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うちあげられた人魚 《海里》

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「お兄ちゃん、早く帰ってきて…」

有栖はあの頃、そう言っていたではないか。
あれは父からの暴力から救い出してほしかった彼女のSOSだったのだ。
それ以上は言葉にできなかったのだ。

偶然、有栖の首筋に強く噛まれたような跡を見つけたときの衝撃は今でも覚えている。
俺は無我夢中で父親に殴りかかり、まだ体格差があった父に返り討ちにされ、殴り合いを泣きながら有栖に止められた。

あの時、父は見えない場所に噛み跡やキスマークを残していた。見えてしまったのはほんの偶然だったのだ。

だが、今回は違った。
わざわざ俺たちの目につく場所につけたのだ。……まるで、これは俺のものだというように。そして有栖にも自分のことを忘れさせないように。

「……」
奥歯が軋むほど噛み締める。
心が捻じ切れそうだ。
静かな部屋に、激しい雨音だけが響く。

***

有栖はそれから丸2日、眠り続けた。
悪夢を見ているのだろうか、時折顔をしかめ、魘されているようにも見えた。 
その苦痛に満ちた表情を見ていると、胸が張り裂けそうになる。

突然、ビクンと有栖の身体が跳ねて、彼女が目を覚ました。

「有栖……!」

彼女の目は焦点が合っておらず、夢を見ているようにぼんやりとしている。

やがて彼女は両の手のひらを持ち上げて、光に翳すようにゆっくりと表裏させて、ぼんやりと見つめた。

両方の手首は、竜之介が、痛々しい跡を隠すために、丁寧に包帯を巻いてくれていた。

まじまじと不思議そうに眺めていたその刹那、彼女の瞳に、まるで波が押し寄せるように表情があらわれたかと思うとその手で顔を覆って……泣き出した。

声を出さないように必死に堪えながら、すべてを押し殺すような泣き方だった。
号泣してくれたほうがどんなによかったか……。

その華奢な肩が痛々しく、抱きしめてもいいかひどく躊躇した。
自分が不甲斐なくて。

いつのまにか後ろに来ていた竜之介が
「兄貴、なんにもできないなら場所代われよ」
とピシャリと言った。
竜之介らしい言葉だと思った。
彼は強い。
とても強く、優しい。自分よりもずっと。

その言葉のおかげでようやく彼女に手を伸ばすことができたのだから。
顔を覆っていた有栖の手も頭も身体も一緒に抱きしめた。
「大丈夫だ…もう大丈夫だよ……」
それが
今の僕にできるすべてだった。

小さな嗚咽は、有栖の華奢な身体のなかでより悲痛に響き渡る。腕の中で震える彼女は弱々しくて小さくて壊れてしまいそうだった。
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