俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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第16話 祈りのあとに

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#第16話 祈りのあとに

――何かが、軋んでいる。

遠くで、鉄が擦れるような音。
空気が粘つく。
視界が二重に揺れる。
思考もまとまらない。
胃の奥がひっくり返ったように気持ち悪い。

(……どこだ、ここ……)

ぼやけた天井。
染みひとつない白が、やけに眩しくて、
どこかの病院かと錯覚する。

でも――違う。

鼻にツンと刺さる薬品の匂い。
ベッドに寝かされている感覚。
何より、喉の奥にまだ残ってる“あの味”。

(……毒、か……)

ようやく記憶が引きずられてくる。
蜂の羽音。針の痛み。
…あのクソメガネの笑い声。

――意識が、浮かび上がってくる。
思い出した瞬間、胃の底からせり上がるものがあった。

「っ、……う、ぁ……っ」

ルカは身体を横に捻る。
胃の中は空っぽなのに、喉だけがいつまでも震えて止まらない。

呼吸ができない。頭が焼ける。
喉の奥が焼けるように熱く、視界の端が真っ赤に滲んで――

そのとき、誰かの影がそっと覆いかぶさるように現れた。

「……落ち着け、ルカ。……もう、大丈夫だ。」

静かな声。
けれど、それは確かに、
あのとき自分を呼んだ――あの声と同じだった。

「……いい加減にしろよ、お前。
どれだけ無茶したか…分かってねぇだろ。」

返事はない。
けれど、ルカの指がわずかに動いた。
まぶたの裏で、意識がゆっくりと浮上していく。

「雪も、ミツさんも、みんな心配して……俺だって……」
「……わりぃ……。」

それだけを、かすれた声で吐き出す。

「……バカだな、お前。……こういう時こそ、頼れよ。」

その言葉に――ルカのまぶたが、かすかに震える。

ゆっくりと目を開けると、ナオの顔がぼやけながら視界に滲んだ。
けれど、ルカは真正面からその目を見ることができなかった。

ナオはひとつだけため息をつき、拳を軽く握ると――
そのままルカの額に、こつん、とぶつけた。

「……いつだって隣にいてやるよ。だから…、頼ってこいよ。」

不意打ちの軽い衝撃に、ルカは一瞬だけ目を見開く。
いつかの夜のレモンウォッカの味が、鼻の奥をくすぐった気がした。

けれどすぐに視線を逸らし、俯いたまま、自分の手でおでこをくしゃっとかき乱すように撫でた。

「……あぁ……ほんと、バカだな…。」

――ルカとナオの会話が、一段落した頃合いだった。

「――落ち着いたみたいだね」

低く穏やかな声が、病室の扉の近くから届く。
ルカが顔を向けると、壁に背を預けていたミツが一歩だけ歩み寄ってきていた。

「心臓も、脈も、数値的には安定してるよ。
もっとも……精神的な意味では、どうだろうね?」

目元は笑っているのに、声には棘がある。
それが冗談か皮肉か、測りかねて、
ルカはうっすらと目を細めた。

「……で。俺のこと、診に来たんだか、叱りに来たんだか、どっちだよ。」
「両方。ついでに言えば、毒の分析報告も兼ねて。」

ミツは言って、片手の端末を軽く持ち上げた。
そこには複雑な分子構造と分析データの並ぶ画面。

「君に使われてた毒は、即死性はないけど……
ゆっくり、じわじわと神経から身体を壊していくタイプだね。
感覚を奪って、混乱させて、最後には呼吸すら奪う。」
「……性格出てんな…あのクソメガネ…。」

ミツは少し視線を落とす。

「でもまあ……そのおかげで、ナオの助けが間に合った。
正直、あと数分遅れてたら、心肺にも影響出てたよ。
まったく、これだから“自分ひとりで”突っ込むやつは……」

そこまで言って、ふっと口元だけが笑った。

「……まあ、忠勝ほどじゃないけどね。
やっぱり血筋、なのかな。」

明言はしない。
けれど、確実に刺してくる。

「それにしても……僕だったら、この毒は使わないな。
手間がかかるし、発症まで読めない。
……それに、美しくない。
もっとシンプルに、終わらせるべきだよ。」
「…ちょっとミツさん…終わらせないでくれよ。」

最後のひと言には、どこか“処理屋”としての静かな矜持が滲んでいた。
ミツは静かに端末を下ろすと、また一歩下がり、ルカを見下ろした。

「ま、もう少し寝ときなよ。毒も抜けきってないし。
それに――お説教の本番は、まだこれからだよ。」

悪戯っぽく笑って、ミツは片目を軽く瞬かせた。

その直後だった。
ガラリと音を立てて、勢いよく扉が開く。

「ざま、ねぇなぁ。」

低く、乾いた声が落ちる。
そこに立っていたのは――鷹宮忠勝。

ナオは、黙ってルカのベッド脇から立ち上がる。
ミツと無言で頷き合い、二人はそのまま静かに距離をとる。
あえて病室の“外”には出ないのは、
“この親子のやりとり”から逃げないという無言の意思でもあった。

入れ替わって忠勝がルカの隣に立った。

「大口叩いて、これかよ。」

忠勝は、ルカを見下ろした。
声は淡々としているのに、ひとつひとつの言葉が重く、鋭い。

ルカは唇を噛み、反論の言葉を飲み込んだ。

「“届かなきゃいけない”……だったか?
どこが、届いてんだよ。なぁ?」

視線は変わらない。
だが、吐き捨てるような声音には、感情がにじむ。

「……ルクシオンはな、“届くところ”を見極めて、そこにだけ、手を伸ばす。
最初から、“全部”を救おうなんて思っちゃいねぇ。
だが――目の前の誰か一人なら、確かに救える。」

ルカの目が、わずかに揺れる。

「オヤジがそんな“弱腰”だから、この街は……何にも変わんねぇんだろ!」

吐き出すような声と同時に、ルカが半身を起こしかけた。

その瞬間。

――バシッ。

音が、部屋に響いた。
忠勝の拳が、迷いなくルカの頬を打っていた。

――あの夜。
届かなかった声、伸ばせなかった手。
忠勝の頭に、浮かんでは消える。

「……まだ分かんねぇのか。
その“結果”が、このザマなんだよ。」

ルカはさらに強く唇を噛み、再び口を閉ざす。

「依頼でもねぇのに首突っ込んで、正義のヒーロー気取りも、いい加減にしろ。
“理想”ってのはな、力も見極めもねぇ奴が口に出すと――ただの事故だ。」

何も言い返せなかった、言い返せるはずも無かった。
唇の代わりに、拳が悔しさを噛んだ。
シーツが、静かに歪む。

沈黙だけが、流れた。
徐に忠勝はポケットから一枚の書類を取り出すと、
無造作に、それをベッドの上に落とした。

ルカが視線をやると、そこには見慣れた様式の依頼書。

依頼主は――ヘリオスの、燈坂烈司。
内容は、叉道街周辺で流通する未確認薬物の調査および排除。

「叉道街は、アルゴスとヘリオスの中間地帯だ。
どっちも手を出しづらい空白域、
……だからこそ、“何かあれば”こじれる。
ヘリオスもそれを危惧した。暇ならこれでも、やっとけ。」

ルカの目が、大きく開かれる。
震える口は、何も言葉を紡ぐことが出来なかった。

忠勝は一度だけ息を吐き、扉に向き直る。

「……いくら周りが走り回ろうが、助力しようが――
バカが一人で突っ走ったら、何にもなりゃしねぇ。」

その背中に言葉はなく。
ただ、静かに、ドアが閉まった。

---

忠勝の退室後――
しばしの静寂が、病室を包んでいた。

ルカは、拳の余韻が残る頬をかばいもせず、
ただ俯いて、じっと、シーツを握っていた。

何も返せなかった。――いや、返す言葉が、なかった。

気づけば、拳が、震えていた。
唇を噛むその目から、雫がひとすじ――零れた。

逃げ場なんて、最初からなかった。
分かってた。
自分の選択が、どれだけ無謀だったかなんて。
でも、どうしても……止まれなかった。

ポタリ、ポタリと、濡れる手元。
その小さな音すら、痛かった。

――そして。

ぽん、と。
左肩に、あたたかい重みが乗る。
…顔を上げなくても、誰の手かは分かっていた。

「……泣くなよ。似合わねぇ。」

ナオの声は、いつもの調子だった。
少し低くて、少しぶっきらぼうで、でも――
何よりも、優しかった。

「……見んな……」

絞り出すような声に、ナオはため息をひとつ。

「見てねぇ。でも、ここにいる。」

でも、置かれた手は、離さなかった。
その言葉が、胸の奥に、静かに染みる。
ルカはようやく目を拭い、ぎこちなく息を吸い込んだ。

「……ほら」

ナオは立ち上がり、肩を軽く回す。

「動けるようになったら、行くぞ。今度は――置いてくなよ。」

ルカは、それを見上げて、ふっと笑った。

「……ありがとう、ナオ」

小さく、息のようにこぼれた声に──ナオは何も言わなかった。

今度こそ、背中を預けられる。
そう思えたその顔に、少しだけ光が差していた。
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