飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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 全身が沼の底へと落ちていく。穴という穴から汚泥が流れ込んでくる、そんな最悪の気分の中、遠くから声が聞こえてくる。

 どこまでが夢なのかも分からない。
 けれど、纏わりついてくる血の匂いのせいでこんな気分の悪い夢を見たのかもしれない。

 それも短い間のように感じた。

「――《起きろ》」

 聞こえてきたコマンドに、条件反射で目を覚ました。そして、息を呑んだ。
 ――見慣れない部屋の中、ベッドの上。
 そこには月夜野小晴がいた。その隣には不安そうな顔をした星名もいて、一瞬自分の身に何が起きたのかも分からない。

「はよ、子犬ちゃん」
「……月夜野兄……」
「ほら、こうやって使うんだよ。コマンドってやつは」
「へえ、すごいな小晴! 小晴、物知りだ!」
「物知りっつーかこれは……まあ、いいや。生きてっか? 酷い目に遭ったらしいな」

 笑いながら小晴が手を伸ばしてくる。避ける気力もなく、されるがままに頬を撫でられた。
 俺は、それどころではなかった。
 今、こいつ、コマンドを使ったよな。そう目の前の小晴を凝視していると、小晴は「ああ、そういや言ってなかったっけ」と笑った。

「お前、ど、Dom……だったのか」
「そう警戒すんなよ。別にとって食おうってわけじゃねーんだし。……それに、お前にはちゃんと御主人様がいるだろ? 人のものには自分から手ぇ出さねえよ、俺」
「……っ、……」

 しかも、菖蒲さんとの関係も知ってるのか。こいつ。
 なんでもないように笑うが、俺にとっては致命的だった。「御主人様?そうだったのか?」なんて少し傷付いたような顔をして纏わりついてくる星名を避けようとして、体が思うように動かなかった。代わりに小晴が星名の首根っこを掴み、引き離してくれる。

「こら星名、さっきも言ったろ。こいつに負荷かけんなって。あんまやるとさっきみたいに白目剥いて気絶すんぞ」
「嫌だ、一凛死なないで……」
「ま、見たところ鼻血だけで済んだらしいけどな。普通、SランクDomのコマンド喰らいまくったらどこかしらぶっ壊れるらしいけどな」

「良かったな、愛佐君がタフで」そう笑う小晴にただ俺は何も堪えることができなかった。
 頭がまだ働かない。考えようとすればするほど思考は絡み合う。

「愛佐君?」
「……一人に、してくれ」
「って、ここ俺の部屋なんだけどな~。……ま、仕方ねえか。じゃあちょっと星名にお勉強教えてやるか」
「ええ? 俺、勉強嫌だ! 一凛一人で残しておくのは可哀想だろ! 俺も一緒に寝る!」
「はいはい、後で寝たらいいだろ。行くぞ」

 そう、小晴は暴れる星名を捕まえてそのまま首根っこ掴んで寝室を後にする。
 そうか、ここは小晴の部屋だったのか。
 どれだけの間気絶していたのだろうか。確認したかったが、この部屋には時計が見当たらない。

 まだ口の中に血の味が残っている。指先も痺れが残ったままだ。
 初めてだった。あんな恐怖を覚えたのは。
 小晴が星名に教育してくれるのなら助かるが、普段どれ程菖蒲さんがケアしてくれていたのか。それを改めて突き付けられる。



 次第に思考と肉体も落ち着いてきた。浮ついた意識のまま寝室を後にすれば、ソファーに並んで座って何やらノートパソコンを見ていた星名と小晴を見つけた。

「あ、一凛!」
「愛佐君、調子は?」
「……問題ない。……それと、ベッド。休ませてくれて助かった」
「ああ、元気になったんなら良かった。お前みたいなやつは生意気な方がいい」
「……」

 相変わらずの小晴についむっとするが、小晴は寧ろ嬉しそうに笑った。

「一凛一凛、俺、小晴からコマンドたくさん教えてもらった! だから、今度はもっとちゃんと……」

 そうソファーから飛び降り、とことこと駆け寄ってくる星名に慌てて小晴が立ち上がる。

「あー待て待て! おい、星名。人の話聞いてたか?」
「う……やっぱだめか?」
「元気になるまで待てって。それより、ちゃんとケアしてやれ」
「う……ごめん、一凛」

 目の前までやってきた星名はうりゅ、と大きな目を潤ませる。こいつに犬の耳としっぽが生えていたらきっと丸まっていたことだろう。そう思うような顔で。

「俺、全然だめだった。……苦しかった、んだよな?」
「……終わったことだ。それに、あれもハプニングのようなものだった。お前がSwitchだってこと、俺も知らなかったし」
「……うん、ビックリした。小晴は多分ストレスのせいだって、俺、薬飲み忘れないように気をつけるよ」
「……飲み忘れるっていうか、あれは……」

 そうだ、元々嫌がらせを受けていたということだったんだ。

「ところで星名。今のお前はDomなんだよな。じゃあ、暫く星名の面倒は俺が見ようか」

 そう小晴が提案する。
 そうか、元々俺が星名の世話係を任されたのは同じSub同士だったからだ。
 じゃあ、と言いかけたとき。「やだ!」と星名が今日一の声をあげる。鼓膜が破れるかと思った。

「やだって、お前な……」
「お、俺……あれだろ? ただのDomじゃなくて、えーと……すいっち……? ってやつなんだよな、じゃあ俺、一凛のままでいい! てか、一凛じゃないと嫌だ!」

「クソガキ」と小晴が小さく呟く。俺は咄嗟にやつの脇を小突いた。仮にも相手は理事長の身内だ。

 確かに、また何かの弾みでSubに戻る可能性もあるのだ。それがコントロール出来るようになるまでは一緒に居た方がいい。
 それに、また薬がなくなったときでも、俺の薬を飲ませることはできる。
 けど。

「……」

 星名に対して恐怖の感情が芽生えてる自分もいた。
 あれは事故のようなものだ。今は、大丈夫だ。
 そう自分に言い聞かせながら、「俺は問題ない」と口を開く。

「いいのか、愛佐君」
「ああ。……けど、お前もサポートしてくれると、助かる」
「当たり前だ」

 即答する小晴に胸の奥がすっと軽くなる。
 いい加減なやつと思っていただけにしっかりと責任感があったのかと、まあ、ほんのちょっとばかし見直した。
 そんな中、不安そうな顔で俺と小晴をちらちらと伺っていた星名が「なあ」と声を絞り出す。

「どうした、星名」
「一凛、小晴。俺がすいっち……だってこと、他のやつらには黙っててくれないか?」
「星名、それは……」
「頼むよ。後でおじさんたちにはちゃんと俺から言うし、病院にも行くからさ!」

 ……星名のやつ、何か企んでるな。
 直感で分かったが、多分これは星名の問題だ。けれど、確かに今星名の立場ならば下手に公開しない方がいい。
 Subだと思い込ませていた方が嫌がらせしていた連中に対してもハッタリすることは出来る。そういう下らない意地は、俺にも分かる。
 だったら、俺が返す言葉は一つ。

「……ちゃんと自分で言えよ」

 そう星名を見上げれば、ぱっと嬉しそうな顔をした星名は「ああ!」と大きく頷いた。
 小晴は何か言いたげな顔をして俺を見ていたが、「あーあー、知らね知らね。俺はなんも知らねえからな」と言いながらソファーへと戻っていった。素直じゃない男め。

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