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序章:福音
0「僕達が出逢ったころ」
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「お前、馘杜舞游とヤッたの?」
高校に入学して二ヵ月が経ったころ、登校し、教室に這入るなりクラスメイトの男子にそう問い掛けられた。呆気にとられてしまったのは云うまでもない。
「……してないけど」
「馘杜が朝からそう云って回ってるんだよ。お前と肉体関係を持ったって」
見回してみると、教室にいる全員が僕に注目していた。悪趣味そうに口の端を歪めている者もいれば、同情的な苦笑を浮かべている者も、軽蔑するように冷たい視線を向けてくる者もいる。僕に直接問い掛けてきた男子はさしずめ皆の代表者といったところらしい。彼もまた、この状況を楽しんでいる様子だった。
「その馘杜本人はどこにいるんだ?」
「さあな。十分くらい前に出て行ったきり、戻ってこない。今日もホームルームには出ないつもりかも知れない」
僕は鞄を持ったまま身を翻し、教室を後にした。馘杜を探すのである。
馘杜舞游は相当な変わり者だ。二ヵ月前にこの高校の同じ一年D組になり、僕は初めて彼女を知った。もっとも仮にクラスが別だったところで、彼女の奇行については早くから学校中の話題にされていたので、噂話の類にうとい僕でも知らずにはいられなかっただろう。
初めての授業があった日、彼女は全長一メートルはある人形を抱えて来た。自作のものらしく、基本的な形状は兎を模しているように見られたが、目や口、手足のついている位置が見当違いだったり、縫い目が荒いためにところどころから中身の綿が飛び出していたり、額の辺りに『AUOP』という謎の英語が赤い字で汚く書かれていたり、自分の体操服を無理矢理着させていたりと、とにかく不気味な様相を呈していた。
当然すぐに教師から注意されたのだが、彼女はその人形を鞄だと云い張った。それは咄嗟の云い訳ではなく本当で、縫い目が荒いと思われていたところは中に仕舞った教科書類や筆記用具等を取り出すための口だったらしいが、生意気な態度に腹を立てた教師は人形を取り上げようとした。すると彼女はいきなり鋏で自分の髪を滅茶苦茶に切り始めたのである。その様子があまりに鬼気迫っていたのでついに教師も手を出せなくなり、この時点で彼女の奇行についてはあまり咎めない方が良いという共通認識が生まれた。
彼女は集団行動ができなかった。協調性に欠けていたのはもちろん、まともなコミュニケーションをそもそも取ろうとしていなかった。授業をサボって校内のどこか人気のない場所を徘徊しているのも頻繁だったが、その方が授業の進行を妨げられないで済むからだろう、教師も大半がそれを黙認しているという有様だった。下手に注意したりからかったりすると彼女は自分の髪や衣服を切り裂いたり血が出るまで全身を引っ掻き回したりし出すので、たしかにそれが賢明と云えた。
また、その言動から推し量られる趣味嗜好もかなり奇抜だった。二言目には殺人だの流血だの、とにかく物騒な語彙が多用された。意味内容はいまいち分からないのだが、猟奇趣味……というやつだろうか。いつも手にしている小説や漫画本の類も、そういったおどろおどろしい内容であると題や表紙から容易に想像されるものだった。ただ、奇異であるのに違いはないけれど、根暗な印象はまったくなく、むしろ派手だった……エキセントリックな振る舞いが目立つのだから当たり前である。情緒不安定とはいえ、それは喜怒哀楽に富んでいるという見方だってできるのだ。
しかし、そんな強烈な個性の持ち主である馘杜が僕と肉体関係を持ったなんて触れ回っているのは、一体どういうことだろう。彼女とは対照的に、僕は没個性もいいところの、それこそ地味な人間である。自分が目立つような事態を極力回避しながら生きてきただけに、今朝それが一変して話題の的とされてしまったのはとても歓迎できる話ではない。
まず下駄箱を確認したが、馘杜の靴は中に納まっており、帰ってしまったり、そうでなくとも外に出掛けてしまったりしているのではないと分かった。上履きのまま外に出るくらい彼女ならしそうだけれど、とりあえずは校内を調べるのを優先して良いだろう。
それから理科室や家庭科室等の特別教室が集められている棟や上履きのまま出られる中庭、講堂や体育館や図書室や資料室……と思い当たる場所を片っ端から当たっていき、ついに彼女を発見できたのは屋上へ通じる階段でだった。この高校は屋上が解放されていないからその場所は盲点だったのだが、彼女は南京錠をかけられて閉ざされた扉の前に座って本を読んでいた。
「あ、結鷺」
僕の姿を見とめた彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? もう一時間目始まってるよ」
すっとぼけたようなことを云っている。
「知ってるよ」
「不良だー」
「馘杜だって同じだろ。でもお前、授業が始まってるとか、そういう意識あるんだな」
「当たり前じゃん。馬鹿にしないでよね」
学校中を探し回ったせいで主に精神的に疲れていた僕は階段を上がり、馘杜の隣に同じく座った。一日中日陰にあたる床はひんやりとしていて気持ちが良かった。
「いまこの短時間で即座に推理したんだけどさ、もしかして結鷺、私のこと探してた?」
「ああ、大した推理力だな」
皮肉は通じないらしく、馘杜は「あは。でしょー」と笑って胸を張った。
改めてその姿を眺める。事あるごとに乱雑に切られている髪は整えられもせずそのままで、全体的な長さも女子の割には随分と短い。あどけない表情を浮かべた顔は若干少年っぽいが、二重の瞼や桜色の頬や小さく艶やかな唇はこの年頃の女の子らしい色気を持っていると云えなくもない。ベージュの垢抜けないセーターをルーズに着ており、袖からは指先がわずかに出ているだけの一方でスカートの丈はやけに短い。わざとなのかは分からないけれど、左右の靴下の長さが別々だった。
「馘杜が僕と肉体関係を持ったなんて触れ回っていたと聞いて、それで探してたんだよ。お前、本当にそんなこと云ったのか?」
「うん。めっちゃセックスしたって云いふらした」
そう明け透けに云われると怒る気もなくなってしまう。……いや、正直なところ、僕は怒るどころか安心していた。〈昨日のこと〉があったから心配していたというのが本心で、だからそれが杞憂と知れてほっと脱力したのである。
……そうは云っても、事情を聞かないで済ませるつもりはないが。
「どうしてまたそんな、突拍子もないことを」
「うーん」
馘杜は唇を突き出して唸り、しばらく考えた。
「なんだろ……しっかり捕まえておきたかったから、とか?」
「……余計に分からなくなったんだけど」
「上手いやり方が分からなかったんだよ。そうしないと、なんかこう、居てもたってもいられなかったって云うか……でも反省はしてる。それで逃げ出してきたんだし」
彼女は項垂れ、態度でも反省の意を示した。その意気消沈ぶりを見るに、本当に反省はしているらしい。
「……僕もいまこの短時間で推理したんだけど」
まるで出鱈目な馘杜の行動の数々だけれど、きっとそれは彼女自身からすれば切実な感情の顕れなのだろう。彼女は皆とろくなコミュニケーションが取れないが、それだって彼女にばかり原因があるわけではなく、そもそも周囲が彼女を理解しようと努めていないのだ。すべてを奇行の一言で片付け、はなから彼女に寄り添おうとしていない。心を開いていないのは一体どちらなのか……〈昨日のこと〉があって彼女に対する見方が変わった僕には、それが分かる気がする。
僕には彼女の心を、いくらか読み取ってやれる気がするのである。
「馘杜は僕と友達になりたいんだろ」
彼女は目を丸くした。そして一瞬の間の後、半ば身を乗り出すようにして「そう!」と首を縦に振った。
「名探偵だね、結鷺は!」
だが次の瞬間には我に返ったかのようにさっと身を引き、今度は困惑気味の表情を浮かべるのだった。
「そう、それで正解なんだけど……正解なんだけどさ……」
らしくもなく口籠る馘杜。
「いいよ」
「え?」
「友達。まあ僕もあまり人付き合いが達者な方じゃないとはいえ、こんなふうにいちいち許可したりしてなるもんじゃないと思うけどな」
馘杜はキラキラという効果音が聞こえてきそうなほど表情を輝かせた。本当にころころと変わる子である。
「そっか。そっかそっかそっか」
ご機嫌そうに笑いながら何度も頷き、それから云った。
「よろしくね、結鷺!」
「うん、よろしく」
主義に反して自ら厄介事を引き受けてしまったようなものだけれど、不思議と僕も嫌な気分ではなかった。
「お前、馘杜舞游とヤッたの?」
高校に入学して二ヵ月が経ったころ、登校し、教室に這入るなりクラスメイトの男子にそう問い掛けられた。呆気にとられてしまったのは云うまでもない。
「……してないけど」
「馘杜が朝からそう云って回ってるんだよ。お前と肉体関係を持ったって」
見回してみると、教室にいる全員が僕に注目していた。悪趣味そうに口の端を歪めている者もいれば、同情的な苦笑を浮かべている者も、軽蔑するように冷たい視線を向けてくる者もいる。僕に直接問い掛けてきた男子はさしずめ皆の代表者といったところらしい。彼もまた、この状況を楽しんでいる様子だった。
「その馘杜本人はどこにいるんだ?」
「さあな。十分くらい前に出て行ったきり、戻ってこない。今日もホームルームには出ないつもりかも知れない」
僕は鞄を持ったまま身を翻し、教室を後にした。馘杜を探すのである。
馘杜舞游は相当な変わり者だ。二ヵ月前にこの高校の同じ一年D組になり、僕は初めて彼女を知った。もっとも仮にクラスが別だったところで、彼女の奇行については早くから学校中の話題にされていたので、噂話の類にうとい僕でも知らずにはいられなかっただろう。
初めての授業があった日、彼女は全長一メートルはある人形を抱えて来た。自作のものらしく、基本的な形状は兎を模しているように見られたが、目や口、手足のついている位置が見当違いだったり、縫い目が荒いためにところどころから中身の綿が飛び出していたり、額の辺りに『AUOP』という謎の英語が赤い字で汚く書かれていたり、自分の体操服を無理矢理着させていたりと、とにかく不気味な様相を呈していた。
当然すぐに教師から注意されたのだが、彼女はその人形を鞄だと云い張った。それは咄嗟の云い訳ではなく本当で、縫い目が荒いと思われていたところは中に仕舞った教科書類や筆記用具等を取り出すための口だったらしいが、生意気な態度に腹を立てた教師は人形を取り上げようとした。すると彼女はいきなり鋏で自分の髪を滅茶苦茶に切り始めたのである。その様子があまりに鬼気迫っていたのでついに教師も手を出せなくなり、この時点で彼女の奇行についてはあまり咎めない方が良いという共通認識が生まれた。
彼女は集団行動ができなかった。協調性に欠けていたのはもちろん、まともなコミュニケーションをそもそも取ろうとしていなかった。授業をサボって校内のどこか人気のない場所を徘徊しているのも頻繁だったが、その方が授業の進行を妨げられないで済むからだろう、教師も大半がそれを黙認しているという有様だった。下手に注意したりからかったりすると彼女は自分の髪や衣服を切り裂いたり血が出るまで全身を引っ掻き回したりし出すので、たしかにそれが賢明と云えた。
また、その言動から推し量られる趣味嗜好もかなり奇抜だった。二言目には殺人だの流血だの、とにかく物騒な語彙が多用された。意味内容はいまいち分からないのだが、猟奇趣味……というやつだろうか。いつも手にしている小説や漫画本の類も、そういったおどろおどろしい内容であると題や表紙から容易に想像されるものだった。ただ、奇異であるのに違いはないけれど、根暗な印象はまったくなく、むしろ派手だった……エキセントリックな振る舞いが目立つのだから当たり前である。情緒不安定とはいえ、それは喜怒哀楽に富んでいるという見方だってできるのだ。
しかし、そんな強烈な個性の持ち主である馘杜が僕と肉体関係を持ったなんて触れ回っているのは、一体どういうことだろう。彼女とは対照的に、僕は没個性もいいところの、それこそ地味な人間である。自分が目立つような事態を極力回避しながら生きてきただけに、今朝それが一変して話題の的とされてしまったのはとても歓迎できる話ではない。
まず下駄箱を確認したが、馘杜の靴は中に納まっており、帰ってしまったり、そうでなくとも外に出掛けてしまったりしているのではないと分かった。上履きのまま外に出るくらい彼女ならしそうだけれど、とりあえずは校内を調べるのを優先して良いだろう。
それから理科室や家庭科室等の特別教室が集められている棟や上履きのまま出られる中庭、講堂や体育館や図書室や資料室……と思い当たる場所を片っ端から当たっていき、ついに彼女を発見できたのは屋上へ通じる階段でだった。この高校は屋上が解放されていないからその場所は盲点だったのだが、彼女は南京錠をかけられて閉ざされた扉の前に座って本を読んでいた。
「あ、結鷺」
僕の姿を見とめた彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの? もう一時間目始まってるよ」
すっとぼけたようなことを云っている。
「知ってるよ」
「不良だー」
「馘杜だって同じだろ。でもお前、授業が始まってるとか、そういう意識あるんだな」
「当たり前じゃん。馬鹿にしないでよね」
学校中を探し回ったせいで主に精神的に疲れていた僕は階段を上がり、馘杜の隣に同じく座った。一日中日陰にあたる床はひんやりとしていて気持ちが良かった。
「いまこの短時間で即座に推理したんだけどさ、もしかして結鷺、私のこと探してた?」
「ああ、大した推理力だな」
皮肉は通じないらしく、馘杜は「あは。でしょー」と笑って胸を張った。
改めてその姿を眺める。事あるごとに乱雑に切られている髪は整えられもせずそのままで、全体的な長さも女子の割には随分と短い。あどけない表情を浮かべた顔は若干少年っぽいが、二重の瞼や桜色の頬や小さく艶やかな唇はこの年頃の女の子らしい色気を持っていると云えなくもない。ベージュの垢抜けないセーターをルーズに着ており、袖からは指先がわずかに出ているだけの一方でスカートの丈はやけに短い。わざとなのかは分からないけれど、左右の靴下の長さが別々だった。
「馘杜が僕と肉体関係を持ったなんて触れ回っていたと聞いて、それで探してたんだよ。お前、本当にそんなこと云ったのか?」
「うん。めっちゃセックスしたって云いふらした」
そう明け透けに云われると怒る気もなくなってしまう。……いや、正直なところ、僕は怒るどころか安心していた。〈昨日のこと〉があったから心配していたというのが本心で、だからそれが杞憂と知れてほっと脱力したのである。
……そうは云っても、事情を聞かないで済ませるつもりはないが。
「どうしてまたそんな、突拍子もないことを」
「うーん」
馘杜は唇を突き出して唸り、しばらく考えた。
「なんだろ……しっかり捕まえておきたかったから、とか?」
「……余計に分からなくなったんだけど」
「上手いやり方が分からなかったんだよ。そうしないと、なんかこう、居てもたってもいられなかったって云うか……でも反省はしてる。それで逃げ出してきたんだし」
彼女は項垂れ、態度でも反省の意を示した。その意気消沈ぶりを見るに、本当に反省はしているらしい。
「……僕もいまこの短時間で推理したんだけど」
まるで出鱈目な馘杜の行動の数々だけれど、きっとそれは彼女自身からすれば切実な感情の顕れなのだろう。彼女は皆とろくなコミュニケーションが取れないが、それだって彼女にばかり原因があるわけではなく、そもそも周囲が彼女を理解しようと努めていないのだ。すべてを奇行の一言で片付け、はなから彼女に寄り添おうとしていない。心を開いていないのは一体どちらなのか……〈昨日のこと〉があって彼女に対する見方が変わった僕には、それが分かる気がする。
僕には彼女の心を、いくらか読み取ってやれる気がするのである。
「馘杜は僕と友達になりたいんだろ」
彼女は目を丸くした。そして一瞬の間の後、半ば身を乗り出すようにして「そう!」と首を縦に振った。
「名探偵だね、結鷺は!」
だが次の瞬間には我に返ったかのようにさっと身を引き、今度は困惑気味の表情を浮かべるのだった。
「そう、それで正解なんだけど……正解なんだけどさ……」
らしくもなく口籠る馘杜。
「いいよ」
「え?」
「友達。まあ僕もあまり人付き合いが達者な方じゃないとはいえ、こんなふうにいちいち許可したりしてなるもんじゃないと思うけどな」
馘杜はキラキラという効果音が聞こえてきそうなほど表情を輝かせた。本当にころころと変わる子である。
「そっか。そっかそっかそっか」
ご機嫌そうに笑いながら何度も頷き、それから云った。
「よろしくね、結鷺!」
「うん、よろしく」
主義に反して自ら厄介事を引き受けてしまったようなものだけれど、不思議と僕も嫌な気分ではなかった。
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