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どうして菖蒲さんの口からあいつの名前が出てくるのか。
理解が追いつかずに真っ白になる頭の中、一抹の可能性が過ぎる。
まさか。まさか、あいつ。
「な、にか……あいつが……」
「《僕の質問に答えるんだ》」
「……ッ!」
言ったんですか、菖蒲さんに。
そう聞き返そうとしたのが菖蒲さんの気に障ったようだ。その口から吐き出される言葉に息が詰まる。
真っ直ぐにこちらを見つめてくるその目がただ怖くて、一ミリ足りとも目を逸らすことができなかった。
息が、苦しい。
こんなに威圧的なコマンド、菖蒲さんが吐くわけがない。そう思いたい反面、菖蒲さんの態度に心当たりがあった。
――俺は、確かに菖蒲さんを裏切るような真似をした。
「あ、あいつは……なんでもないです、い、いつも絡んできて……か、勝手なやつで……っ頼んでもないのに、付き纏ってきて……っお節介の度を越して、ストーカーみたいなやつで……っ」
「そう、へえ。……そうかぁ」
「ぁ、菖蒲……さん……」
こんなこと、コマンドでまで聞き出してどうなるというのか。関係を聞き出すならともかく、こんなこと。
息がままならない。菖蒲さんに褒めてほしいのに、菖蒲さんに撫でられるだけで皮膚が凍てつくように痛む。
額から流れ落ちる汗を拭うことも忘れて菖蒲さんを見上げていたとき、前髪を掻き上げて菖蒲さんは笑った。
それは普段の微笑みではない。息を吐き出すようなそれは嘲笑、という言葉が似合った。
「――なんだ、あいつの独りよがりか」
この人は、目の前にいる男は本当に菖蒲さんなのか。
緊張と恐怖で心臓が張り裂けそうだった。それなのに、菖蒲さんから目を逸せない。まだ夢ではないか、この人は偽者ではないかと信じていたい。そんな一心で。
そしてそんな俺の想いが伝わったのか、菖蒲さんの笑顔に普段の穏やかな微笑みが戻る。
「……ありがとう、愛佐。ちゃんと応えてくれて。……それと、安心したよ」
え、と声をあげるよりも先に菖蒲さんの腕の中、大きな手のひらに背中から腰を優しく撫でられる。瞬間恐ろしいほど全身の筋肉が引き攣った。
優しい声。優しい菖蒲さん。一見いつも通りなのに、安堵どころかより一層困惑する。
そんな俺を抱き締めたまま菖蒲さんは俺の耳元で小さく笑うのだ。
「そうだよね。……そうに決まってる。あいつのやり方は間違っている。君もそう思うだろう? 愛佐。君はSubである以前に常識を持ち合わせた子だ。あんな姑息な男に騙され言いように利用されるSubじゃなくて」
「っ、ぁ、やめさん……真夜が、何か」
「《あいつの名前を呼ぶな》」
「……ッ」
「……っく、……はは、ごめん。愛佐。こんな幼稚なコマンド、僕が吐くなんて……らしくないな。ああ、本当に……どうかしてる、僕は」
菖蒲さんの様子がおかしい。
今度は自嘲混じりに笑う。その言葉は普段の謙遜とは違う。
菖蒲さんはコマンドを口にした後ちゃんと褒めてくれる。ケアしてくれる。
抱き締められはすれど、普段の菖蒲さんから大きく乖離したその態度に安堵よりもただ心配が勝る。
どうすればいいのか、なんで答えればいいのか分からない。
けれど黙って抱き締めらているとそれだけで締め付けられていく。見えない鎖で更に雁字搦めになっていくような錯覚とともに、指先一本すらも動かせない。
「そう言えば愛佐、さっきまで一体《どんな夢を見ていたの》?」
「……え」
夢、と目の前の薄い唇がゆっくりと言葉をなぞる。
瞬間、記憶の奥底、蓋をしていたところから嫌な感覚がどろりと溢れ出す。
夢。
夢なんて、見てなかった。はずだ。けど、ただ暗い闇の中でとてつもなく嫌な思いをした感覚だけは残ってる。それから、『大丈夫』という声。
これを夢と言っていいのかと思えるほど断片的で曖昧な記憶のかけらだ。
「愛佐」
「ぉ、覚えて……ません。ごめんなさい」
「《本当に?》」
細くなる菖蒲さんの目に見つめられ、心臓が一層大きく跳ね上がる。脈打つ度に鈍痛が心臓から全身へと広がっていく。俺は無意識に胸を押さえたまま、菖蒲さんの腕にしがみついていた。そうでもしなければ、自立する方法すらも分からなくなってしまいそうなほど俺の思考回路は混雑していた。
「……っ、……内容は分かりません。けど、怖い夢を」
「……うん」
「でも、だ、誰かが……大丈夫って言ってくれて」
「うん」
菖蒲さんの顔色を伺いながら、口にする。嘘ではない、けれど。俺の発言一つで菖蒲さんの表情が曇るのを見たくなかった。
けれど俺の心配とは裏腹に、「うん」と応える菖蒲さんの表情が和らぐのを見て無意識に安堵した。
呼吸が少しし易くなる。
そうだ、寝てる間俺の側に居てくれたのは菖蒲さん自身だ。だったらと、目を覚ます直前感じたことを思い出し、口にする。
「つ、包まれてるようで……暖かくて、ほっとしました」
そう菖蒲さんの腕をぎゅっと握った時。
先程まで静かに聞いていた菖蒲さんの表情から笑みが消えていることに気付く。
細められたその目の奥、こちらを射抜くような鋭い目に指一本動かすことすらできなかった。
息が苦しい。呼吸しようと喉を開き取り込もうとすればする程、どんどん喉が詰まっていく。
――菖蒲さんが怒ってる。
過敏になった皮膚の上、刺すような痛みが全身に広がっていく。
どうして、なんで。
菖蒲さんのグレアが濃くなっているんだ。
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