飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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『愛佐』

 ――はい。

『なんで僕の言いつけを破ったの?』

 ――え?

『真夜に近付くな、と再三言ったはずだ』

 ――ごめんなさい。でも、あいつは。

『僕に口答えするのか、愛佐』

 ――違います。俺はただ、菖蒲さんを裏切ったつもりではなかったと、理由を。

『飼い主の命令すら聞けない犬なんて必要ないよ、愛佐』

 ――あ。ご。


「ご、めんなさ……っ」
「うお、なにが?」
「…………」

 起き抜け、思わず宙へと伸ばした手を握り、黒髪の男は微笑んだ。

「よ、愛ちゃん。……よくは寝れなかったみたいだな」
「真夜……なんで」
「なんでここにいるのか? それとも、なんでよくもその面出せたな、とかか? ……ま、答えは流石に愛ちゃんを一人に出来るほど俺、冷たくないよってとこかな」

 真っ白な部屋。カーテンもベッドもシーツも清潔な白。懐かしさあるこの見慣れない場所は。

「保健室……?」
「そ。あ、心配すんなよ? 流石に一回部屋で洗っておいたから、服とか」

 どういう意味だ、と言いかけて、触れる手にぎゅ、と指を絡められた瞬間、心臓が大きな音を立てて跳ね上がる。固まる俺に、「思い出した?」と真夜は表情を変えぬまま静かに問いかけてきた。
 脳に過ぎるのは脳細胞を焼き尽くすほどの強烈な快感と、それ以上の罪悪感、後悔。それから――。

「さ、わるな……ッ!」
「ん。……元気そーでよかったよかった」

 あっさりと真夜は俺から手を離した。それから、「小晴なら帰らせた」とも続けた。

「……っ、……」
「あいつ、俺らの部屋で寝かせとけってしつけーからさ。連れてきちゃった。ここまで。……先生には怒られたけど、何したんだって」
「い、言った……のか」
「言ったよ。俺がやっちゃったって」
「な……」
「あ、一応周りには言わないように“言いつけた”から心配はしなくていいから」

 血の気が引く。怒りすらも通り越して、指先が冷たくなっていく。逃げ道を回り道で塞がれたような、それと同時に改めて高ランクのDomの悪質さを理解した。
 そしてこいつはそれを息をするように利用する。そんな最低なやつだと俺は知ってる。知ってるはずなのに。

「……そうか」
「怒んねえの、愛ちゃん」
「その言い方だと、怒って欲しいって言ってるみたいだな」
「……なるほど。そうだな、確かに変だ」

 この男は根っからのDomだし、おまけに根性が捻じ曲がっている。けども、だとしても真夜の行動は俺からしても理解はできない。

「……制御剤……飲まないと」
「ほい、水。と、これ。制服のポケットに入ってた愛ちゃんの薬」
「…………」
「変な薬混ぜてないから安心しろよ。それとも、俺の毒味が必要か?」
「いい、……もらう」
「……」

 なんでお前が驚いてんだ。
 言い返す気力もなく、そのまま手渡されたピルケースを受け取る。喉がまだ開き切っていないのでどうも違和感があったが、それごと水で流し込んだ。

「……けほっ、……」

 思わず咽せた時、背中を撫でられて驚いた。顔を上げればすぐ側には何やらこちらを伺うような真夜の顔があって、少しむず痒い。

「……なんだよ」
「や……苦しそうだなって思って。摩ったら楽になるかなって」
「余計なこと、しなくていい」
「……そうか。……悪い」

 ……なんなんだ、さっきからこいつは。
 普段のいけすかない態度かと思えば、なんだか怒られた犬みたいな顔をする真夜になんだかこちらまで居心地が悪くなる。

 こいつのこの態度の心当たりは、ある。
 気を失う前、確かにこいつと話していたことは思い出した。けれど、その後――失神するまでの間が混濁している。踊り場でこいつに強引に抱かれたことは断片的に覚えているが、その記憶を深掘りしようとすることを脳が拒否する。

「……おい、真夜」
「ん?」
「……言いたいことがあるならはっきり言え。……気持ち悪い」

 真夜は俺をじっと見つめ、それから「ふ」と小さく笑った。

「だよな、俺もそう思う」
「真夜……」
「愛ちゃん、愛ちゃんならそう……《俺のこと受け入れてくれる》もんな」

 バヂン、と脳で無数の火花が散る。真夜、とその名前を呼ぶ前に「な」と鼻先に迫る真夜に唇を舐められ、息を呑んだ。頭が痺れていく。視野狭窄。目の前の真夜しか見えなくなっていく。

「……っ、うけ、いれ、る」
「じゃ、俺にキスして」
「は」
「キス、わかる?」

 こういうの、と軽く唇を啄まれ、そのまま真夜は顔を離す。その唇を無意識に追いかけようとベッドから起き上がりかけたところで、脳を占めていた霧が一気に晴れるようだった。

「……っ、調子に、乗るな……っ」
「んー……まだだめかあ」
「っ、真夜」
「愛ちゃんに必要なのは信頼できる相手とのプレイ。……俺のこと、少しは信頼してくれたと思ったんだけど」
「……っ、……ふ、真夜……」
「あー……じゃあ、これでいいよ。『俺の頭、撫でて』」
「……っ!」
「愛ちゃん、これも無理そ?」

 甘えるように額をくっつけられ、名前を呼ばれる度に下腹部にぞわりとしたものが走る。
 こんなおままごとのような真似。なんでこいつと。
 そう思うのに、気づけば俺は目の前の頭に触れていた。さらりとした髪の感触。人の頭を撫でたことなんて、ない。撫でると言うよりも突くようなそんなぎこちない仕草なのに、真夜は目を閉じたまま受け入れる。

「……っ、……意味が、分からん」
「わかんなくていいんだよ。別に。理解できたら」
「言葉で説明しろ」
「愛ちゃんは頭でっかちだから無理」
「は……」
「ま、想像通りだけど下手だな。愛ちゃん。頭を撫で撫でするときは、こう」

 大人しく頭を撫でられていたと思えば、今度はいきなり真夜に頬に手を添えられる。するりと頬から耳のライン、それから側頭部まで優しく輪郭を辿るように移動する真夜の指先に背筋にぞわぞわと得体の知れない感覚が走った。

「お、まえ、いきなり……っ、う、」
「俺の指意識して、愛ちゃん」
「……っ、も、いい、わかった、から……」
「まだだ」

 そのまま耳の付け根から裏まで優しく解すみたいに揉まれ、肩が震えた。逃げようと咄嗟に腰を引くが、ベッドへと乗り上げてきた真夜に捕まった。優しく肩を抱き寄せられ、そのままその腕の中に閉じ込められる。

「ま、よる。重い……っ」
「ん~……それだけ?」
「き、きもい触り方すんな……っ」
「はは、なるほど。キモいな」

 くすくすと笑いながら真夜は俺の耳朶をふに、と摘み、そのまま耳に唇を寄せる。

「気持ち悪い場所ってのは性感帯になり得るらしいぞ」

 ふ、とどさくさに紛れて息を吹きかけられ、声にならない声が漏れそうになる。瞬間、真夜にそのまま頭を抱き込められ、その胸に顔を押し付けられた。

「ん、むぐ……っ!」
「……あ、わり。つい癖で」
「む、ぅ……っ!」
「はは、でも丁度いーや。そのまま聞けよ、愛ちゃん」

 耳の縁をなぞり、時折髪を梳かしながら真夜は続ける。人を無理矢理物理的に黙らせながら。

「愛ちゃんに頭撫でられんの、俺、すげえ気持ちよかった。……下手くそなのにさ」
「……っ、……」
「なんでだと思う?」

 さらさらと、こいつの声によく似た甘ったるい手つきで触れられてる内に首筋の辺りがむずむずしてくる。逃げ出したいような、小っ恥ずかしいそんな感覚だ。
 なのに、真夜から目が逸らせない。真夜の胸に抱かれたまま、その指先を全神経で追いかけてしまう。

「……っふ、……」
「愛ちゃん、《答えて》」
「……っ、……し、らない」

 胸にしがみついたままもごつく俺に真夜は目を伏せて笑い、「だよなあ」と俺の後頭部を包み込むように触れた。長い指先はそのまま後ろ髪、頸までゆっくりと落ちていく。逃げようとしても逃げられない。制服のシャツの襟の下まで滑り込もうとする指に「真夜」と声を漏らしたとき、やつはようやく手を止めた。

「覚えとけよ、愛ちゃん。俺の指」
「……な、に……」
「俺の触れ方。俺の声。癖。全部。……覚えていくんだよ、一緒に」
「ま、よる……お、まえ……」
「……」

 何か、何かが頭の奥、蟠りのようなものが突っかかってる。なんだこれは。
 真夜の声を聞いてると目が回りそうで、血の気が引いていく。耐えきれず再び真夜の胸にしがみついてしまえば、真夜はそれを無言で抱き止めた。

「……愛ちゃん、これは《気持ちいい》、な」
「き、もち……ぃ……?」
「ああそうだ。……ほら、こうやって体ぎゅーって抱きしめられたまま背中撫でられんの、気持ちいだろ?」
「…………」

 真夜の声を聞いていると自然と意識が遠のいて行くようだった。眩暈が、する。これが気持ちいいはずがない、と思うのに。真夜の声を聞いていると分からなくなっていく。そもそも気持ちいいってなんだ。何も考えられなくなるほどの、強烈な――。

「……《好かれるの、気持ちいい》よな?」
「っ、真夜……っ、待って……」
「……」
「待て、なに、これ」

 おかしい、と言いかけるよりも先にとろりと鼻の奥から何かが溢れてくる。咄嗟に拭おうとして、自分の手の甲が赤く染まってるのを見て脳の奥にじんわりと熱が広がる。視界が幾つもの光で点滅し、真夜の顔も見えなくなっていく。

「お、まえ、なに……した――」
「んー……ああ、まだ無理そうだな。《おやすみ、愛ちゃん》」
「ま、待、まよる――」
「《寝ろ》」

 ぶつん、と。神経の束を鷲掴みにされ、そのまま脳の奥にある意識のスイッチごとぶん殴られる。そんな衝撃とともに目の前は真っ暗になり、意識は遠くへと引き剥がされ捨てられた。
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