかもしれない」
あの学園に戻ることが怖くないと言えば嘘になる。それでも、あの部屋に阿賀松と阿佐美の二人に閉じ込められているよりは遥かにマシだ――そう思えたのだ。
それに、勝算がないわけではない。
とにかく阿佐美と阿賀松、二人の連携を崩すのが必要になる。
それは恐らく阿佐美にとっては酷なことになるだろうが……それでも俺も阿佐美と同じだ、譲れないものがあるのだ。
無言で頷けば、裕斗は何かを考え込むように息を吐く。そして、くしゃりと俺の頭を撫でるのだ。
「お前の考えはわかった。けど、俺の方でも考えてみるよ。……まだ他に道があるんじゃないかって」
「っ、先輩……」
「……あまり長居するとあいつに怪しまれるからな、俺は病室に戻るよ」
離れる掌。そう行って、裕斗はベッドの側に立て掛けられていた杖を手にする。……腕を固定するタイプの杖だ。
「また会いに来る」
「……はい」
余程酷い顔をしていたのかもしれない。
もう一度肩を掴み、軽く額同士を擦り付けるように抱き締めてくる裕斗に内心緊張するがそれも一瞬。触れた手から伝わる震えに、広がる裕斗の熱に自分の心が凪いでいくのだ。
……俺だけではない。今は、裕斗がいる。そう思うことが今は何よりも力になった。
一人になった病室の中、俺はぼんやりと天井を見上げていた。
歩きづらそうな裕斗に部屋まで送ろうと提案したが断られた。
「もう元気だと思われたらすぐに整形させられるぞ、なるべく具合悪そうにしておけ」なんて笑えない裕斗の忠告を素直に聞き入れ、結局俺はベッドの上からただ裕斗を見送ったのだ。
目を閉じていても思考が溢れ出して止まらない。
阿佐美のことを恨むことができない自分が嫌だった。覚悟を決めなければならないとわかっている。阿佐美も腹を決めたのだ。だから俺に銃口を向けたのだから。……そう何度も言い聞かせるが、胸を締め付けるような痛みに耐えきれずに心臓を掻き毟る。
怖くない。けれど、希望がないわけではない。まだ光ですらない本当に微かなものだが、それでもあの部屋から出られただけでも、こうして生きていることだけでも俺にとっては奇跡のようなものだった。
ここからが正念場だ。
ずくん、と腹の傷に鈍い痛みが走る。次第に熱を持ち出すが、以前のようにただの苦痛ではなかった。
生きてるのだ、俺は。死んでもいいと思っていたのに、おかしな話だ。今となっては生きて元の場所に帰ることを望んでいる。
裕斗は阿賀松を告訴すると言っていた。
俺はどうしたいのかと考える。……阿賀松はきっと俺を許さない。あの男と和解することは不可能だろう。ならば、裕斗の言う通り然るべき罰を受けてもらう?
それこそ一筋縄ではいかないだろう、裕斗の言う最終手段を使わない限り。
……縁と志摩はどこにいるのだろうか。
あの二人を見つけることが出来ればまた大きいだろう。元はといえば縁も阿賀松を捕まえるつもりだったのだ。協力を頼めばもしかしたら、とも思ったが……。
裕斗の顔が過る。あの二人のことを考えるのはあとにしよう。けれど、裕斗が危険を侵さずとも場合によってはあの二人の存在が状況証拠になるのだ。
あくまでも希望的観測だ。最悪の場合も考えていないわけではない。
相手は顔色変えずに自分の知人の足を撃ち抜くような男だ、今の今まで二人の姿すら見ていないことが不安だった。
……このことも含めて、それとなく阿佐美に聞けることは聞いておいた方がいいかもしれない。
替え玉と入れ替わるまでの間、恐らくそれまでが阿佐美とちゃんと話せることが許される期間になるだろう。
目を瞑り、少し休もうとするが目を閉じていても裕斗との再会、そしてこれからのことで頭がいっぱいになって神経が昂ぶっているらしい。ちっとも眠気は来なかった。
鈍痛にも慣れ始めた頃、病室の外で足音が近付いてくる。……杖を突く音はない、裕斗ではないだろう。そしてこのやや踵を引き摺るような足音には聞き覚えがあった。
静かに開かれる扉、現れたそいつに俺はゆっくりと目を開いた。
「……詩織」
「ごめん、起こしちゃったね」
「具合はどう?ゆうき君」控え目に、それでも普段と変わらない阿佐美がそこにいた。
以前の俺ならばその姿を見て、声を聞いて安堵していただろう。けれど今は、現れた阿佐美を見て全身に緊張が走った。
何から話せばいいのか、どんな顔をすればいいのかわからなかった。きっとそれは阿佐美も同じなのだろう。扉を閉めた阿佐美はそのまま近づくわけでもなく、離れたところから俺を伺っていた。
「裕斗君に会ったんだよね。本当に、二人には悪いことをしたと思っているよ」
ごめん、と深く腰を折り、頭を下げる阿佐美に俺は一瞬反応に遅れた。
なんで、謝るのだ。……俺を殺すと言った口で、ごめんと謝るのだ。まるで阿佐美の思考が読めずに言葉が出てこない。それを怒りと受け取ったのか、頭を上げた阿佐美、その乱れた前髪の下の目が泳ぐ。
「分かってる、自分勝手な子としてるって。ゆうき君には悪いことしてるって」
「……っ、じゃあ……なんで……」
つい感情に任せて言い返しそうになってしまい、言葉を飲んだ。阿佐美からの返答は聞いていた。……阿佐美は俺のため――阿賀松の尊厳を傷つけない方法を選んだのだ。そうすることしかできないから。
前回の相容れない、平行線のやり取りを思い出す。流石に病室で凶器を持ち出すことはしないが、それでも二人きりの今、態度には気をつけなければならない。
それに俺は、手術予定までの期間で阿佐美を騙さなければならない。
こんなことで感情的になっては追々不審がられる。それでも、阿佐美は反論しかけた俺に腹を立てたわけではないようだ。寧ろばつが悪そうに俯き、落ち着かない様子で腕を掻き毟るように抱くのだ。
「ごめん、ゆうき君。……君のためなんだ」
きっと、阿佐美はずっとこういうのだろう。
最後まで、そう。
わかっていた。だから俺は何も言えなかった。
阿佐美も被害者なのだ。そう思えると哀れにすら見えてくる。
そして俺はそんな阿佐美を利用するのだ。
心を殺す。必死に抑え込む。考えるな、余計なことを。心を鬼にするんだ。相手はただの一般人ではない。
「……わかったよ」
そう口にした瞬間、ぴくりと阿佐美の肩が震えた。項垂れていた顔を上げた阿佐美、長い髪の間、見開かれた目がこちらを見るのだ。
まるで信じられないものでも見るかのような目で。
「詩織の言う通りにする」
この場合、こうするしかない。懐に潜り込む方が手っ取り早いのだ。
きっと阿佐美は手放しで喜ぶだろう。そう思っていた。けれど、阿佐美の反応は俺の早々とは違った。
「っ、ありがとう……ゆうき君……」
ごめんなさい、と聞こえないはずの声が聞こえた。顔を掌で覆ったまま項垂れた阿佐美の声は震え、涙が混ざっているようだった。
ああ、と思った。感じるな、殺せ。感傷に浸るな、殺せ。相手は化物だ、情に流されるな。ザクザクと突き刺さる見えないナイフを避けることもできなかった。
俺は、これからもっとこの人を、阿佐美を傷付けるのだ。
……人でなしはどちらなのか。化物は誰なのか。
考えるな。
俺は目を瞑り、阿佐美から視線を反らした。
鼻を啜る音が響く部屋の中、一つ、また一つと自分の中の大切な何かが音を立てて崩れていくのだ。
いっそのこと心の底から憎むことができればまた違ったのだろう。
「ゆうき君、怪我の具合はどう?」
「ちょっと、悪化してるみたい」
「本当だ、熱も上がってきている。薬を用意してもらっておくね」
触れる掌、ヤケに阿佐美の掌が冷たい。もしかしたら裕斗よりもずっと。
体調不良の真似をして入院を長引かせ時間稼ぎをした方がいいという話は裕斗としていた。
けど、演技などしなくても体調は俺が思っているよりも優れないようだ。
立ち上がろうとする阿佐美の腕を掴む。
「待って」と声を掛ければ、阿佐美がこちらを振り返る。前髪の下、二つの目がこちらを見下ろす。
「ここの病院は、阿賀松先輩には……」
何を聞こうかと思ったが、取り敢えず当然の疑問を尋ねてみる。阿佐美はそんなことか、とどこかホッとした様子で頷いた。
「ここは大丈夫だよ。確かに伊織の息はかかってるけど……ゆうき君じゃなくて別の人が今入院してることになっているから」
あ、と思った。阿佐美がこんな風に失言するのは珍しい。それとも俺のことを信用して話してくれているのか。恐らく、例の替え玉が関わっているのだろう。
それでも敢えて知らない顔して尋ねる。
「……別の人?そんなことできるの?」
「できないことはないよ。……けど、これ以上はゆうき君は知らなくていいことだから」
それじゃあ、と逃げるように立ち上がる阿佐美を引き止めた。腰を浮かそうとすれば鈍い痛みが走り、堪らず呻けば慌てた阿佐美が「ゆうき君っ」と俺を抱き留めようとする。
……来た。目の前に近付く詩織の腕をそのまま掴めば自然と顔が近付いた。
「っ、ゆうき君……?」
「……詩織、それは……電話で阿賀松先輩と話してた人と関係あるの?」
これは賭けだった。
そう、阿佐美にだけ聞こえる声量で尋ねたときだ。長い前髪の隙間から覗くその目が見開かれる。
薄く開いたその唇が微かに震えるのを俺は見逃さなかった。
「……どこまで聞いていたの?」
感情を押し殺そうとしている。けれど、俺は知っている。阿佐美がこうしてトーンを落とすときは何かを隠そうとしているときだ。
「わからない。けど、夢現で聞こえてきたんだ。……俺を死んだことにするって」
「別人を用意してるって」事実にしてはあやふやで、それでも現実にしてはあまりにも生々しい。
最後の切り札するには危険な橋すぎる、だから試したつもりだったが……阿佐美の反応からしてその真偽は一目瞭然だ。
阿佐美は固唾を飲む。そして、俺の腕を振り払おうとするがそれでも俺は手を離さなかった。
「ゆうき君……」
「詩織、俺はもう逃げない。だから、説明してほしい」
「自分のことなのに全部詩織に任せるのが嫌なんだ」それは嘘ではない。……目指そうとしているところは違うが、それでも自分のことだ。俺にも知る必要がある。そう阿佐美の説得を試みるが、阿佐美は俺の視線から逃げるように俯くのだ。
「……ごめん、言えない」
「なんで……」
「ごめん」としか言わない阿佐美に、「詩織」と呼び掛けるが阿佐美は目を伏せたまま俺の目を見ようとしない。――拒絶だ。
「嫌ってくれていいよ。……俺のこと信じなくていいから」
「そんなの」
勝手だ、と言いかけて言葉を飲んだ。
それはきっと俺も同じだ。……そしてわかるのだ、阿佐美は全部自分の責任にするつもりだ。俺に心労を掛けないよう、余計なことを考えさせないよう、全てを自分で被る気なのだ。
やり方は強引だが、それでも阿佐美の気持ちが分かってしまうとただひたすらに苦しい。けれど、それに甘んじてしまえば全ておしまいだ。それだけは駄目だった。
「俺はこれ以上詩織のこと……疑いたくない。信じたい、と思ってる」
「……ごめん、それでもやっぱり……」
言えない、と阿佐美が答えるよりも先に俺は阿佐美の手のひらに自分の手を重ねた。手のひらの下、阿佐美の大きな手がびくりと跳ねるのを見た。
ゆうき君、と阿佐美の視線が大きくぶれる。
阿佐美を信用させなければ、口を割ることができなければ恐らくこの先は難しい。
多少強引だとわかってても、手段を選んでる余裕などなかった。
「ゆうき君……っ、待って」
「……なんで、詩織は俺のことを阿賀松先輩から助けてくれたの?」
「それは……っ」
逃げようとする手を握り締める。
阿佐美の目を逸らさせないように真正面から覗き込む。責めるような言い方にならないように、あくまでも優しく問い掛ければ阿佐美の目は行き場を失ったように俺を見た。そしてすぐに逸らされ、またこちらを捉える。……手のひら越し、阿佐美の体温が先程よりも僅かに上昇しているのがわかった。
「見て、られないから……」
「見たくなかった、ゆうき君が傷付くのを」阿佐美の心は今、恐らく雁字搦めになっているのだろう。阿賀松を裏切ったことに対する罪悪感、そしてこれからのことに対する不安だ。
それを一つ一つ解すしかない。時間がかかってでも、それでもやらなければ。
「でも、詩織だって、阿賀松先輩に見付かったらただじゃ済まないはずだ」
「それは……わかってる、それでも……っ」
僅かに上擦る声。阿佐美の視線が今度は真正面から俺を捉えた。
一拍置いて息を飲んだ阿佐美はそのまま肺に溜まった空気を深く吐き出した。
「……それでも、怖かった」
どうしようもなく、怖かった。そう阿佐美は項垂れる。泣き出しそうな声。本心なのだ。そんな阿佐美を見て、ああ、と思った。
恐怖で追い詰められたとき、先が見えなくなったときの恐怖を俺は身を持って知ってる。
だからこそ、そんな阿佐美が酷く痛々しく思えたのだ。
そっと腕を伸ばし、阿佐美を抱き締める。
ぎこちない、下手くそな抱擁だった。それでも、俺は知っていたからそうするのだ。不安で心細くてどうしようもなかった俺を、裕斗は抱き締めて『大丈夫だ』と何度も背中を擦ってくれた。
だから、俺はそうするのだ。自分がされて助けられたように、阿佐美を抱き締める。腕の中、震える背中にそっと手を回し、撫でる。
「大丈夫だよ、俺は……詩織が助けてくれたから」
ちゃんと生きてる。腕を回そうとする度に腹部の縫い目が引っ張られ痛みが走ったが、それでも俺は阿佐美を強く抱き締めた。
今度はその腕は振り払われなかった。その代わり、恐る恐ると伸ばされた手が頬に触れる。
「詩織……」
「……俺は、馬鹿だから……こんな方法しかできない」
「でも、詩織が助けてくれなかったら俺はあの部屋から出られなかった」
それは大袈裟な例えではない。
あの部屋にいたとき恐ろしいほど死というものを鮮明に感じていた。
「ありがとう」と、頬の表面を撫でていた阿佐美の指にそっと手を重ねれば、阿佐美に抱き締められた。
一本、また一本と阿佐美の心を縛っていたものを解いていく。
そして新しい糸で縛り付けていくのだ。最初は細い一本の糸でいい。それを繰り返してる内にその糸が何重にもなるだろう。そのときにはきっと――……。
芳川会長のことを思い出す。会長も、俺と一緒にいたときはこんな気持ちだったのだろうか。そんなことを考えながら、俺は阿佐美の背中に手を回した。
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