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運命の夜
しおりを挟むカトリーヌ・ド・シャーロットが初めて「王妃」という言葉を耳にしたのは、まだ言葉を覚えたばかりの幼い頃のことだった。
母の腕に抱かれながら、彼女は重々しい声でそう告げられた。
「あなたは王太子殿下の婚約者として生まれたのです。シャーロット家の娘として、未来の王妃になるのは宿命。忘れてはなりませんよ」
その瞬間から、カトリーヌの人生は決められていた。
読み書きや礼儀作法はもちろん、舞踏、音楽、歴史、法律、外交――あらゆる学問と技能が彼女の日常を埋め尽くした。
花畑を駆け回ることも、友と気ままにおしゃべりを楽しむことも許されない。遊び盛りの年齢であっても、彼女の一日は厳格に定められた時間割で縛られていた。
「王妃は国の母です。私情に流されず、民を導かねばなりません」
「決して感情を表に出してはいけません。常に冷静で、威厳を保つのです」
家庭教師や侍女たちの言葉を胸に刻み、カトリーヌは泣きたい日も唇を噛みしめて耐えた。
そうすることが王国のためであり、王妃としての役割なのだと信じて。
――それが、彼女の「運命」だった。
◆
やがて十七歳になったカトリーヌは、王宮に出仕し、王太子アイクと正式に顔を合わせるようになった。
アイクは容姿端麗で、若いながらも聡明と謳われる人物だった。
カトリーヌは常に淑やかに微笑み、完璧な礼節で彼を支えた。内心で何を感じようとも、それを表に出すことは決してなかった。
(殿下とともに歩む。それが私の役目……)
そう自分に言い聞かせ、彼女は心を凍らせていた。
◆
しかし、運命はある日、思わぬ形で揺らぐ。
国王が病に倒れ、長らく政務を執ることができなくなったのだ。
宮廷は一気に緊張に包まれる。各派閥が後継をめぐって動き出し、権力争いの火花が散った。
その渦中にあって、王太子アイクは突如として、とんでもない宣言を放った。
「私は、マーサを正妃に迎えることを決めた」
謁見の間に響いたその言葉に、居並ぶ貴族たちは一様にざわめいた。
マーサ――それは、つい先日まで王宮に仕えるメイドにすぎなかった平民の娘の名である。
「なっ……」
「なんということを……!」
怒号とも驚愕ともつかぬ声があちこちで上がる。
誰もが耳を疑った。平民を正妃に迎えるなど前代未聞であり、王家の威信を揺るがす暴挙だからだ。
だがアイクは平然としていた。
「私は彼女を愛している。身分など関係ない。カトリーヌには……そうだな、第二王妃として側にいてもらおう」
あまりに軽々しい口調だった。まるで幼子の駄々のような響き。
その瞬間、カトリーヌの胸の奥で、何かが大きく音を立てて砕けた。
(私の……人生は……)
幼い頃から全てを捧げてきた。自由も夢も、女性としての幸福も捨て、ただ「王妃になる」という使命に殉じてきた。
なのに、その努力も覚悟も、王太子の「恋心」ひとつで切り捨てられようとしている。
怒りか、悲しみか、もはや自分でも分からなかった。
ただ胸の奥から、熱いものが突き上げてくる。
そして彼女は、初めて自らの意思で言葉を紡いだ。
「それならもう私に構わなくて結構です。殿下。婚約を破棄してください」
静かで、しかし確かな声だった。
その場の空気が凍りつく。
王太子に逆らうなど誰一人として想像していなかったのだ。
アイクの顔には驚愕が浮かび、次いで憤りが滲んだ。
「……カトリーヌ。お前、自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「ええ。私は王妃としてこの国を支える覚悟を持っておりました。けれど、殿下が他の女性を正妃に望まれるのなら……私がここにいる意味はございません」
毅然と告げるその瞳には、これまでの従順な影はなかった。
その場にいた誰もが、カトリーヌが初めて「自分の人生」を選ぼうとしていることを悟った。
――こうして、王国の未来を揺るがす物語が幕を開けたのである。
◇
謁見の間はざわめきに包まれていた。
これまで誰もが「王太子妃はカトリーヌ」と信じて疑わなかったのだ。それが今、当の本人の口から「婚約破棄」の言葉が放たれたのである。
「な、何を勝手なことを!」
「カトリーヌ様、よくお考え直しを……!」
貴族たちが慌てふためき、声を上げる。
だが当のカトリーヌは、凪のように静かだった。嵐の中心にいるのは自分であるのに、心は不思議なほど澄み渡っている。
(ああ……こんなにも自由に声を出すことができたのは、生まれて初めてかもしれない)
胸の奥に灯ったのは、失意でも絶望でもなく、むしろ確かな解放感だった。
◆
シャーロット公爵――カトリーヌの父も、すぐに娘の言葉を支持した。
彼は国王の側近として重きをなす人物であり、王太子の愚行に内心では大いに憤慨していたのだ。
「殿下。我が娘を正妃とするのは、陛下と王国議会により定められたこと。平民を正妃とされるなど、あまりに軽率にすぎます」
父の厳しい声に、アイクは顔を歪めた。
「父上が病床にある今、次代の王はこの私だ! 私の決断に逆らうことなど許されん!」
「王の責務とは己の欲を満たすことではございません!」
叱責する父の姿を見つめながら、カトリーヌは決意をさらに強くした。
この婚約を続けていても、未来に希望はない。愛のない政略結婚だと覚悟していたが、だからといって自らを貶める必要はないのだ。
(私は、ただ従うだけの人形ではない)
ようやく、自分が人間であることを思い出せた気がした。
◆
その日以降、カトリーヌは王宮から姿を消した。
シャーロット公爵邸に戻った彼女は、十数年ぶりに「次の予定に縛られない朝」を迎えた。
目を覚ましても、教師も侍女もやってこない。
今日の授業は何か、何時に舞踏の稽古があるか、そんなことを気にする必要はなかった。
「……なんて、静かな朝」
窓から差し込む光は柔らかく、庭に咲き誇る花々は香りを放っている。
けれど、その静けさは同時に孤独でもあった。
世間ではすでに噂が広まっている。
「婚約破棄された可哀想な令嬢」――その言葉が、彼女を縛り付ける新たな鎖となった。
けれどカトリーヌは、うつむかなかった。
(私の人生は、まだ始まったばかり。誰にどう言われようと、私は歩いてみせる)
心の奥で、燃えるような誓いを立てる。
◆
数日後。
カトリーヌは、生まれて初めて自分の意思で街へ出かけた。
馬車に乗るのではなく、目立たぬ平服をまとって。
見慣れたはずの王都は、彼女の目にはまるで異世界のように映った。
市場で行き交う人々の笑顔。子供たちのはしゃぐ声。行商人の力強い声。
そのすべてが新鮮で、胸が躍る。
(これが……本当の世界……)
自分は今まで何も知らなかったのだと痛感した。
国のために、と言いながら、民の生活に目を向けたことが一度もなかった。
そのとき、不意に前から人の影が現れた。
背の高い青年が、荷物を抱えた老人を支えているところだった。
鍛え上げられた体躯に、精悍な顔立ち。濃紺のマントが風にはためき、鋭い瞳が一瞬、カトリーヌをとらえた。
「……そこの方、道を塞いでいる。危ないですよ」
低く落ち着いた声。
カトリーヌは思わず胸を押さえた。
(なんて、強い眼差し……)
彼こそが、王国騎士団の有望株にして、第二王子の側近を務める青年――レオンだった。
この出会いが、カトリーヌの運命を大きく動かしていくことになるのだが、当の彼女はまだ知る由もなかった。
◆
その頃、宮廷では新たな混乱が渦巻いていた。
王太子アイクは、依然としてマーサを傍らに置き、彼女に耳を傾けている。
「アイク様、もっと民の声を大事になさって。皆、私のことを慕ってくれておりますわ」
「そうだな、マーサ。君こそが王妃にふさわしい」
甘やかし合う二人を前に、貴族たちの不満は高まるばかりだった。
その反動は、皮肉にもカトリーヌの名誉を高めていくことになる。
「やはり王妃にふさわしいのはシャーロット令嬢だ」
「殿下は愚かだ。彼女を失ったことを必ず後悔するだろう」
民もまた、真の王妃は誰であるかを見抜いていた。
そしてカトリーヌ自身もまた、初めて自分の人生を自分で選ぶ自由を手に入れようとしていた。
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