柑橘家若様の事件帖

鋼雅 暁

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◆第七記録◆ 記録者……柑橘家某家臣

其之弐

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 その心配の種・蜜柑は、その日の午後、天守閣の屋根から城下を眺めていた。
「おお、今日も皆は元気そうでなにより」
 穏やかな海には小舟が浮かび、海面がきらきらと輝いている。ぴちゃん、と時折魚が跳ね、それを狙う海鳥が居る。
 視線を山側へ転じてみれば、山裾の田園地帯は青々としている。太陽に照らされて乾いた道を元気に子供が駆け回り、大木の枝の下で握り飯をほおばる人もいる。
 そこかしこで女たちの井戸端会議も盛んだ。
「うむうむ、良きことかな」
 ぴーひょろろ、と鳥がなき、蝉がみーんみんみんと大合唱する。
 民が健やかに暮らしている事が一番だと蜜柑は常々思っている。諸国を放浪すればするほど、その思いは強くなる。
 柑橘家は戦乱の世にありながら戦とは無縁である。それが大変な奇跡であることを、蜜柑自身、嫌と言うほど思い知らされている。
「戦など起こさぬが一番であるぞ」
 そう呟きながら、首を反対側へ巡らせた蜜柑の目が、一か所で止まった。非常に珍しいものを見たからだ。
「ほほう? あの堅物が茶屋街に用があるとは珍しい」
 そう呟く蜜柑の目が、まるで悪戯を思いついた悪餓鬼のように、きらきらと輝きだした。

 それから四半刻と経たぬうちに、蜜柑の姿は城から消え、城下へと移っていた。

 蜜柑が巧妙に尾行している相手は、蜜柑の乳兄弟であり、側近でもある、金柑酢橘である。ちなみに蜜柑の出で立ちは今日もド派手である。袷は豹柄、袴は漆黒だが銀糸で刺繍が施してあり、羽織は表が金で裏が朱色。後頭部で結った髪には孔雀の羽でつくった髪飾り。
 それなのに尾行の達人とはどういうことか。黒装束が基本である国中の忍び軍団が頭を抱えている。
 そんな蜜柑に尾行されている酢橘は、代々家老職を務めている金柑家の嫡男である。
 立派な家柄に加え、眉目秀麗、文武両道、質実剛健……とにかく『人品骨柄卑しからず』を絵に描いたような人物である。蜜柑の側近であるという点を除けば非の打ち所のない若侍であるが、彼は今、切実な問題を抱えていた。
 年頃であるにもかかわらず、嫁どころか縁談の一つもないのだ。
 これは武家の嫡男として由々しき事態である。
 ここ数年は主の御供をして日本全国津々浦々を放浪している彼である。人脈は広く、認知度も問題ない。旅先で女性など選り取り見取り……のはずである。
 ……だが、主があの「柑橘蜜柑」である。
 真っ当な出会いなどあろうはずもなく、挙句人々の記憶には眉目秀麗、奇妙奇天烈な蜜柑ばかりが強烈に残る。酢橘など「お供の方」扱いである。
 ある意味国一番の……いや、日本一の苦労人かもしれない。

 そしてまさか己の主が尾行しているとは露知らず。
 酢橘は一軒の茶屋へと足を踏み入れた。城下でも指折りの店、旅人が大勢足を休めている。
 酢橘に気付いた看板娘がさっと奥へと案内していく。
 ひらり、と隣家の屋根に上った蜜柑は、茶屋が良く見える位置へと移動し目を凝らした。
「おお、これは良い女子じゃ!」
 器量も気立ても申し分なさそうな娘が酢橘の前に座っている。なぜか旅装だが、仲良く談笑する姿は、実に微笑ましい。
「この娘なら酢橘を任せられる」
 と、呟いた蜜柑は、満足そうな顔をした。
 蜜柑も、腹心の部下がいつまでも独身でいるのを、それなりに気にしているのだ。
「邪魔者はさっさと退散するとしよう」
 聡い酢橘のことだ、覗き見する蜜柑に気付くのも時間の問題だ。

 酢橘に春が来たと、ご機嫌で城へ帰ってきた蜜柑だが、しかし直ぐに目を丸くした。
「酢橘、なぜそなたが先に帰っておるのだ?」
「は?」
「先ほど茶屋で逢引を……」
「ああ、見ておられたのですか。あの姫君をお忘れですか? あれは隣国の姫君にございますよ」
 蜜柑の脳みそが忙しく回転した。たしかに、隣国には美姫が三人いる。そのうちの末娘が彼女だったような。ただ、隣国はお家騒動の真っ最中である。
「な、なぜその姫君があんなところに?」
「戦ばかりのお国を憂いて、諸国放浪をして勉学に励むのだとか……」
「それは変わった姫君もあったもので……」
 蜜柑様に言われたくないと思います、と、酢橘が真顔で言う。
「それはともかく、旅に最適な衣服をそれがしに注文してくださいまして、急ぎ仕立てて今日はその受け渡しの日でした。いやはや、茶屋には初めて参りましたが、なかなか緊張致しますな!」
「で、では、あの娘御とそなたは恋仲などではないのか……」
 違いますよ、と酢橘はさわやかに笑った。
「当然です。他国の姫君に手を出すほど無謀ではございませんよ」
「そ、そうか……。そなた、無粋なことであるが、知り合いの女子は……」
「各国の姫君ばかりですが……文も欠かさずかわしております」
 めずらしく、がっくりと項垂れた蜜柑を、酢橘は不思議そうな顔をして見詰めた。
「蜜柑様? どこかお加減でも……」
「いや、気にするな……」
 これは酢橘を連れまわして普通の生活から遠ざけている自分にも責任はあると蜜柑は思った。
 そして、本気で酢橘の見合い相手を探さねばならぬとひっそりと決意した蜜柑であった。
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