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序章
OP-【談話室の会話】
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談話室には、ぼく以外誰もいなかった。
時刻は18時を回ったところ。
ちょうど授業が始まったところだ。
暖炉の中で薪が弾ける。
ぼくは、アンティークっぽい、古ぼけたデザインの椅子に腰掛けて本を読んでいた。
この校舎は地上36階、地下36階建ての超高層ビルとなっており、また、フロアごとの広さもそれなりになっている。
談話室は、ワンフロアの四隅に一つずつあり、広さは25mプールほど。
壁二面を占める巨大な窓は、どの談話室にもあり、そこからは、この校舎を囲う樹海や、遠くに光る街の明かり、その時々で様々な様相を見せる広大な空を望むことが出来た。
テラス席なんかもあったので、晴れた日の昼間なんかはそこで日光浴をしたり、穏やかな雨の日は雨の音や匂いを楽しんだりするのが、ぼくのお気に入りだった。
この談話室に好んで足を運ぶ理由は、他の談話室に比べて、どういう訳か利用者があまり多くないことと、そして、ぼくが今腰掛けているこの椅子があるからだった。
素材はマホガニー。
赤いクッションは程よい厚さで、長い間腰掛けていても腰が痛くならない。
談話室のあちこちには椅子やソファやテーブルやキャビネットがあり、いずれも材質は木だった。
あちらこちらにあるキャビネットの上にはランプが置いてあるが、灯りはついていない。
今この談話室を照らしている灯りは、目の前にある暖炉だけだった。
赤いカーペットはペルシャ絨毯で、ブーツなどの底の硬い靴で歩くと、良い感じに足音がくぐもる。
ぼくはその音が好きだった。
ぼくは本のページをめくった。
この時間が好きだ。
誰にも邪魔されず、本の世界に入り込める。
サイドテーブルからマイカップを取り、コーヒーを啜ろうとしたが、いつの間にかなくなっていた。
ぼくは立ち上がり、ゴツゴツと、くぐもった硬い足音を楽しみながら、自動販売機へ向かった。
廊下に出た途端に、足音はコツコツと、クリアで軽い足音になった。
ぼくは、この音も好きだった。
レッドカーペットは談話室の中だけに敷かれていた。
談話室前の廊下には複数の自動販売機がある。
目の前に人がいない時は電気が付かない。
そのため、談話室にいれば、この人工的な灯りも目に入らない。
そういった配置も、ぼくがこの談話室を気に入っている点だった。
給水機でマイカップをすすぎ、コーヒーの自動販売機の取り出し口に入れる。
次はイタリアンテイストにしようか……、トルココーヒーにしようか……。
イタリアン(0.48FU)にすることにした。
電子マネー【FU】でシャリーン、と支払いを終えると、コーヒーが抽出され始める。
ぼくは、廊下に並ぶ無数の自動販売機の前を進み、ボックスパスタの自動販売機の前に立った。
ボックスのサイズはXL(960g)、パスタはタリアテッレ、ソースはペストー、味の濃さはミドル、エビ抜き、チーズとバジル増量、プチトマトをトッピング、切り方はスライス、料金は3.6FU。
電子マネーで支払いを終えれば、自動販売機の中で調理が始まった。
ぼくは、コーヒーの自動販売機に戻って、マイカップに入った熱々のコーヒーを回収して、ボックスパスタの自動販売機の前に戻った。
コーヒーを啜るも、どういったところがイタリアンなのか、さっぱりわからなかった。
美味いから、別に良いのだけれど。
ボックスパスタの自動販売機は調理を続けていた。
調理の音が、静かな廊下に響き渡る。
表示によれば、【調理完了まであと2分】、とのことだった。
1kg近いパスタを調理するのに、随分と苦戦しているようだ。
ぼくはコーヒーを啜った。
その時、遠くから人の話し声が聞こえてきた。
ぼくは、一瞬パニックになり、すぐに冷静さを取り戻した。
どっちだ? 廊下の向こう側か、階段か……、この足音は、廊下だ。
ぼくは、さりげない体を装って、そちらを伺った。
目に意識を傾け、力を入れれば、数十メートル離れた先の様子も詳細に伺うことが出来た。
談話室前の廊下の照明は切れている。
自動販売機は目の前で人が動かなければ灯りはつかない。
こちらは暗闇。
あちらは照明の下。
こちらからあちらは丸見えだが、あちらからこちらはあまりよく見えないはずだ。
1人は、見覚えのある人影だった。
ほっそりとした、背の高いシルエット。
ウェーヴのかかった、まとまりのある黒のセミロング。
琥珀色の瞳。
濃紺のスキニージーンズ、タイトな黒のTシャツ、グレーのジャケット、ブラウンのブーツ。
グロリアだ。
ぼくの幼馴染の友人で、三歳年上の先輩。
こちらは問題ない。
問題なのは、彼女の隣にいる見覚えのない女の人だった。
身長は、160の後半。
美しい黄金色の瞳に藍色の光輪がかかっている。
セミロングでまとまりのあるブロンド。
足首まで丈のある黒のワンピースを着て、足元には先の四角いブーツを履いていた。
西欧系の、幼さの残る顔立ちで、熱っぽい様子で、グロリアに何かを言っている。
グロリアはというと、うんざりした様子だったけれど、しょうがなく付き合ってあげてる、といった感じだった。
耳をひそめ、意識をそちらに傾ければ、会話の内容が聞こえてくる。
まじなんだって!
あっそ……。
まじ? 興味ないっての?
いや、あるよ、じゃあ、あんた先試してよ、明日聞かせてよ。
グロリアのばか。
あ? ばかっつった? あんたこないだの数学で何点だった?
3点。
けっ。
違うもんっ! わたしの知性は学校のテストなんかじゃ測れないんだからっ!
はいはい……。
テストが全てとか思ってるグロリアの方がバカじゃん。
はいはい、そんで、その冒険ってやつには、今日行くの?
うん、今から。
じゃあ、明日楽しみにしてるわ、ちゃんと帰ってこいよ、じゃ、わたしこっちだから、ダチ待ってっから。
グロリアのばかっ。
はいはい、わたしもあんたが好きだよ。
わたしも可愛いわたしが大好きだもん!
言って、女の人は、たったったっ、と、駆け出して、ぼくの横を通り過ぎていき、自動販売機のそばを通り過ぎていき、階段を駆け上がっていった。彼女が駆け足で通り過ぎたせいで、自動販売機の明かりが一斉についた。人工の光が目に痛い……。ふと、良い香りが、周囲を漂っていることに気がついた。さっきの女の人は、香水をつけてるのかもしれない。
ボックスパスタが出来上がった。
そのタイミングで、グロリアがやってきた。
「ーーあ、グロリア」
グロリアは笑った。「さっきから気づいてたじゃん」
「環境の変化に敏感なんだよ。インキャだから」ぼくは、ボックスパスタを手に、談話室に戻った。
「小動物かよ」と、グロリアは笑った。「気づいてないフリが下手なんだね、インキャって」言いながら、彼女もついてくる。「さっきの奴は良い奴だよ。今度紹介してあげる」
「また今度ね」ぼくは、先程の椅子に腰掛けた。
グロリアは、わたしの左手のサイドテーブルを挟んですぐ左のソファに座った。
ぼくとグロリアの距離は3mほど。
これが他人ならばもう少し離れてくれないとパニックに陥ってしまうところだが、グロリアならちょうど良かった。
ぼくは、手の平に意識を集中させた。
体内を巡って、手の平に魔力が集まる。
手の平から放出された魔力は霧状で、宙をうねり、シルバーのスパゲッティフォークを象っていく。
霧状の魔力は、気体から液体、液体から固体へと、徐々に実体感を増していく。
ぼくの手の中に、スパゲッティフォークが生まれた。
ぼくは、パスタを巻き取りながら、ふと、自分でも、それが何かはわからないが、自分が何かを考えていることに、漠然と気がついた。ぼくはグロリアを見た。「食べる?」
「ペストー?」
ぼくは頷いた。「タリアテッレで、チーズとバジル多めで、トッピングはスライスプチトマト」
「良いね」次の瞬間、グロリアの手に、小皿とフォークが現れた。
ぼくは、グロリアの皿に、パスタを三分の一くらい移した。
「ありがと」グロリアは、上品ながらも食への貪欲さを窺わせる所作でペストーをあっという間に平らげると、皿とフォークを膝に乗せた。皿とフォークは霧状になって彼女の皮膚に吸い込まれた。
「凄い食欲。最後に食べたのいつ?」
グロリアは、それを思い出すように右上を見た。「三時間前。オーツとドライフルーツのバー。あとコーヒー。あと、コーシャーのインスタントヌードル。麺はノンフライで、ガーリックとトマトのスープで、乾燥チキンと乾燥トマトとバジルが入ってた」
「美味しそ」
「さっぱりしてて美味いよ。コーシャーもハラムも好き。今日はホームシックな気分だった。ちょっとね」グロリアはタバコを咥えた。彼女が指を弾くと、人差し指の先から、マッチサイズの火が上った。タバコに火をつけ、手を振って火を消す。ふぅ、と煙を吐き、一息付いたところで、グロリアはサイドテーブルに乗っているハードカバーの本を手に取った。「また読んでるの? ヴェルの冒険」
ぼくは頷いた。「面白いから。オチがわかって読んだら、この時の描写にはこんな意味があったのか、って気付かされたりして、楽しい」ペストーを平らげたぼくは、ボックスパスタの空き箱を暖炉に放り込んだ。「一本もらえる?」
「タバコ吸うと育たないんだってよ」グロリアは、自分の豊かな胸を張った。
「悩んでないから」そういえば、グロリアは女だけど、女の子と付き合っていた時期があった気がする。ぼくはタバコを受け取り、口に咥えながら、ふと、彼女はどんな人だったんだろ……、と思った。胸が大きかったのかな……。ぼくも胸を大きくすることを考えてもいいかもしれない……。なんだかんだで、戸籍上は女な訳だし、胸は女の武器だし。「火貸して」
グロリアは、自分の咥えているタバコを、ぼくに差し出してきた。
ぼくはタバコを受け取り、自分の咥えているタバコの先に火をつけた。「ありがと」ぼくは、タバコをグロリアに返した。「13の頃から吸ってたくせに。説得力ないよ」
「まあね」グロリアは笑った。
ぼくも笑いながら、ヴェルの冒険のページをめくった。新しいページには三行だけしか書かれていなかった。以前も読んだ文章をさらっと読んでみる。ヴェルが馴染みの村を出発し、訪れたことのない街へ到着したところで、次のページから新しい章が始まる。ヴェルはその初めて訪れた街で、ヴァルキリーの美男子と恋に落ちて、激しいセックスをするのだ。その描写はちょっとした官能小説並みに想像と欲情を駆り立ててくれるもので、何度かお世話になったこともあった。この本は紀行書のコーナーに置かれているが、そういった文章があるということを知ってしまうと、置く場所を間違えているんじゃないかという気がしないでもない。もっとも、ポルノを買ったりする必要がなくなるという意味では大助かりだけれど。ぼくは、ハードカバーの本を閉じた。
「友達は?」
ぼくは顔を上げた。「どういう意味?」
グロリアは、なんてことのない様子でぼくを見ていた。
ぼくは肩を竦めた。「あんたと、ケントと他にも何人か。勉強に趣味に忙しいし、それほど大勢の友達はいらないよ」
ケントは、三歳年下の魔法使いの男の子だ。
寮の部屋が向かいということもあって、小さい頃から、なにかと一緒に過ごすことが多かった。
小さい頃は無邪気なもんで、キラキラと光るアンバーの目が可愛い奴だった。
ところが、最近になって生意気にも思春期がやってきたのか、物欲しげな顔を向けてくるようになってきた。
魔法使いはみんな、12歳くらいには身体的な成長を終えてしまう。
ケントの身長は174cmで、肩幅はそれほど広くないながらも胸板も厚く、腕もがっしりとしていて、腹筋も八つに割れていたし、生意気なことに、なんだか良い匂いも漂わせている。
近頃はなにかと気まずく、こちらから避けるようにしている。
あいつは弟のようなもんだし、彼女が出来れば、また昔のような、肩の力を抜ける関係に戻れるだろう。
少し寂しいが、人と顔を合わせられないだけで寂しいと思える相手は中々いないし、会えないだけで寂しいと思えることも、ぼくにしては珍しい、貴重なことなので、この寂しいという感情を大切にすることにしていた。
グロリアは、頷きながら、タバコを吸い、煙を吐いた。
暖炉の薪が、パチパチと、心地の良い音とともに弾ける。
グロリアは、ぼんやりとした目で、暖炉の中で燃える薪を見つめていた。
ぼくも、同じく薪を見つめた。「……何話してたの? さっきの人と」
「あぁ……」グロリアは戯けるように目を回した。「クラスメイトよ。幼馴染。まだ会ったことなかったっけ?」
「うん」
「ゾーイって子。オカルトが好きなの」
ぼくは眉をひそめた。「オカルト?」それを言うなら、ぼくたちこそがまさしくオカルトだ。なにせ、ぼくたちは魔法使いなのだから。クラスメイトには人間も吸血鬼も幽霊もエルフもヴァルキリーも精霊だっている。ゾーイさんがこの学園の生徒である以上、今更オカルトや超常現象やファンタジーに心惹かれる理由なんてないと思うけれど……、或いは、人間たちをワクワクさせたり驚かせたりするために、その手の研究をしているのかもしれない。そういった変わり者は、いつの時代も、どの業界にもいるものだ。「ゾーイさんって、何者?」
「精霊とエルフのミックス」グロリアも困ったように笑った。「面白い奴なんだけど、オタクの話に付き合うのはやっぱり疲れるわ」グロリアはタバコの煙を吐いた。「七不思議って知ってる?」
「学園の?」
「うん」
「知らない。どんなの?」
「この時間にどこそこのドアを何回ノックしてから何秒置いて開けると異世界に行けるとか、そういう感じ」
「信じてないんだ?」
グロリアは鼻を鳴らした。「バカっぽいじゃん」
ぼくはタバコを吸った。「熱っぽく話してたんだから、乗ってあげればよかったのに」
グロリアは肩を竦め、短くなったタバコを暖炉に放り込んだ。タバコは、燃える薪の山の奥に姿を消した。「わたしが14なら乗ってあげれたかも知んないけど、あいにく、もっと他に考えなくちゃいけないことが山積みでね」
ぼくは頷いた。「学園の仕事はどう?」
「楽しいよ。ただ……」グロリアは、あー……、と、考えるように唸った。「ただ、大変だし、難しい。こないだなんかジョージアに行かされた。今度、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンのコーカサス地方に学園を建設するんだって。その下見」
「下見?」
「こういう場所だったら校舎建てる為の土地を確保できるかなとか、そういう感じ。アルメニアとアゼルバイジャンの国境上にならちょうどいいのがあったんだけど、あそこはあんまり仲が良くないし」
「そうだっけ」
「多分、10年以内に戦争でも起こるんじゃないかな。ナゴルノ・カラバフとかが火種になりそう……。そうなったら、どっちの国にも友達がいるから複雑だわ」
ぼくは、頷きながらタバコを吸った。コーカサスだのアルメニアだのアゼルバイジャンだのナゴルノ・カラバフだの、ぼくには関係のない遠い世界の話という感じで、相打ちを打つ以外に出来ることもない。ぼくは短くなったタバコを、暖炉に放り込んだ。タバコは、積み重ねられた薪の上に乗っかった。「新しい学園なんて必要なのかな」ぼくは言った。
「わたしも初めはそう思ったけど、あれじゃないかな、魔法使いはヨーロッパやその周辺に多いし、コーカサス地方にも結構いたから、立地上必要なんだと思う」
ぼくは頷いた。「地上には6億人から7億人の魔法使いがいるって話だったけど、10人に1人ってことでしょ? 休日とか、たまに街に行くけど、魔法使いは1人も見ない。1人も。そんなにいるとは思えないんだよね」
「日本は魔法使いが少ないからね。ヨーロッパに行ったら、むしろ人間を見つける方が難しいわ」
「ふーん。そうだっけ」
「最後に行ったのは?」
「小6。また行きたいな」
グロリアは新しいタバコを咥えた。
「ぼくにも頂戴」
「頭撫でさせてくれたら良いよ」
「しょーがないな」
グロリアは、ぼくの頭を撫でた。
グロリアの手は、ぼくの手よりも大きかった。
彼女の撫で方は優しかったので、撫でられるのは好きだった。
「髪サラサラ」グロリアは言った。「なに使ってんの?」
「シャンプー」
「もっと大切にしなさい。あんたの髪好きよ」言って、グロリアは、ぼくの唇にタバコを差し込んで、火をつけてくれた。
「ありがと」ぼくは、煙を吐きながら言った。
19:53
19時を過ぎて、もうすぐ20時になるという頃。
本を読み終えたぼくは、そろそろ学生寮に帰ろうかと、立ち上がり、暖炉の火を消して、廊下に出た。
忘れ物がないことを確認して、なにか夜食でも買おうかと、自動販売機の前を歩く。
ターキーサンドウィッチ、ハンバーガー、牛丼、フライドポテト、ポテトチップス、ブリトー、フィッシュアンドチップス、ピザ……、どれもこれもピンとこない。
ぼくは、アルゼンチン産のワインを買って、それを飲みながら帰ることにした。
グラスにしておくべきか、ボトルにしておくべきか……、ボトルにしちゃえ。
ピッ、シャリーン、ボトン。
ぼくは、ワインボトルを開けようと、ボトルの口を捻って、舌打ちをした。
安いくせにコルク付きだった。
ぼくは手の平にコルク抜きを生み出して、きゅぽんっ、と、心地の良い音を楽しみ、その余韻に浸りながら、ワインの染みたコルクの香りを楽しんだ。
コルク抜きを霧のように消す。
手の平に残ったコルクを、燃えるゴミに向かって投げた直後に、コルクって燃えるゴミで良いんだっけ、と、疑問が頭に浮かんだ。
ボトルの口からワインを飲む。
美味しい。
ワインの細かい違いはあまりわからなかったけど、カヴェルネ・ソーヴィニヨンが一番好きだった。
どこを気に入っているかといえば、その名前の響きが好きだった。
身を翻し、廊下の先にあるエレベーターホールに向かおうとしたところで、ぼくは立ち止まっ「あ……」
廊下の向こうから、見覚えのあるおねえさんが歩いてくる。
さっき、グロリアと話をしていた人。
ゾーイさんだ。
ぼくは眉をひそめた。
何があったのか、黒のワンピースは泥だらけで、雑草がこびりついている。
森で転んだのかもしれない。
ぼくは、なんて声をかけたものかと考えた。
あの、すみません。
「あ」ゾーイさんは、ぼくに気がつくと、足を止めて、にっこりと微笑んだ。「こんにちはっ」
可愛い声だった。
跳ねるような、明るい声だ。
ぼくの顔が熱くなった。
暖房効きすぎじゃないかなここ。「あの、すみ、こんにちは」
「あなたって、確か……」ゾーイさんは、宙を見上げ、眉をひそめた。ぼくのことを思い出そうとしてくれているようだったが、話をしたことはないので、無駄な試みだった。「えっと……」
「あの、グロリアの幼馴染です。さっき、談話室のそばで話してるのが聞こえちゃったんですけど、なんか、七不思議の話とかって」
「あぁ……」ゾーイさんは顔を赤く染めた。照れているようだった。「そういう話が好きなの。馬鹿みたいよね」
「そんなことないです。面白そうだなって……、良かったら、お話聞かせてくれませんか?」
「良いよ。コーヒー飲む?」ゾーイさんは言った。「それともワインの方がいい?」
「もらいます。ありがとうございます」
「すごいね。ボトルで飲んでるんだ」と、ゾーイさんは笑った。「何歳?」
「15です」
ゾーイさんは、鼻をスンッ、と鳴らした。「タバコも吸うんだ」
「あ……」
「イケない子ね」ゾーイさんは微笑みながら、自動販売機のボタンを押した。
ピッ、ボトン。
ゾーイさんは、ボトルワインを取り、手にワイングラスを生み出した。
「魔法使いだから、もう成長終わってるし……」
「そうね。じゃあ、1本飲み終わるまで付き合ってくれる?」
「喜んで。1本と言わず、2本でも3本でも」
ゾーイさんは、楽しそうに笑った。
20:36
「じゃー、空ちゃんはヴェルの冒険みたいな冒険がしたいんだね」
ぼくは、小さく笑った。「冒険って言うと厨二臭いので嫌ですけど、そうですね、旅行とかしたいなって」
相変わらず、談話室は静かだった。
ぼくとゾーイさんしかいない。
「じゃー旅人さんだねっ」ゾーイさんは、ワイングラスを揺らしながら言った。
「はい」普通に旅行がしたいんだね、で良いのではないでしょうか……、と思いながら、ぼくは頷いた。旅人も冒険も同じくらいイタい単語という感じがして、それを聞く度に恥ずかしくなってしまうのだけれど、そう言ったところにこだわって話を止めてもしょうがない。「ゾーイさんは、将来はどんなことを考えてらっしゃるんですか?」
「将来かー……」ソファの上で膝を揃えるゾーイさんは、ワイングラスを両手で持ち、考えるように天井を見つめた。「とりあえず、大学部に進級ねー。それから考えても良いかも。進級の前に、インターンやってみても良いかもだし、一年休暇をとって、ゲーム三昧ってのも良いかも。親から、一年も休むなら勉強しなさいっ! って言われたら、うるせーなー、ベンキョーしてんだよっ! あたしはしょーらいゲームクリエイターになんだよっ! とか言ってみたり」ゲーム厨の真似をしたゾーイさんは、その顔芸だけしか知らない人だったらおそらく想像も出来ないんじゃないかというほど上品に、ふふふっ、と、お姫様のように笑ってみせた。
ぼくは笑った。
「空ちゃんはこれから高校生だもんね」
「はい」
「楽しまないとねっ」言って、ゾーイさんはぼくの頭を撫でた。
顔が、燃えるように熱い。「……はぃ」
ゾーイさんの柔らかくて温かい手の感触が心地良い。
ゾーイさんの胸の膨らみに目を奪われる。
続いて、ぼくは、ゾーイさんの瞳を見た。
藍色の光輪のかかった、黄金色の瞳。
レモンキャンディーみたいだ。
潤んでいて、キラキラと光っていて、吸い込まれそうになる。
ツヤツヤとした唇は、とても柔らかそうで、指先で触れてその感触を確かめてみたくなる。
この香り……。
「ゾーイさんって……」
「なぁに?」
「シャンプー何使ってるんですか……?」
ゾーイさんは、ぼくが聞いたこともないようなブランドを口にした。
使ったことはないけど、絶対に髪に良いに決まってる。だってこんなに良い匂いがするんだから……。
「香水着けてます……?」
「あ、わかる? こないだ試供品もらったの」
どこだよその店、ぼくも行こっと……。「ぼくも欲しいです……」
ゾーイさんは、ふふっ、と、優しそうに笑った。「試してみる?」
「なにをっ」
「異世界に行けるって言う七不思議」
「……はぃ」なんだ……、と、ぼくはがっかりした。てっきり、ベッドに行ってなんらかの相性を試してみませんかっていうお誘いかと……。
ぼくは、自分の性欲に自己嫌悪を抱きながら、ゾーイさんが教えてくれた、七不思議の内容を記憶した。
23:49
もうすぐ真夜中になるのに、ぼくは、まだ校舎に残っていた。
「えっと……」この用具室で良いんだよな……。
なんて事のないドアだった。
そして、ゾーイさんの話によると、このドアこそが、もう一つの世界への入り口らしい。
試しにドアを開けてみれば、中は、掃除用具が収まっているだけの、小さな物置だった。
ぼくは、ドアを閉めて、ゾーイさんから教えられた通りのことをやってみることにした。
どうやら、それがドアをあっちに繋ぐために必要な儀式となるらしい。
ドアを1回叩いて、1秒間を置いて、もう1回叩いて、1秒置いて、2回叩いて、2秒置いて、3回叩いて3秒、5回叩いて5秒、7回叩いて7秒、最後に5本の指で、5点に同時に魔力を注いで……。
ぼくは、深呼吸をした。
次は……、人差し指の先で扉を上下に撫でながら、甘えた声で、呪文を唱える、と。
その呪文をゾーイさんから教えられた時、ぼくは違和感を抱いて、彼女に確認をした。
魔法を扱うのに、呪文など必要がないからだ。
ただ、ぼくが知らないだけということもある。
高等部からは呪文が必要な魔法を学ぶのかもしれない。
そう思い、ゾーイさんに確認をしたところ、彼女は、胡散臭いほどに真剣な顔で、『この呪文は絶対に必要なんです。あるとないとじゃ大違いです』と言った。
それはもう、今にも笑いだしてしまいそうになるのを必死で堪えているのを全力で隠しているんじゃないかというほどに真剣な声色で仰っていたので、ぼくとしては信じる以外に道はなかった。
ぼくは、もう一度深呼吸をした。
そして、ゾーイさんから教えられた、秘密の呪文を唱える。
その呪文は、安い官能小説や、男が夜に見ている動画や、ぼくもたまに読んだりする二次SSの中でしか見聞きしないようなセリフだった。
呪文を言った後で、ぼくは、燃えるように熱くなった顔を抑えて、その場にうずくまった。
こんなことを言っているところを見られたら一生死ねる……。いや、そもそもだよ? そもそもだ……、ぼくはただ、ドアをノックして、中にいる人に、中に入れてくださいって言っているだけだ。それならドアに用具室って書いてあるのがおかしくなるけど、それはぼくが部屋を間違えてノックしちゃったからだ。そんなところを誰かに聞かれたり見られたりしたからなんだっていうんだ。もしもそいつが勘違いしたら、そいつが、頭の中がそういうことで一杯なだけの変態だというだけのことなのだ。
夜の学校で、ぼくの後ろに変態が立って盗み聞きしている、そんな考えが頭に浮かぶと背筋がゾクゾクした。
後ろから物音が聞こえた気がして、ぼくは、弾かれたように、素早く周囲を見渡した。
幻聴かもしれないが、誰かが笑いを堪えているような声が聞こえた気がする。
誰もいない。
気のせいか……。
ぼくは無い胸を撫で下ろした。
別にぼくとしては胸なんか必要ないし、ナニとは言わないが将来股の間に移植をするつもりなので、コンプレックスに思う必要なんかないんだけれど、周りからうだうだ言われると、不思議と意識してしまう。
それはともかくとして、ゾーイさんの話によると、これで、異世界への扉が開くらしい。
ぼくは、ドアノブを捻り、掃除用具室のドアを開けた。
ぼくは、小さく笑った。「疲れてんのかな……、ぼく」ドアの向こうにある光景を見て、ぼくは、口を開いた。
ぼくは、どこかの家の一室にいた。
真夜中だと言うのに、窓からは太陽の光が差し込んでいる。
そして、部屋の中央では、彫りの深い男性が、コーヒーを飲んでいた。
西欧のラテン系っていう感じがするが、堀が深いだけの日本人だって言われれば、そうな気もする。
ダンディだった。
デニムにTシャツで、なんかアップルストアにいそうな服装だ。
彼は、足の長い、小さなスタンドテーブルに肘を乗せてくつろいでいた。
そして、ぼくに気がつくそぶりを見せると、崩していた姿勢を正した。
彼は、ぼくに微笑みかけると、口を開いた。「よっ、いらっしゃい。初めまして」
ぼくは、小さく笑い、部屋に入った。
後ろで、ドアが、パタリと閉まった。
時刻は18時を回ったところ。
ちょうど授業が始まったところだ。
暖炉の中で薪が弾ける。
ぼくは、アンティークっぽい、古ぼけたデザインの椅子に腰掛けて本を読んでいた。
この校舎は地上36階、地下36階建ての超高層ビルとなっており、また、フロアごとの広さもそれなりになっている。
談話室は、ワンフロアの四隅に一つずつあり、広さは25mプールほど。
壁二面を占める巨大な窓は、どの談話室にもあり、そこからは、この校舎を囲う樹海や、遠くに光る街の明かり、その時々で様々な様相を見せる広大な空を望むことが出来た。
テラス席なんかもあったので、晴れた日の昼間なんかはそこで日光浴をしたり、穏やかな雨の日は雨の音や匂いを楽しんだりするのが、ぼくのお気に入りだった。
この談話室に好んで足を運ぶ理由は、他の談話室に比べて、どういう訳か利用者があまり多くないことと、そして、ぼくが今腰掛けているこの椅子があるからだった。
素材はマホガニー。
赤いクッションは程よい厚さで、長い間腰掛けていても腰が痛くならない。
談話室のあちこちには椅子やソファやテーブルやキャビネットがあり、いずれも材質は木だった。
あちらこちらにあるキャビネットの上にはランプが置いてあるが、灯りはついていない。
今この談話室を照らしている灯りは、目の前にある暖炉だけだった。
赤いカーペットはペルシャ絨毯で、ブーツなどの底の硬い靴で歩くと、良い感じに足音がくぐもる。
ぼくはその音が好きだった。
ぼくは本のページをめくった。
この時間が好きだ。
誰にも邪魔されず、本の世界に入り込める。
サイドテーブルからマイカップを取り、コーヒーを啜ろうとしたが、いつの間にかなくなっていた。
ぼくは立ち上がり、ゴツゴツと、くぐもった硬い足音を楽しみながら、自動販売機へ向かった。
廊下に出た途端に、足音はコツコツと、クリアで軽い足音になった。
ぼくは、この音も好きだった。
レッドカーペットは談話室の中だけに敷かれていた。
談話室前の廊下には複数の自動販売機がある。
目の前に人がいない時は電気が付かない。
そのため、談話室にいれば、この人工的な灯りも目に入らない。
そういった配置も、ぼくがこの談話室を気に入っている点だった。
給水機でマイカップをすすぎ、コーヒーの自動販売機の取り出し口に入れる。
次はイタリアンテイストにしようか……、トルココーヒーにしようか……。
イタリアン(0.48FU)にすることにした。
電子マネー【FU】でシャリーン、と支払いを終えると、コーヒーが抽出され始める。
ぼくは、廊下に並ぶ無数の自動販売機の前を進み、ボックスパスタの自動販売機の前に立った。
ボックスのサイズはXL(960g)、パスタはタリアテッレ、ソースはペストー、味の濃さはミドル、エビ抜き、チーズとバジル増量、プチトマトをトッピング、切り方はスライス、料金は3.6FU。
電子マネーで支払いを終えれば、自動販売機の中で調理が始まった。
ぼくは、コーヒーの自動販売機に戻って、マイカップに入った熱々のコーヒーを回収して、ボックスパスタの自動販売機の前に戻った。
コーヒーを啜るも、どういったところがイタリアンなのか、さっぱりわからなかった。
美味いから、別に良いのだけれど。
ボックスパスタの自動販売機は調理を続けていた。
調理の音が、静かな廊下に響き渡る。
表示によれば、【調理完了まであと2分】、とのことだった。
1kg近いパスタを調理するのに、随分と苦戦しているようだ。
ぼくはコーヒーを啜った。
その時、遠くから人の話し声が聞こえてきた。
ぼくは、一瞬パニックになり、すぐに冷静さを取り戻した。
どっちだ? 廊下の向こう側か、階段か……、この足音は、廊下だ。
ぼくは、さりげない体を装って、そちらを伺った。
目に意識を傾け、力を入れれば、数十メートル離れた先の様子も詳細に伺うことが出来た。
談話室前の廊下の照明は切れている。
自動販売機は目の前で人が動かなければ灯りはつかない。
こちらは暗闇。
あちらは照明の下。
こちらからあちらは丸見えだが、あちらからこちらはあまりよく見えないはずだ。
1人は、見覚えのある人影だった。
ほっそりとした、背の高いシルエット。
ウェーヴのかかった、まとまりのある黒のセミロング。
琥珀色の瞳。
濃紺のスキニージーンズ、タイトな黒のTシャツ、グレーのジャケット、ブラウンのブーツ。
グロリアだ。
ぼくの幼馴染の友人で、三歳年上の先輩。
こちらは問題ない。
問題なのは、彼女の隣にいる見覚えのない女の人だった。
身長は、160の後半。
美しい黄金色の瞳に藍色の光輪がかかっている。
セミロングでまとまりのあるブロンド。
足首まで丈のある黒のワンピースを着て、足元には先の四角いブーツを履いていた。
西欧系の、幼さの残る顔立ちで、熱っぽい様子で、グロリアに何かを言っている。
グロリアはというと、うんざりした様子だったけれど、しょうがなく付き合ってあげてる、といった感じだった。
耳をひそめ、意識をそちらに傾ければ、会話の内容が聞こえてくる。
まじなんだって!
あっそ……。
まじ? 興味ないっての?
いや、あるよ、じゃあ、あんた先試してよ、明日聞かせてよ。
グロリアのばか。
あ? ばかっつった? あんたこないだの数学で何点だった?
3点。
けっ。
違うもんっ! わたしの知性は学校のテストなんかじゃ測れないんだからっ!
はいはい……。
テストが全てとか思ってるグロリアの方がバカじゃん。
はいはい、そんで、その冒険ってやつには、今日行くの?
うん、今から。
じゃあ、明日楽しみにしてるわ、ちゃんと帰ってこいよ、じゃ、わたしこっちだから、ダチ待ってっから。
グロリアのばかっ。
はいはい、わたしもあんたが好きだよ。
わたしも可愛いわたしが大好きだもん!
言って、女の人は、たったったっ、と、駆け出して、ぼくの横を通り過ぎていき、自動販売機のそばを通り過ぎていき、階段を駆け上がっていった。彼女が駆け足で通り過ぎたせいで、自動販売機の明かりが一斉についた。人工の光が目に痛い……。ふと、良い香りが、周囲を漂っていることに気がついた。さっきの女の人は、香水をつけてるのかもしれない。
ボックスパスタが出来上がった。
そのタイミングで、グロリアがやってきた。
「ーーあ、グロリア」
グロリアは笑った。「さっきから気づいてたじゃん」
「環境の変化に敏感なんだよ。インキャだから」ぼくは、ボックスパスタを手に、談話室に戻った。
「小動物かよ」と、グロリアは笑った。「気づいてないフリが下手なんだね、インキャって」言いながら、彼女もついてくる。「さっきの奴は良い奴だよ。今度紹介してあげる」
「また今度ね」ぼくは、先程の椅子に腰掛けた。
グロリアは、わたしの左手のサイドテーブルを挟んですぐ左のソファに座った。
ぼくとグロリアの距離は3mほど。
これが他人ならばもう少し離れてくれないとパニックに陥ってしまうところだが、グロリアならちょうど良かった。
ぼくは、手の平に意識を集中させた。
体内を巡って、手の平に魔力が集まる。
手の平から放出された魔力は霧状で、宙をうねり、シルバーのスパゲッティフォークを象っていく。
霧状の魔力は、気体から液体、液体から固体へと、徐々に実体感を増していく。
ぼくの手の中に、スパゲッティフォークが生まれた。
ぼくは、パスタを巻き取りながら、ふと、自分でも、それが何かはわからないが、自分が何かを考えていることに、漠然と気がついた。ぼくはグロリアを見た。「食べる?」
「ペストー?」
ぼくは頷いた。「タリアテッレで、チーズとバジル多めで、トッピングはスライスプチトマト」
「良いね」次の瞬間、グロリアの手に、小皿とフォークが現れた。
ぼくは、グロリアの皿に、パスタを三分の一くらい移した。
「ありがと」グロリアは、上品ながらも食への貪欲さを窺わせる所作でペストーをあっという間に平らげると、皿とフォークを膝に乗せた。皿とフォークは霧状になって彼女の皮膚に吸い込まれた。
「凄い食欲。最後に食べたのいつ?」
グロリアは、それを思い出すように右上を見た。「三時間前。オーツとドライフルーツのバー。あとコーヒー。あと、コーシャーのインスタントヌードル。麺はノンフライで、ガーリックとトマトのスープで、乾燥チキンと乾燥トマトとバジルが入ってた」
「美味しそ」
「さっぱりしてて美味いよ。コーシャーもハラムも好き。今日はホームシックな気分だった。ちょっとね」グロリアはタバコを咥えた。彼女が指を弾くと、人差し指の先から、マッチサイズの火が上った。タバコに火をつけ、手を振って火を消す。ふぅ、と煙を吐き、一息付いたところで、グロリアはサイドテーブルに乗っているハードカバーの本を手に取った。「また読んでるの? ヴェルの冒険」
ぼくは頷いた。「面白いから。オチがわかって読んだら、この時の描写にはこんな意味があったのか、って気付かされたりして、楽しい」ペストーを平らげたぼくは、ボックスパスタの空き箱を暖炉に放り込んだ。「一本もらえる?」
「タバコ吸うと育たないんだってよ」グロリアは、自分の豊かな胸を張った。
「悩んでないから」そういえば、グロリアは女だけど、女の子と付き合っていた時期があった気がする。ぼくはタバコを受け取り、口に咥えながら、ふと、彼女はどんな人だったんだろ……、と思った。胸が大きかったのかな……。ぼくも胸を大きくすることを考えてもいいかもしれない……。なんだかんだで、戸籍上は女な訳だし、胸は女の武器だし。「火貸して」
グロリアは、自分の咥えているタバコを、ぼくに差し出してきた。
ぼくはタバコを受け取り、自分の咥えているタバコの先に火をつけた。「ありがと」ぼくは、タバコをグロリアに返した。「13の頃から吸ってたくせに。説得力ないよ」
「まあね」グロリアは笑った。
ぼくも笑いながら、ヴェルの冒険のページをめくった。新しいページには三行だけしか書かれていなかった。以前も読んだ文章をさらっと読んでみる。ヴェルが馴染みの村を出発し、訪れたことのない街へ到着したところで、次のページから新しい章が始まる。ヴェルはその初めて訪れた街で、ヴァルキリーの美男子と恋に落ちて、激しいセックスをするのだ。その描写はちょっとした官能小説並みに想像と欲情を駆り立ててくれるもので、何度かお世話になったこともあった。この本は紀行書のコーナーに置かれているが、そういった文章があるということを知ってしまうと、置く場所を間違えているんじゃないかという気がしないでもない。もっとも、ポルノを買ったりする必要がなくなるという意味では大助かりだけれど。ぼくは、ハードカバーの本を閉じた。
「友達は?」
ぼくは顔を上げた。「どういう意味?」
グロリアは、なんてことのない様子でぼくを見ていた。
ぼくは肩を竦めた。「あんたと、ケントと他にも何人か。勉強に趣味に忙しいし、それほど大勢の友達はいらないよ」
ケントは、三歳年下の魔法使いの男の子だ。
寮の部屋が向かいということもあって、小さい頃から、なにかと一緒に過ごすことが多かった。
小さい頃は無邪気なもんで、キラキラと光るアンバーの目が可愛い奴だった。
ところが、最近になって生意気にも思春期がやってきたのか、物欲しげな顔を向けてくるようになってきた。
魔法使いはみんな、12歳くらいには身体的な成長を終えてしまう。
ケントの身長は174cmで、肩幅はそれほど広くないながらも胸板も厚く、腕もがっしりとしていて、腹筋も八つに割れていたし、生意気なことに、なんだか良い匂いも漂わせている。
近頃はなにかと気まずく、こちらから避けるようにしている。
あいつは弟のようなもんだし、彼女が出来れば、また昔のような、肩の力を抜ける関係に戻れるだろう。
少し寂しいが、人と顔を合わせられないだけで寂しいと思える相手は中々いないし、会えないだけで寂しいと思えることも、ぼくにしては珍しい、貴重なことなので、この寂しいという感情を大切にすることにしていた。
グロリアは、頷きながら、タバコを吸い、煙を吐いた。
暖炉の薪が、パチパチと、心地の良い音とともに弾ける。
グロリアは、ぼんやりとした目で、暖炉の中で燃える薪を見つめていた。
ぼくも、同じく薪を見つめた。「……何話してたの? さっきの人と」
「あぁ……」グロリアは戯けるように目を回した。「クラスメイトよ。幼馴染。まだ会ったことなかったっけ?」
「うん」
「ゾーイって子。オカルトが好きなの」
ぼくは眉をひそめた。「オカルト?」それを言うなら、ぼくたちこそがまさしくオカルトだ。なにせ、ぼくたちは魔法使いなのだから。クラスメイトには人間も吸血鬼も幽霊もエルフもヴァルキリーも精霊だっている。ゾーイさんがこの学園の生徒である以上、今更オカルトや超常現象やファンタジーに心惹かれる理由なんてないと思うけれど……、或いは、人間たちをワクワクさせたり驚かせたりするために、その手の研究をしているのかもしれない。そういった変わり者は、いつの時代も、どの業界にもいるものだ。「ゾーイさんって、何者?」
「精霊とエルフのミックス」グロリアも困ったように笑った。「面白い奴なんだけど、オタクの話に付き合うのはやっぱり疲れるわ」グロリアはタバコの煙を吐いた。「七不思議って知ってる?」
「学園の?」
「うん」
「知らない。どんなの?」
「この時間にどこそこのドアを何回ノックしてから何秒置いて開けると異世界に行けるとか、そういう感じ」
「信じてないんだ?」
グロリアは鼻を鳴らした。「バカっぽいじゃん」
ぼくはタバコを吸った。「熱っぽく話してたんだから、乗ってあげればよかったのに」
グロリアは肩を竦め、短くなったタバコを暖炉に放り込んだ。タバコは、燃える薪の山の奥に姿を消した。「わたしが14なら乗ってあげれたかも知んないけど、あいにく、もっと他に考えなくちゃいけないことが山積みでね」
ぼくは頷いた。「学園の仕事はどう?」
「楽しいよ。ただ……」グロリアは、あー……、と、考えるように唸った。「ただ、大変だし、難しい。こないだなんかジョージアに行かされた。今度、ジョージア、アルメニア、アゼルバイジャンのコーカサス地方に学園を建設するんだって。その下見」
「下見?」
「こういう場所だったら校舎建てる為の土地を確保できるかなとか、そういう感じ。アルメニアとアゼルバイジャンの国境上にならちょうどいいのがあったんだけど、あそこはあんまり仲が良くないし」
「そうだっけ」
「多分、10年以内に戦争でも起こるんじゃないかな。ナゴルノ・カラバフとかが火種になりそう……。そうなったら、どっちの国にも友達がいるから複雑だわ」
ぼくは、頷きながらタバコを吸った。コーカサスだのアルメニアだのアゼルバイジャンだのナゴルノ・カラバフだの、ぼくには関係のない遠い世界の話という感じで、相打ちを打つ以外に出来ることもない。ぼくは短くなったタバコを、暖炉に放り込んだ。タバコは、積み重ねられた薪の上に乗っかった。「新しい学園なんて必要なのかな」ぼくは言った。
「わたしも初めはそう思ったけど、あれじゃないかな、魔法使いはヨーロッパやその周辺に多いし、コーカサス地方にも結構いたから、立地上必要なんだと思う」
ぼくは頷いた。「地上には6億人から7億人の魔法使いがいるって話だったけど、10人に1人ってことでしょ? 休日とか、たまに街に行くけど、魔法使いは1人も見ない。1人も。そんなにいるとは思えないんだよね」
「日本は魔法使いが少ないからね。ヨーロッパに行ったら、むしろ人間を見つける方が難しいわ」
「ふーん。そうだっけ」
「最後に行ったのは?」
「小6。また行きたいな」
グロリアは新しいタバコを咥えた。
「ぼくにも頂戴」
「頭撫でさせてくれたら良いよ」
「しょーがないな」
グロリアは、ぼくの頭を撫でた。
グロリアの手は、ぼくの手よりも大きかった。
彼女の撫で方は優しかったので、撫でられるのは好きだった。
「髪サラサラ」グロリアは言った。「なに使ってんの?」
「シャンプー」
「もっと大切にしなさい。あんたの髪好きよ」言って、グロリアは、ぼくの唇にタバコを差し込んで、火をつけてくれた。
「ありがと」ぼくは、煙を吐きながら言った。
19:53
19時を過ぎて、もうすぐ20時になるという頃。
本を読み終えたぼくは、そろそろ学生寮に帰ろうかと、立ち上がり、暖炉の火を消して、廊下に出た。
忘れ物がないことを確認して、なにか夜食でも買おうかと、自動販売機の前を歩く。
ターキーサンドウィッチ、ハンバーガー、牛丼、フライドポテト、ポテトチップス、ブリトー、フィッシュアンドチップス、ピザ……、どれもこれもピンとこない。
ぼくは、アルゼンチン産のワインを買って、それを飲みながら帰ることにした。
グラスにしておくべきか、ボトルにしておくべきか……、ボトルにしちゃえ。
ピッ、シャリーン、ボトン。
ぼくは、ワインボトルを開けようと、ボトルの口を捻って、舌打ちをした。
安いくせにコルク付きだった。
ぼくは手の平にコルク抜きを生み出して、きゅぽんっ、と、心地の良い音を楽しみ、その余韻に浸りながら、ワインの染みたコルクの香りを楽しんだ。
コルク抜きを霧のように消す。
手の平に残ったコルクを、燃えるゴミに向かって投げた直後に、コルクって燃えるゴミで良いんだっけ、と、疑問が頭に浮かんだ。
ボトルの口からワインを飲む。
美味しい。
ワインの細かい違いはあまりわからなかったけど、カヴェルネ・ソーヴィニヨンが一番好きだった。
どこを気に入っているかといえば、その名前の響きが好きだった。
身を翻し、廊下の先にあるエレベーターホールに向かおうとしたところで、ぼくは立ち止まっ「あ……」
廊下の向こうから、見覚えのあるおねえさんが歩いてくる。
さっき、グロリアと話をしていた人。
ゾーイさんだ。
ぼくは眉をひそめた。
何があったのか、黒のワンピースは泥だらけで、雑草がこびりついている。
森で転んだのかもしれない。
ぼくは、なんて声をかけたものかと考えた。
あの、すみません。
「あ」ゾーイさんは、ぼくに気がつくと、足を止めて、にっこりと微笑んだ。「こんにちはっ」
可愛い声だった。
跳ねるような、明るい声だ。
ぼくの顔が熱くなった。
暖房効きすぎじゃないかなここ。「あの、すみ、こんにちは」
「あなたって、確か……」ゾーイさんは、宙を見上げ、眉をひそめた。ぼくのことを思い出そうとしてくれているようだったが、話をしたことはないので、無駄な試みだった。「えっと……」
「あの、グロリアの幼馴染です。さっき、談話室のそばで話してるのが聞こえちゃったんですけど、なんか、七不思議の話とかって」
「あぁ……」ゾーイさんは顔を赤く染めた。照れているようだった。「そういう話が好きなの。馬鹿みたいよね」
「そんなことないです。面白そうだなって……、良かったら、お話聞かせてくれませんか?」
「良いよ。コーヒー飲む?」ゾーイさんは言った。「それともワインの方がいい?」
「もらいます。ありがとうございます」
「すごいね。ボトルで飲んでるんだ」と、ゾーイさんは笑った。「何歳?」
「15です」
ゾーイさんは、鼻をスンッ、と鳴らした。「タバコも吸うんだ」
「あ……」
「イケない子ね」ゾーイさんは微笑みながら、自動販売機のボタンを押した。
ピッ、ボトン。
ゾーイさんは、ボトルワインを取り、手にワイングラスを生み出した。
「魔法使いだから、もう成長終わってるし……」
「そうね。じゃあ、1本飲み終わるまで付き合ってくれる?」
「喜んで。1本と言わず、2本でも3本でも」
ゾーイさんは、楽しそうに笑った。
20:36
「じゃー、空ちゃんはヴェルの冒険みたいな冒険がしたいんだね」
ぼくは、小さく笑った。「冒険って言うと厨二臭いので嫌ですけど、そうですね、旅行とかしたいなって」
相変わらず、談話室は静かだった。
ぼくとゾーイさんしかいない。
「じゃー旅人さんだねっ」ゾーイさんは、ワイングラスを揺らしながら言った。
「はい」普通に旅行がしたいんだね、で良いのではないでしょうか……、と思いながら、ぼくは頷いた。旅人も冒険も同じくらいイタい単語という感じがして、それを聞く度に恥ずかしくなってしまうのだけれど、そう言ったところにこだわって話を止めてもしょうがない。「ゾーイさんは、将来はどんなことを考えてらっしゃるんですか?」
「将来かー……」ソファの上で膝を揃えるゾーイさんは、ワイングラスを両手で持ち、考えるように天井を見つめた。「とりあえず、大学部に進級ねー。それから考えても良いかも。進級の前に、インターンやってみても良いかもだし、一年休暇をとって、ゲーム三昧ってのも良いかも。親から、一年も休むなら勉強しなさいっ! って言われたら、うるせーなー、ベンキョーしてんだよっ! あたしはしょーらいゲームクリエイターになんだよっ! とか言ってみたり」ゲーム厨の真似をしたゾーイさんは、その顔芸だけしか知らない人だったらおそらく想像も出来ないんじゃないかというほど上品に、ふふふっ、と、お姫様のように笑ってみせた。
ぼくは笑った。
「空ちゃんはこれから高校生だもんね」
「はい」
「楽しまないとねっ」言って、ゾーイさんはぼくの頭を撫でた。
顔が、燃えるように熱い。「……はぃ」
ゾーイさんの柔らかくて温かい手の感触が心地良い。
ゾーイさんの胸の膨らみに目を奪われる。
続いて、ぼくは、ゾーイさんの瞳を見た。
藍色の光輪のかかった、黄金色の瞳。
レモンキャンディーみたいだ。
潤んでいて、キラキラと光っていて、吸い込まれそうになる。
ツヤツヤとした唇は、とても柔らかそうで、指先で触れてその感触を確かめてみたくなる。
この香り……。
「ゾーイさんって……」
「なぁに?」
「シャンプー何使ってるんですか……?」
ゾーイさんは、ぼくが聞いたこともないようなブランドを口にした。
使ったことはないけど、絶対に髪に良いに決まってる。だってこんなに良い匂いがするんだから……。
「香水着けてます……?」
「あ、わかる? こないだ試供品もらったの」
どこだよその店、ぼくも行こっと……。「ぼくも欲しいです……」
ゾーイさんは、ふふっ、と、優しそうに笑った。「試してみる?」
「なにをっ」
「異世界に行けるって言う七不思議」
「……はぃ」なんだ……、と、ぼくはがっかりした。てっきり、ベッドに行ってなんらかの相性を試してみませんかっていうお誘いかと……。
ぼくは、自分の性欲に自己嫌悪を抱きながら、ゾーイさんが教えてくれた、七不思議の内容を記憶した。
23:49
もうすぐ真夜中になるのに、ぼくは、まだ校舎に残っていた。
「えっと……」この用具室で良いんだよな……。
なんて事のないドアだった。
そして、ゾーイさんの話によると、このドアこそが、もう一つの世界への入り口らしい。
試しにドアを開けてみれば、中は、掃除用具が収まっているだけの、小さな物置だった。
ぼくは、ドアを閉めて、ゾーイさんから教えられた通りのことをやってみることにした。
どうやら、それがドアをあっちに繋ぐために必要な儀式となるらしい。
ドアを1回叩いて、1秒間を置いて、もう1回叩いて、1秒置いて、2回叩いて、2秒置いて、3回叩いて3秒、5回叩いて5秒、7回叩いて7秒、最後に5本の指で、5点に同時に魔力を注いで……。
ぼくは、深呼吸をした。
次は……、人差し指の先で扉を上下に撫でながら、甘えた声で、呪文を唱える、と。
その呪文をゾーイさんから教えられた時、ぼくは違和感を抱いて、彼女に確認をした。
魔法を扱うのに、呪文など必要がないからだ。
ただ、ぼくが知らないだけということもある。
高等部からは呪文が必要な魔法を学ぶのかもしれない。
そう思い、ゾーイさんに確認をしたところ、彼女は、胡散臭いほどに真剣な顔で、『この呪文は絶対に必要なんです。あるとないとじゃ大違いです』と言った。
それはもう、今にも笑いだしてしまいそうになるのを必死で堪えているのを全力で隠しているんじゃないかというほどに真剣な声色で仰っていたので、ぼくとしては信じる以外に道はなかった。
ぼくは、もう一度深呼吸をした。
そして、ゾーイさんから教えられた、秘密の呪文を唱える。
その呪文は、安い官能小説や、男が夜に見ている動画や、ぼくもたまに読んだりする二次SSの中でしか見聞きしないようなセリフだった。
呪文を言った後で、ぼくは、燃えるように熱くなった顔を抑えて、その場にうずくまった。
こんなことを言っているところを見られたら一生死ねる……。いや、そもそもだよ? そもそもだ……、ぼくはただ、ドアをノックして、中にいる人に、中に入れてくださいって言っているだけだ。それならドアに用具室って書いてあるのがおかしくなるけど、それはぼくが部屋を間違えてノックしちゃったからだ。そんなところを誰かに聞かれたり見られたりしたからなんだっていうんだ。もしもそいつが勘違いしたら、そいつが、頭の中がそういうことで一杯なだけの変態だというだけのことなのだ。
夜の学校で、ぼくの後ろに変態が立って盗み聞きしている、そんな考えが頭に浮かぶと背筋がゾクゾクした。
後ろから物音が聞こえた気がして、ぼくは、弾かれたように、素早く周囲を見渡した。
幻聴かもしれないが、誰かが笑いを堪えているような声が聞こえた気がする。
誰もいない。
気のせいか……。
ぼくは無い胸を撫で下ろした。
別にぼくとしては胸なんか必要ないし、ナニとは言わないが将来股の間に移植をするつもりなので、コンプレックスに思う必要なんかないんだけれど、周りからうだうだ言われると、不思議と意識してしまう。
それはともかくとして、ゾーイさんの話によると、これで、異世界への扉が開くらしい。
ぼくは、ドアノブを捻り、掃除用具室のドアを開けた。
ぼくは、小さく笑った。「疲れてんのかな……、ぼく」ドアの向こうにある光景を見て、ぼくは、口を開いた。
ぼくは、どこかの家の一室にいた。
真夜中だと言うのに、窓からは太陽の光が差し込んでいる。
そして、部屋の中央では、彫りの深い男性が、コーヒーを飲んでいた。
西欧のラテン系っていう感じがするが、堀が深いだけの日本人だって言われれば、そうな気もする。
ダンディだった。
デニムにTシャツで、なんかアップルストアにいそうな服装だ。
彼は、足の長い、小さなスタンドテーブルに肘を乗せてくつろいでいた。
そして、ぼくに気がつくそぶりを見せると、崩していた姿勢を正した。
彼は、ぼくに微笑みかけると、口を開いた。「よっ、いらっしゃい。初めまして」
ぼくは、小さく笑い、部屋に入った。
後ろで、ドアが、パタリと閉まった。
0
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