飼い犬Subの壊し方

田原摩耶

文字の大きさ
73 / 82

72


 どうして菖蒲さんの口からあいつの名前が出てくるのか。
 理解が追いつかずに真っ白になる頭の中、一抹の可能性が過ぎる。
 まさか。まさか、あいつ。

「な、にか……あいつが……」
「《僕の質問に答えるんだ》」
「……ッ!」

 言ったんですか、菖蒲さんに。
 そう聞き返そうとしたのが菖蒲さんの気に障ったようだ。その口から吐き出される言葉に息が詰まる。
 真っ直ぐにこちらを見つめてくるその目がただ怖くて、一ミリ足りとも目を逸らすことができなかった。
 息が、苦しい。
 こんなに威圧的なコマンド、菖蒲さんが吐くわけがない。そう思いたい反面、菖蒲さんの態度に心当たりがあった。
 ――俺は、確かに菖蒲さんを裏切るような真似をした。

「あ、あいつは……なんでもないです、い、いつも絡んできて……か、勝手なやつで……っ頼んでもないのに、付き纏ってきて……っお節介の度を越して、ストーカーみたいなやつで……っ」
「そう、へえ。……そうかぁ」
「ぁ、菖蒲……さん……」

 こんなこと、コマンドでまで聞き出してどうなるというのか。関係を聞き出すならともかく、こんなこと。

 息がままならない。菖蒲さんに褒めてほしいのに、菖蒲さんに撫でられるだけで皮膚が凍てつくように痛む。
 額から流れ落ちる汗を拭うことも忘れて菖蒲さんを見上げていたとき、前髪を掻き上げて菖蒲さんは笑った。
 それは普段の微笑みではない。息を吐き出すようなそれは嘲笑、という言葉が似合った。

「――なんだ、あいつの独りよがりか」

 この人は、目の前にいる男は本当に菖蒲さんなのか。
 緊張と恐怖で心臓が張り裂けそうだった。それなのに、菖蒲さんから目を逸せない。まだ夢ではないか、この人は偽者ではないかと信じていたい。そんな一心で。

 そしてそんな俺の想いが伝わったのか、菖蒲さんの笑顔に普段の穏やかな微笑みが戻る。

「……ありがとう、愛佐。ちゃんと応えてくれて。……それと、安心したよ」

 え、と声をあげるよりも先に菖蒲さんの腕の中、大きな手のひらに背中から腰を優しく撫でられる。瞬間恐ろしいほど全身の筋肉が引き攣った。
 優しい声。優しい菖蒲さん。一見いつも通りなのに、安堵どころかより一層困惑する。
 そんな俺を抱き締めたまま菖蒲さんは俺の耳元で小さく笑うのだ。

「そうだよね。……そうに決まってる。あいつのやり方は間違っている。君もそう思うだろう? 愛佐。君はSubである以前に常識を持ち合わせた子だ。あんな姑息な男に騙され言いように利用されるSubじゃなくて」
「っ、ぁ、やめさん……真夜が、何か」
「《あいつの名前を呼ぶな》」
「……ッ」
「……っく、……はは、ごめん。愛佐。こんな幼稚なコマンド、僕が吐くなんて……らしくないな。ああ、本当に……どうかしてる、僕は」

 菖蒲さんの様子がおかしい。
 今度は自嘲混じりに笑う。その言葉は普段の謙遜とは違う。
 菖蒲さんはコマンドを口にした後ちゃんと褒めてくれる。ケアしてくれる。
 抱き締められはすれど、普段の菖蒲さんから大きく乖離したその態度に安堵よりもただ心配が勝る。
 どうすればいいのか、なんで答えればいいのか分からない。
 けれど黙って抱き締めらているとそれだけで締め付けられていく。見えない鎖で更に雁字搦めになっていくような錯覚とともに、指先一本すらも動かせない。

「そう言えば愛佐、さっきまで一体《どんな夢を見ていたの》?」
「……え」

 夢、と目の前の薄い唇がゆっくりと言葉をなぞる。
 瞬間、記憶の奥底、蓋をしていたところから嫌な感覚がどろりと溢れ出す。

 夢。
 夢なんて、見てなかった。はずだ。けど、ただ暗い闇の中でとてつもなく嫌な思いをした感覚だけは残ってる。それから、『大丈夫』という声。
 これを夢と言っていいのかと思えるほど断片的で曖昧な記憶のかけらだ。

「愛佐」
「ぉ、覚えて……ません。ごめんなさい」
「《本当に?》」

 細くなる菖蒲さんの目に見つめられ、心臓が一層大きく跳ね上がる。脈打つ度に鈍痛が心臓から全身へと広がっていく。俺は無意識に胸を押さえたまま、菖蒲さんの腕にしがみついていた。そうでもしなければ、自立する方法すらも分からなくなってしまいそうなほど俺の思考回路は混雑していた。

「……っ、……内容は分かりません。けど、怖い夢を」
「……うん」
「でも、だ、誰かが……大丈夫って言ってくれて」
「うん」

 菖蒲さんの顔色を伺いながら、口にする。嘘ではない、けれど。俺の発言一つで菖蒲さんの表情が曇るのを見たくなかった。
 けれど俺の心配とは裏腹に、「うん」と応える菖蒲さんの表情が和らぐのを見て無意識に安堵した。
 呼吸が少しし易くなる。
 そうだ、寝てる間俺の側に居てくれたのは菖蒲さん自身だ。だったらと、目を覚ます直前感じたことを思い出し、口にする。

「つ、包まれてるようで……暖かくて、ほっとしました」

 そう菖蒲さんの腕をぎゅっと握った時。
 先程まで静かに聞いていた菖蒲さんの表情から笑みが消えていることに気付く。
 細められたその目の奥、こちらを射抜くような鋭い目に指一本動かすことすらできなかった。
 息が苦しい。呼吸しようと喉を開き取り込もうとすればする程、どんどん喉が詰まっていく。

 ――菖蒲さんが怒ってる。
 過敏になった皮膚の上、刺すような痛みが全身に広がっていく。

 どうして、なんで。
 菖蒲さんのグレアが濃くなっているんだ。

感想 25

あなたにおすすめの小説

響花学園

うなさん
BL
私の性癖しか満たさない。

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科 空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する 高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体 それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった 至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する 意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク” 消える教師 山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー

【BL】捨てられたSubが甘やかされる話

橘スミレ
BL
 渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。  もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。  オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。  ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。  特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。  でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。  理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。  そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!  アルファポリス限定で連載中

悪役令息シャルル様はドSな家から脱出したい

椿
BL
ドSな両親から生まれ、使用人がほぼ全員ドMなせいで、本人に特殊な嗜好はないにも関わらずSの振る舞いが発作のように出てしまう(不本意)シャルル。 その悪癖を正しく自覚し、学園でも息を潜めるように過ごしていた彼だが、ひょんなことからみんなのアイドルことミシェル(ドM)に懐かれてしまい、ついつい出てしまう暴言に周囲からの勘違いは加速。婚約者である王子の二コラにも「甘えるな」と冷たく突き放され、「このままなら婚約を破棄する」と言われてしまって……。 婚約破棄は…それだけは困る!!王子との、ニコラとの結婚だけが、俺があのドSな実家から安全に抜け出すことができる唯一の希望なのに!! 婚約破棄、もとい安全な家出計画の破綻を回避するために、SとかMとかに囲まれてる悪役令息(勘違い)受けが頑張る話。 攻めズ ノーマルなクール王子 ドMぶりっ子 ドS従者 × Sムーブに悩むツッコミぼっち受け 作者はSMについて無知です。温かい目で見てください。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

俺以外美形なバンドメンバー、なぜか全員俺のことが好き

toki
BL
美形揃いのバンドメンバーの中で唯一平凡な主人公・神崎。しかし突然メンバー全員から告白されてしまった! ※美形×平凡、総受けものです。激重美形バンドマン3人に平凡くんが愛されまくるお話。 pixiv/ムーンライトノベルズでも同タイトルで投稿しています。 もしよろしければ感想などいただけましたら大変励みになります✿ 感想(匿名)➡ https://odaibako.net/u/toki_doki_ Twitter➡ https://twitter.com/toki_doki109 素敵な表紙お借りしました! https://www.pixiv.net/artworks/100148872

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

R指定

ヤミイ
BL
ハードです。