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2.シャーデンフロイデ
02※嘔吐
足をついていたはずの地面がぐにゃりと揺れる。違う、立ちくらみだ。
脳が揺さぶられる。僕はただ否定して欲しかった。それだけだったのに。
「っ、本気で……言ってるの?」
「ああ、本気。まじで。つかさ、折。お前だろ? 俺とヤリたくないって言い出したのは」
伸びてきた指に胸をトンと突かれる。そのまま苛立ったように慈門君の指先は僕の胸を叩いた。
心臓の鼓動がそれに呼応するように早まり、呼吸が浅くなる。
「俺彼氏なのにさ。俺に我慢しろっつったの誰? お前だよなぁ? 折」
「……っ、慈門君」
「だったらちょっと他のやつ代替えにしたくらいでごちゃごちゃ言うのおかしいよな、折」
――代替え。
頼むから聞き間違いだと言って欲しかった。
朝日も覆い隠し翳っていく視界の中、慈門君は笑っていた。何故慈門君が笑っているのか僕には理解できない。
そんな僕を見て慈門君は「あー、ほら」とイラついたように濡れた前髪を掻き上げる。
「……お前がそうなるから言わなかったんだよ、いちいち」
目の前、首に絡みつく慈門君の腕を掴む。シャツの袖ごと捲り、そのまま口を開いて噛みついたほんの一瞬、強張った慈門君の腕の中から強引に抜け出した。舌打ちをし、すぐに首根っこを掴まれそうになるがなんとか抜け出し、僕は慈門君と距離を取る。
慈門君は困惑していた。それから、腕にくっきりとついた歯形を確認しては目を伏せる。諦めたような目。それから、「まあ、そうだよな。お前は」というかのように僕を見た。
「っ、……」
「なあ、折……浮気じゃねえって。俺に他に好きなやつができるわけないだろ? 俺はただ……お前に負担かけたくなかったんだよ。まじでさ」
「……」
「……だから、そんな顔すんなよ」
目の前の慈門君が犬馬先輩と重なる。
慈門君はそもそもを掛け間違えている。だから、それがただひたすら悲しかった。
慈門君が正常ではないと分かっていたはずなのに、それを見落として上辺でしか判断することができていなかった己にも失望した。
だから、僕は。
慈門君に手を伸ばす。「折」とほっとしたように目を伏せるその横っ面に思いっきりひっ叩いた瞬間、手のひらに焼けるような痛みが走った。
「……あ?」
「本気で、言ってるの?」
人を叩いたことも殴ったこともろくにない。
きっと慈門君からすれば痛くも痒くもないだろう。それでも、赤くなった自分の頬を撫で、自分が僕に叩かれたのだと理解したらしい。きょとんと目を丸くした慈門君はそのまま僕を見下ろした。
そして、
「……あー……はは……」
力無く、慈門君はヘラヘラと笑いながら頬を撫でる。
僕は何故慈門君が笑っているのかも理解できなかった。僕が本気で怒ってるのに、慈門君は。
「君、言ってることおかしいよ。ねえ、……本気で言ってるの?」
「いや、何まじになってんの。……なあ、折。周りの目、見えてる? 通りかかった人たち、ビビるって流石に」
「僕の代わりに純白君も殴ったの? 僕が痛いことやめてって言ったから、代わりに」
そう純白君の名前を口にした瞬間、慈門君の目の色が変わるのを見た。
それでも、ここまできたら退くわけにはいかなかった。なんとしてでも。
「……」
「答えて、慈門君」
そう、何も言わなくなる慈門君。
そこに先程までのヘラヘラとした笑顔も何もなく。
「……あ、そーいうこと」
一人呟く慈門君。その目を見た瞬間、背筋が凍りつく。
見たことのないような冷たい目。けれどそれも一瞬のことだった。僕に背中を向けたまま歩き出す慈門君。
そのまま僕を置いて学校とは逆の方角へと歩き出す慈門君に嫌な予感がし、慌ててその腕にしがみつく。
けれど、僕一人の力で慈門君を止めることなんてできなかった。
「慈門君っ! どこに……っ」
「あいつ殺すわ」
「っ、な――っ」
「おかしいと思ったんだよなぁ。……本当、余計なことしかしねえな。あのガキ」
「慈門君っ」
まずい。まずい。違う。僕は。
こんなつもりはなかった。純白君を巻き込むつもりなんて。
慈門君がそんなことするわけないと思いたいのに、慈門君が怖かった。本気だと分かったからだ。
「し、純白君は……関係ない……っ! 僕がたまたま話を聞いただけで……」
「なんて聞いた? 俺が他のやつ便器にしてるって? それとも、腹いせにヤリ捨てしたあと他の奴らにも輪姦させてるって? それを後輩のやつらに動画流さしてハブらせたって?」
息を吐くこともできなかった。
慈門君の口から出てきた言葉の数々を理解したくもなかった。吐き気を堪えることも。
例え話だと、ただの僕を脅すための言葉だと言って欲しかったのに、慈門君は。
「なに、その顔。そこまでは聞かされてねえんだ」
また、あの笑い方だ。
冷たい笑い方。人を馬鹿にしたような、見下ろしたような笑い方。ずっと一緒にいた慈門君、そんな僕でも知らない彼が確かにそこにいた。
「折、……お前はあいつの言うことを信じたんだよな? だから俺のこと信じれなくなったっつってさ」
「し、信じたいよ……っ! だからこうして君に……」
「なあ、ならその目なんだよ」
ほんの一瞬、確かに僕は油断をしていた。
慈門君を引き止めることに必死になって、慈門君を純白君に近づけないことだけを考えて、僕は。
「なんだって聞いてんだよ!」
視界の隅で慈門君の拳が固められるのを見たときには遅かった。振り上げられる腕に全身が痙攣を起こすように硬直した。そして寸前、高く持ち上げられた腕を見たまま腰を抜かしそうになる僕をただ慈門君は見下ろしていた。
「……っ、ぅ゛……」
頭を庇ったまま動くことができなかった。
逃げ出すことも。
ガクガクと痙攣する内股。縮み込む下半身。震える膝に力を入れて自立することすらできない僕を見て慈門君は固めていた拳を緩めた。それから、
「来いよ、折」
ぽん、と肩へと置かれる手。
優しく撫でるように背中から頭まで丸く撫でるその大きな掌。後頭部を一掴みにされるほどのその手が今は恐ろしくて、まるで無力な子供に戻ったようだった。
ツンと痺れる鼻。啜り泣く僕を見下ろしたまま慈門君は僕の腕を掴み、無理やり立たせる。
「ふ、ぐ……っ」
「来いっつってんの」
「じ、もんく……」
「いいから来い」
転びそうになるのも無視して慈門君は僕を引き上げる。
叩きつけるような雨で制服が濡れ、皮膚に張り付く。体が自分のものではないみたいに重い。それは濡れた制服のせいだけではないはずだ。
この寒気も。
「なあ、お前って嘘吐きだよな。……何が俺のこと信じてるだよ。信じてるなら抵抗すんのおかしいだろ?」
「っ、ぅ、ゃ」
「……頼むから、泣くなって。……まじで、イラつかせないでくれ。頼む」
「ぅ、ふ……っ」
肩に腕を回され、抱き締められる。あの時と同じように、泣いた僕を泣き止ませるようにひたすら慈門君は繰り返す。
「俺、……まじでさ……お前に泣かれんのがきつい。頭がどうにかなりそうだ。俺、お前だけは大切にしたいんだよ、本当に。頼むから分かってくれ」
僕は、慈門君が分からない。
ころころと変わる慈門君が。
それでもその不安そうな声は僕の知ってる慈門君だった。あの時と何も変わらない。何も学習していない。
慈門君なりに僕に歩み寄ろうとしてくれたのは分かっていた。それも、何度も。
けれど、これは違う。僕との関係を続けるために誰かを陥れるようなやり方は僕は望んでいない。
――なにも、分かっていない。
そのまま連れて行かれそうになり、僕は絡れるように慈門君の胸を思いっきり突き飛ばした。
「は……離して……っ」
「……」
「嫌だ……」
僕はこれ以上君を許容することはできない。
そのせいで誰かを巻き込むのなら。
そう拒絶を示した瞬間、慈門君の目がゆっくりと見開かれた。そして、
「ぅ゛、ぐぷ……っ」
一瞬。何が起きたのかも分からなかった。
気づいた時には慈門君の腕が僕の腹にのめり込んでいた。衝撃で押し上げられた腹部から胃液が逆流し、それを抑え切れることもできず口元を塞いだ指の隙間から吹き出す胃液を抑えきれなかった。
手足が痺れ遠のく意識の中、慈門君の顔をとうとう見上げることもできなかった。
「……折、言ったよな。俺、お前に嫌われんのが一番堪えんだって」
足が浮く。抱き抱えられているのだと分かった。降ろして、と抵抗する力も出すこともできない。痺れる手足、遠のいていく意識の中、慈門の腕に抱き抱えられたまま動くことすらできなかった。
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