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第二章
04
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酷い夢を見た。目の前で兄が花戸に犯されてる夢だ。筋張った大きな手で兄の細く白い首は締め上げられ、赤黒く変色していく。
駄目だ、やめてくれ、それだけは。
――自分が代わりになるから。
そう必死に声を上げ、兄を助けようとしても実際に喉元から声が発されることはなかった。
そして、抵抗していた兄の手足はぱたりと地面に落ちる。悪夢だった。俺はなにもできないまま、兄を助けることもできないままで。
目を開けば、頬が濡れていた。全身が軋むように傷んだ。酷く、喉が乾いた。朦朧とした意識の中、近くに花戸がいないかを探る。
花戸はこの部屋にはいないようだ。相変わらずベッドに拘束された脚では動くことができなかった。
ここに来て、やつに閉じ込められてどれほどの時間が経ったのだろう。そろそろ両親が心配してるのではないか。警察に捜索願を出してるのではないか。そんな風にぼんやりと考えていたとき、遠くから足音が近付いてきて全身が凍り付いた。逃げ場などベッドの上にはない。
動くこともできないまま固まっていると、やがて部屋の扉が開いた。
――花戸だ。どこかから帰ってきたのだろうか、上着を羽織ったまま、花戸はベッドの端で硬直する俺を見て「ああ、起きてたんだね」と微笑んだ。
「体の調子はどう?」
「……っ、……」
いいわけないだろ。
そう言い返したいのに、言葉が喉に突っかかったように出てこない。また、首を締められるかもしれない。殴られるかもしれない。……両親に手を出すかもしれない。
そう考えた瞬間、何もできなくなってしまうのだ。
そんな俺を見て、花戸はそっと頬から額へと触れてくる。恐ろしいほど冷たい指先に息を飲んだ。
「……少し火照ってるね。寝起きだからかな?」
唇に触れ、口を開けた花戸はそのまま喉奥を覗き込み「喉も腫れてる」と眉尻を下げた。
「少し体調がよくないみたいだね。……取り敢えず、水と薬持ってくるよ。ご飯は? 食欲はある?」
問い掛けられ、すぐに返答することはできなかった。何故、こんなやつに素直に答えないといけないのか癪だった。それなのに防衛本能が働くのだ、ここは答えておけと。
ない、と小さく首を横にだけ振れば、花戸は益々心配そうな顔をするのだ。
「……そっか。本当は今日、君に少し頼みたいことがあったんだけど君が元気になるまではお預けかな」
そう、言いながら上着を脱いだ花戸はそのコートを椅子の背もたれにかける。
花戸の言葉が引っかかり視線を向ければ、花戸と視線がぶつかった。
「まあ、気にしなくてもいいよ。俺の方でなんとかしておくから、間人君はゆっくり休んでて」
「この間は無理させちゃったからね」なんて、なんでもないように微笑むこの男に背筋が震えた。
この男にとって俺が本気で殺されると恐怖したほどの行為は『無理』で済むのだ。
「流石に食欲なくてもそろそろご飯食べないと倒れちゃうだろうから……食事、お腹に負担少ないもの用意するよ。少し待ってて」
花戸はそう俺をそっと抱き締め、部屋を出ていった。扉に鍵が掛かった音は聞こえなかった。
花戸がいなくなった部屋の中、花戸の残り香が酷く不快だった。
そして、俺は椅子に掛けられたままになっていた花戸の上着に目を向ける。忘れたのだろうか、普段俺の部屋になにも残さないあの男が。
迂闊ではないか。袖を結んで天井の照明に引っ掛ければ首を括ることは出来るかもしれないというのに。思いながらも、俺は恐る恐るその上着に手を取る。なにか携帯か鍵か入ってないか、そうポケットを漁ってみるがそれらしいものはなにも入ってない。
すぐに落胆し、俺は花戸の香水の匂いがするそれを椅子へと放り投げた。
ずっと同じ部屋にじっとしているおかげか、より五感が過敏になっているような気がした。それだけが原因ではないだろうが、花戸の匂いがより濃く感じるのだ。
◆ ◆ ◆
それから花戸が再び部屋へとやってきた。
花戸が手にしたトレーには簡素な料理が盛られた皿が乗っていた。この部屋で食欲など沸くはずがなかったが、生きるためだ。それに、下手に反抗的な態度を取ったらこの男が逆上するかもしれない。
昨夜の花戸のことを思い出すと、ぶるりと背筋が冷たくなるのだ。
渋々料理を口にする俺を、ただ花戸は嬉しそうにニコニコと笑いながら見ていた。
流石に、用意された全てを完食することはできなかった。それでも半分ほど食べた俺に花戸は安心したようだ。もしかしたらキレられるのではないかと思ったが、「無理して全部食べなくていいよ」なんて言ってすぐに皿を片付けるのだ。
あの男がなにを考えてるのか分からない。
……理解しようとも思わないが。
花戸は本当に俺の体調が優れないと思っているらしく、その日は俺を寝かしつけた。
花戸が言っていた『俺に頼みたいこと』は結局分からず仕舞いだったが、どうせろくなことではないのだろう。放っておいてくれるのならその方が遥かにましだ。
そう俺は身体を休めることとなる。
娯楽のない、行動すらも制限されたこの部屋の中でできる暇つぶしは食事と睡眠を繰り返すことしかない。
今は英気を養おう。そう自分に言い聞かせ、眠くもない身体を無理やり寝かしつけて過ごした。
日をろくに浴びることもできないこの生活で時間感覚が狂わないわけがなかった。
どれほど眠ったもかもわからない。この部屋にきて何日経過したのかすらも。
そんな中、微かな物音を聞いてふと目を覚ました。扉の向こうから聞こえてくるのは足音だ。それから、花戸の話してる声が聞こえてくる。
――電話、しているのか?
今ここで助けてくれ、と声をあげれば助けを求めることができるのではないだろうか。そう思ったが、口が何かで蓋されていることに気付いた。口の中に詰められたのはハンカチだろうか。咥内の唾液を吸い取られた上、更に蓋をするようにガムテープかなにかで口を塞がれているお陰でくぐもった声すらも吸収される。
手足もしっかりと拘束されたまま、俺は口の中で舌打ちをした。そして助けを求めることを諦めて、扉の外から聞こえてくるその声に聞き耳を立てることに集中する。
『……ええ、はい。……そうですね』
通話しているらしい花戸の声は俺と話しているときとはまた印象が違う。なんだか硬い声だと思った。
『俺の方でもなんとかしますよ。……ええ、大丈夫です。彼は物分りがいいので』
――なんの話だ?
花戸が敬語で話している相手など俺には検討も着かない。話し方からして親しい相手というわけではなさそうだ。
それから花戸の声は聞こえなくなる。そして、扉の前を彷徨いていた足音はぴたりと止んだ。
なんとなく嫌な予感がして、咄嗟に俺はベッドの上で仰向けになったまま寝たフリをした。
すると、案の定扉が開いたのだ。
「…………」
足音を立てないようにしているのだろう。それでも、足音を立てないようにと扉の方から近づいてくる気配はあまりにも濃かった。
起きていると気取られないように寝たフリをしたまま、俺は目を開かないようにだけただひたすら集中する。
そのとき、不意に額になにかが触れた。ひやりとしたその冷たい感触は間違いない、花戸の手だろう。前髪を掻き分け、そして額に直接触れる手はそのまま頬、首筋へと滑り落ちていく。
思わず反応しそうになるのを必死に堪え、俺は呼吸を乱さないように努めた。
熱を測っているつもりか、花戸は暫く俺の顔に触れるとすぐに手を引いた。
それから小さく音を立て、額に唇を押し付けられる。
思わずぴくりと反応してしまうが、再び寝息を立てるフリをすれば花戸はなにも言わずにベッドから離れるのだ。
そして寝室の扉が閉まる音を聞いて、ようやく俺は緊張を解いた。
「……ッ」
――なんだったんだ、今の。
まだ花戸に触れられている感触が残っているようだった。その感覚がひたすら不快で、俺はそれを紛らすように何度も拭った。
それから再び眠りにつくのに時間がかかった。もやもやとした気分のまま、先程の盗み聞きした花戸の会話を頭の中で反芻する。
考えたところで答えなど出るはずもなく、ただ時間だけが経過した。
そして、そんなことをしている間に再び俺は眠りに落ちたようだ。次に目を覚ましたとき、部屋には花戸がいた。
あいつは俺の体温を確認し、「今日は元気そうだね」と安堵の色を浮かべる。
そして、
「それじゃあ、間人君。君も準備しないとね」
準備ってなんだ、と顔を上げれば、花戸はにこりと微笑んだ。
「お出かけだよ、間人君」
たまには外の空気も吸わないといけないみたいだからね、なんて笑う花戸に一瞬俺は耳を疑った。
「……お出かけ、って」
聞き間違えかと思わず顔を上げる。花戸は俺が答えたのが嬉しかったようだ、にっこりと微笑んだまま「そうだよ」といつもよりも声をワントーン高くする。
「行き先はまだ秘密だけど、きっと君も楽しめるんじゃないかな」
妙な言い回しをする花戸に引っ掛かる。
外に出してもらえるのは願ったり叶ったりだが、なんだろうか。なにか違和感を覚えた。
それに、相手は花戸だ。この男が簡単に俺を開放するとは思えない。油断するな、と自分に言い聞かせる。
「それじゃあ、さっそくお着換えしないとね。ああそうだ、こんな時もあると思って間人君のサイズに合う服を何着か用意させてもらったよ」
言いながら一度寝室を出て行った花戸は腕に袋を抱えて戻ってきた。
「この中から好きなものを選んでね」なんて一人楽しそうに笑いながらベッドの上に服を広げていく花戸。
服など親が買ってきたものを適当に見繕っていた俺にはファッションのことなんて微塵もわからなかったが、俺が着ていた安物の服とはまるで違うということはわかった。普段花戸が着ている服となんとなく系統が似ている。
正直、ゾッとした。いつの間にこんなものを用意したのかということもだが、この男の趣味を押し付けられているこの状況にも。
「……なんでもいい」
「じゃあ俺が選んじゃおうかな。俺的にはきっとこの黒の……」
「白いやつ」
「一番端のやつでいい」それは条件反射のようなものだった。この中で一番花戸の好みの服など袖も通したくなかった。
遮る俺に怒るわけでもなく、ふっと口元を緩めた花戸は「わかった」と笑った。
ほんの一瞬、もしかしたら逆上するのではないかと覚悟していたがやつは終始いつもの穏やかな態度のままだった。
それから、俺は花戸に着替えさせられる。
手足の拘束を解かれ、やつの手によって服を着せられていくのは屈辱でしかなかったが外に出るために必死に堪えた。
そして、最後に乱れた俺の髪を手で直した花戸はこちらを除き込み、「あは」と笑う。
「良かった。俺の見立て通りだ。……君はこういう服もよく似合う」
中身はともかく、顔だけは整った花戸ならいざ知らず俺にはこういう大人っぽい服は似合わない。それよりも、動きやすいラフな格好の方がまだいい。
恐らく花戸はそんな俺の好みを分かってて言ってるのだろう。それがわかったからこそ余計腹立った。
「ああ、ちょっと待っててね。それと……これも忘れないようにしないと」
そう花戸は先程持ち出した袋の中から何かを取り出した。
ベルト状の、なにやら小さな機械が取り付けられたそれを俺の目の前に掲げた花戸はそのままそれを俺の首に回すのだ。
「……っ、な、に……」
「ああ、そんなに怯えなくていいよ。間人君は電流首輪って知ってる?」
「……は?」
その単語に嫌な予感しかしなかった。咄嗟に花戸の手を掴み、止めようとするが花戸はそれをものともせずに俺の首に巻きつけるのだ。そして、緩まないように隙間なく締められる。喉を締め付けるそれを触れようとした瞬間、ベルトに首が締め付けられる。そして次の瞬間、強い痛みが首に走る。
「っ、……ッ!!」
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
ばちりと耳元から頭の中で大きな音が弾けたと思えば、いきなり全身に駆け巡る刺激に全身の筋肉が硬直する。
「はは、びっくりした? 今のは軽くだけど……もし君が逃げ出そうとしたりしたらこの首輪から電気が流れるようになってるんだ。本来なら犬の躾用らしいんだけど、人間の躾にも丁度良いみたいだね」
「……ッ、……」
「ああ、ごめんごめん。もうしないよ。今のは試しっていうか、身を以て理解した方が早いかなと思って。……君が逃げ出そうなんてしなかったらこれを操作することはないからね」
目を見開いたまま動けなくなる俺。そんな俺を見下ろしたまま、花戸は小さなリモコンを指先で弄んだ。どうやらそれで電流を流しているようだ。
花戸は「痛かったね」と俺の頭を撫で、そのまま首輪を隠すように襟を詰める。首に小型の爆弾を取り付けられたようなものだ。おまけにこの首輪、電流だけではなく俺が引っ張れば締まり、触れなければ少し緩むようになっているようだ。
ただで外に出してもらえるとは毛頭思わなかった。それでも、これでは――。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
そんな俺の気なんて知らず、花戸は俺の手を握るのだ。
……せめて、この男からリモコンを奪うことができれば。
そんなことを考えながら、未だヒリつく首に触れた。それだけで反応する首輪に、俺は慌てて指を離した。
クソが、と口の中で吐き出すのが精一杯の抵抗だった。
ずっと外へ出たかったはずなのに、全く喜ばしくないのは間違いなくこの首の異物のせいだろう。
「今日は肌寒くてよかったね、そのマフラーも君に似合いそうなものを選んだんだ」
マンションの一室を出て、新鮮な空気とその開放感に喜ぶのもつかの間。すぐ背後からぴたりと身を寄せるようについてくる花戸に、ただでさえ鬱陶しい首のそれがずしりとより一層重く感じた。
無骨な首輪を隠すように巻かれたマフラーを今すぐにでももぎ取ってやりたかった。この男は人殺しだと叫んでやりたかった。
けれど、それをできなかったのは首輪だけが原因ではない。
「さあ、行こうか。駐車場は地下にあるんだ」
少しでも逆らえばこの男は実家へと向かう。
見えないナイフを常に首筋に押し当てられているような恐怖の中、真っ直ぐに歩くこともできなかった。
久し振りに履いた靴、そして踏み締める地面が異様に硬く感じる。足の筋肉が弱ってるせいだろうか、今まで自分がどんな風に歩いていたのかわからなくなっていた。
そんなふらつく俺の腰を抱いたまま、花戸は「ゆっくりで大丈夫だよ」と優しく声を掛けてくるのだ。
マンションの通路には窓やベランダもない、まるでビルの中のような通路がただ伸びていた。
そしてその先にはエレベーターが一基存在していた。そして花戸はエレベーターに乗り込み、手にしていたキーを操作盤上に翳す。階数ボタンが点灯し、それから花戸はF2を選んだ。
ずっとこのマンションの一室にもいたにも関わらず、見たことのない施設への視覚的な情報量に圧倒される。
部屋の中から実家の部屋いくつ分もの広さにもしかしてと思ったが、俺の常識からしてもその内装やセキュリティからして良いマンションだということはわかった。
呆気に取られているわけにはいかない。分かっていたが、この状況に未だ戸惑っている自分もいた。
そして暫くもせずエレベーターは停止する。
扉が開いた瞬間、先程までの空間とはまた違うひんやりとした空気が流れ込んできた。
――花戸の自宅マンション・地下駐車場。
花戸は「こっちだよ」と俺の肩に手を置き、歩き出すのだ。あまりにも馴れ馴れしいその仕草に今更嫌悪感を出す余裕もなかった。
今は急かず、少しでも多くこの男の情報を手に入れた方が賢明だ。このマンションの造りや車種などなんでもいい、とにかく弱味を掴む。
そして、隙きを探すのだ。絶対に逃げられるタイミングを。
二人分の足音が冷え切ったコンクリートの空間に反響する。歩いていると、見覚えのある車が近付いてきた。
あの車に最初に最後で乗り込んだとき、俺はこの男がこんな悪魔のような男だとは露も知らなかった。
あのとき疑いもしなかった自分がただ腹立たしくなるが、そんなことを後悔してる場合ではない。キーケースを取り出し、車を解錠させる。
それから花戸は俺をあのときと同じように助手席に乗せ、そのまま運転席へと乗り込んできた。
乗り込んだ瞬間、車内に広がる煙草の匂いに具合が悪くなってくる。甘ったるいあの匂いだ。
「これからどこへ行くと思う?」
「……」
「どこへ行くと思う? 間人君」
「っ、……分からない」
やつが上着のポケットに手を突っ込むのを見て咄嗟に答えてしまう。また電流を流されると思ったが、俺が答えれば花戸は笑うばかりで恐れていた電流が首輪から流れるようなことはなかった。
ハンドルを手にした花戸は「そっか」と他人事のように呟いた。
「でもきっと、君は喜んでくれるんじゃないかと思うよ。……とてもね」
それから車は走り出した。重苦しい空気の中、花戸の趣味だろうか、それともたまたまその局番だったのか車内に静かなクラシックが流れ始めた。
花戸は相変わらずなにを考えてるのか分からない。変わる景色を眺め、現在地を把握しようと窓の外を眺めていると段々外の景色は大通りから見覚えのある住宅街へと入るのだ。
どれほどの時間が掛かったのかも覚えていない。体感数分、それでも現れたその景色に息を飲む。
そして、閑静な住宅街の一角。花戸はとある一軒家の前で車を停めた。
「さあ、降りなよ間人君。
――帰りたがっていた君の家だよ」
花戸はそう笑って助手席を開いたのだ。
「は……」
なんで、どうして。
理解が追いつかなかった。車窓の外に見慣れた景色が映し出されてからまさかと思っていたが、そんなはずがないと思っていた。
「降りなよ、間人君。それとも、一人じゃ降りられないなら俺が手を貸そうか」
「な、んで……ッ」
「なんで? 気になってたんだろう、家のこと」
寧ろ何故そんなことを聞くのかと不思議そうに小首を傾げる花戸だったが、やつは動けないでいる俺の首元、そのマフラーをそっと締め直すのだ。
「……それに、改めて君のご両親には挨拶に行かないといけないなとは思っていたんだ」
「ああ、勿論侑にもね」と思い出したように付け加える花戸に背筋が震えた。
怒りとも違う、理解できない事象を前にしたときのような足が竦むような感覚だ。
逃げるなら今しかない、そんな俺の思考を読んだ上での行動なのか。
だとしても、この男が何を考えているのか分からない。
さあ降りて、と優しく腕を引かれる。
嫌だ、帰りたくない。そうほんの一瞬でもそんな考えが過ぎってしまう己に余計混乱する。
――理由は分かっていた。この殺人犯を自宅に上げたくない。
それでも、花戸はそんな俺を優しく諭すように「大丈夫だよ」と口にする。
「君はただ俺の横にいてくれるだけでいいんだから」
「……っ」
「ずっと無断外泊してたんだ。君のお父さんもお母さんもとても心配してたから少しは怒られるかもしれないけど、ちゃんと俺の方から伝えていたから――だから、大丈夫だよ」
この男は何を言ってるのか。
ずっと連絡を取っていた?……誰と?
理解したくない。脳が拒否する。固まっていると、自宅の扉が開いた。そして現れた母親の姿を見て血の気が引いた。
車の前に立っていた花戸を見るなり、母親は「花戸さん」と頭を下げるのだ。
その姿を見て頭の中が真っ白になる。
何故、母と花戸が既に知り合いなのか。
「すみません、遅くなって。……ほら、間人君も挨拶しないと」
「……っ、ぁ……」
「すみません、間人君朝からこの調子で……緊張してるみたいですね」
車から引きずり降ろされ、母親の前までやんわりと背中を押されるような形で歩かされる。
久し振りにあった母親は、最後に見たときよりも更に痩せ、小さくなったような気がした。
俺の顔を見て、「間人」と名前を呼ばれてびくりと肩が震える。
昼下がりの見知った住宅街、生まれたときから暮らしてる実家の前。目の前にはずっと気にしていた家族がいて、それなのに俺はたった一つの異物のせいでこの見慣れた光景すらも歪んで見えた。
違う、異物はもう一つ――俺の隣にいる男と、俺だ。
「おかえりなさい、間人」
「……っ、……」
「間人君、大丈夫?」
そっと後ろ手に手を握られ、背筋が凍りついた。
窄まった喉から声を出すこともできなかった。暖かな日差しすらも責め立てるように鋭く突き刺さり、ぐらぐらと視界が歪む。
どんな風に家族と接していたのか。どんな顔をして家族と過ごしていたのか。
まるで今までの自分が思い出せなかった。
花戸から逃げ出して実家へと戻ってきた暁にはすべてを伝え、助けを求める。そう思っていた、それだけを希望にしていたのに実際はどうだ。
「……た、だいま……」
変化を悟られないように笑おうと引きつった顔面の筋肉が軋んだ。
そして、理解してしまった。
今まで他人の悪意など無縁でのうのうと生きてきた今までの自分は、あのとき既にこの男に殺されていたも同然だったのだと。
駄目だ、やめてくれ、それだけは。
――自分が代わりになるから。
そう必死に声を上げ、兄を助けようとしても実際に喉元から声が発されることはなかった。
そして、抵抗していた兄の手足はぱたりと地面に落ちる。悪夢だった。俺はなにもできないまま、兄を助けることもできないままで。
目を開けば、頬が濡れていた。全身が軋むように傷んだ。酷く、喉が乾いた。朦朧とした意識の中、近くに花戸がいないかを探る。
花戸はこの部屋にはいないようだ。相変わらずベッドに拘束された脚では動くことができなかった。
ここに来て、やつに閉じ込められてどれほどの時間が経ったのだろう。そろそろ両親が心配してるのではないか。警察に捜索願を出してるのではないか。そんな風にぼんやりと考えていたとき、遠くから足音が近付いてきて全身が凍り付いた。逃げ場などベッドの上にはない。
動くこともできないまま固まっていると、やがて部屋の扉が開いた。
――花戸だ。どこかから帰ってきたのだろうか、上着を羽織ったまま、花戸はベッドの端で硬直する俺を見て「ああ、起きてたんだね」と微笑んだ。
「体の調子はどう?」
「……っ、……」
いいわけないだろ。
そう言い返したいのに、言葉が喉に突っかかったように出てこない。また、首を締められるかもしれない。殴られるかもしれない。……両親に手を出すかもしれない。
そう考えた瞬間、何もできなくなってしまうのだ。
そんな俺を見て、花戸はそっと頬から額へと触れてくる。恐ろしいほど冷たい指先に息を飲んだ。
「……少し火照ってるね。寝起きだからかな?」
唇に触れ、口を開けた花戸はそのまま喉奥を覗き込み「喉も腫れてる」と眉尻を下げた。
「少し体調がよくないみたいだね。……取り敢えず、水と薬持ってくるよ。ご飯は? 食欲はある?」
問い掛けられ、すぐに返答することはできなかった。何故、こんなやつに素直に答えないといけないのか癪だった。それなのに防衛本能が働くのだ、ここは答えておけと。
ない、と小さく首を横にだけ振れば、花戸は益々心配そうな顔をするのだ。
「……そっか。本当は今日、君に少し頼みたいことがあったんだけど君が元気になるまではお預けかな」
そう、言いながら上着を脱いだ花戸はそのコートを椅子の背もたれにかける。
花戸の言葉が引っかかり視線を向ければ、花戸と視線がぶつかった。
「まあ、気にしなくてもいいよ。俺の方でなんとかしておくから、間人君はゆっくり休んでて」
「この間は無理させちゃったからね」なんて、なんでもないように微笑むこの男に背筋が震えた。
この男にとって俺が本気で殺されると恐怖したほどの行為は『無理』で済むのだ。
「流石に食欲なくてもそろそろご飯食べないと倒れちゃうだろうから……食事、お腹に負担少ないもの用意するよ。少し待ってて」
花戸はそう俺をそっと抱き締め、部屋を出ていった。扉に鍵が掛かった音は聞こえなかった。
花戸がいなくなった部屋の中、花戸の残り香が酷く不快だった。
そして、俺は椅子に掛けられたままになっていた花戸の上着に目を向ける。忘れたのだろうか、普段俺の部屋になにも残さないあの男が。
迂闊ではないか。袖を結んで天井の照明に引っ掛ければ首を括ることは出来るかもしれないというのに。思いながらも、俺は恐る恐るその上着に手を取る。なにか携帯か鍵か入ってないか、そうポケットを漁ってみるがそれらしいものはなにも入ってない。
すぐに落胆し、俺は花戸の香水の匂いがするそれを椅子へと放り投げた。
ずっと同じ部屋にじっとしているおかげか、より五感が過敏になっているような気がした。それだけが原因ではないだろうが、花戸の匂いがより濃く感じるのだ。
◆ ◆ ◆
それから花戸が再び部屋へとやってきた。
花戸が手にしたトレーには簡素な料理が盛られた皿が乗っていた。この部屋で食欲など沸くはずがなかったが、生きるためだ。それに、下手に反抗的な態度を取ったらこの男が逆上するかもしれない。
昨夜の花戸のことを思い出すと、ぶるりと背筋が冷たくなるのだ。
渋々料理を口にする俺を、ただ花戸は嬉しそうにニコニコと笑いながら見ていた。
流石に、用意された全てを完食することはできなかった。それでも半分ほど食べた俺に花戸は安心したようだ。もしかしたらキレられるのではないかと思ったが、「無理して全部食べなくていいよ」なんて言ってすぐに皿を片付けるのだ。
あの男がなにを考えてるのか分からない。
……理解しようとも思わないが。
花戸は本当に俺の体調が優れないと思っているらしく、その日は俺を寝かしつけた。
花戸が言っていた『俺に頼みたいこと』は結局分からず仕舞いだったが、どうせろくなことではないのだろう。放っておいてくれるのならその方が遥かにましだ。
そう俺は身体を休めることとなる。
娯楽のない、行動すらも制限されたこの部屋の中でできる暇つぶしは食事と睡眠を繰り返すことしかない。
今は英気を養おう。そう自分に言い聞かせ、眠くもない身体を無理やり寝かしつけて過ごした。
日をろくに浴びることもできないこの生活で時間感覚が狂わないわけがなかった。
どれほど眠ったもかもわからない。この部屋にきて何日経過したのかすらも。
そんな中、微かな物音を聞いてふと目を覚ました。扉の向こうから聞こえてくるのは足音だ。それから、花戸の話してる声が聞こえてくる。
――電話、しているのか?
今ここで助けてくれ、と声をあげれば助けを求めることができるのではないだろうか。そう思ったが、口が何かで蓋されていることに気付いた。口の中に詰められたのはハンカチだろうか。咥内の唾液を吸い取られた上、更に蓋をするようにガムテープかなにかで口を塞がれているお陰でくぐもった声すらも吸収される。
手足もしっかりと拘束されたまま、俺は口の中で舌打ちをした。そして助けを求めることを諦めて、扉の外から聞こえてくるその声に聞き耳を立てることに集中する。
『……ええ、はい。……そうですね』
通話しているらしい花戸の声は俺と話しているときとはまた印象が違う。なんだか硬い声だと思った。
『俺の方でもなんとかしますよ。……ええ、大丈夫です。彼は物分りがいいので』
――なんの話だ?
花戸が敬語で話している相手など俺には検討も着かない。話し方からして親しい相手というわけではなさそうだ。
それから花戸の声は聞こえなくなる。そして、扉の前を彷徨いていた足音はぴたりと止んだ。
なんとなく嫌な予感がして、咄嗟に俺はベッドの上で仰向けになったまま寝たフリをした。
すると、案の定扉が開いたのだ。
「…………」
足音を立てないようにしているのだろう。それでも、足音を立てないようにと扉の方から近づいてくる気配はあまりにも濃かった。
起きていると気取られないように寝たフリをしたまま、俺は目を開かないようにだけただひたすら集中する。
そのとき、不意に額になにかが触れた。ひやりとしたその冷たい感触は間違いない、花戸の手だろう。前髪を掻き分け、そして額に直接触れる手はそのまま頬、首筋へと滑り落ちていく。
思わず反応しそうになるのを必死に堪え、俺は呼吸を乱さないように努めた。
熱を測っているつもりか、花戸は暫く俺の顔に触れるとすぐに手を引いた。
それから小さく音を立て、額に唇を押し付けられる。
思わずぴくりと反応してしまうが、再び寝息を立てるフリをすれば花戸はなにも言わずにベッドから離れるのだ。
そして寝室の扉が閉まる音を聞いて、ようやく俺は緊張を解いた。
「……ッ」
――なんだったんだ、今の。
まだ花戸に触れられている感触が残っているようだった。その感覚がひたすら不快で、俺はそれを紛らすように何度も拭った。
それから再び眠りにつくのに時間がかかった。もやもやとした気分のまま、先程の盗み聞きした花戸の会話を頭の中で反芻する。
考えたところで答えなど出るはずもなく、ただ時間だけが経過した。
そして、そんなことをしている間に再び俺は眠りに落ちたようだ。次に目を覚ましたとき、部屋には花戸がいた。
あいつは俺の体温を確認し、「今日は元気そうだね」と安堵の色を浮かべる。
そして、
「それじゃあ、間人君。君も準備しないとね」
準備ってなんだ、と顔を上げれば、花戸はにこりと微笑んだ。
「お出かけだよ、間人君」
たまには外の空気も吸わないといけないみたいだからね、なんて笑う花戸に一瞬俺は耳を疑った。
「……お出かけ、って」
聞き間違えかと思わず顔を上げる。花戸は俺が答えたのが嬉しかったようだ、にっこりと微笑んだまま「そうだよ」といつもよりも声をワントーン高くする。
「行き先はまだ秘密だけど、きっと君も楽しめるんじゃないかな」
妙な言い回しをする花戸に引っ掛かる。
外に出してもらえるのは願ったり叶ったりだが、なんだろうか。なにか違和感を覚えた。
それに、相手は花戸だ。この男が簡単に俺を開放するとは思えない。油断するな、と自分に言い聞かせる。
「それじゃあ、さっそくお着換えしないとね。ああそうだ、こんな時もあると思って間人君のサイズに合う服を何着か用意させてもらったよ」
言いながら一度寝室を出て行った花戸は腕に袋を抱えて戻ってきた。
「この中から好きなものを選んでね」なんて一人楽しそうに笑いながらベッドの上に服を広げていく花戸。
服など親が買ってきたものを適当に見繕っていた俺にはファッションのことなんて微塵もわからなかったが、俺が着ていた安物の服とはまるで違うということはわかった。普段花戸が着ている服となんとなく系統が似ている。
正直、ゾッとした。いつの間にこんなものを用意したのかということもだが、この男の趣味を押し付けられているこの状況にも。
「……なんでもいい」
「じゃあ俺が選んじゃおうかな。俺的にはきっとこの黒の……」
「白いやつ」
「一番端のやつでいい」それは条件反射のようなものだった。この中で一番花戸の好みの服など袖も通したくなかった。
遮る俺に怒るわけでもなく、ふっと口元を緩めた花戸は「わかった」と笑った。
ほんの一瞬、もしかしたら逆上するのではないかと覚悟していたがやつは終始いつもの穏やかな態度のままだった。
それから、俺は花戸に着替えさせられる。
手足の拘束を解かれ、やつの手によって服を着せられていくのは屈辱でしかなかったが外に出るために必死に堪えた。
そして、最後に乱れた俺の髪を手で直した花戸はこちらを除き込み、「あは」と笑う。
「良かった。俺の見立て通りだ。……君はこういう服もよく似合う」
中身はともかく、顔だけは整った花戸ならいざ知らず俺にはこういう大人っぽい服は似合わない。それよりも、動きやすいラフな格好の方がまだいい。
恐らく花戸はそんな俺の好みを分かってて言ってるのだろう。それがわかったからこそ余計腹立った。
「ああ、ちょっと待っててね。それと……これも忘れないようにしないと」
そう花戸は先程持ち出した袋の中から何かを取り出した。
ベルト状の、なにやら小さな機械が取り付けられたそれを俺の目の前に掲げた花戸はそのままそれを俺の首に回すのだ。
「……っ、な、に……」
「ああ、そんなに怯えなくていいよ。間人君は電流首輪って知ってる?」
「……は?」
その単語に嫌な予感しかしなかった。咄嗟に花戸の手を掴み、止めようとするが花戸はそれをものともせずに俺の首に巻きつけるのだ。そして、緩まないように隙間なく締められる。喉を締め付けるそれを触れようとした瞬間、ベルトに首が締め付けられる。そして次の瞬間、強い痛みが首に走る。
「っ、……ッ!!」
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
ばちりと耳元から頭の中で大きな音が弾けたと思えば、いきなり全身に駆け巡る刺激に全身の筋肉が硬直する。
「はは、びっくりした? 今のは軽くだけど……もし君が逃げ出そうとしたりしたらこの首輪から電気が流れるようになってるんだ。本来なら犬の躾用らしいんだけど、人間の躾にも丁度良いみたいだね」
「……ッ、……」
「ああ、ごめんごめん。もうしないよ。今のは試しっていうか、身を以て理解した方が早いかなと思って。……君が逃げ出そうなんてしなかったらこれを操作することはないからね」
目を見開いたまま動けなくなる俺。そんな俺を見下ろしたまま、花戸は小さなリモコンを指先で弄んだ。どうやらそれで電流を流しているようだ。
花戸は「痛かったね」と俺の頭を撫で、そのまま首輪を隠すように襟を詰める。首に小型の爆弾を取り付けられたようなものだ。おまけにこの首輪、電流だけではなく俺が引っ張れば締まり、触れなければ少し緩むようになっているようだ。
ただで外に出してもらえるとは毛頭思わなかった。それでも、これでは――。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
そんな俺の気なんて知らず、花戸は俺の手を握るのだ。
……せめて、この男からリモコンを奪うことができれば。
そんなことを考えながら、未だヒリつく首に触れた。それだけで反応する首輪に、俺は慌てて指を離した。
クソが、と口の中で吐き出すのが精一杯の抵抗だった。
ずっと外へ出たかったはずなのに、全く喜ばしくないのは間違いなくこの首の異物のせいだろう。
「今日は肌寒くてよかったね、そのマフラーも君に似合いそうなものを選んだんだ」
マンションの一室を出て、新鮮な空気とその開放感に喜ぶのもつかの間。すぐ背後からぴたりと身を寄せるようについてくる花戸に、ただでさえ鬱陶しい首のそれがずしりとより一層重く感じた。
無骨な首輪を隠すように巻かれたマフラーを今すぐにでももぎ取ってやりたかった。この男は人殺しだと叫んでやりたかった。
けれど、それをできなかったのは首輪だけが原因ではない。
「さあ、行こうか。駐車場は地下にあるんだ」
少しでも逆らえばこの男は実家へと向かう。
見えないナイフを常に首筋に押し当てられているような恐怖の中、真っ直ぐに歩くこともできなかった。
久し振りに履いた靴、そして踏み締める地面が異様に硬く感じる。足の筋肉が弱ってるせいだろうか、今まで自分がどんな風に歩いていたのかわからなくなっていた。
そんなふらつく俺の腰を抱いたまま、花戸は「ゆっくりで大丈夫だよ」と優しく声を掛けてくるのだ。
マンションの通路には窓やベランダもない、まるでビルの中のような通路がただ伸びていた。
そしてその先にはエレベーターが一基存在していた。そして花戸はエレベーターに乗り込み、手にしていたキーを操作盤上に翳す。階数ボタンが点灯し、それから花戸はF2を選んだ。
ずっとこのマンションの一室にもいたにも関わらず、見たことのない施設への視覚的な情報量に圧倒される。
部屋の中から実家の部屋いくつ分もの広さにもしかしてと思ったが、俺の常識からしてもその内装やセキュリティからして良いマンションだということはわかった。
呆気に取られているわけにはいかない。分かっていたが、この状況に未だ戸惑っている自分もいた。
そして暫くもせずエレベーターは停止する。
扉が開いた瞬間、先程までの空間とはまた違うひんやりとした空気が流れ込んできた。
――花戸の自宅マンション・地下駐車場。
花戸は「こっちだよ」と俺の肩に手を置き、歩き出すのだ。あまりにも馴れ馴れしいその仕草に今更嫌悪感を出す余裕もなかった。
今は急かず、少しでも多くこの男の情報を手に入れた方が賢明だ。このマンションの造りや車種などなんでもいい、とにかく弱味を掴む。
そして、隙きを探すのだ。絶対に逃げられるタイミングを。
二人分の足音が冷え切ったコンクリートの空間に反響する。歩いていると、見覚えのある車が近付いてきた。
あの車に最初に最後で乗り込んだとき、俺はこの男がこんな悪魔のような男だとは露も知らなかった。
あのとき疑いもしなかった自分がただ腹立たしくなるが、そんなことを後悔してる場合ではない。キーケースを取り出し、車を解錠させる。
それから花戸は俺をあのときと同じように助手席に乗せ、そのまま運転席へと乗り込んできた。
乗り込んだ瞬間、車内に広がる煙草の匂いに具合が悪くなってくる。甘ったるいあの匂いだ。
「これからどこへ行くと思う?」
「……」
「どこへ行くと思う? 間人君」
「っ、……分からない」
やつが上着のポケットに手を突っ込むのを見て咄嗟に答えてしまう。また電流を流されると思ったが、俺が答えれば花戸は笑うばかりで恐れていた電流が首輪から流れるようなことはなかった。
ハンドルを手にした花戸は「そっか」と他人事のように呟いた。
「でもきっと、君は喜んでくれるんじゃないかと思うよ。……とてもね」
それから車は走り出した。重苦しい空気の中、花戸の趣味だろうか、それともたまたまその局番だったのか車内に静かなクラシックが流れ始めた。
花戸は相変わらずなにを考えてるのか分からない。変わる景色を眺め、現在地を把握しようと窓の外を眺めていると段々外の景色は大通りから見覚えのある住宅街へと入るのだ。
どれほどの時間が掛かったのかも覚えていない。体感数分、それでも現れたその景色に息を飲む。
そして、閑静な住宅街の一角。花戸はとある一軒家の前で車を停めた。
「さあ、降りなよ間人君。
――帰りたがっていた君の家だよ」
花戸はそう笑って助手席を開いたのだ。
「は……」
なんで、どうして。
理解が追いつかなかった。車窓の外に見慣れた景色が映し出されてからまさかと思っていたが、そんなはずがないと思っていた。
「降りなよ、間人君。それとも、一人じゃ降りられないなら俺が手を貸そうか」
「な、んで……ッ」
「なんで? 気になってたんだろう、家のこと」
寧ろ何故そんなことを聞くのかと不思議そうに小首を傾げる花戸だったが、やつは動けないでいる俺の首元、そのマフラーをそっと締め直すのだ。
「……それに、改めて君のご両親には挨拶に行かないといけないなとは思っていたんだ」
「ああ、勿論侑にもね」と思い出したように付け加える花戸に背筋が震えた。
怒りとも違う、理解できない事象を前にしたときのような足が竦むような感覚だ。
逃げるなら今しかない、そんな俺の思考を読んだ上での行動なのか。
だとしても、この男が何を考えているのか分からない。
さあ降りて、と優しく腕を引かれる。
嫌だ、帰りたくない。そうほんの一瞬でもそんな考えが過ぎってしまう己に余計混乱する。
――理由は分かっていた。この殺人犯を自宅に上げたくない。
それでも、花戸はそんな俺を優しく諭すように「大丈夫だよ」と口にする。
「君はただ俺の横にいてくれるだけでいいんだから」
「……っ」
「ずっと無断外泊してたんだ。君のお父さんもお母さんもとても心配してたから少しは怒られるかもしれないけど、ちゃんと俺の方から伝えていたから――だから、大丈夫だよ」
この男は何を言ってるのか。
ずっと連絡を取っていた?……誰と?
理解したくない。脳が拒否する。固まっていると、自宅の扉が開いた。そして現れた母親の姿を見て血の気が引いた。
車の前に立っていた花戸を見るなり、母親は「花戸さん」と頭を下げるのだ。
その姿を見て頭の中が真っ白になる。
何故、母と花戸が既に知り合いなのか。
「すみません、遅くなって。……ほら、間人君も挨拶しないと」
「……っ、ぁ……」
「すみません、間人君朝からこの調子で……緊張してるみたいですね」
車から引きずり降ろされ、母親の前までやんわりと背中を押されるような形で歩かされる。
久し振りにあった母親は、最後に見たときよりも更に痩せ、小さくなったような気がした。
俺の顔を見て、「間人」と名前を呼ばれてびくりと肩が震える。
昼下がりの見知った住宅街、生まれたときから暮らしてる実家の前。目の前にはずっと気にしていた家族がいて、それなのに俺はたった一つの異物のせいでこの見慣れた光景すらも歪んで見えた。
違う、異物はもう一つ――俺の隣にいる男と、俺だ。
「おかえりなさい、間人」
「……っ、……」
「間人君、大丈夫?」
そっと後ろ手に手を握られ、背筋が凍りついた。
窄まった喉から声を出すこともできなかった。暖かな日差しすらも責め立てるように鋭く突き刺さり、ぐらぐらと視界が歪む。
どんな風に家族と接していたのか。どんな顔をして家族と過ごしていたのか。
まるで今までの自分が思い出せなかった。
花戸から逃げ出して実家へと戻ってきた暁にはすべてを伝え、助けを求める。そう思っていた、それだけを希望にしていたのに実際はどうだ。
「……た、だいま……」
変化を悟られないように笑おうと引きつった顔面の筋肉が軋んだ。
そして、理解してしまった。
今まで他人の悪意など無縁でのうのうと生きてきた今までの自分は、あのとき既にこの男に殺されていたも同然だったのだと。
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