58 / 81
混沌、ガラスの破片 《海里》
しおりを挟む
有栖はあの晩から、昼となく夜となくフラッシュバックに苦しめられている。
夜中に発作のように激しく泣き叫んだり、震えが止まらなくなったり。
以前と同じように喉や胸や腕を掻きむしるように引っ掻いて傷つけたり、食べたものを吐き戻してしまったり。
鎮痛薬や安定剤である程度は緩和されているが、その場しのぎでしかなかった。
1人にするのは危険すぎるので、俺と竜之介が順番にそばにいることにしている。
割れてしまうほど奥歯をぎりぎりと噛み締めて、自分の耳や口を押さえる。
それでも衝動が抑えられないときは自分の腕に噛みついて必死に耐えるようなそぶりを見せる。あっという間に有栖の細い白い腕は血まみれになった。
可憐な彼女の顔を苦しさと悲しみが支配する。
昔は気づけなかった。
彼女の衝動や発作は、たったひとつの言葉を発しないようにするためのものだったことを。
彼女を本当に苦しめているのは、父に傷つけられた身体や心の傷跡より、その事実を母親や俺たちに知られて、幸せな家族が破綻してしまう恐怖。
家族の笑顔が消えること。
彼女は弱くなんかない。
昔もこんなふうにして、父親との行為を、母親や、兄や僕に知られないように必死に隠していたんだ。
《家族》を守るために。
自分の心を壊しても、
必死で。
でもその努力が母の死という残酷な形ですべて終わってしまった。
その絶望は、想像しても計り知れない。
ガシャン!と大きな音がしてハッとする。
キッチンからだった。
俺は手にしていた洗濯物を投げ捨てて、慌てて廊下に飛び出し、キッチンに向かう。
危ないから刃物はみんな隠してあるが、急に不安になる。
キッチンでグラスを割った有栖がこっちを見ていた。故意で割ったのか、滑り落ちてしまったのかわからないが、右手には大きなガラスの破片を握りしめている。
握り締めすぎて、手のひらから真っ赤な血が滴り落ちる。
「……有栖、それを放せ! だめだ……」
思わず駆け寄って、その手を取ろうとすると、彼女に強い力で弾かれた。
「やめて…触らないで…」
有栖がじりじりと後ずさる。
意識が混濁している。
俺のことがわかっているのか、親父と思っているのか。
「有栖、俺だ、兄ちゃんだよ」
怖がらせないようにゆっくり近づくが、彼女の目が怯え切っている。その瞳があの夜の姿と重なってしまう。
「私がいなければ…!みんな幸せだった!」
ちがう!
「おねがい…もう終わらせて」
それは父との行為を指しているのか、自分の命のことを言っているのかわからない。
心の底から懇願するような絞り出すような声に胸が潰れそうになる。
ちがう、彼女は幸せになれる子だ。
これからもっと、もっと。
「ママを殺したのは私よ!」
「ちがう!放せ、有栖‼︎」
その刹那、有栖は急にガラスの破片を握った右手を振り上げたかと思うと思い切り自分の喉元に向けて振り下ろす。
母親と同じやり方だ。
「ありす……!
……ッッ!」
すんでのところで有栖に飛びつき、ガラスは俺の腕を切る。パタパタッと血が床に滴り落ちた。
ハッとしたように、有栖の身体から力が抜ける。ガラスの破片が床に落ちた。
有栖はそのまま破片の上にへたり込みそうになり、俺は彼女の背中を支えた。
「ご…ごめんな…さい、お兄ちゃん…」
そのまま俺を見上げた彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
自分が何をしようとしていたのか気がついたのだろう。俺はかまわず、彼女を抱きしめた。そして彼女の涙を指の背で拭った。
「俺は大丈夫だよ……それより、有栖が自分を傷つけようとすることがつらい…ほかは許しても、それは許さないよ…」
拭っても拭っても、彼女の頰を透明な雫がこぼれ落ちる。
「お願いだから……これ以上ひとりで苦しむな…俺や竜之介をちゃんと頼って……今までひとりで抱えてきたものを どうか分けて欲しい」
彼女は静かにすすり泣きはじめる。
そんなやりとりを、買い出しから帰宅した竜之介が扉にもたれてじっと見ていたのを俺は知らなかった。
夜中に発作のように激しく泣き叫んだり、震えが止まらなくなったり。
以前と同じように喉や胸や腕を掻きむしるように引っ掻いて傷つけたり、食べたものを吐き戻してしまったり。
鎮痛薬や安定剤である程度は緩和されているが、その場しのぎでしかなかった。
1人にするのは危険すぎるので、俺と竜之介が順番にそばにいることにしている。
割れてしまうほど奥歯をぎりぎりと噛み締めて、自分の耳や口を押さえる。
それでも衝動が抑えられないときは自分の腕に噛みついて必死に耐えるようなそぶりを見せる。あっという間に有栖の細い白い腕は血まみれになった。
可憐な彼女の顔を苦しさと悲しみが支配する。
昔は気づけなかった。
彼女の衝動や発作は、たったひとつの言葉を発しないようにするためのものだったことを。
彼女を本当に苦しめているのは、父に傷つけられた身体や心の傷跡より、その事実を母親や俺たちに知られて、幸せな家族が破綻してしまう恐怖。
家族の笑顔が消えること。
彼女は弱くなんかない。
昔もこんなふうにして、父親との行為を、母親や、兄や僕に知られないように必死に隠していたんだ。
《家族》を守るために。
自分の心を壊しても、
必死で。
でもその努力が母の死という残酷な形ですべて終わってしまった。
その絶望は、想像しても計り知れない。
ガシャン!と大きな音がしてハッとする。
キッチンからだった。
俺は手にしていた洗濯物を投げ捨てて、慌てて廊下に飛び出し、キッチンに向かう。
危ないから刃物はみんな隠してあるが、急に不安になる。
キッチンでグラスを割った有栖がこっちを見ていた。故意で割ったのか、滑り落ちてしまったのかわからないが、右手には大きなガラスの破片を握りしめている。
握り締めすぎて、手のひらから真っ赤な血が滴り落ちる。
「……有栖、それを放せ! だめだ……」
思わず駆け寄って、その手を取ろうとすると、彼女に強い力で弾かれた。
「やめて…触らないで…」
有栖がじりじりと後ずさる。
意識が混濁している。
俺のことがわかっているのか、親父と思っているのか。
「有栖、俺だ、兄ちゃんだよ」
怖がらせないようにゆっくり近づくが、彼女の目が怯え切っている。その瞳があの夜の姿と重なってしまう。
「私がいなければ…!みんな幸せだった!」
ちがう!
「おねがい…もう終わらせて」
それは父との行為を指しているのか、自分の命のことを言っているのかわからない。
心の底から懇願するような絞り出すような声に胸が潰れそうになる。
ちがう、彼女は幸せになれる子だ。
これからもっと、もっと。
「ママを殺したのは私よ!」
「ちがう!放せ、有栖‼︎」
その刹那、有栖は急にガラスの破片を握った右手を振り上げたかと思うと思い切り自分の喉元に向けて振り下ろす。
母親と同じやり方だ。
「ありす……!
……ッッ!」
すんでのところで有栖に飛びつき、ガラスは俺の腕を切る。パタパタッと血が床に滴り落ちた。
ハッとしたように、有栖の身体から力が抜ける。ガラスの破片が床に落ちた。
有栖はそのまま破片の上にへたり込みそうになり、俺は彼女の背中を支えた。
「ご…ごめんな…さい、お兄ちゃん…」
そのまま俺を見上げた彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
自分が何をしようとしていたのか気がついたのだろう。俺はかまわず、彼女を抱きしめた。そして彼女の涙を指の背で拭った。
「俺は大丈夫だよ……それより、有栖が自分を傷つけようとすることがつらい…ほかは許しても、それは許さないよ…」
拭っても拭っても、彼女の頰を透明な雫がこぼれ落ちる。
「お願いだから……これ以上ひとりで苦しむな…俺や竜之介をちゃんと頼って……今までひとりで抱えてきたものを どうか分けて欲しい」
彼女は静かにすすり泣きはじめる。
そんなやりとりを、買い出しから帰宅した竜之介が扉にもたれてじっと見ていたのを俺は知らなかった。
0
あなたにおすすめの小説
記憶をなくしても君は忘れない
水城ひさぎ
恋愛
本田光莉(ほんだひかり)、アメリカ・ロサンゼルス在住フォトグラファー、28歳。光莉には、松村理乃(まつむらりの)という同い年の異母姉がいる。行方不明になった理乃を探すため、日本へやってきた光莉は、高校時代の元カレ、月島拓海(つきしまたくみ)と再会する。しかし、彼は高校時代以降の記憶を喪失していた……。
忘れ去られた婚約者
かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』
甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。
レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。
恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。
サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!?
※他のサイトにも掲載しています。
毎日更新です。
【R18】熱い夜の相手は王太子!? ~婚約者だと告げられましたが、記憶がございません~
世界のボボブラ汁(エロル)
恋愛
激しい夜を過ごしたあと、私は気づいてしまった。
──え……この方、誰?
相手は王太子で、しかも私の婚約者だという。
けれど私は、自分の名前すら思い出せない。
訳も分からず散った純潔、家族や自分の姿への違和感──混乱する私に追い打ちをかけるように、親友(?)が告げた。
「あなた、わたくしのお兄様と恋人同士だったのよ」
……え、私、恋人がいたのに王太子とベッドを共に!?
しかも王太子も恋人も、社交界を騒がすモテ男子。
もしかして、そのせいで私は命を狙われている?
公爵令嬢ベアトリス(?)が記憶を取り戻した先に待つのは── 愛か、陰謀か、それとも破滅か。
全米がハラハラする宮廷恋愛ストーリー……になっていてほしいですね!
※本作品はR18表現があります、ご注意ください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
十八歳で必ず死ぬ令嬢ですが、今日もまた目を覚ましました【完結】
藤原遊
恋愛
十八歳で、私はいつも死ぬ。
そしてなぜか、また目を覚ましてしまう。
記憶を抱えたまま、幼い頃に――。
どれほど愛されても、どれほど誰かを愛しても、
結末は変わらない。
何度生きても、十八歳のその日が、私の最後になる。
それでも私は今日も微笑む。
過去を知るのは、私だけ。
もう一度、大切な人たちと過ごすために。
もう一度、恋をするために。
「どうせ死ぬのなら、あなたにまた、恋をしたいの」
十一度目の人生。
これは、記憶を繰り返す令嬢が紡ぐ、優しくて、少しだけ残酷な物語。
12年目の恋物語
真矢すみれ
恋愛
生まれつき心臓の悪い少女陽菜(はるな)と、12年間同じクラス、隣の家に住む幼なじみの男の子叶太(かなた)は学校公認カップルと呼ばれるほどに仲が良く、同じ時間を過ごしていた。
だけど、陽菜はある日、叶太が自分の身体に責任を感じて、ずっと一緒にいてくれるのだと知り、叶太から離れることを決意をする。
すれ違う想い。陽菜を好きな先輩の出現。二人を見守り、何とか想いが通じるようにと奔走する友人たち。
2人が結ばれるまでの物語。
第一部「12年目の恋物語」完結
第二部「13年目のやさしい願い」完結
第三部「14年目の永遠の誓い」←順次公開中
※ベリーズカフェと小説家になろうにも公開しています。
【R18】幼馴染がイケメン過ぎる
ケセラセラ
恋愛
双子の兄弟、陽介と宗介は一卵性の双子でイケメンのお隣さん一つ上。真斗もお隣さんの同級生でイケメン。
幼稚園の頃からずっと仲良しで4人で遊んでいたけど、大学生にもなり他にもお友達や彼氏が欲しいと思うようになった主人公の吉本 華。
幼馴染の関係は壊したくないのに、3人はそうは思ってないようで。
関係が変わる時、歯車が大きく動き出す。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる