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新たな縁
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――婚約破棄から数日。
シャーロット公爵家の屋敷に戻ったカトリーヌは、奇妙な解放感と、言いようのない空虚さのあいだで揺れていた。
朝は決まった時間に起き、王妃教育のために山積みの書物を開き、礼儀作法の稽古を受ける。昼には舞踏や楽器の練習。夕刻には政治論文を読み、夜は明日のために自分を磨き続ける――そんな日々が、十数年。
だが今、そのどれも必要なくなった。
「……自由って、こういうものなのね」
部屋の窓辺で頬杖をつきながら、カトリーヌは呟く。
けれど、自由を与えられても、何をすればよいのかわからない。噂は宮廷から街へと広がり、彼女は「婚約破棄された哀れな令嬢」として人々の好奇の的になっていた。外出を控えるよう家族から忠告されてもいたが……心のどこかで、彼女は抑えきれない衝動を抱いていた。
――このままでは、何も変わらない。
ある朝、カトリーヌは侍女を下がらせ、こっそりと簡素な外出着に着替えた。飾り気のない青いワンピースに、頭を覆うスカーフ。鏡に映る姿は、宮廷で「完璧な婚約者」と呼ばれてきた令嬢とはまるで別人だった。
「少しだけ……街を歩くだけ。父にも母にも、叱られるかもしれないけれど」
決意を胸に、彼女は馬車ではなく徒歩で、城下町へと足を踏み入れた。
◆
初めて見る市場の賑わい。果物やパンの香り、行き交う人々の活気。子どもたちの笑い声。どれもカトリーヌにとって新鮮だった。
しかし同時に、現実の厳しさも目の当たりにする。路地の隅では、母親が痩せた子に固いパンをちぎって与え、老人は重い荷を背負って咳き込みながら歩いている。
これまで宮廷で教えられてきた「理想の王妃像」には、こうした民の姿は描かれていなかった。
「……これが、国の真実」
胸の奥がずしりと重くなる。
そのときだった。
「お嬢さん、危ない!」
背後から鋭い声。次の瞬間、馬車が角から勢いよく飛び出してきた。驚いて立ち尽くしたカトリーヌの腕を、力強い手が掴む。彼女の身体は抱き寄せられ、寸前で轢かれるのを免れた。
「っ……」
「大丈夫か?」
耳元で響いた声に、カトリーヌは顔を上げた。
そこにいたのは、鋭い青い瞳をした青年だった。日焼けした肌に、鍛え上げられた体躯。粗末ではないが実用的な騎士服に身を包み、腰には剣を下げている。
けれど、その眼差しは貴族や宮廷の人間のような打算を含んでいなかった。ただ純粋に「助けたい」という思いが宿っていた。
「……はい、助けていただいて……ありがとうございます」
カトリーヌは慌てて身を引き、礼を述べた。
「気をつけろよ。この辺りは馬車の通りも多い」
「はい……」
青年は彼女をじっと見つめ、ふと目を細める。
「……見ない顔だな。城下町の者じゃないだろう?」
「え……」
動揺を隠しきれない。
平民に紛れて歩いているつもりだったが、育ちの違いはやはり隠しきれないのだろう。
「俺はレオン。王国騎士団の団長代理を務めている」
「騎士団……!」
名乗られた名に、カトリーヌは思わず目を見開いた。
王国騎士団――王族を守護し、民を護るための最精鋭部隊。その中でも団長代理といえば、若くして相当な実力と信頼を得ている証だ。
「名前を聞いても?」
「……カトリーヌ、です」
フルネームを告げるのは避けた。だが青年は、どこか納得したように口元を緩めた。
「なるほどな……どこか品があると思った。だが、俺には関係ない。街を歩く一人の娘として見ればいいだろう」
その言葉に、カトリーヌの心は大きく揺れた。
彼は、彼女を「王太子の婚約者だった令嬢」としてではなく、ただの「一人の女性」として見てくれている。
それはこれまで決して与えられなかった眼差しだった。
「ありがとう、レオン様」
「様なんて要らない。レオンでいい」
彼の笑顔は太陽のように明るく、温かかった。
――その日を境に、カトリーヌとレオンは少しずつ距離を縮めていく。
街の小さなパン屋で並んで食べた焼きたてのパンの味。道端で遊ぶ子どもたちと一緒に笑ったひととき。
どれも、彼女にとって新しい世界の扉を開く体験だった。
「カトリーヌ、お前は……ただの令嬢じゃない。強い心を持ってる」
「私が……強い?」
「ああ。だから、きっと――国にも必要になる」
その言葉が、彼女の胸の奥に静かに灯をともした。
それはまだ小さな炎だったが、やがて王国の運命を変える力へと育っていく。
シャーロット公爵家の屋敷に戻ったカトリーヌは、奇妙な解放感と、言いようのない空虚さのあいだで揺れていた。
朝は決まった時間に起き、王妃教育のために山積みの書物を開き、礼儀作法の稽古を受ける。昼には舞踏や楽器の練習。夕刻には政治論文を読み、夜は明日のために自分を磨き続ける――そんな日々が、十数年。
だが今、そのどれも必要なくなった。
「……自由って、こういうものなのね」
部屋の窓辺で頬杖をつきながら、カトリーヌは呟く。
けれど、自由を与えられても、何をすればよいのかわからない。噂は宮廷から街へと広がり、彼女は「婚約破棄された哀れな令嬢」として人々の好奇の的になっていた。外出を控えるよう家族から忠告されてもいたが……心のどこかで、彼女は抑えきれない衝動を抱いていた。
――このままでは、何も変わらない。
ある朝、カトリーヌは侍女を下がらせ、こっそりと簡素な外出着に着替えた。飾り気のない青いワンピースに、頭を覆うスカーフ。鏡に映る姿は、宮廷で「完璧な婚約者」と呼ばれてきた令嬢とはまるで別人だった。
「少しだけ……街を歩くだけ。父にも母にも、叱られるかもしれないけれど」
決意を胸に、彼女は馬車ではなく徒歩で、城下町へと足を踏み入れた。
◆
初めて見る市場の賑わい。果物やパンの香り、行き交う人々の活気。子どもたちの笑い声。どれもカトリーヌにとって新鮮だった。
しかし同時に、現実の厳しさも目の当たりにする。路地の隅では、母親が痩せた子に固いパンをちぎって与え、老人は重い荷を背負って咳き込みながら歩いている。
これまで宮廷で教えられてきた「理想の王妃像」には、こうした民の姿は描かれていなかった。
「……これが、国の真実」
胸の奥がずしりと重くなる。
そのときだった。
「お嬢さん、危ない!」
背後から鋭い声。次の瞬間、馬車が角から勢いよく飛び出してきた。驚いて立ち尽くしたカトリーヌの腕を、力強い手が掴む。彼女の身体は抱き寄せられ、寸前で轢かれるのを免れた。
「っ……」
「大丈夫か?」
耳元で響いた声に、カトリーヌは顔を上げた。
そこにいたのは、鋭い青い瞳をした青年だった。日焼けした肌に、鍛え上げられた体躯。粗末ではないが実用的な騎士服に身を包み、腰には剣を下げている。
けれど、その眼差しは貴族や宮廷の人間のような打算を含んでいなかった。ただ純粋に「助けたい」という思いが宿っていた。
「……はい、助けていただいて……ありがとうございます」
カトリーヌは慌てて身を引き、礼を述べた。
「気をつけろよ。この辺りは馬車の通りも多い」
「はい……」
青年は彼女をじっと見つめ、ふと目を細める。
「……見ない顔だな。城下町の者じゃないだろう?」
「え……」
動揺を隠しきれない。
平民に紛れて歩いているつもりだったが、育ちの違いはやはり隠しきれないのだろう。
「俺はレオン。王国騎士団の団長代理を務めている」
「騎士団……!」
名乗られた名に、カトリーヌは思わず目を見開いた。
王国騎士団――王族を守護し、民を護るための最精鋭部隊。その中でも団長代理といえば、若くして相当な実力と信頼を得ている証だ。
「名前を聞いても?」
「……カトリーヌ、です」
フルネームを告げるのは避けた。だが青年は、どこか納得したように口元を緩めた。
「なるほどな……どこか品があると思った。だが、俺には関係ない。街を歩く一人の娘として見ればいいだろう」
その言葉に、カトリーヌの心は大きく揺れた。
彼は、彼女を「王太子の婚約者だった令嬢」としてではなく、ただの「一人の女性」として見てくれている。
それはこれまで決して与えられなかった眼差しだった。
「ありがとう、レオン様」
「様なんて要らない。レオンでいい」
彼の笑顔は太陽のように明るく、温かかった。
――その日を境に、カトリーヌとレオンは少しずつ距離を縮めていく。
街の小さなパン屋で並んで食べた焼きたてのパンの味。道端で遊ぶ子どもたちと一緒に笑ったひととき。
どれも、彼女にとって新しい世界の扉を開く体験だった。
「カトリーヌ、お前は……ただの令嬢じゃない。強い心を持ってる」
「私が……強い?」
「ああ。だから、きっと――国にも必要になる」
その言葉が、彼女の胸の奥に静かに灯をともした。
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