恣意的なぼくら。

田原摩耶

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1.イネイブラー

アンダードッグ

「あれ、君……」
「ぁ、あの、ごめんなさい、前見てなくて……っ!」

 そう慌てて犬馬先輩に頭を下げた時、さっきまでのキラキラした笑顔が消え失せた。

「本当びっくりしたよ。骨折れるかと思ったわ」

 そう肩を抑え、吐き捨てるようにぼそりと呟く犬馬先輩に「え」と凍りついたのも一瞬。その笑顔に先程の笑顔が戻った。

「なーんて、冗談だって。織和ちゃんだっけ、この前センセーに呼ばれてた子だ」

 え、今のはなんだったんだ。
 本気で怒らせてしまったのではないかと戸惑う僕に構わず犬馬先輩は首を傾けて僕の顔を覗き込んでくる。
 しかも、なぜかしっかりと覚えられてるし。
 あ、え、と反応が追いつかなくてただ目をパチパチさせることしかできないでいる僕に構わず犬馬先輩は楽しそうに笑い、そして馴れ馴れしく肩を抱き寄せてくる。

「震えてんのかわい。ねえ、織和チャンのことずっとどっかで見たことあんな~って思ってたけど君アレじゃん。慈門のお友達」
「あ……は、はい」
「声ちっさ。あは、なんか怖がってる? 大丈夫大丈夫、俺優しいよー?」

 よしよし、とどこかひょろりとした見た目よりもがっしりとした手のひらで頭を掴まれ、ぞわりと背筋が震えた。いつの日かに慈門君に頭を掴まれ顔面ごと布団に押し付けられたことを思い出してしまったからだ。
 そのまま後頭部の丸みを確認するように優しく後ろ髪を撫でつけられ、体は一層緊張する。
 僕とこの人はほぼ初対面のはずなのに、なんでこの人はこんなに距離が近いんだ。

「俺のこと知ってる?」
「犬馬先輩……ですよね? いつも慈門君がお世話になってます」
「え、なにそれ。織和チャンあいつのお母さん?」

 慈門君の知り合いだと分かってるからこその態度なのか、遠巻きに見ても確かにスキンシップが多い人というイメージはあったけど、この触り方は少し、いや大分嫌だった。
 けれど、それを拒むことはできない。
 早く慈門君に会いにいかなければならないのに、話題の途切れを探ろうとするが犬馬先輩は僕に隙を与えてくれない。

「慈門のやつの友達にしてはタイプ違うから気になってたんだよね。あいつ、俺には紹介してくんないんだもん。良かった、あいついない時に織和チャンと会えて」

 頭を撫でていた手は横髪をかき上げるように耳にかけてくる。そのまま見つめてくる犬馬先輩に心臓はより大きくなる。
 怖い。犬馬君に触れられるのとは違う。なんだ、これは。

「あ、あの……」
「今帰り? 暇ならどっか行こうよ」
「あの、犬馬先輩……僕……」

「利千鹿ッ」

 この後予定があるので、と絞り出そうとした矢先だった。階段から人が勢いよく駆け上がってきたと思いきや、現れたよく見知った人物に「慈門君」と思わず大きな声が出てしまう。
 利千鹿というのは確か犬馬先輩の下の名前だ。慈門君は怒っていた。僕――ではなく、僕の肩を抱き寄せる犬馬先輩を見ては更にその血相が変わるのを見た。
 犬馬先輩は小さく舌打ちをする。それから、大股でやってきた慈門君にやれやれと言わんばかりに肩を竦めるた

「……っと、まず。ワンチャン来ちゃったね」
「何してんだよアンタ……っくそ、まっすぐ帰ってると思ったら……おい、近い! 折から離れろって!」
「分かった分かった、別なんもしてねえって。ただ楽しくお話ししてただけだもんなあ? 織和チャン」

 それにしてはベタベタと触られるのは恐怖だったが、犬馬先輩に同意を求められると怖くて頷き返すことしかできない。
 慈門君は「折……っ、お前な……」とイラついたように何かを言いかけたが、それよりも犬馬先輩に頭にきてるらしい。
 狼狽える僕の手を取り、半ば無理やり犬馬先輩から引き離した。

「帰るぞ、折」
「あ、え……ちょっと……!」
「織和チャン、バイバーイ! 今度は二人きりで会おうな」

 慈門君に引きずられる僕に手を振る犬馬先輩。慈門君はすかさず「ある訳ねえだろ!」と大声で怒鳴り返しては犬馬先輩は楽しそうに笑っていた。

 犬馬先輩は最後の最後まで掴めない人だった。
 悪い人ではない、と思いたいけど、ただ明るい人だと思っていたのに僕の張った壁もラインも全て無視して踏み込んでくる犬馬先輩のことは素直に怖かった。


 それから学校を離れるまで慈門君はむっすりと黙ったままだった。それなのに、しっかりと握り締められた手のひらの熱はしっかりと熱い。
 何を考えているのか。以前の怖い慈門君が帰ってきたような気がして声をかけ、名前を呼ぶことすらも躊躇してしまう。
 けれど。


「じ、慈門君……ま、待って……っ!」

 人通りのない路地裏。ポツポツと開店し始めた飲み屋が並ぶその大通り、小脇に入った狭く薄汚れた路地へと入っていく慈門君に引っ張られ、足元のダストボックスに引っかかって転びそうになる。
 そこで僕の体を軽々と受け止めた慈門君は、そのまま僕を抱き直す。側から見れば学生服着た男子生徒同士が抱き合ってるように見えるだろう、けれど実際はどうだ。

「……折」
「じ、慈門君……怒ってる?」
「……」

 何も答えず慈門君は僕の頬に手を伸ばす。以前殴られ赤く腫れていたが、今は元の状態に戻ったそこを優しく親指で揉まれ、つい背伸びしてしまう。
 怒ってはいるのだろうけど、それは僕に対してではない。先程別れたばかりの先輩のにこやかな笑顔を思い出す。

「ご、……ごめん。僕がちゃんと断れなくて」
「……いや、仕方ねえよ。折、ああいうタイプ苦手だもんな」
「……うん、ちょっと怖かった」

 素直に胸の内を吐露すれば、「だよな」と申し訳なさそうな顔をした慈門君は僕の頭を優しく撫でるのだ。犬馬先輩に触れられたのを上からマーキングするみたいに。

「なんか変なこと言われた?」
「え? いや、そこまでのことは……」
「本当か? 無理してるとかじゃねえよな」
「う、うん……確かに緊張したけど、少し慈門君の話したくらいで……」
「なんて?」

 ほんの一瞬、頭を撫でていた慈門君の手に力が入り、髪がその指に絡む。驚いて慈門君を見上げれば、「なんて言われたんだ?」と畳み掛けるように慈門君は顔を近づけてきた。

「ふ、普通の……その、慈門君とよく一緒にいるのを覚えられてたみたいで……」
「で?」
「……それだけ、だよ。それだけ」

 変なことは言われたが、それを言えば更に慈門君の怒りを煽ってしまいそうだったので黙っておくことにする。
 僕は慈門君に落ち着いてもらいたかった。怒らせたいわけではない。
 一応は信じてくれたらしい、慈門君はイラついたように髪を掻き毟る。

「はあ……ったく、くそ、油断も隙もねえな」
「慈門君……」
「……あー、お前じゃねえから。お前は今回被害者だもんな。けど折、頼むから利千鹿君と二人きりになんなよ。あの人、ちょいおかしいから」
「おかしい?」
「見たまま。距離感おかしいし、人のモンとかそういうの全然関係ねえから」

 人のもの、と言われて頬が熱くなる。
 確かに変な触れ方をする人とは思ったし、二人きりを強調してくると思ったけど。
 あんな遊び相手には困ってなさそうな人がそういう意味で僕に声をかけてくるとは思えない。

「慈門君、いくらなんでも心配し過ぎだよ。僕、そこまで可愛くないから」
「バ……っ、はー……お前さあ。まじで可愛いよ、お前は。折」
「それ、思ってるの慈門君だけだよ」

 僕よりも女の子っぽい可愛い子も学校にはたくさんいるし、そもそも犬馬先輩にはいつも傍に色んなタイプの女の子が一緒にいるイメージもあった。
 リップサービスというか、多分そんな犬馬先輩なりの親愛の挨拶である可能性すらある。

「……なに笑ってんだよ、折」
「ごめん。妬いてる慈門君、ちょっと可愛かったから」
「……あのな、折」
「あっ、そろそろ帰らないと。この辺、あまり遅くまで制服でいると補導されちゃうよ」
「いいんだって、そんなこと」
「よくないよ、また慈門君が悪い子扱いされたら……僕……」
「悪い子って、お前な……はあ」

 言うのも疲れたというような様子で、諦めた慈門君は僕の手を握り直す。

「……慈門君?」
「俺がしっかりしねえとな」

 まさか慈門君からそんな言葉が出てくるなんて。
 嬉しくなって僕は「よろしくね」と慈門君の手を握りしめた。

 そのまま慈門君と手を繋いで帰る。道中相変わらず慈門君は不機嫌だったので今日は慈門君の家には寄らず、真っ直ぐ自宅まで送り届けてもらうことにした。
 部屋に戻ってきた時にはいつの間にか犬馬先輩といたときの緊張も忘れていた。
 でも、これから慈門君と一緒にいるなら僕ももう少し苦手を克服していかないとな。

 ……そういえば犬馬先輩はなんでこの時間まで残ってたんだろう。
 あの人、部活に所属してないと思ってたけど。
 ま、どちらでもいいか。
 そんなことを考えながら僕は制服を脱いだ。

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