飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

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69【side:菖蒲】



「ちょっと、アンタ……」
「あーあー、なんて言ったんだよあの人。可哀想に」
「こはも落ち着かせんの手伝えよ」
「はいはい」

 外野の声も頭に入ってこない。全部が雑音のようで、まるで悪い夢を見続けているような感覚のまま二人を置いて通路を進んでいく。
 いくつもの並ぶ扉を開けていく。
 消灯時間前ということで殆どの個室は人気もない。けど、いるはずだ。間違いない。どこかに。

 そして、何枚目かの扉を開いたとき。

「大丈夫」

 部屋の奥から聞こえてきた声に足が止まる。
 他の部屋同様薄暗いその部屋の奥、人影が見えた。ソファーの上。何かを抱き抱えるようにその生徒はいた。
 光に照らされて白く輝く金髪。そして、血の気の失せた白い顔。

「大丈夫だ、一凛。怖くない。怖くないからな、もう大丈夫だ。痛くないだろ? 平気だ。お前は何も感じない。……大丈夫だ」

 ぶつぶつと何かを呟きながら何かを抱き抱えるその生徒――星名璃空は僕に気付いていないようだ。大丈夫、大丈夫だから、とずっと繰り返す。
 異様な空間だった。そして、すぐに星名璃空が抱えているのが何なのか気付いた。気付いてしまった。
 短めの黒い髪。皺だらけになった制服を着たその背中には、見覚えがあった。

「あーあ、見つかっちゃったな」

 背後から聞こえてくる小晴の声。
 微かに鼻腔に纏わりつく濃い性臭。それから錆びた鉄のような、匂い。血の匂い。

「今は落ち着いてるんで大丈夫ですよ、会長。……会長?」
『桐蔭君。……好きなんだ、君のことが』

 小晴の声に重なるようにノイズ掛かった声が脳に蘇る。ずっと、何度も何度も忘れようとした声が。

『ごめん、勘違いして。一人で舞い上がって』

 突き返した首輪。普段と変わらない同じ顔であいつは最後の日、僕に笑いかけた。

『もう、迷惑かけないから。ごめん。お願いだから、嫌いにならないで』

 友人として会いに行った部屋の中、出迎えくれたあいつの顔が。薄暗く狭い寮の箱の中でぶら下がった体。宙ぶらりんになった影が、瞼の裏に。違う。これは、“現実”だ。

「大丈夫」と繰り返す星名璃空の元へと駆け寄る。それから、

「《触るな》」

 あ、と星名璃空はそこでようやく僕に気付いたように目をこちらへと向けた。それから、青い顔の星名璃空の腕から愛佐を抱き抱えた。
 腕の中のしっかりとした重み。
 死んで、ない。よな。死んでない。死んでない。脈がある。熱がある。掌が焼けそうなほどの高温。今にもはち切れそうな程の鼓動。血はない。首も、伸びてない。濡れてない。千切れていない。切れていない。けど、

「…………」

 目を閉じたまま気絶する愛佐の頬を撫でる。残った涙の跡を拭う。瞬間、びくりと短く痙攣する愛佐の体。逃げようとする体を落とさないようにしっかりと抱き締める。ああ、生きている。息をしてる。
 そのことが嬉しくない。手首は何度も暴れたように擦り切れ、血が滲んでいた。それだけじゃない。これは。

「うわこの部屋暗……って、愛ちゃん? ……なに、してんの。それ」
「可哀想に。レイプされたんだって、俺が来た時は手遅れだった。ああ、犯人は捕まえてそこに縛ってるから」
「小晴、お前……」

 キン、と耳鳴りが響く。眩暈と頭痛と吐き気。それ以上の、怒り。


「……会長」
「この子のケアは、僕がする」
「アンタ、さっき自分が何やってたか分かります? そんな状態の人に愛佐君を……」

「《出ていけ》」

「……っ、……」
「うー……わ、ガチギレ」
「あ、やめ……」

 コマンドを吐く度に喉が焼けるようにヒリつく。見えない手に首を締め上げられている。頭に血が昇っていくみたいに、自分の鼓動と愛佐の鼓動が混ざり合ってより一層大きく響いた。

「《お前らは関わるな》」

 血の匂いが濃くなっていく。





 レイプしたという生徒を引きずり、三人は部屋から出ていく。
 愛佐は眠ってる。穏やかな眠りとは程遠い、時折何度も悲鳴とともに体を跳ね上げさせていた。それでも目を覚ますことはない。
 起こすこともできた。けど、僕にはそれができなかった。

「……愛佐」

『アンタがちゃんと首輪を付けてやらないから』
『アンタのそれは慈善活動じゃなくてただの自慰だろ』

「……」

 悪夢から醒めた現実の方が凄惨な状態だった場合は、それは愛佐の幸福になり得るのか。
 人一倍真面目で、感受性の豊かな子。他人の悪意に敏感で、誰よりも目敏い。
 眩しかった。ずっと。この子といると自分の薄汚さが浮き彫りになっているようで、それでいてこの子の清らかな部分を守ることで自分が許されているような気分になって救われた。

 頭では理解していた。真夜の忠告も。僕のような人間に目を掛けられたところでこの子のためにはならないと。
 そして、それは最悪の形で実現した。

 また、だ。また、僕は間違えた。

「……愛佐……」
「……っ、は……ぅ、ぐ……」
「《おやすみ》――愛佐」

 魘される度に囁きかける。手を握れば手の甲に何度も爪を立てられ血が滲むが、痛みはなかった。
 眉間の皺がすうっと消える。和らいでいく表情。それでも、また暫く経てば悪夢はやってくる。
 それならばまた穏やかに眠れるように何度でも僕が手を握る。

 僕の体が傷つくだけでこの子が穏やかに過ごせるのならまだそれでいい。
 ……それでいいのだ。


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