俺たちは、壊れた世界の余白を埋めている。

惟光

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第22話 世はこともなし

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#第22話 世はこともなし


――遠くで、サイレンが鳴っていた。

焦点の合わないまぶたの裏に、じわりと差し込むような音。
それは夢の中にまで滲み出す、現実の匂いだった。

ルカは、重たいまぶたをゆっくりと開いた。
天井が、白かった。
目に痛いほど無機質で、どこかで見たことのある……医務室の天井。

(……俺、生きてる……?)

喉が焼けるように痛む。
肺の奥がまだ、燻されたように熱くて、浅い呼吸しかできなかった。

動かない指先に、神経を送りながら、視線だけを横に向ける。

隣のベッドに――いた。
ナオ。

「……ナオ……」

掠れた声で名を呼んだ瞬間、

「……っ、ん……」

ナオの眉がわずかに寄った。
目蓋が揺れ、彼もまた、ゆっくりと現実に引き戻される。

「……ぐ……っ……」

目を開けた直後、苦しげに眉根を寄せる。
痛みに喘ぐように、ナオが体をわずかに丸めると、肋骨に包帯が巻かれているのが見えた。

「……バカ、無理すんなって……」

声は掠れて、上擦る。
喉も、心も、上手く動いてくれない。

ただ――ほんの一瞬だけ視線が交わると、
ナオの瞳が、微かに揺れた。
それだけが――唯一、救いだった。
少しだけ、ほんの少しだけ、ほっとした。

……けど。
――思い出してしまう。

あの毒煙。
蜂須賀の笑い声。
最後の、血泡まじりの崩れ落ちる姿。
その死に顔に浮かんだ、皮肉な笑み。

そして、自分の叫び。

「……っ……」

ルカは、シーツを握り締めた。
白い布に、指が食い込む。
血が滲みそうなほど強く、拳を震わせた。

口を開こうとしても、言葉が出ない。
喉の奥が焼け付いて、声にするには、まだ早すぎる。

ただ――
「また、手が届かなかった」
その実感だけが、じわじわと胸を浸食していく。

ナオもまた、向こうの壁を向いたまま、何も言わなかった。
とても……静かだった。


コン、コン――
控えめなノック音のあと、静かに扉が開いた。

「……あぁ、気がついたんだね。お疲れ様。」

医務室の白に溶け込むような白衣姿で、ミツが現れる。
目の奥に浮かぶ光は、ほんのわずかに柔らかかった。

二人とも、すぐには彼の方を見られなかった。

ほんの少しの沈黙のあと、ルカがぎこちなく口角を上げる。
けれど、それは“笑顔”にはなりきれず、どこか引きつった痛みの形をしていた。

「……わり。……ダメだったわ。」

ミツは、少しだけ肩をすくめて、微笑む。

「生きてれば、及第点だ。……どんな時でも、ね。」

それから、手元のタブレットに視線を落とし、淡々と告げる。

「とりあえず、今はしばらく安静が必要。
骨折の処置は済んでるけど、動いたら折れ直すレベルだよ。
……君は、すぐ歩き回りそうだけど。」

目線をナオにやったあと、ふと、視線をルカへ。

「それと……噛み跡。どこの駄犬が、やったのかな。」

一拍置いて、口の端だけで笑う。

「雑菌、思いっきり入って腫れてる。
見た目より地味に痛いでしょ?しばらく痛むよ。」

ナオが、視線だけルカを見る。
ルカはその気配に気づき、目をそらして――小さく肩をすくめた。

「……それは……わりぃ……」
「全く……元気になったら、正しい対処を教えなきゃな。」

ミツは、冗談めかしてそう言ったが、声はやっぱりどこか優しかった。

「――蜂須賀の件は、こっちで処理してる。
依頼主にも報告済みだ、君たちは休んでていい。」

タブレットを閉じて、息を吐く。

「……全部終わった、ってことにしておこう。少なくとも今は、ね。」

そして、軽く手を振る。

「じゃ、僕はもう行くよ。
眠れるときに、ちゃんと眠っといて。
……それと、ちゃんと、"届いたこと"に目を向けるように。」

そう言い残し、ミツは静かに扉の向こうへと姿を消した。
扉が閉まる音がして、再び部屋に静けさが戻る。

ルカが、ふと顔を上げる。

――遠ざかるサイレンの音。

まるで、さっきまで自分たちがいた場所から、何かを運び去っていくようだった。

(……あれも、誰かの――)

誰かの終わりか。
誰かの、“届かなかった”先の音か。
そしてそれは…自分の手から、零れた何か、か。

ルカは小さく息を吸って、吐いた。
胸の奥がまだ痛い。
肺も喉も焼けたまま、鈍い虚脱感が全身に残っている。

「……もっと、いくらでも……他にやりようが、あっただろ……」

ぽつりと、ルカの唇から零れた声は、
痛みを噛み殺すような、乾いた呟きだった。

誰に向けたわけでもない。
ただ、奥底に沈んでいくような、自己問答の断片。

視線は、まだ乾ききらない夜の残滓を映すように、空の一点を彷徨っていた。

「……蜂須賀に……何ひとつ、責任を取らせられなかった。
ただ、楽なほうに――逃げられちまった。」

掠れた声が、喉の奥で震える。
唇の端が、悔しさにひくついた。

「何も吐かせられなかった。……根っこは、断ててねぇ。
……俺が潰したのは、膿の一つに過ぎねぇんだ。」

上に“誰か”がいると、蜂須賀は口にしていた。
ならばきっと、どこかでまた、同じ薬が出回る。
また誰かが壊れて、また、間に合わなくなる。

「……どれだけ暴いても、どれだけ戦っても、追いつかねぇ……」

現実を噛み締めるたびに、胸の内側が、じわじわと軋んでいく。

拳が、シーツの上でわずかに震える。
それでも、何も掴めないまま――。

「……俺、結局……また、届かなかったんだよ。」

吐き捨てるように落とした声に、悔しさと、諦めきれない祈りが滲んでいた。

ルカは、目を伏せる。
指の隙間から、掴めなかった何かが、静かに、こぼれ落ちていった。

ナオは、それにすぐ返せなかった。
しばらく黙ったまま、天井へ視線を向け、ひとつ、ゆっくりと息を吐く。

「――でも、あの街では、止まったよ。
少なくとも、今はな。」

その声は、祈りのように穏やかで。
否定でも慰めでもなく、ただ、並んで立つ者の言葉だった。

「……また綻びを見つけたら、その時は、また一緒に潰せばいい。
――同じ轍は踏まねぇ。……それで、いい。」

静かなその響きに、ルカのまぶたが、かすかに揺れた。
脳裏をかすめたのは――
いつか聞いた、あの人の声。

《手の届くところから、ひとつひとつやるんだよ。
やるしかねぇんだよ。》

朝焼けを背にしていた、広い背中。
踏み出したその背中を、黙って見送ったあの朝を。

(……そっか。
親父も、こういう朝を――何度も、迎えてたのか。)

ぽつりと、ルカが呟いた。

「……世は、こともなし……か。」

それは、かつてナオが言った言葉。
静かに、胸の奥へと落ちていく。

ナオはその声に目を細め、ほんの少しだけ、微笑んだ。

「……あぁ、そうだな。」

その声音は、どこか、
遠くを見るような気配を纏っていた。

「でも――」

ルカの声が、ふと、柔らかく落ちる。
今までとは違う。擦れも、震えもない。
落ち着いていて、冷静で、どこか澄んだ声だった。

「俺……お前が隣にいて、助かったよ。」

ゆっくりと、ナオに顔を向ける。
薄明かりに照らされたその瞳には、
微かに――それでも確かに、光が戻っていた。

「……あいつは、結局“逃げただけ”だった。
でも、俺は――」

視線が、ナオを正面から捉える。
どこまでも真っ直ぐで、濁りがなかった。
迷いも、歪みも、もうなかった。

「――お前がいたから、今回は逃げなかった。
俺の“手の届くところ”に、お前がいてくれて、……良かった。」

その言葉が空に溶けていくのと同時に、
ふっと、静けさが訪れる。

だが、それは苦しい静けさではなかった。
ただ、心が深く沈んで、落ち着くような静けさだった。

ルカの口元が、ゆっくりと緩む。
いつもの軽口とは違う。
強がりでも、照れ隠しでもない。

まるで――心の底からこぼれたような、
少しだけ困ったように、くしゃっと笑う、
飾らない笑顔だった。

「……やっぱ俺、お前がいなきゃ、ダメだわ。」

その一言に、ナオの目が、わずかに大きく開いた。

ほんの一瞬だけ。
驚きと戸惑いが、喉に引っかかったように、言葉が出ない。

次の瞬間――彼は、ふいと顔を背ける。
肩がわずかに震えたようにも見えたが、
すぐに押し殺すように、静かに息を吐く。

「……だろ、ハニー。」

苦笑いにも聞こえる声が、背中越しに落ちてきた。

「……あぁ。……ただいま、ダーリン。」


――だが、その背中の向こう。
ナオは、片手で自分の顔を覆っていた。

指の隙間から覗く瞳は、どこか見開かれていて、
口元は――にやりと、歪んでいた。

(やっと――ここに、立てたんだ。)

それは、確かに歓喜だった。
けれど――

(なのに、なんでだよ……)

その笑みは、一瞬で崩れ落ちた。
自分でも気づきたくなかった感情が、
胸の底から、這い上がってくる。

(こんなに嬉しいのに。
どうして、ルカと“同じ顔”が……返せない?)

息が詰まる。
嬉しさと、それ以上の――何か。

指先が、小さく震えていた。


――夜が、明ける。
痛みも、救いも、嘘も、すべて抱えたまま。

それでもふたりは、
傷だらけのまま、また“隣”に立つ。


── 第1シーズン 完 ──
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