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混沌、ガラスの破片 《海里》
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有栖はあの晩から、昼となく夜となくフラッシュバックに苦しめられている。
夜中に発作のように激しく泣き叫んだり、震えが止まらなくなったり。
以前と同じように喉や胸や腕を掻きむしるように引っ掻いて傷つけたり、食べたものを吐き戻してしまったり。
鎮痛薬や安定剤である程度は緩和されているが、その場しのぎでしかなかった。
1人にするのは危険すぎるので、俺と竜之介が順番にそばにいることにしている。
割れてしまうほど奥歯をぎりぎりと噛み締めて、自分の耳や口を押さえる。
それでも衝動が抑えられないときは自分の腕に噛みついて必死に耐えるようなそぶりを見せる。あっという間に有栖の細い白い腕は血まみれになった。
可憐な彼女の顔を苦しさと悲しみが支配する。
昔は気づけなかった。
彼女の衝動や発作は、たったひとつの言葉を発しないようにするためのものだったことを。
彼女を本当に苦しめているのは、父に傷つけられた身体や心の傷跡より、その事実を母親や俺たちに知られて、幸せな家族が破綻してしまう恐怖。
家族の笑顔が消えること。
彼女は弱くなんかない。
昔もこんなふうにして、父親との行為を、母親や、兄や僕に知られないように必死に隠していたんだ。
《家族》を守るために。
自分の心を壊しても、
必死で。
でもその努力が母の死という残酷な形ですべて終わってしまった。
その絶望は、想像しても計り知れない。
ガシャン!と大きな音がしてハッとする。
キッチンからだった。
俺は手にしていた洗濯物を投げ捨てて、慌てて廊下に飛び出し、キッチンに向かう。
危ないから刃物はみんな隠してあるが、急に不安になる。
キッチンでグラスを割った有栖がこっちを見ていた。故意で割ったのか、滑り落ちてしまったのかわからないが、右手には大きなガラスの破片を握りしめている。
握り締めすぎて、手のひらから真っ赤な血が滴り落ちる。
「……有栖、それを放せ! だめだ……」
思わず駆け寄って、その手を取ろうとすると、彼女に強い力で弾かれた。
「やめて…触らないで…」
有栖がじりじりと後ずさる。
意識が混濁している。
俺のことがわかっているのか、親父と思っているのか。
「有栖、俺だ、兄ちゃんだよ」
怖がらせないようにゆっくり近づくが、彼女の目が怯え切っている。その瞳があの夜の姿と重なってしまう。
「私がいなければ…!みんな幸せだった!」
ちがう!
「おねがい…もう終わらせて」
それは父との行為を指しているのか、自分の命のことを言っているのかわからない。
心の底から懇願するような絞り出すような声に胸が潰れそうになる。
ちがう、彼女は幸せになれる子だ。
これからもっと、もっと。
「ママを殺したのは私よ!」
「ちがう!放せ、有栖‼︎」
その刹那、有栖は急にガラスの破片を握った右手を振り上げたかと思うと思い切り自分の喉元に向けて振り下ろす。
母親と同じやり方だ。
「ありす……!
……ッッ!」
すんでのところで有栖に飛びつき、ガラスは俺の腕を切る。パタパタッと血が床に滴り落ちた。
ハッとしたように、有栖の身体から力が抜ける。ガラスの破片が床に落ちた。
有栖はそのまま破片の上にへたり込みそうになり、俺は彼女の背中を支えた。
「ご…ごめんな…さい、お兄ちゃん…」
そのまま俺を見上げた彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
自分が何をしようとしていたのか気がついたのだろう。俺はかまわず、彼女を抱きしめた。そして彼女の涙を指の背で拭った。
「俺は大丈夫だよ……それより、有栖が自分を傷つけようとすることがつらい…ほかは許しても、それは許さないよ…」
拭っても拭っても、彼女の頰を透明な雫がこぼれ落ちる。
「お願いだから……これ以上ひとりで苦しむな…俺や竜之介をちゃんと頼って……今までひとりで抱えてきたものを どうか分けて欲しい」
彼女は静かにすすり泣きはじめる。
そんなやりとりを、買い出しから帰宅した竜之介が扉にもたれてじっと見ていたのを俺は知らなかった。
夜中に発作のように激しく泣き叫んだり、震えが止まらなくなったり。
以前と同じように喉や胸や腕を掻きむしるように引っ掻いて傷つけたり、食べたものを吐き戻してしまったり。
鎮痛薬や安定剤である程度は緩和されているが、その場しのぎでしかなかった。
1人にするのは危険すぎるので、俺と竜之介が順番にそばにいることにしている。
割れてしまうほど奥歯をぎりぎりと噛み締めて、自分の耳や口を押さえる。
それでも衝動が抑えられないときは自分の腕に噛みついて必死に耐えるようなそぶりを見せる。あっという間に有栖の細い白い腕は血まみれになった。
可憐な彼女の顔を苦しさと悲しみが支配する。
昔は気づけなかった。
彼女の衝動や発作は、たったひとつの言葉を発しないようにするためのものだったことを。
彼女を本当に苦しめているのは、父に傷つけられた身体や心の傷跡より、その事実を母親や俺たちに知られて、幸せな家族が破綻してしまう恐怖。
家族の笑顔が消えること。
彼女は弱くなんかない。
昔もこんなふうにして、父親との行為を、母親や、兄や僕に知られないように必死に隠していたんだ。
《家族》を守るために。
自分の心を壊しても、
必死で。
でもその努力が母の死という残酷な形ですべて終わってしまった。
その絶望は、想像しても計り知れない。
ガシャン!と大きな音がしてハッとする。
キッチンからだった。
俺は手にしていた洗濯物を投げ捨てて、慌てて廊下に飛び出し、キッチンに向かう。
危ないから刃物はみんな隠してあるが、急に不安になる。
キッチンでグラスを割った有栖がこっちを見ていた。故意で割ったのか、滑り落ちてしまったのかわからないが、右手には大きなガラスの破片を握りしめている。
握り締めすぎて、手のひらから真っ赤な血が滴り落ちる。
「……有栖、それを放せ! だめだ……」
思わず駆け寄って、その手を取ろうとすると、彼女に強い力で弾かれた。
「やめて…触らないで…」
有栖がじりじりと後ずさる。
意識が混濁している。
俺のことがわかっているのか、親父と思っているのか。
「有栖、俺だ、兄ちゃんだよ」
怖がらせないようにゆっくり近づくが、彼女の目が怯え切っている。その瞳があの夜の姿と重なってしまう。
「私がいなければ…!みんな幸せだった!」
ちがう!
「おねがい…もう終わらせて」
それは父との行為を指しているのか、自分の命のことを言っているのかわからない。
心の底から懇願するような絞り出すような声に胸が潰れそうになる。
ちがう、彼女は幸せになれる子だ。
これからもっと、もっと。
「ママを殺したのは私よ!」
「ちがう!放せ、有栖‼︎」
その刹那、有栖は急にガラスの破片を握った右手を振り上げたかと思うと思い切り自分の喉元に向けて振り下ろす。
母親と同じやり方だ。
「ありす……!
……ッッ!」
すんでのところで有栖に飛びつき、ガラスは俺の腕を切る。パタパタッと血が床に滴り落ちた。
ハッとしたように、有栖の身体から力が抜ける。ガラスの破片が床に落ちた。
有栖はそのまま破片の上にへたり込みそうになり、俺は彼女の背中を支えた。
「ご…ごめんな…さい、お兄ちゃん…」
そのまま俺を見上げた彼女の瞳には、涙が溜まっていた。
自分が何をしようとしていたのか気がついたのだろう。俺はかまわず、彼女を抱きしめた。そして彼女の涙を指の背で拭った。
「俺は大丈夫だよ……それより、有栖が自分を傷つけようとすることがつらい…ほかは許しても、それは許さないよ…」
拭っても拭っても、彼女の頰を透明な雫がこぼれ落ちる。
「お願いだから……これ以上ひとりで苦しむな…俺や竜之介をちゃんと頼って……今までひとりで抱えてきたものを どうか分けて欲しい」
彼女は静かにすすり泣きはじめる。
そんなやりとりを、買い出しから帰宅した竜之介が扉にもたれてじっと見ていたのを俺は知らなかった。
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