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第7章 平穏は遥か遠く

260話 悪夢

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 アレ、とリコリスが吐き捨てた先には|(恐らく)戦闘時に盾として使い捨てる予定の信者達の姿。言葉通りタダの道具に女が向ける感情は先ほどまでの情熱、高揚、享楽とは反対に冷淡極まりない。

 意志とは素晴らしい力。なのに一時の享楽で進退窮まった末に選んだのが自らの意志を捨て、誰かの道具と成り下がる道ならば致し方ないだろう。多分、今のリコリスもこんな気持ちを抱いている筈。一時とは言え、あの女と心情がシンクロするのは酷く不快だが。

「処分する時間も勿体ない、放っておきなさい」

 自らがした事と言えば逃げた後にこの場に戻って来た位。それ以外に何をするでもなく、まるで縋る様に、祈る様に、ただジッと女の言葉を待つ信者達の姿を目の当たりにした女の指示はとても冷酷で、やはり伊佐凪竜一に向けた言葉とは真逆に全く熱を感じなかった。微塵の憐憫も見せず女は踵を返すと……

『では帰還しましょう。どうぞ、お乗りください』

 信者を一瞥すると黒雷の掌に乗り込もうと歩みを始める。が……

『待て』

 瓦礫とヒビ割れにデコレートされ、且つての面影を残さない大理石の床を叩く靴音は何処かからの声に止まった。

『えッ?』

「落ち着きなさい……まさかご連絡頂けるとは思いませんでした。如何されましたか?コチラの計画は少々不測の事態が有りましたがつつがなく進行しております」

 女が動きを止め恭しく傅いた直後、暗闇の中にディスプレイがボウッと浮かび上がった。まるでその空間だけ異次元に繋がっている様に明滅する四角いディスプレイに、人影らしき何かが映る。

 カメラの位置からその姿をはっきりと捉える事は出来ないが、低くくぐもった声の雰囲気から壮年以上の男で、且つ破壊されたセラフ達が最後に接触した何者かと同じ声と分かった。と、するならば桁違いに強く、更にリコリスに指示を出せる立ち位置と併せれば一連の黒幕であるという推測が立つ。

 事実、男の声に黒雷は緊張と恐怖に支配され、途端に口をつぐんでしまった。

『珍しく手古摺てこずっていると様子を確認してみれば、貴様……手を抜いていたな?しかもみすみす逃がすとはどういうつもりだ?』

 手加減。そう指摘されたリコリスの表情に僅かな緊張が走る。事実か否かは不明だが、伊佐凪竜一との戦いで終始優勢を維持していた状況から考えれば信憑性は高く、だからだろうか、それまで平静だった女の表情に影が落ちた。

「申し訳ございません。伊佐凪竜一を煽り、望む方向に動かしたかったのですが。結果、少々計画から外れ……ウグッ!!」

 謎の男はリコリスの言い訳含む言動に怒り心頭、釈明すら許さぬほどの怒りから何かを使用した。突如として苦しみのたうつリコリスの様子から判断するに、どうやらこの女は男の支配下にあるようだ。しかも、それまで平然としていた女が行動不能に陥る程の激痛に襲われる辺り、且つてスサノヲの行動を制限した"鎖"と非常に近い措置まで施されている。

 あの女は敵だ。常に敵を嘲笑い、不快な態度で煙に巻く。だけど、激しい激痛に悶え苦しむ様は敵ながらに同情を覚える位だった。扇情的なドレスも、それが覆い隠す美しく均整の取れた身体も、終ぞ崩す事が無かった余裕の表情も、今は全てが土埃に塗れている。その惨状は先程までの戦闘で掠り傷一つ負わなかった女の醜態とは思えず、忌々しさを覚えながらもその強さにだけは一定の敬意を払っていた私の心を酷い不快感で満たす。

『失礼ながら、横からのご無礼をお許しください。今は計画通りに事を進めるのが最優先かと存じます。どうか……どうかこれ以上はご容赦を!!』

 流石に現状を看過出来ないと判断した黒雷が沈黙を破り、懇願した。現状を考えれば逃走した伊佐凪竜一達の追撃の手が停まっている状態。言わずもがな、利は無い。しかも直接的に指示を出すリコリスが行動不能に陥っているのだから、現状が続けば逃げおおせる確率は上がるばかり。が……

『おい、ゴミ。何時から俺に指図する程に偉くなったんだ?』

 ディスプレイから聞こえる声は意に介さず。独善的、あるいは我儘。声からはそんな否定的な印象しか感じない。

『も……申し訳ございません』

『不出来な道具が、分を弁えろ!!』

『ヒッ』

 尚も続く独善に満ちた男の怒号に黒雷は完全に委縮した。もうこうなってしまえば追跡どころの話では無い。

「ゴホッ……部下の失態、どうか……お許しを……」

『ほぉ、ならどうすれば俺が満足するかわかっているだろう?』

 男は含みを持たせた言葉と共にリコリスを解放した。行動不能に陥る程の激痛から解放されたリコリスはゆっくりと立ち上がると……

「か、畏まりました。聞こえる?」

 荒れた呼吸も整えず、身体を汚す埃も払わず、まるで急かされる様に黒雷を見上げた。

『は、はい。あの、申し訳ござい』

「撃ちなさい」

 は?一体何を言ってるのだ?撃て?何を?いや、誰を?まさか自分?いや、有り得ない。黒雷の謝罪を遮ってまで出した女の指示に理解が追い付かない。

『は?』

 私に一拍遅れ、黒雷が同じ反応を返した。

「私を撃ちなさい」

『ちょ……何をおっしゃっているのです!?』

 声に混ざる感情は恐怖から一転、混乱に染まった。リコリスの横で事のあらましを聞いていた黒雷はこれ以上ないであろう理解不能な指示に狼狽える。無論、私も言わずもがな。リコリスも、通信を入れている男も何を考えているのだ。今、一体何が起きているのだ?私は目の前で起きている出来事が全く理解出来なかった。

『お待ちください。作戦の日はもう間もなくです、今ココでッ!!』

『次は無い』

『そんな!?』

「良いから撃ちなさい」

『しかしッ、アナタがいな』

「早くしなさいッ!!」

『う……うわぁあぁぁあッ!!』

 幻覚。いや、夢。そうだ、夢だ。そう思う、いやそう思わなければ正気を保てない光景が目の前に広がる刹那、私は映像から視線を逸らした。。次の瞬間、黒雷が叫び、直後にドンッという大きな音が響いた。女がどうなったかなど言わずもがな、だが考えるのを頭が拒む。理解したくないし、言いたくもないし、確認するなんてもっと御免だ。

『うぅ、グッ……』

 黒雷からは嗚咽が漏れ、聖堂の外壁からその様子を見ていた信者の声にならない叫びを上げる。目の前に広がる凄惨な光景が生む恐怖をあらん限りの声に変換しているかの様に大きな声だった。

『ハハハハハハハハハハッ……オイ、何をしている?』

『は、はい?』

『続けろ』

『え……あ、しょ、承知いたしました』

 僅か1人で終わる筈もなく、通信の向こうの男は更なる犠牲を要求した。黒雷に逆らう権利は無く、混乱と恐怖に支配されながらも命令を実行する。巨大な機械の体躯がズシン、ズシンと地を揺らしながらゆっくりと聖堂の外に向かえば、その動作に合わせて叫び声やら助けを求める声が幾重にも折り重なった。

 私は、映像を閉じた。やはり悪い夢だと、そう呟きながら。耳に、あの声がこびり付いて離れない。忘れられない。映像を切る最後の瞬間に聞こえて来た、巨大な銃から弾丸が発射される音でも無ければ逃げ惑う信者の断末魔でも無い。凄惨な光景を娯楽の様に楽しむあの渇いた笑い声が、私の耳に何時までもこびり付いて離れない。
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