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魔獣との遭遇
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馬車はやがて森の入口で止まった。
御者が無言で扉を開ける。
「ここからは歩いてください。小屋までは森の小道を進めばすぐです」
冷ややかな声に、シーラは静かに頷いた。
荷物の入った木箱を差し出され、それを両腕で抱える。箱は思った以上に重く、足元がふらついた。だが誰も手を貸してはくれない。
「……ありがとうございます」
そう言って馬車から降り立つと、すぐに車輪がきしみを上げ、砂埃を巻き上げながら去っていった。
残されたのは、深い緑の森とシーラただ一人。
木々が生い茂り、昼間だというのにあたりは薄暗い。風が枝を揺らし、葉のざわめきが不安を煽る。
シーラは深呼吸し、足を一歩踏み出した。
小道は細く、苔むした石がごろごろと転がっている。木箱を抱えたまま歩くのは容易ではなかった。
汗が背を伝い、息が上がる。けれど立ち止まれば、孤独の重みがのしかかってくる。だからただ、歩くしかない。
(大丈夫……。私は魔法が使える。火も灯せるし、傷も癒せる。きっと生きていける……)
自分に言い聞かせるように心で繰り返す。
しかし、内心では不安が渦巻いていた。家族に信じてもらえなかった力が、果たしてどこまで役に立つのか。
そのときだった。
――ガサッ。
低い唸り声とともに、木陰から獣の影が現れた。
狼だ。一匹ではない。三匹、いや、もっと。黄色く光る目が闇の中で次々と浮かび上がる。
背筋が凍りつく。木箱を抱えた腕に力が入り、呼吸が浅くなる。
「……うそ、でしょう……」
狼たちは牙をむき出しにし、じりじりと間合いを詰めてくる。
シーラは木箱を地面に下ろし、両手を前に突き出した。震える指先から、微かな光が生まれる。
「来ないで……!」
必死に魔法を発動させようとする。けれど恐怖で集中できない。小さな火花が散っただけで、狼たちは怯むどころか、ますます唸り声を強めた。
心臓が喉から飛び出しそうになる。
足が竦んで逃げられない。
(助けて……誰か……!)
思わずそう願った瞬間、風を切る音がした。
――シュッ。
一匹の狼が吹き飛び、木に叩きつけられる。
暗がりから現れた影は、しなやかな身体を持つ青年だった。月明かりに照らされ、猫科の獣を思わせる鋭い金色の瞳が光る。
背中には黒い尾が揺れ、耳は人間ではあり得ない三角の形をしている。
「……っ、人?」
呆然と呟いたシーラの前で、青年は低く唸った。
「下がっていろ」
その声は獣のように荒々しく、しかし不思議なほど頼もしかった。
狼たちは新たな強敵に気づき、次々と飛びかかる。だが青年は鋭い爪で一匹を弾き飛ばし、しなやかな動きで次の一匹を蹴り倒す。
その姿はまさに魔獣――。
だがシーラの胸を支配したのは恐怖ではなく、強烈な安心感だった。
(助かった……!)
震える足をようやく前に踏み出しながら、シーラは金の瞳を見つめた。
それが、自分の運命を変える存在だと、このときはまだ知らなかった。
◇
獣のような青年は、しなやかに跳ねる。
彼の動きはまるで舞のようで、狼たちは次々と爪と牙に打ち倒されていった。鋭い蹴りが一匹の顎を砕き、しなる尾で叩きつけられた狼が呻き声を上げて森の闇に逃げ込む。
ほんの数分の出来事だった。
気づけば狼の群れは散り散りになり、残されたのは狼の死骸と、荒い息を吐く青年の姿だけ。
シーラは呆然とその場に立ち尽くした。
信じがたい光景を目にしているのに、恐怖は薄れていくばかりだ。代わりに、胸の奥を占めたのは強烈な安心感だった。
彼は振り返り、金色の瞳でシーラを見つめた。
鋭い眼差し。夜目のように光るその瞳は、人のものではなかった。
「……怪我はないか」
低く、掠れた声。獣の唸りを思わせるその響きが、シーラの胸を震わせる。
「あ……だ、だいじょうぶ……です」
言葉が途切れ途切れになった。
目の前の青年の姿に目を奪われていたからだ。
彼の髪は黒曜石のように艶やかで、肩まで流れている。その間から覗く耳は、猫のように三角に尖り、柔らかそうな毛に覆われていた。背には長い尾が揺れている。
――人間ではない。
この地で「魔獣」と呼ばれる存在、その正体を初めて知った気がした。
「お前、人間だな」
青年は眉をひそめる。
「……はい。私は、シーラと申します」
思わず名を名乗ったのは、彼に助けられた礼をきちんと伝えたかったからだ。
「シーラ……」
青年はその名を低く繰り返し、すぐに視線を逸らした。
「余計なことをしたな。人間の女に関わるべきじゃなかった」
吐き捨てるように言いながら歩き出す。
シーラの胸に焦りが湧き上がった。
「待ってください!」
思わず声を張り上げる。彼の足が止まった。
「あなた……その腕、血が……!」
狼との戦いで負ったのだろう。袖口から赤黒い血が滴っていた。
青年は平然を装っていたが、その指先は僅かに震えている。
「放っておけ。すぐ治る」
「いいえ……!」
シーラは駆け寄り、膝をついた。
掌をそっと傷口にかざす。目を閉じ、集中する。
(お願い……応えて。私の魔法……!)
淡い光がシーラの手から溢れ出す。
温かな輝きが傷口を覆い、裂けた皮膚が少しずつ閉じていった。青年の息が止まるのを感じる。
やがて光が収まり、血は止まり、傷は塞がっていた。
「……これで、大丈夫です」
シーラが顔を上げると、青年は驚きに目を見開いていた。金色の瞳が揺れている。
「人間が……魔法を……?」
「ええ。私、魔法が使えるんです。でも……家族も、婚約者も、誰も信じてくれませんでした」
声が震えた。けれど涙はこぼさなかった。今だけは、彼に弱い姿を見せたくなかった。
青年はしばらく沈黙し、やがて低く息を吐いた。
「……不思議な女だな。俺の名はカイル」
「カイル……」
「森に住む獣人だ。人間は俺を魔獣と呼び、恐れ、忌み嫌う。……だから、お前も俺を恐れればいい」
その言葉に、シーラは小さく首を振った。
「恐れてなんかいません。だって、あなたは私を助けてくださった……。それだけで十分です」
カイルの瞳が揺れる。
彼はしばらくシーラを見つめ、そして視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうな声だったが、尾の動きはどこか落ち着かず揺れていた。
シーラは胸の奥で確信した。
この出会いが、自分の人生を大きく変えていくのだと。
御者が無言で扉を開ける。
「ここからは歩いてください。小屋までは森の小道を進めばすぐです」
冷ややかな声に、シーラは静かに頷いた。
荷物の入った木箱を差し出され、それを両腕で抱える。箱は思った以上に重く、足元がふらついた。だが誰も手を貸してはくれない。
「……ありがとうございます」
そう言って馬車から降り立つと、すぐに車輪がきしみを上げ、砂埃を巻き上げながら去っていった。
残されたのは、深い緑の森とシーラただ一人。
木々が生い茂り、昼間だというのにあたりは薄暗い。風が枝を揺らし、葉のざわめきが不安を煽る。
シーラは深呼吸し、足を一歩踏み出した。
小道は細く、苔むした石がごろごろと転がっている。木箱を抱えたまま歩くのは容易ではなかった。
汗が背を伝い、息が上がる。けれど立ち止まれば、孤独の重みがのしかかってくる。だからただ、歩くしかない。
(大丈夫……。私は魔法が使える。火も灯せるし、傷も癒せる。きっと生きていける……)
自分に言い聞かせるように心で繰り返す。
しかし、内心では不安が渦巻いていた。家族に信じてもらえなかった力が、果たしてどこまで役に立つのか。
そのときだった。
――ガサッ。
低い唸り声とともに、木陰から獣の影が現れた。
狼だ。一匹ではない。三匹、いや、もっと。黄色く光る目が闇の中で次々と浮かび上がる。
背筋が凍りつく。木箱を抱えた腕に力が入り、呼吸が浅くなる。
「……うそ、でしょう……」
狼たちは牙をむき出しにし、じりじりと間合いを詰めてくる。
シーラは木箱を地面に下ろし、両手を前に突き出した。震える指先から、微かな光が生まれる。
「来ないで……!」
必死に魔法を発動させようとする。けれど恐怖で集中できない。小さな火花が散っただけで、狼たちは怯むどころか、ますます唸り声を強めた。
心臓が喉から飛び出しそうになる。
足が竦んで逃げられない。
(助けて……誰か……!)
思わずそう願った瞬間、風を切る音がした。
――シュッ。
一匹の狼が吹き飛び、木に叩きつけられる。
暗がりから現れた影は、しなやかな身体を持つ青年だった。月明かりに照らされ、猫科の獣を思わせる鋭い金色の瞳が光る。
背中には黒い尾が揺れ、耳は人間ではあり得ない三角の形をしている。
「……っ、人?」
呆然と呟いたシーラの前で、青年は低く唸った。
「下がっていろ」
その声は獣のように荒々しく、しかし不思議なほど頼もしかった。
狼たちは新たな強敵に気づき、次々と飛びかかる。だが青年は鋭い爪で一匹を弾き飛ばし、しなやかな動きで次の一匹を蹴り倒す。
その姿はまさに魔獣――。
だがシーラの胸を支配したのは恐怖ではなく、強烈な安心感だった。
(助かった……!)
震える足をようやく前に踏み出しながら、シーラは金の瞳を見つめた。
それが、自分の運命を変える存在だと、このときはまだ知らなかった。
◇
獣のような青年は、しなやかに跳ねる。
彼の動きはまるで舞のようで、狼たちは次々と爪と牙に打ち倒されていった。鋭い蹴りが一匹の顎を砕き、しなる尾で叩きつけられた狼が呻き声を上げて森の闇に逃げ込む。
ほんの数分の出来事だった。
気づけば狼の群れは散り散りになり、残されたのは狼の死骸と、荒い息を吐く青年の姿だけ。
シーラは呆然とその場に立ち尽くした。
信じがたい光景を目にしているのに、恐怖は薄れていくばかりだ。代わりに、胸の奥を占めたのは強烈な安心感だった。
彼は振り返り、金色の瞳でシーラを見つめた。
鋭い眼差し。夜目のように光るその瞳は、人のものではなかった。
「……怪我はないか」
低く、掠れた声。獣の唸りを思わせるその響きが、シーラの胸を震わせる。
「あ……だ、だいじょうぶ……です」
言葉が途切れ途切れになった。
目の前の青年の姿に目を奪われていたからだ。
彼の髪は黒曜石のように艶やかで、肩まで流れている。その間から覗く耳は、猫のように三角に尖り、柔らかそうな毛に覆われていた。背には長い尾が揺れている。
――人間ではない。
この地で「魔獣」と呼ばれる存在、その正体を初めて知った気がした。
「お前、人間だな」
青年は眉をひそめる。
「……はい。私は、シーラと申します」
思わず名を名乗ったのは、彼に助けられた礼をきちんと伝えたかったからだ。
「シーラ……」
青年はその名を低く繰り返し、すぐに視線を逸らした。
「余計なことをしたな。人間の女に関わるべきじゃなかった」
吐き捨てるように言いながら歩き出す。
シーラの胸に焦りが湧き上がった。
「待ってください!」
思わず声を張り上げる。彼の足が止まった。
「あなた……その腕、血が……!」
狼との戦いで負ったのだろう。袖口から赤黒い血が滴っていた。
青年は平然を装っていたが、その指先は僅かに震えている。
「放っておけ。すぐ治る」
「いいえ……!」
シーラは駆け寄り、膝をついた。
掌をそっと傷口にかざす。目を閉じ、集中する。
(お願い……応えて。私の魔法……!)
淡い光がシーラの手から溢れ出す。
温かな輝きが傷口を覆い、裂けた皮膚が少しずつ閉じていった。青年の息が止まるのを感じる。
やがて光が収まり、血は止まり、傷は塞がっていた。
「……これで、大丈夫です」
シーラが顔を上げると、青年は驚きに目を見開いていた。金色の瞳が揺れている。
「人間が……魔法を……?」
「ええ。私、魔法が使えるんです。でも……家族も、婚約者も、誰も信じてくれませんでした」
声が震えた。けれど涙はこぼさなかった。今だけは、彼に弱い姿を見せたくなかった。
青年はしばらく沈黙し、やがて低く息を吐いた。
「……不思議な女だな。俺の名はカイル」
「カイル……」
「森に住む獣人だ。人間は俺を魔獣と呼び、恐れ、忌み嫌う。……だから、お前も俺を恐れればいい」
その言葉に、シーラは小さく首を振った。
「恐れてなんかいません。だって、あなたは私を助けてくださった……。それだけで十分です」
カイルの瞳が揺れる。
彼はしばらくシーラを見つめ、そして視線を逸らした。
「……勝手にしろ」
ぶっきらぼうな声だったが、尾の動きはどこか落ち着かず揺れていた。
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