恣意的なぼくら。

田原摩耶

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3.???

03


 均衡感覚がいかれている。
 壁に手をつかなければ真っ直ぐ歩くのも辛いが、手をつけば腕が酷く痛む。
 それも慣れてくれば痛覚が麻痺してくるだろう蹌踉めく体を鞭打ち、僕はそのまま部屋から出た。

 扉を開く。そこには通路といくつかの扉があった。
 そして目の前の壁には犬馬利千鹿がもたれかかっていた。扉から出てきた僕を見るなり、犬馬利千鹿はにこりと微笑む。
 それから僕の体を支えるようにそっとその背中に手を回した。

「……っ、なんの……」
「辛そうだったから。椅子、向こうにあるよ。座る?」
「……」

 触るな、と手を振り払いたかったが、今は部屋の中の様子を確認したかった。
 小さく頷き返せば、犬馬先輩は目を細めるようにして笑った。

「ね、織和チャンさー。痛み止め切れてきたっしょ。変わりあるよ、飲む?」
「……結構です」
「そんなに警戒しなくてもいいのに。もうすでに君は口にしてるからね」
「……」

 他人の家で気を失うことの恐ろしさに改めてぞっとする。吐き気がした。今すぐ喉に指を突っ込みたかったが、どちらにせよ手遅れであることには代わりない。
 そこには僕の想像する一般的な家が広がっていた。窓の外では叩きつけるような雨の音が聞こえてくる。
 リビングにはダイニングテーブルと、それから大人数で座れるソファーがある。その辺には脱ぎ散らかされた服もあれば灰皿も出しっぱなしだ。
 見てわかることは、一人暮らしではなさそうだということだった。統一感のないインテリアや家具、食器類を見る限り複数人がここを出入りしてるように見えた。
 或いは、お友達が来た時用か。

 僕はソファーに腰をかけず、椅子に腰をかけることを選んだ。ボトルに入った水を犬馬先輩は用意した。新品のそれを目の前で開け、グラスに注いでいく。その仕草が妙に癪に障った。

「……ありがとうございます」
「お礼が言えるいい子だねえ、織和チャン」

 喉が渇いていたのは事実だった。飲む気にはなれなかったが、肉体的な渇きには逆らえなかった。
 グラスに口をつければ常温のそれはゆっくりと粘膜に染み渡る。変な味はしない。強いてあげるなら、自分の血の味くらいか。
 脳に酸素が流れ込んでくるのを感じた。

「で、どうする? 天翔のやつ、起こしてあげようか」

 水を口にする僕を覗き込み、机に手を置いた犬馬はそのまま微笑みかけてくる。
 頬に触れる指先はそのまま顎先までゆっくりと滑り落ちていく。――試されている。
 まだ生々しい記憶が蘇り、背筋が震える。不快以外の何者でもない。

「……」

 犬馬利千鹿が何を考えているのかまだ分からない。
 そんな状況で目を覚ました慈門君と会って、どうなる。最悪人数不利の状況は作りたくなかった。

 僕は先輩の指から逃げるように体を逸らし、首を振る。

「……っ、……」

 俯き、肩を縮こませる。
 無理です、と拒絶の言葉の代わりに「今は」と喉から声を絞り出した時、覗き込んでいた犬馬先輩は「あらら」と僕の目尻に指を伸ばした。ぽろぽろと溢れる涙を拭い、「泣いちゃった」とそのまま舌先で涙の粒を舐めとる犬馬利千鹿。
 気色の悪い男だ。本当に。この男は他人の体から出る体液だろうが口にすることに抵抗がないらしい。

「ならもう少し俺といる?」
「……どうして」
「ん?」
「どうして、慈門君を助けたんですか」
「……」
「先輩も巻き込まれるって分かってましたよね。……慈門君の先輩なら、慈門君の性格も……」
「知ってる」
「……なら」
「君はなんて答えて欲しいの? 織和チャン」

 犬馬利千鹿は僕の顎先を捉え、強引に自分へと向かせた。
 明るい部屋の中、照明が眩しくて思わず表情筋が硬直する。

「俺が天翔に脅されてやってる? それとも、織和チャンを助けるために招き入れたとか? ……ま、どっちも違うけど」
「……」
「言っただろ? 俺は織和チャンのこと気に入ってるんだって。天翔のことも勿論可愛いけどね。……なるべく可愛い織和チャンのためにも誠実でいたいんだけどさ、これ以外に言いようがないんだよなー。ここだけの話」
「……」
「んで、織和チャンはどうなの? 慈門のやつが同じ屋根の下にいるのが怖い? あいつのこと、追い返してほしいの?」

「さっきからずっと物欲しそうな目をして俺のこと見てっけど」顎のラインを撫でていた指先がそのまま柔らかく唇に触れる。慈門君に殴られた時に切れたのだろう。犬馬先輩の指が唇に触れた瞬間、ぴりっと痺れるような痛みが走った。
 体が跳ね上がる。それでも先輩は手を離さなかった。

「今なら俺、君の犬になってあげるよ。織和チャン」
「……」

 全てに手応えがない。用意された言葉を目の前に並べ立てられ、その真意を覆い隠されている。
 この人に腹の中に何かを抱えているのは分かった。それが意識的なのか無意識なのか分からないが、唇をくすぐるように囁かれる言葉は傷口に染み込んでいく。
 恐らく、これはこの人の常套句なのだろう。

「……先輩」
「俺はいつでも弱いものの味方なんだ」
「……僕が可哀想?」
「そ。見てられないくらい痛々しいよ、君」

 触れる唇を払い除けようとするよりも先に手首を掴まれる。そのまま僕の手首を自分の口元へと寄せた先輩は僕の手のひら――握りしめた時にできた爪の傷で傷ついたそこにちゅ、と音を立てて唇を押し付ける。
 何を、してるのだ。この人は。

「……っ、……先輩」
「はは、ドン引きしてる顔。おもろいねー。ダメだよ織和チャン、もっと上手くやらないと」

「せっかく君がやりやすいようにノってやったのに、そこまで嫌がられると傷つくなー」と全く傷ついた様子もなく犬馬先輩は僕の手のひらに舌を這わせる。
 ぴちゃぴちゃと濡れた音を立てながら生命線から手首の血管まで辿る舌先。それを振り払おうとするが、犬馬先輩の力は強い。

「……なに、……っ」
「俺を籠絡して、味方につけて、天翔のやつを助け出そうとでも思ったのかな? ま、妥当だよな。そんなことしなくても、最初からそう正直に言ってくれたら普通に返すつもりだったんだけど……気ぃ変わったわ」

 手のひらから滲む血を舐め取り、犬馬先輩はそのまま僕の体を抱き寄せる。
 逃げようとしても離れない。強い力で抱きしめられた瞬間、全身が拒絶のあまり硬直する。

「……っ、は、なせ……ッ!」
「君をあいつの前で犯したら楽しそうだよな」
「……ッ」

 正気か、と目を見開けば、犬馬先輩はクスクスと楽しそうに笑う。

「気にならない? 織和チャンさあ、あいつがどんな顔するか」
「……っ、ふ、ざけないでください、こんな――」
「あいつを苦しめたかったんだろ?」

 落ちてきた声に全身の熱が引いていく。
 犬馬利千鹿はただこちらをまっすぐに見つめていた。

「浮気されたくらいでさ、君はあいつを許せなくなっちゃったんだ。だから、死んで欲しいって。……まじで君、いいね。終わってるわ、天翔のこと、別に本気で好きなわけでもないくせに」

 この、男は。
 テーブルの上に置いてあった陶器製の灰皿を掴んだ瞬間、先輩はそれを手にして離れたソファーへと放り投げる。「あっぶね」と笑い、唇を舐める。

「いいね、ゾクゾクしてきた。君、性格最悪でしょ」

「優等生でエロくて性悪、いいね。最高。俺、そういう子まじで好きなんだよな」どこまでが本音なのか、犬馬利千鹿は笑いながら僕の前髪を掴み上げ、額と額がぶつかりそうなほど顔を寄せる。

「残念だけど、君は天翔に売られたんだよ。俺にさ」
「――っ、そ」

 そんなわけない、と言葉を続けるよりも先に犬馬先輩は「あるだろ」と笑う。大きな口を開け、目を細める。下品な笑い方。

「君が悪いんだろ。天翔の好きな織和チャンでいてくれなかったんだから。たかだか浮気くらいでな」

 自業自得だよな、と笑う声は脳へ直接染み込んでいく。感情が昂ったおかげか、どこかが切れてしまったらしい。ぬるりとした生温かな感触が鼻から溢れ出す。それを拭うこともできず、犬馬先輩は舌を這わせた。鼻血で真っ赤に濡れた舌先で唇を汚すように舌を這わせ、先輩は「でも大丈夫」と上機嫌に繰り返す。

「俺は優しいんだ、織和チャン。君のことも天翔の分まで大切にしてあげるよ」

 幸せかどうかはしらねーけど。
 犬馬利千鹿は楽しそうに目を細める。
 この男の善意など最初から信じるつもりなどはなかった。けれど、なによりも。
 この男は最初から慈門君のことすらなんとも思っていなかったのだろう。それだけは分かり、だからこそ余計頭に昇っていた血が引いていくのが分かった。

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