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兄弟
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奥山麻也が緋河麻也だった頃、家族は3人だった。
子を愛していると言って憚らない明るい母。
滅多に顔を合わせなかったが大黒柱としていつも立派な服を見に纏っていた父。
経済的な不自由からもほど遠く、家族の全ての側面を好きだとは思えなくとも、この頃の麻也は家族のことを誇らしく良い家族だと感じていた。
それが変わり始めたのは、車の製造業に成功し資産を築いていた母方の祖父が亡くなってからだ。他人に継がれたその事業は間も無く業績が傾いて倒産に追い込まれたらしい。
その頃からだった。家では事ある毎に父と母の諍いが絶えなくなっていた。そしてある日、母は2人分の食事が並んだ食卓で唐突に言ったのだ。「私たちで家を守っていこうね。お前はね、お兄ちゃんになるんだからね」その言葉で母が妊娠している事を初めて知った。
弟が産まれて1年も経たないうちに父は家を出て行った。家族はまた3人になった。
母は遺産と貯金で生活を賄うつもりだったらしい。それが上手くいっている間は穏やかな生活だった。時折ご褒美と称して高いご飯を食べる時等は、母はご機嫌だし、食べ物は美味しいし幸せに思えた。弟はいつも寝ているかボンヤリしていて大人しかった。頬を指でつつくとウニャウニャとむずがっては伸ばされた指を小さな手で捕まえてキョトンとする。
ただ、周囲が騒がしくなるとストレスになるようで途端にグズグズとぐずり出す。そういう時は母が外に連れて行ってあやすのだった。
弟には理解できなかっただろうし、自分も家を出るまでよく分かりはしなかった。表に見えた喜びとどれだけの苦心との狭間でその子育てが行われていたのか。
母の再婚が決まった時、自分は13才、弟は8才だった。
未来の父と対面した時、彼は作った笑顔を貼り付けながら複雑な表情で俺たちを見た。
自分が母の息子であると同時に、母を傷つけて姿を消した父の息子でもあると自覚したのはその頃だった。母も義父も決してその事を表に出しはしなかった。
ただふとした時に、例えば義父の表情が自分を見て曇る時、母が必要以上に自分を叱る時、本心では自分は疎まれているのではないかと思う事があった。
自分に非の無いどうしようもない事を責められる不条理への怒り。幸せだった思い出が黒く塗り変わっていく悲しみと苦しみ。
それらの感情は内側で勝手に膨れ上がり渦を巻き、禁句のように外に吐き出す事も無く奥底に溜まっていった。
実際には責められる事は無く、その謂れも無い筈だ。自分の中に澱んでいく感情に救いがあったとすれば、弟の存在だった。
弟だけは。
悠斗だけは巻き込んではいけないと思った。家の事情など知らず幸せであるべきだった。母もそれは同じ気持ちだったと思う。少なくとも眞白を妊娠するまでは。
あの家で、過去の遺恨無くただ純粋に愛されるものが産まれようとしていた。母も義父も分け隔てなく接しようと決めていた。それは伝わっていた。
ただ、そろそろ限界だった。
悠斗は大人しい子供だった。いつも誰かの後ろに隠れていたがる引っ込み思案な性格だった。そして段々と分かってきたのが、決まりを守るのが苦手だった。玩具を仕舞う場所、食事の時間、次の日の着替えを用意する場所、母の決めた習慣に沿うのが悠斗は苦手だった。
小さいうちは大きな問題ではなかったが、次第にそれが母を苛立たせる原因になり始めた。
悠斗は益々内気になり、あまり笑顔を見せなくなった。それも不和を呼ぶ原因になったのかもしれない。
そして決定的な事が起きた。
中学2年生の夏、2階で宿題を済ませていた時、階下で赤ん坊の泣き声が聞こえ始めた。また眞白がぐずっているのだと思って、迷ったが、階下に母が居る筈だったので降りていくのは踏み止まった。来年の高校受験も控えてそのストレスも溜まっていた。勉強の間くらいはそっとしておいてほしいとしばらく無視を決め込んだ。
ところが突然、ガシャン、ドスン、と異音が聞こえ始めた。そして母の悲鳴のような怒鳴り声のような凄まじい声が聞こえた。
反射的に慌てて階下へ走り降りると、丁度母が手元にあった小降りの目覚まし時計を振りかぶって、床にしゃがみ込む悠斗に投げつけようとするところだった。
何も考える余裕はなく、本能的に間に滑り込む。
同時に頭頂部に激しい痛みが走って目が眩んだ。周りの音が上手く拾えず、誰が何を言っているのかも分からない。
腕の中で、聞いた事もない悲痛さで自分を呼ぶ弟の声がようやく聞こえてきて視線を下ろした。
「兄さん……兄さん……」
涙をいっぱい溜めて見上げる弟に向かって赤い雫が落ちていく。頭部から血が流れている事に気がついた。
「麻也……!」
母の消え入りそうな声が背後からする。悠斗の周りには、リビングにあったクッションやティッシュボックスが乱雑に落ちていた。自分が到着するまでに何が起きていたかそれで察する事が出来た。
震えながら自分に縋りもせず涙を流して「ごめんなさい……ごめんなさい……」と泣く弟を見下ろして、決心が固まった。
幸せだった記憶がガラガラと崩れていく。
心のどこかで分かっていた。遂にそれと訣別する時が来たと思った。
振り返って母を見る。ベビーベッドに寝かされた眞白の泣き声が響き続けているのがようやく耳に入ってくる。
「母さん……」
母にハッキリと反抗の意思を示したのはこれが初めてだったかもしれない。
この時誓った。弟を連れてこの家を出る事を。弟を守るために俺はこの先の時間を使うと決めた。
**********
静岡の公立高校を受験したことがバレた時は戦と表するのが相応しい程に家の中が荒れ狂った。
静岡には母の兄夫婦が住んでいた。高校入学と共に弟を連れて静岡に移り住む算段だった。受かってしまえば母も受け入れざるを得ない上、厄介払いが出来るのだから強く反対はされないだろうと考えていた。
実際は全くの逆で、母は勝手に話を進めた事と家を出て行こうとしている事に怒り心頭だった。
義父が宥めるのにも耳を貸さず、自分と、協力した兄夫婦を罵った。更に悠斗だけは連れて行かせないと言い張って、最終的に裁判沙汰になりかねないところまでいった。
2ヶ月かけて話し合い、結果的に自分だけが静岡へ行く事になった。その際勘当を言い渡され、しっかりと反抗心の塊だった自分はそれを受け入れ奥山姓となった。
失敗としか言えなかった。肝心の弟を残して自分だけが静岡へ行く事になる。最早訴えられても良いから弟を攫っていこうかと考えながら、悠斗の部屋へ足を運んだ。
泣いて縋ってくれないか。「行かないで。連れて行って」と言ってくれないか。そうしたら何だってしてやる。何を敵に回しても俺が全部どうにかする。
そう思っていたのに、悠斗はただ「大丈夫」と言った。「俺は大丈夫」と言って見た事の無い大人びた表情で笑った。
だから約束する事しか出来なかった。
いつか必ず迎えに来る。
お金を貯めて、東京に戻ってくる。そうしたら、悠斗が良ければ兄さんと一緒に暮らそう。
悠斗を抱き締めると、悠斗も手を回し返してきた。
階下では奥山夫妻が車に荷物を積んで待っている。行かなければならないと分かっていても離れ難かった。
この手を離したら悠斗が居なくなって、もう二度と会えなくなるような気がした。
**********
高校の3年間は、勉強とバイトに費やした。
何度か東京の家に電話をかけたが、悠斗が電話に出る事は無く、母を刺激するだけだったのでそれもしなくなった。
とにかく上京し、一人暮らしをする事が目標だった。受験はせずに働くつもりだったが、家系が学歴主義だったためそればかりは猛反対された。伯父はとにかく良い大学を出ていれば就職もしやすく、弟さんと暮らすにしてもその方が楽の一点張りで、面倒を見てもらっている手前反対もしづらかった。
それに正直どちらでも良かった。大事なことは1つだけだ。それに何かに躍起になっていた方が気が紛れた。今弟は、実家でどういう生活を送っているのか。泣いていないか。上手くやれているのか。
そうした不安を解決する方法は、勉強と金を稼ぐ事だけだった。
高校の学費はバイト代から捻出し、東京で一人暮らし出来るだけの資金も貯める事が出来た。東京の大学をレベルで分けて3校受験し、無事合格する事が出来た。
ようやく全てが報われると思った。
すぐに悠斗を引き取る事は出来なくとも、避難所になってやれる。それにもしかしたら自分が居なくなった後に円満に暮らしているかもしれない。
それならそれで良い。
どうであれ、弟を幸せにする準備が出来た。今なら迎えに行ける。
3月の初旬だった。
大学の近くに安いアパートを借りて手続きが終わり、その足でおよそ3年ぶりの家を訪ねた。
様子がおかしい事に気がつくのに時間がかかった。
庭が雑草だらけで荒れている。確か義父が車を持っていた筈だが、駐車スペースが空だ。カーテンがどの部屋にもかかっていない。
まるで空き家のようだった。もしかして家を間違えたかと思ったが、帰り道も外観も覚えている。
ふと表札を見るとそこには何もかかっていなかった。
一瞬、母が自分から悠斗を隠すために居なくなったのかと思った。しかしそこまでするだろうか。
混乱しながら立ち往生していると、後ろから声をかけられた。
「あら、麻也くん!?」
「……あ、ああ、おばさん?」
昔から近所に住んでいた顔見知りのおばさんだった。小学校の頃、何年か上の娘が登校班の班長だった経緯で麻也とは何度か話した事がある。
「まあ、戻ってきたのねぇ……大変だったわねぇ、本当に」
「え、何ですか?大変ていうのは」
「え!?……あらやだ、ごめんなさい。違ったのかしら」
「……あの、ここ、どうして空き家になってるか分かりますか……」
なんだか情けない上におかしな質問だと思った。自分の実家が空き家になっている理由を知らない事の不自然さに、おばさんも戸惑っていた。嫌な予感がして心臓がバクバクと鳴りやまない。おばさんは口籠もってどうしたものかと少し悩んでいたが、やがて口を開いた。
「お義父様が亡くなったって。それで、住んでいられなくなったのか間もなく引っ越されたのよ」
「亡くなった!?」
「ええ、そう……その、」
「……いつですか、それは……」
「確か、先月の半ばに……」
ガツンと頭を殴られたような気がした。
「麻也くん、大丈夫?ごめんなさいね、おばさん本当に何も知らなくて」
「いえ……あの、引っ越し先は分かりますか?」
おばさんは歯を食いしばって首を横に振った。
自分への罰だ、と思った。
自分だけが遠くへ逃げて、呑気に暮らしていた罰だ。おばさんに謝罪と感謝を述べてその場を後にした。
悠斗は、母は、眞白は、どこに居るのだろうか。
どこで聞けば分かるのか。警察?静岡の伯父たちは知っているのだろうか。
知っていたのだろうか。
頭の中で思考がグルグルと渦巻いて収まらない。
悠斗は今どこでどうしているんだ。
俺は今何をするべきなんだ。俺のやった事は全て失敗だったのか。
熱に浮かされたようになりながら、何とか近くの交番への行き方を調べた。例え無意味でも何かしなくてはいけない気持ちだけで体が動いていた。
赤信号を待つ間、落ち着かない思考を落ち着けようと努力するが意味を成さない。
パッと信号が青に変わったのを確認して、横断歩道に2、3歩踏み出したその時。
右側から自動車が突っ込んできた。
身体が跳ね飛ばされて、どこかに頭を強かに打ちつける。激しい痛みに覆われていく。喧騒が遠くに聞こえる。
罰かもしれない。
これが俺への罰なのかもしれない。
神のようなものが居るとしたら。だとしたら、罰を全部引き受けるから、弟だけは許してほしい。弟だけは、悠斗だけは、違うのだ。
アスファルトの上で指先が冷えていく。
頭から赤いものが伝っていく感覚に懐かしさを覚えた。何とかしなくてはいけない。
自分がやらなくてはいけない。
そう思ってやってきたのに、何も上手くいかない。
少し、疲れた。
**********
目が覚めた時、病院のベッドの上だった。
やがて伯父夫婦が心配そうに駆けつけた。わざわざ静岡から来てもらって申し訳ないという気持ちで謝った。車はアクセルとブレーキを踏み間違えて青信号に突っ込んできた、完全に向こうの過失だった。
何だかお金の事が心配になって確認したところ、加害者の保険で払われるから大丈夫だと教えられて安堵した。
そして次いで、どうして自分が東京に居たのか疑問に思った。それを尋ねると、夫妻は動揺した様子で大学に受かったからこっちに住むんでしょ?と教えてくれた。
そうか、そういえば東京の大学を受けていた。しかしどうしてわざわざお金をかけて受験をしてこちらに住もうと思ったのか。
何となく、上京したかったのだろうか。
実家とは折り合いが悪かった気がする。東京に戻りたいと思うわけが無いのに。
そこまで考えたところで激しい頭痛に襲われた。ひどく声を上げて頭を抑える自分に夫妻は慌ててナースコールを呼び出し、自分は更に精密検査を受ける事になった。
結局、実家とはかなり仲が悪かったらしい。無理に思い出す事はない。春からは大学もある。
麻也くんの人生を進みなさいと、涙ながらに言われて、よく分からないまま頷いた。
そうだった。
大学生だ。
新生活に身を任せれば、胸に空いて痛み続けるこの空虚な穴も、埋まるだろうか。
子を愛していると言って憚らない明るい母。
滅多に顔を合わせなかったが大黒柱としていつも立派な服を見に纏っていた父。
経済的な不自由からもほど遠く、家族の全ての側面を好きだとは思えなくとも、この頃の麻也は家族のことを誇らしく良い家族だと感じていた。
それが変わり始めたのは、車の製造業に成功し資産を築いていた母方の祖父が亡くなってからだ。他人に継がれたその事業は間も無く業績が傾いて倒産に追い込まれたらしい。
その頃からだった。家では事ある毎に父と母の諍いが絶えなくなっていた。そしてある日、母は2人分の食事が並んだ食卓で唐突に言ったのだ。「私たちで家を守っていこうね。お前はね、お兄ちゃんになるんだからね」その言葉で母が妊娠している事を初めて知った。
弟が産まれて1年も経たないうちに父は家を出て行った。家族はまた3人になった。
母は遺産と貯金で生活を賄うつもりだったらしい。それが上手くいっている間は穏やかな生活だった。時折ご褒美と称して高いご飯を食べる時等は、母はご機嫌だし、食べ物は美味しいし幸せに思えた。弟はいつも寝ているかボンヤリしていて大人しかった。頬を指でつつくとウニャウニャとむずがっては伸ばされた指を小さな手で捕まえてキョトンとする。
ただ、周囲が騒がしくなるとストレスになるようで途端にグズグズとぐずり出す。そういう時は母が外に連れて行ってあやすのだった。
弟には理解できなかっただろうし、自分も家を出るまでよく分かりはしなかった。表に見えた喜びとどれだけの苦心との狭間でその子育てが行われていたのか。
母の再婚が決まった時、自分は13才、弟は8才だった。
未来の父と対面した時、彼は作った笑顔を貼り付けながら複雑な表情で俺たちを見た。
自分が母の息子であると同時に、母を傷つけて姿を消した父の息子でもあると自覚したのはその頃だった。母も義父も決してその事を表に出しはしなかった。
ただふとした時に、例えば義父の表情が自分を見て曇る時、母が必要以上に自分を叱る時、本心では自分は疎まれているのではないかと思う事があった。
自分に非の無いどうしようもない事を責められる不条理への怒り。幸せだった思い出が黒く塗り変わっていく悲しみと苦しみ。
それらの感情は内側で勝手に膨れ上がり渦を巻き、禁句のように外に吐き出す事も無く奥底に溜まっていった。
実際には責められる事は無く、その謂れも無い筈だ。自分の中に澱んでいく感情に救いがあったとすれば、弟の存在だった。
弟だけは。
悠斗だけは巻き込んではいけないと思った。家の事情など知らず幸せであるべきだった。母もそれは同じ気持ちだったと思う。少なくとも眞白を妊娠するまでは。
あの家で、過去の遺恨無くただ純粋に愛されるものが産まれようとしていた。母も義父も分け隔てなく接しようと決めていた。それは伝わっていた。
ただ、そろそろ限界だった。
悠斗は大人しい子供だった。いつも誰かの後ろに隠れていたがる引っ込み思案な性格だった。そして段々と分かってきたのが、決まりを守るのが苦手だった。玩具を仕舞う場所、食事の時間、次の日の着替えを用意する場所、母の決めた習慣に沿うのが悠斗は苦手だった。
小さいうちは大きな問題ではなかったが、次第にそれが母を苛立たせる原因になり始めた。
悠斗は益々内気になり、あまり笑顔を見せなくなった。それも不和を呼ぶ原因になったのかもしれない。
そして決定的な事が起きた。
中学2年生の夏、2階で宿題を済ませていた時、階下で赤ん坊の泣き声が聞こえ始めた。また眞白がぐずっているのだと思って、迷ったが、階下に母が居る筈だったので降りていくのは踏み止まった。来年の高校受験も控えてそのストレスも溜まっていた。勉強の間くらいはそっとしておいてほしいとしばらく無視を決め込んだ。
ところが突然、ガシャン、ドスン、と異音が聞こえ始めた。そして母の悲鳴のような怒鳴り声のような凄まじい声が聞こえた。
反射的に慌てて階下へ走り降りると、丁度母が手元にあった小降りの目覚まし時計を振りかぶって、床にしゃがみ込む悠斗に投げつけようとするところだった。
何も考える余裕はなく、本能的に間に滑り込む。
同時に頭頂部に激しい痛みが走って目が眩んだ。周りの音が上手く拾えず、誰が何を言っているのかも分からない。
腕の中で、聞いた事もない悲痛さで自分を呼ぶ弟の声がようやく聞こえてきて視線を下ろした。
「兄さん……兄さん……」
涙をいっぱい溜めて見上げる弟に向かって赤い雫が落ちていく。頭部から血が流れている事に気がついた。
「麻也……!」
母の消え入りそうな声が背後からする。悠斗の周りには、リビングにあったクッションやティッシュボックスが乱雑に落ちていた。自分が到着するまでに何が起きていたかそれで察する事が出来た。
震えながら自分に縋りもせず涙を流して「ごめんなさい……ごめんなさい……」と泣く弟を見下ろして、決心が固まった。
幸せだった記憶がガラガラと崩れていく。
心のどこかで分かっていた。遂にそれと訣別する時が来たと思った。
振り返って母を見る。ベビーベッドに寝かされた眞白の泣き声が響き続けているのがようやく耳に入ってくる。
「母さん……」
母にハッキリと反抗の意思を示したのはこれが初めてだったかもしれない。
この時誓った。弟を連れてこの家を出る事を。弟を守るために俺はこの先の時間を使うと決めた。
**********
静岡の公立高校を受験したことがバレた時は戦と表するのが相応しい程に家の中が荒れ狂った。
静岡には母の兄夫婦が住んでいた。高校入学と共に弟を連れて静岡に移り住む算段だった。受かってしまえば母も受け入れざるを得ない上、厄介払いが出来るのだから強く反対はされないだろうと考えていた。
実際は全くの逆で、母は勝手に話を進めた事と家を出て行こうとしている事に怒り心頭だった。
義父が宥めるのにも耳を貸さず、自分と、協力した兄夫婦を罵った。更に悠斗だけは連れて行かせないと言い張って、最終的に裁判沙汰になりかねないところまでいった。
2ヶ月かけて話し合い、結果的に自分だけが静岡へ行く事になった。その際勘当を言い渡され、しっかりと反抗心の塊だった自分はそれを受け入れ奥山姓となった。
失敗としか言えなかった。肝心の弟を残して自分だけが静岡へ行く事になる。最早訴えられても良いから弟を攫っていこうかと考えながら、悠斗の部屋へ足を運んだ。
泣いて縋ってくれないか。「行かないで。連れて行って」と言ってくれないか。そうしたら何だってしてやる。何を敵に回しても俺が全部どうにかする。
そう思っていたのに、悠斗はただ「大丈夫」と言った。「俺は大丈夫」と言って見た事の無い大人びた表情で笑った。
だから約束する事しか出来なかった。
いつか必ず迎えに来る。
お金を貯めて、東京に戻ってくる。そうしたら、悠斗が良ければ兄さんと一緒に暮らそう。
悠斗を抱き締めると、悠斗も手を回し返してきた。
階下では奥山夫妻が車に荷物を積んで待っている。行かなければならないと分かっていても離れ難かった。
この手を離したら悠斗が居なくなって、もう二度と会えなくなるような気がした。
**********
高校の3年間は、勉強とバイトに費やした。
何度か東京の家に電話をかけたが、悠斗が電話に出る事は無く、母を刺激するだけだったのでそれもしなくなった。
とにかく上京し、一人暮らしをする事が目標だった。受験はせずに働くつもりだったが、家系が学歴主義だったためそればかりは猛反対された。伯父はとにかく良い大学を出ていれば就職もしやすく、弟さんと暮らすにしてもその方が楽の一点張りで、面倒を見てもらっている手前反対もしづらかった。
それに正直どちらでも良かった。大事なことは1つだけだ。それに何かに躍起になっていた方が気が紛れた。今弟は、実家でどういう生活を送っているのか。泣いていないか。上手くやれているのか。
そうした不安を解決する方法は、勉強と金を稼ぐ事だけだった。
高校の学費はバイト代から捻出し、東京で一人暮らし出来るだけの資金も貯める事が出来た。東京の大学をレベルで分けて3校受験し、無事合格する事が出来た。
ようやく全てが報われると思った。
すぐに悠斗を引き取る事は出来なくとも、避難所になってやれる。それにもしかしたら自分が居なくなった後に円満に暮らしているかもしれない。
それならそれで良い。
どうであれ、弟を幸せにする準備が出来た。今なら迎えに行ける。
3月の初旬だった。
大学の近くに安いアパートを借りて手続きが終わり、その足でおよそ3年ぶりの家を訪ねた。
様子がおかしい事に気がつくのに時間がかかった。
庭が雑草だらけで荒れている。確か義父が車を持っていた筈だが、駐車スペースが空だ。カーテンがどの部屋にもかかっていない。
まるで空き家のようだった。もしかして家を間違えたかと思ったが、帰り道も外観も覚えている。
ふと表札を見るとそこには何もかかっていなかった。
一瞬、母が自分から悠斗を隠すために居なくなったのかと思った。しかしそこまでするだろうか。
混乱しながら立ち往生していると、後ろから声をかけられた。
「あら、麻也くん!?」
「……あ、ああ、おばさん?」
昔から近所に住んでいた顔見知りのおばさんだった。小学校の頃、何年か上の娘が登校班の班長だった経緯で麻也とは何度か話した事がある。
「まあ、戻ってきたのねぇ……大変だったわねぇ、本当に」
「え、何ですか?大変ていうのは」
「え!?……あらやだ、ごめんなさい。違ったのかしら」
「……あの、ここ、どうして空き家になってるか分かりますか……」
なんだか情けない上におかしな質問だと思った。自分の実家が空き家になっている理由を知らない事の不自然さに、おばさんも戸惑っていた。嫌な予感がして心臓がバクバクと鳴りやまない。おばさんは口籠もってどうしたものかと少し悩んでいたが、やがて口を開いた。
「お義父様が亡くなったって。それで、住んでいられなくなったのか間もなく引っ越されたのよ」
「亡くなった!?」
「ええ、そう……その、」
「……いつですか、それは……」
「確か、先月の半ばに……」
ガツンと頭を殴られたような気がした。
「麻也くん、大丈夫?ごめんなさいね、おばさん本当に何も知らなくて」
「いえ……あの、引っ越し先は分かりますか?」
おばさんは歯を食いしばって首を横に振った。
自分への罰だ、と思った。
自分だけが遠くへ逃げて、呑気に暮らしていた罰だ。おばさんに謝罪と感謝を述べてその場を後にした。
悠斗は、母は、眞白は、どこに居るのだろうか。
どこで聞けば分かるのか。警察?静岡の伯父たちは知っているのだろうか。
知っていたのだろうか。
頭の中で思考がグルグルと渦巻いて収まらない。
悠斗は今どこでどうしているんだ。
俺は今何をするべきなんだ。俺のやった事は全て失敗だったのか。
熱に浮かされたようになりながら、何とか近くの交番への行き方を調べた。例え無意味でも何かしなくてはいけない気持ちだけで体が動いていた。
赤信号を待つ間、落ち着かない思考を落ち着けようと努力するが意味を成さない。
パッと信号が青に変わったのを確認して、横断歩道に2、3歩踏み出したその時。
右側から自動車が突っ込んできた。
身体が跳ね飛ばされて、どこかに頭を強かに打ちつける。激しい痛みに覆われていく。喧騒が遠くに聞こえる。
罰かもしれない。
これが俺への罰なのかもしれない。
神のようなものが居るとしたら。だとしたら、罰を全部引き受けるから、弟だけは許してほしい。弟だけは、悠斗だけは、違うのだ。
アスファルトの上で指先が冷えていく。
頭から赤いものが伝っていく感覚に懐かしさを覚えた。何とかしなくてはいけない。
自分がやらなくてはいけない。
そう思ってやってきたのに、何も上手くいかない。
少し、疲れた。
**********
目が覚めた時、病院のベッドの上だった。
やがて伯父夫婦が心配そうに駆けつけた。わざわざ静岡から来てもらって申し訳ないという気持ちで謝った。車はアクセルとブレーキを踏み間違えて青信号に突っ込んできた、完全に向こうの過失だった。
何だかお金の事が心配になって確認したところ、加害者の保険で払われるから大丈夫だと教えられて安堵した。
そして次いで、どうして自分が東京に居たのか疑問に思った。それを尋ねると、夫妻は動揺した様子で大学に受かったからこっちに住むんでしょ?と教えてくれた。
そうか、そういえば東京の大学を受けていた。しかしどうしてわざわざお金をかけて受験をしてこちらに住もうと思ったのか。
何となく、上京したかったのだろうか。
実家とは折り合いが悪かった気がする。東京に戻りたいと思うわけが無いのに。
そこまで考えたところで激しい頭痛に襲われた。ひどく声を上げて頭を抑える自分に夫妻は慌ててナースコールを呼び出し、自分は更に精密検査を受ける事になった。
結局、実家とはかなり仲が悪かったらしい。無理に思い出す事はない。春からは大学もある。
麻也くんの人生を進みなさいと、涙ながらに言われて、よく分からないまま頷いた。
そうだった。
大学生だ。
新生活に身を任せれば、胸に空いて痛み続けるこの空虚な穴も、埋まるだろうか。
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たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
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